第八章 雨の日の出会い(アディ回想)
それは忘れることのできない、激しい雨の日の早朝の話だ。
「……今日の作業は諦めたほうが得策か。随分形になった故に、見回りは怠る訳にはいかんな」
その日は長期に渡ったルネ建設の完成までにあと一歩と迫った日だったのだよ。
翌日には大勢の貴族相手の試験と面接を控えていて、その後は採用者の教育などと、目まぐるしく日程がかさんでいた。
今思えば、あの日、あの時が唯一の休息の日だったと思う。
「もう雨が弱まったのか。参ったな、今更スケジュールを変えるには……、ん?」
長く激しい雨は運命を叫ぶように、シトシトと弱まったのが幸運か不幸だったのか。
柔い雨に紛れて、一匹の動物の唸り声が私の耳に柔い刺激を与えて来たのだ。
「なんだ? なにか痛みに耐えるような鳴き声は? 子供? いや、もっと、小さい?」
見回りをしていなければ、雨が弱まらなければ、聞こえない鳴き声だったと断言できる。
「なんらかの動物の赤子か? この寒さが堪える気候の中だ、保護するのが先決だろうか?」
一体いつから迷子になった赤子なのか、見当もつかない上で大雨に打たれた後だったのだ。
聞こえ方からすでに虫の息だろうと若干諦めてもいた。
しかしより近づく度にしっかりした鳴き声で叫んでいて、私の心に希望と期待が芽生えたのは言うまでもない。
「これは、ああ、なんということだ……」
私が創ったあの異空間の森の近くにいたのだよ、ホワイトライオンの赤ん坊が。
「大丈夫だ、私は敵ではない。お前のその怪我を治療したいだけだ、分かっておくれ」
赤ん坊は雨に打たれてか、その美しい白銀の毛並みが赤く滲んでおり、生死を彷徨う中でも懸命に生を叫んでいたんだよ。
まだ生きたい、とな。
「そうだ、私はお前の味方だ。お前を助けたいだけなのだよ、よし、いい子だな」
「キャウウンッ!」
「ああ、悪かった。傷に触れてしまったか。申し訳ない、少し辛抱してくれ」
小さな体は完全に冷え切っていて、非常に危ない状況だったが、すぐにルネの中で治療に当たった。
生命力が高くて愛らしく、人懐っこい可愛い性格は今も変わらないな。
なにより現在のように赤子だったせいかも知れないが、打ち解けるのは早かったぞ。
「お前は賢くて強い子のようだ。さあ、傷の具合も見ようか。冷たい体も暖かくもしよう」
不安を知らせないために表情は常に笑顔で、指先一つにも神経を注いで、とにかくホワイトライオンの心身を第一に考えた。
なぜなら怪我の具合が重く、酷いものだったからだ。
多くの古傷も含めて、数えきれないほどの負傷の数々だった。
人間が与えた折檻で間違いないと考えた。
ストレスからか、円形脱毛症も数個見られたからな。
一番可愛らしい時期だというのに、この酷い仕打ちが理解できなかった。
気持ち良いブラッシングや、ただ優しく撫でてあげたいという愛情さえも憚れる、痛々しい傷の深さだった。
ほぼ出来上がったルネ城の中で、織り上げたばかりの亜麻を必死で叩いて、柔らかくほぐした亜麻をホワイトライオンに巻いて安心と安全を心から伝えたものだ。
「ギャーォオ!」
「なんだ? どこか痛いのか? 寒いのか?」
「ギャーオ!」
その後か亜麻に包まれたまま一回転すると、私の許へすり寄って懐いてくれたんだ。
想像することすら恐ろしいトラウマを抱えているだろうに、私を信じてくれてな、可愛かったよ。
ただ単に人間から折檻されたには不自然で、なにより古傷の多さから、こやつは生まれた時から人間と生活を共に送っていたのではないか、という仮説が私の中で膨らんだ。
それに多くを達観したような、大人の猛獣を見ているような感覚もあった。
「……お前は偉いな、今までよく頑張って生きたよ。どうだ、今度は私と共に生きてみようか?楽しいかは分からないが、辛いことなら分かち合えると思うのだよ」
なにか訳アリなのはお互い様だった。
だから私も簡単に心を開けられた。
そんな私の言葉に答えるように、ホワイトライオンも私の手の甲を舐めてくれた。
それがどうしても了承の合図にしか思えなくてな、永遠の悪夢のような、迷路に迷うばかりの私に突然現れた心の拠り所だった。
それが嬉しくて、この感動に打ちひしがれたものだ。
以心伝心を感じて、私は更に仲を深めようと多くを共有したくもなった。
「そうだ、お前の名前を決めなければな。お前は賢くて強いから格好良い名が良かろう」
「ギャーォオ!」
「お前はもう家族も同然なのだから、私と似た名前が良いだろう。私がアディルメルでアディだから……、そうだな、ランディなんてどうだ? なかなか格好良い名だと思わないか?」
「ギァーオ!」
ただの飼い主の傲慢であり妄想かも知れないが、それはとても人懐っこく猫みたいな鳴き声で、懸命に私にすり寄りとしてくれて愛くるしいものだった。
「そうか、この名が良いか。お前は私が守るからな、よろしく、ランディ」
まるで昔に固い絆を結んだような、どこか慣れ親しんだような、心地よい感情が心を温めた。
ランディもまた心を開いてくれたと思った。
……恐らくは、な。
まるで幼い弟でも持ったような気分だった。
私の不安を取り除いて、安心感まで与えてくれるのだよ。
心のつっかえを自然に、いつの間にか消していく、そんな癒しをくれたのだ。
私は自身の向き合うべき難題から遠ざけるため、ただ忙しさにかまけて、多くの責任を取り持ち、常にガチガチに張りつめていた感情をランディは解してくれたのだ。
緊張が少し緩んだ合図で我らは、共に深い眠りに落ちた。
久しぶりのぐっすりとした快眠で、十何時間も寝ていたほどだからな。
しかし最大の問題は、その後に起こった。
***
「お、起きて下さいませ! どうか、どうかッ! ごめんなさいッ!」
少し高音の、少女らしい声色で私の意識は呼び戻されたよ。
正確にはこの場でなぜ少女の声がするのか、あまりに不審に思う感情の驚きから、私を早急に現実に戻したと言っていい。
「お、お前は? な、なんだ? 何がどうなっている?」
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
目の前には美しい容姿に栗色の髪の少女が、心からの謝罪を言葉にして、しきりに頭を下げていたよ。
恐怖からか涙も出ず、ただ顔を青ざめたままで許されない罪を背負うような、そんな。
当時は何が何だか訳が分からなかったが、少女はあらでもない姿だったものだから、疑問を解決させるよりも先に、少女に服を与えることの方が先決と考え行動したが、少女は服を用意している間も、謝罪の言葉しか口にしなかった。
「安心するんだ、ここは安全だ。謝る必要なんてどこにもない、だから落ち着いてくれ」
何度言い聞かせたかも覚えていないほど、彼女は謝罪しか吐き出さなかった。
ある程度落ち着きを取り戻した頃には、叫び疲れて、泣き疲れて、放心状態のまま私と目を合わすこともなく、それでもブツブツと小声で謝罪だけは述べていたよ。
最初に感じたただならぬ雰囲気に気が付くも、私には殺人的なスケジュールが待っていた。
状況から優先させるべきは彼女と理解していたが、当時の私にその判断ができなかった。
「服と食事を持ってくるから落ち着いたら着て食べてくれ。悪いようにはしない。が、どうかこの部屋から出ないで欲しい。外は危険な思想を持った人間で溢れてるのだよ。解ってくれるか?」
念を押した忠告を何度も言い聞かせている中、初めて目を合わしてくれたが、おどおどしながらしきりに目を左右に動かしながらも、勇気を振り絞ってくれたのだろう、一度だけ首を縦にコクリと小さく振ってくれた。
こんなに怯えているから、この様子だと約束は破らないと悟ったのだ。
確証はなかったが、少女の身振り手振りを見ていて、なぜかそんな気がしたよ。
だから多くの不安を残すことなく、この部屋から出ることができたのだ。
***
「想定した以上に遅くなったな」
激務を終えて、プライベートな時間へ移行できたのは、深夜と言える時間帯だ。
この間、少女は想像通り、従順に私との約束を守っていて、大人しくしてくれていたのだと判断できた。
仕事中、問題や事件が起きることなく、ただ慌ただしいだけの普通の日常が過ぎ去ったのだからな。
それだけに、謎の少女の精神状態や唐突に消えたランディの行方など、聞きださなければならないことは多々あった。
間違いないのは何かしら訳アリで、下手をすると大きな陰謀に巻き込まれていたかも知れず、詳しく聞き出すのが正解か、少女自ら口を割るのを辛抱強く待つのが正解か、大いに悩んだ。
「陰謀か、今更だな。もう私は完全に溺れた状態なのだから、何一つ怖くはないはず……」
大きな覚悟と小さな不安を胸に、私は自身の書斎の扉を開けた。
〈ガタッ、ガタッゴタッ!〉
扉を開けると真っ暗な空間に物音がして、隠れた合図だろう、すぐに静かになった。
「驚かせて申し訳ない。ランプを付けよう、明るいと話もしやすくなるからな」
不用意に刺激を与え過ぎないよう、平常心を保ちながら、ゆっくりランプに火をつけた。
見えた普段の光景は、本棚にあるとても狭い隙間で異常に震えながら、恐る恐る目線を合わせてくれた少女がいる。
ようやく私を信じようとはしてくれたのか、とは思ったものさ。
「食事は口に合わなかったか? 何が好きか教えてほしい。遠慮はしなくてもよいから」
一切手を付けられてない料理を目にして、それを話のネタにしながら少女に近づき、会話も繋ごうとした。
謎の少女の健康や内情に加え、なにより突然いなくなったランディの行方を知るためでもある。
少女の見た目が十歳前後の、喜怒哀楽がコロコロと変わるはつらつとした多感な歳頃というに、まるで覇気の無い、さらに悪く言えば疲れきった老人のような印象が強かった。
ただ誰かを頼りたいが、どう頼れば良いか分からないという切実な想いは読める。
ランディもそうだが、一体どんな環境下にいたのか。
この時代、貧富の差が激しい故に多くの民が苦しい生活に喘いでいるのは理解していた。
しかし彼女も、ランディも、ただの荒れただけの環境下で生活していたとは想像できにくかった。
なぜなら少女とランディはとても綺麗な容姿で、常にどこか品があったからだ。
「た、食べもの、た、たべ……ッ! ご、ごめんなさい」
とても怯えた口で必死に言葉を繋ごうと、懸命に伝えようとしてくれる。
「ゆっくりでいいぞ。なんでも話してくれ」
「あ、あの、……ら、ランディ、は……、ごめんなさい」
おずおずとした少女の口から出たのは、予想だにしなかったランディの名前だ。
少女はランディの行方を知っていると思ったよ。
ある可能性を想定しつつあり得ないと思う中、謎の少女との答え合わせを行った。
「……ランディは昨日、私が名付けたホワイトライオンの名だ。他の誰にも知らせていなその名を、お前はどうやって知ったのだ?」
私の疑問に対して目線を落とすと、それ以上喋らなくなった少女。
少女にとっての地雷を踏んだのだろうか、途端に目から生気も感じられなくなったんだ。
少々無言が続いたが、その雰囲気を割ったのは私だ。誤解を解きたかったのだよ。
「怒ってはない、それだけは解ってくれ。お前のこともランディのことも心配なんだ。少しで良い、何があったか話してくれないか? 何を話しても絶対に怒らない。信じて欲しい」
少女が今、何に一番怯えているのかを正確に読んで、固く閉ざした心を開けようとした。
怯える少女の姿を瞳に映す度、私の心も壊れ消えそうな苦しみの襲われるも、その苦しみから救い上げてくれたのは、驚くことにこの少女だった。
なぜなら少女は私の手の甲を懸命に握ったのだから。
その冷え切った指先の冷たさが、悲しいほどによく伝わる。
「お、お前は、……まさか、本当にランディ、なのか?」
私は数ある記憶の中から、選別、精査した上である可能性を導いたのだ。
その記憶は私の心を蝕み、強い嫌悪感を感じさせて、強引に追い詰めるほどの。
そんな私の記憶を貪られる中で、産声を上げるように少女の決心が固まった瞬間、口を開いた。
「わ、私。ランディじゃない……、ランディ、私の中、……ごめんなさい」
「……つまりは、ランディとお前は同一人物で合っているのだな?」
私の言葉に一度驚いたような表情をしたかと思えば、次の瞬間には申し訳なさそうに首を縦に振った。
そんな少女は震える口で更に言葉を繋げる。
「ランディと私、一緒で別々。姿、形、中身、全然変わってしまう。ごめんなさい」
この瞬間、悟ったよ。少女に感じたある仮定は、確定として良いと。
「……妖精、だな」
「よ、ようせい?」
聞き慣れない言葉に、戸惑い気味だったよ。
今なら妖精という言葉くらい幼い頃に一度は聞く言葉だ。
なによりこの少女、所作や言葉使いに品があった。それに字頭がいいだけに、余計に分からなくて混乱しただろう。
だから私は可能な限り、少女の身に上で起こった現象を詳しく説明した。
少女も常々自身が普通の人間ではないことは、薄々理解していたのだろう。
私の話に特別驚くこともなければ、多くに関心を抱くこともなく、ただ淡々と身に起きた現実を受け入れていたように思う。
よってそんな様子を確認する度、ランディもそうだがこの少女もまた、よくぞ今まで生き抜いてくれたと感動したものだ。
妖精という立場には多くの不幸と災難を呼ぶもの。
特に二つの血が混じるために、時には二つの人格を持つこともあるだろう。
ただ今回、少女とランディの場合、実に珍しい例で、異なる血を上手く分けて生まれてきたのがよく分かる。
最初こそ施術のできる同胞を探すために、多くの噂を立てることで出会う確率に望みを託したものだが、そんなもの完全に博打だ。
しかし結果的に奇跡的にクレスに出会えたが、当時はクレスの施術で引き起こる残酷な結果と運命も判明していた。
だからこそこのままの状態で生き続けるのも幸せな選択の一つではなのかと、何度も思うようにもなった。
なにより目の前の少女は分かりやすく言い換えた説明を進める度に、悲しそうだったり驚いたり、たまに呆けたと思ったら安堵するように胸に手を当たりもする。
少々情緒不安定に見えるとは言え、今の少女なりの精一杯の表現なのだろうと思った。
「そういえばお前、名は?」
「ランディ!」
「違う、それはホワイトライオンに与えた名だ。……そうか、名前も与えられなかったのだな」
少女にとっての普通を知る度に、胸が張り裂けそうな想いにもなる。
だからと言って不意に可哀想な表情をすれば、多くの疑問を過去と比較して不安に潰されるような、無理に苦しい過去を思い出させる一つの要因になるかも知れないとも思った。
「そうだな、品があって美しい栗色の髪をしているから、高貴な名前が似合いそうだ。例えばエレンツェなんてどうだ? その美しい容姿にもよく釣り合うと思うぞ」
「エレンツェ! それ、私の名前?」
「そうだ、これからお前はランディと共にここで暮らすんだ。宜しく頼むな、エレンツェ」
エレンツェの頭を優しく撫でて、私にとって必要な存在と強く言い聞かせた。
最初こそ叩かれると思ってか、両目をきつく閉じて耐える姿に私の心は締め付けられた。
それでも逃げなかったのは、私を信じてくれる想いがあったからと思うことにした。
今後、私たちに立ち塞がる壁は、強大なものであるのはもう確実。
下手をすると過去より辛い思いをさせる可能性があるもので、巻き込むことへの罪悪感は半端なものではなかった。
ただまだ出会って間もないと言うのに、初めて年相応の笑顔を見せたエレンツェに、生きることへの後悔はしたくはなかったのだ。
今できる最善を重ねて、今後必ず起こる惨事を迎えるために、私たちは藻掻いた。
大いにもがき苦しんだんだよ。
ランプの灯火が放つ小さな光が小さな空間を包んで、その時だけは大きな希望に満ちたのは確かなこと。
私はそれが少しでも長く続くことを、強く願ったものだ。




