第四章 世話なんて朝飯前!②
「くっそー、ランディ、すぐ終わるから大人しくしてくれよ。大丈夫、怖くないから!」
ランディの苦手な風呂の時間、アディの書斎を出て大浴場へ向かうが、どこに連れて行かれるのかが流石に分かるだけにランディは必死の抵抗で盛大に暴れ尽くすが、まだ赤子であるために全身を抱きかかえられながらこの広い廊下を速足で歩くことには成功している。
だからこそランディの嫌がることは早々に終わらせてあげたい。
ポンポンと背中を叩いて、決して危険な行為ではないことを言葉ではなく、誠実な行動で示すしか方法はない。
そんな一人と一匹の声が響くほどの高い天井の廊下を抜けると、現れたのは源泉かけ流しの大浴場。
熱い温泉と水が混ざった最終地点にルネは設計されており、年中心地よい温水が楽しめる。
ただここの大浴場には脱衣所がなく、廊下のすぐ隣に広い庭園を置くような感覚で存在している。
よって主に足湯か、ランディ専用に作られた贅沢な大浴場とも言える。
廊下が隣接するせいか、細部にも凝った繊細な彫刻を従えて、川のせせらぎのように流れていく穏やかな温水は音だけでも十分癒されるものだが、今のクレスにそんな余裕はない。
流れる水の音を聞いただけで、慌てて逃げようとする暴れん坊のランディを丁寧に洗っていく。
まだ満足に爪が伸びていないせいか、引っ掻くことができないのが唯一の救いか。
「お、おい、ランディまだ洗えてないんだ。もう少しだ、もう少し我慢、……ん?」
一目散で逃れようと必死で廊下に飛び出そうとするランディを運よく捕まえたクレスの耳に、廊下を歩く複数の音と共に誰かの会話が薄っすら聞こえることに気が付いた。
「んん? あれは俺を奴隷として連行したあの兵士二人か?」
即座にランディの口を手で塞いで、急いで大きな彫刻の死角に隠れる。
アディに雇われた数少ない兵士なだけに、本音を聞くことで有力な情報が得られるまたとないチャンスなのだ。
極限まで聞き耳を立てながら、二人の兵士の会話に集中する。
「なぁ、いい加減あの偉そうな女を引きずり落とす輩は現れないもんかね」
「そういってやるなよ。あれでもルネ建設に尽力した功労者っていう話だろ。まぁ、ああも偉そうなんだ、お前が苛立つ気持ちも分かるがな。あのお堅い頭はこのルネに不釣り合いだってことをもっと早くに理解するべきで、理解しているなら早々にあの地位から退くべきだろう」
話の内容からアディに対する悪口であり、日頃の鬱憤を晴らすための愚痴とも取れる。
「ところであの生意気な奴隷、確かクレスと言ったか? あれは完全に慰みものだろうな」
「だろうよ。人払いしているんだ。さぞお楽しみなんだろうぜ? ハハハッ」
下品な想像に加えて人を小馬鹿にした笑い方。
「これじゃあ、アディが常に人払いをしていたのも納得か……」
好き勝手言いたい放題の不忠な家来に誰が心を開けるのだろう。
善人の仮面を被った敵に囲まれた窮屈な環境下、アディは小さな書斎だけを陣地にして、国という名の牢に繋がれた自由のない孤独な立ち位置でありながら、常にルネを慈しみ、前を向いて堂々と生きる姿を見せて尊い人生を破滅に向かわせる、そんな悲しい背景がクレスの思考に鮮明にイメージされた。
「アディはこんな奴らの心が読めないような間抜けじゃない。なら、なぜアディはルネを創造したんだ? なぜあんな我儘で贅沢し放題な貴族達の嗜みの場をわざわざ……」
改めて考えてみると、アディの行動は自虐性に溢れている。
そうでなければ、ここまで不利な環境を作った意味も、理屈も全く見えてこないのだから。
「何か別の目的があって、こんな悪趣味な空間を造った?」
***
「アディ、ランディ風呂入れて来た」
「ご苦労だった。ランディはともかくお前も濡れているぞ。そうか、亜麻を持っていかせなかったか。悪いことをした、そこで身体を拭いて服も乾かしておけ。着替えを持っていこう」
「これ、アンタが作ったのか?」
「そうだが……、なにか不満か?」
「……いいや」
渡された亜麻はクレスの知るボソボソな粗悪品とは異なり、繊維が細かく柔らかで、グングンと水分を吸い取ることから、丁寧な作業で心を込めて作られた代物なのがよく分かる。
アディ自ら何度も身震いするランディの体を亜麻で包み、風邪を引かないよう丁寧に水分を吸い取る。
そんな献身的な姿に見入るクレスの思考は、あの憎らしい兵士達の会話を思い起こすことで、思わず明後日の方向に向いてしまう。
アディが同胞なのは確定としても、その言動にどんな意味があってあんな残酷な行動に移しているのか、全く見当もつかないのだから。
「悪い、服は要らない。用意したものがある、気遣いには礼を言う」
「そうか、そうだったか。承知した」
相変わらずの口数の少なさを披露するアディ。
しかし必要最低限の会話でしか意思を伝えられないのはクレスも同じようで、長い沈黙にギクシャクすることもなく、この心地良く平和な雰囲気を肌で感じて、二人と一匹の時間はゆっくり進む。
アディの書斎は他よりも比較的狭い洞窟の中にあって、それでも威圧感を感じさせないのは、壁一面をくり抜いたガラスで覆った大きな窓が圧迫感を軽減しながら、そこから聞こえる僅かな滝の音と鳥の囀りが癒しとなっていて、山のように積まれた書類の数々を一字一句を目に通す真剣なアディの心に、大きな余裕と癒しを与えてくれる環境のようだ。
「な、なあ、アディ。俺にできることってあるか? 簡単な仕分けとか整理とか!」
「……何を企んでいる? 妙に気持ち悪いぞ」
突然のクレスの申し出に眉をひそめながら怪しむアディ。
あの兵士らの会話を聞いた後だ、クレスにとってはただアディの負担を軽減したい一心だったが、間が悪かったようだ。
「大体お前にはランディの世話を専門にさせているだろう。先ずランディと仲良く……」
「まさに今! ランディと結束を固めた! もう犬猿の仲とは言わせない!」
上機嫌にランディの胴を持ち上げて、指で無理にランディを笑わせると、クレス自身も不格好な笑顔でアディにずいずい向かう様子には、流石のアディも異様な不気味さを感じ取る。
「わ、分かった。何か別の任務を与えよう。雑務でもよいか?」
「ああ、何でもどんとこいッ!」
***
この断崖絶壁に掘られた巨大な洞窟の連なりは、洞窟とは思えないほど日当たりと風通りのいい空間で、緩やかな温水に恵まれているだけでなく、小規模な滝まで内部に引水しており、絶景も文句無しと言う三拍子揃えているのがルネという国。
事細かなセンスと拘りが詰め込まれていて、現実に天国が現れたと感じるような、そんな奇跡の体感ができる場というのは、あながち間違ってないかもしれない。
この絶景に加えて異次元なほど設備の整った環境に憧れる貴族は後を絶たず、しかし滞在費は貴族でも即決できないほど高額で、身元を明らかにする必要もあり、そう易々と入国すら不可能な国だ。
よってこの場は特別高貴な身分だけが入国を許されるだけに、超上流階級の嗜みの場であり、明確に可視化された富と地位のバロメーターとしても扱われている。
「ったく、雑務とはいえ他に色々あるだろう。なんで断崖絶壁の草むしりなんだよ。てかランディ、お前ちょっと重すぎだって! 仕事手伝う気ないならせめて離れてろよッ!」
岩の隙間に生える雑草を丁寧に取り除くクレスの背中に乗って、我が物顔で遊ぶランディ。
とても楽しそうな鳴き声を響かせて、クレスの仕事の邪魔をする。
「危ない仕事ではあるが、ここで住む以上必要不可欠な重要な任務だ。大体、ランディはまだ赤子ではないか。ランディの世話も含めて、お前の願いを叶えてやったのだが?」
アディの書斎からほど近く、クレスの全容が見える吹き抜け周辺で、元気に生える雑草を取り除くとという、景観を良くする目的の地味で過酷な高リスクの仕事でもある。
そんなクレスが文句を言いながらも丁寧に取り組むのは、元々働き者と言い表しているようなもの。
「もっと俺にしかできない役目あるだろ?」
「小僧が生意気な、あまり小言を繰り返せば更に範囲を増やすことになるぞ。地獄と現実とでは勝手が違う。そんなお前にこそ今、最も適任な任務なのだよ」
「くっそー、こうなれば全部綺麗にしてやるッ!」
「ふむ、その意気だ、少年よ」
燃えるクレスに、微笑むアディ。そして意味が分からずとも楽しむランディ。
穏やかな時間は静かに進む。




