第四章 世話なんて朝飯前!①
「ランディ、俺が悪かった、反省している。許せとは言わないが世話だけはさせてくれッ!」
ランディの世話役を専任されて、言葉の通じない赤ん坊のランディの気まぐれと、下手に出るクレスの立場に優先順位がひっくり返ったのだろう。
言うことを聞かない故に実に厄介だ。
「頼むよ、ランディ、ランディ様ッ!」
まだ赤子のランディの見目は子猫のようで、傍目から見れば愛くるしいの一言だが、世話は過酷を要する。
クレスから言えば、ある意味人間の赤子の世話の方が幾分マシかも知れないと考え改めるほど。
なぜなら……。
「毎日届く搾りたてのミルクに毎日の丁寧なブラッシング、ランディ周辺の掃除に、清潔のため欠かさずの入浴、適度に遊び相手もな? クレス! 聞こえているなら返事をせぬか!」
「ハイ、ハイ、ハイッ! 聞いていますよ、アディ様ッ!」
「お前はどうしてそう怒りっぽいのだ? ……禿げるぞ?」
表情からして分かる、「支配人と同じ台詞吐くんじゃねぇ!」の心の言葉。
そんな苛立ちを呑み込んで、クレスはすでにこの忙しい生活に溶け込み馴染んでいる。
あの自由奔放な地獄の支配人との生活を成立させていたのだ、同じく自由奔放なランディのやんちゃもある程度クレスの容量範囲内にある。
そしてなによりここはルネ城、アディの書斎。
多くの本に囲まれてか足場は少なく、ハンモックらしきものに身を預けてゆっくり揺れながら常に書簡に目を通すアディは、ランディと格闘するクレスに事細かな指示と拘りを要求する。
この書斎だけは仕事に集中したいというアディの強い要望によって、常に人払いがされていて、この空間だけはアディにとっての時間がゆっくり進むのだ。
相変わらず硬い岩を綺麗にくり抜いた大きな窓には、絶壁らしい空と海による地平線が怖いくらい見渡せる。
「と、ところでさ、アディ、あの、あのさッ……」
「……心配無用だ。あの子ライオンたちはある程度育てた後、自然界に返す予定だ、安心しろ」
ランディを頭の上で好きに叩かさせながら、何か言いにくそうに口籠るクレスの心を読んだかのように、常に書簡に目線は固定されたままアディは言葉を紡ぐ。
「お前のその終始浮かない顔を見て想像できないとでも思ったか、この青二才が」
「ま、まあ、うん、ああ、ありがとう……」
あのランディの世話役を専任されてから、二日経とうとしている。
クレスがアディたちと丸一日を過ごして分かったこと。
ランディは純粋で好奇心旺盛で常に騒がしく、まるで人間のイヤイヤ期のようにごねることから、すでにクレスに心を開いていくれているようだ。
アディは最初こそクレスが想像していた冷たい性格とは全くの真反対で、思いの外温厚で思慮深く、一見何事も無関心のようで実は周りをよく見ていることを知った。
クレスにとってこの規格外の国を創った人物が性悪な人間だったのなら、どんなに良かっただろう。
命を無駄にして殺戮を好む悪魔は観客や兵士達の方で、ランディのような小さな命に対して誠実を示し、身勝手さはなく、乱暴にも扱っていないようにも思う。
ただ本心が見えないとことん調子狂わせるアディは、本当はどういう人物なのか。
そんなクレスの疑問と謎は深まるばかりだ。
「ところで、お前は地獄の支配人とコンタクトは取れるのか?」
「あぁ、まず無理ぃ……、へ? あ、アンタ、アイツのこと知ってんのかッ?」
あまりの驚きから実際にコケるのではないかと思うほど、大いに身体で表現したクレス。
「私が知っていてはおかしいか? 至って普通のことを聞いたのだぞ」
「まったく普通じゃないだろ。……アイツは神出鬼没だ。昔こそ毎日必ず門に戻ってきたが、当時は多分俺がまだ幼かったから頻繁に帰っていただけだと思う。だから今は難しいと」
当時は特に気にしなかったことを改めて言葉にすると、その背景が窺い知れる。
当たり前だった気遣いに対して、それがどんなに幸せだったのか、ということに。
「そうか、大事にされているのだな……」
この瞬間クスリッと微笑んで、アディの表情は穏やかなものになる。
ただクレスにとってのアディの誉め言葉には慣れないものの、笑う仕草は暖かな感情をくれる。
そんな少し安堵したような、満足そうに穏やかに口角を上げながら書簡に目を通すアディと支配人との関係。
あまりに想像できなくて、むず痒いままクレスは今までの不思議を問う。
「アンタ、出生は? ここへ来て血族が皆無なところを見ると、元々王族でもなさそうだし、一代で成り上がったにしてはここは規模がデカすぎる。……支配人が関係しているのか?」
「世には極秘裏という言葉があるだろうに」
「俺はまだ信用に値しないか? まぁ、確かに出会ってまだ二日目の存在でしかないが……」
「そういう訳ではない」
「だがしかしッ!」
心身に異様な興奮を覚えたことで、クレスの首に〈04〉の刻印が大きく浮き出る。
アディの発言は一見穏やかなようで、クレスを振り回すような、そんな心と思想を弄ばれているような感覚から思わず浮き出た数字だろう。
それほどにアディは謎だらけなのだ。
「若造よ、そう早まるでない。時間はたっぷりある、……あり余るほどにな」
クレスの確かな刻印を目にして、少々複雑な表情をすると、一度目を瞑る。
「お前はまだ人間界の掟に対して、明確な判断も正確な理解も満足にできていないようだな。むやみやたらに刻印を見せてはいけないのだよ。現実世界で生きていくのならば尚更な」
クレスの額を指差したアディの人差し指はゆっくり下がり、クレスの首元で止まる。
そんな警告と言えるアディの言葉で、年若いクレスの対抗心を煽った。
「それだ、その出た釘のような性格。お前はこれから先、己さえも欺いて生き続けるのが常識となり、義務にもなるのだよ。やれやれ、これでは先が思いやられる」
「欺く? 当然だ、覚悟は出来ている」
アディの忠告を軽くあしらったクレスに、今はこれ以上の言葉はきっと届かない。
人生とは成功以上に失敗と共に生きるもの。
当然大きな後悔の下で得る成功もあるが、そんな効率の悪い後悔は極力回避したいと思うのが常。
分かれ道だらけの人生のレールの中で、一瞬の間違いが一生分の後悔を背負うのが不幸というのなら、それもその人物に与えられた宿命と言うのも。
クレスは取るに足らないものを手にして、どれほどの大切なものを失くすのだろうか。
規模が小さくとも一国の女王陛下としてその基盤を確かなものにするアディは、地位を確立させるための努力と、人間界に馴染むための奮励に、徒ならぬ精神力を注いだはず。
当然それは今現在も継続中であり、様々な方法でこの地位から引きずり落としたいと願う輩は星の数ほど存在する。
常に気を張ってなければ、確実に引きずり落とされるのが世の中だ。
「それよりアディはなぜ地獄の支配人は元より、俺の存在まで知っている?」
小出しで情報を与えるアディの勿体ぶる様子に、痺れを切らしたクレスはド直球で問う。
「支配人は古い知り合いなのだよ。まだ赤子だったお前とも一度すれ違ったのだがな」
お茶をゆっくり飲みながら、衝撃的な発言を残す。
思いも寄らない支配人の過去を知る貴重な人物として、クレスの胸は熱く、鼓動は高鳴る。
「当時の支配人ってどういう感じだったんだ? アンタとの関係は?」
いつもの何に対しても興味が薄い、冷めた性格のはずのクレスが瞳に煌めく星を散りばめて、アディの口から紡がれる真実を聞くことへの喜びは、期待と希望で溢れている。
「少し、過ぎた話だったようだ。後はお前の想像に任せる」
お茶を持って、困り顔のままアディはクレスとは正反対の方向へそっぽ向いた。
アディと地獄の支配人。
顔見知りどころか、それなりに仲が良いのはもう間違いない。
クレスが長く支配人と共に過ごしたからといって、赤子の頃とは違い、常に傍にいたわけではない。
ただ支配人は見た目や普段の言葉使いと違って、とにかく世話焼きだった。
クレスが一人で行動を促した今でこそ放任主義でも、昔はどの思い出に浸っても必ず傍に支配人がいた。
常に努力と愛情と、その教育は十分納得できると今のクレスが示している。
なによりクレスは直接的に人間との関わりや接触はなかったというのに、この半端ない知識量と想像力に状況把握の能力まで加わっているのだから、凄まじいとしか思えない。
つまり地獄の支配人は極めて常識人であり、人望も厚いと言い表したも同然なのだから。
「じゃあ、アディ。支配人が古い友人なら俺の産みの親って知ってるか?」
「産みの親? 知らんな。ただお前を拾って育てたということだけは風の噂で知っていた」
地獄の支配人の前では特別関心のない態度だったが、やはり興味は残っていたようだ。
しかも実は相当気になるようで、目が泳いでいる。
「……そうか、ならこの国とはおさらばだな! 短い間だったが楽しかったぜ!」
「待てぃッ!」
この国に滞在する理由を失くしたことで、出ていく準備を始めるクレスをアディは止める。
「悪いがお前にはランディの世話を担当させたばかりだろう。次の担当を見つけて引継ぎを完了するまで、お前をルネから出しはしない、中途半端に投げ出すのは関心しないぞ」
「…………」
常識人であるクレスの道徳心を煽る内容で、制止させるアディ。
ふとランディを見ると、出会いから最悪だったのもあるが、幼いながら自身が格上と言わんばかりの態度なのだから、クレスの苛立ちを呼び込むのは時間の問題のように見える。
「ランディは俺を完全に格下として見ているようだが?」
「そうか? 大層気に入っているようにしか見えないか?」
この会話で妙な雰囲気に加え、長く沈黙が続いたのはここだけの話。




