第三章 天子の揺籃ルネ②
兵士に逐一目を付けられながらも、遂にルネに着いたクレス。
暇を持て余した貴族のたまり場、ルネの闘技場はその場所のインパクトからして迫力は十分なのだが、クレスが心底驚いたのは、これだけ広い面積の、固い地盤を掘り削っていると言う事実。気が遠くなるほどの歳月を掛けて建設されたのがよく分かる構造だ。
これはただ奴隷を集めて、強制労働を課すだけで造れる代物などではなく、明らかに匠や名人と呼ばれるような、高い技術と緻密な計算がなければ穴すら開けることが難しい場所なのだ。
当然この時代、強力な爆薬はまだ未来のものであり、例えこの時代にあったとしても、これだけ精巧に富んだ造りを表現することなどできる代物ではない。
言うならばこの技術は、非常に繊細で巨大な作品のようなもの。
硬い岩壁を豪快にくり抜いたような精確な円形型の箱に闘技場を置き、三日月を造るような形で一部日陰の場を用意したところを見ると、そこはこの国で一番高貴な人物が謁見するための特等席と考えるのが一般的だろう。
驚くのはこれだけではない。
更なる岩盤の奥には宿泊施設を設けているようで、それだけでも爆薬が不使用なのがよく分かる。
だからこそ悩むのだ、一体どうやってどれ程の期間を掛けて完成させたのか、想像もつかないほどの疑問を。
これだけの技術、金儲けをするなら他に色々方法はあっただろう。
それが金持ちの娯楽道楽のために、あろうことか同じ命に優劣をつけるだけに飽き足らず、血を見る行為の何が面白いのか理解に苦しむ。惜しみない技術を詰め込んでいるだけに、だ。
〈きゃぁあぁぁああぁあ!〉
外装の素晴らしさに驚いて、内装の技術に感銘を受けて、放心状態のクレスを現実に戻すのは理解できない闘技場の実態。
鍛錬された技術と肉体を持つ者同士の白熱した試合など目も暮れず、上流階級が求めるのは圧倒的な快楽と刺激。
悲願することしかできない弱者を、絶望の淵で絶叫したまま絶命する瞬間を見届けること。
これほど面白い娯楽は無いとばかりに、夢中になる姿をその目に映す。
「これが人間の業、まだ氷山の一角ってやつかよ」
まだ誰もが血を見ることに抵抗なく、死が間近で、日常なのが当たり前の時代。
命を有難く頂戴するために動物を捌くのは、生く続けるための最大の感謝のはず。
そんな命を無駄に、しかも同じ人間が死んでいく過程に興奮を覚えるなんて、地位とは実に滑稽な制度だとつくづく実感するばかり。
そんな断崖絶壁で莫大な財を成す《ルネ》は、またの名を《天子の揺籃ルネ》とも比喩されており、その響きに貴族の心を掴んで離さない。
なぜならその異名の意味に、生れながらに選ばれた者だけが羽を伸ばし、ここでしか得られない養分を摂取し、多くの徳に包まれた場所で貴重な時間を過ごすと言う意味が込められた、貴族が名付けた異名だ。
恐らく噂好きが高じて独り歩きした二つ名だけに、第一声を詳しく分かっていない。
しかし逆にそのミステリアスな経緯が貴族達の心を掴んだようだ。
***
それからはトントン拍子に事が運む。
あの二人の兵士の推薦に加え、見目麗しいクレスが存在を取りこぼされるはずもなく、汚い思惑と欲望渦巻く闘技場へ、何の装備も武器すら持たされず、前へ前へと乱暴に背中を押される中、少々呆れつつも相変わらず余裕を失すことなくマイペースを貫いた。
「あら、見て下さいな、次の〈ブタ〉。中々の容姿を持っているわね」
ルネの社交場では最下層民、それ以下の奴隷は全員もれなく家畜として認識されているようだ。
当然クレスもその輪を外れず、奴隷として、耳目を集めるだけの格好の餌食となった。
「きっと哀れなブタに神の加護をお与えになったのよ。私達を楽しませるという幸運にね」
「あら、神も随分罪深いものね。あのブタならコレクションの一つとして傍に置きたいわ」
「やだ、はしたない。私なら逃げ出さないよう手足を切った後、家畜らしく肥溜めに入れて、この無駄に綺麗な顔をひん曲がらせながら恐怖と絶望で泣き叫ぶ姿が見たいものだわ」
「オホホ、家畜は所詮家畜。このブタはどんな泣き声で私達を楽しませてくれるのかしら?」
下品な鼻息と汚い口元を上品に隠しながら笑い合う女達。しかし下劣な目笑だけは隠すことができず、欲を垂れ流したまま、断末魔への期待から会場の関心がクレス一人に注がれた。
歓声は無。
これから起こる悲劇に集中して、喉を暖める準備を整える。
〈キィィ……、ガルルッ!〉
歪な期待を背負わされたクレスの前に現れたのは、数匹の腹を空かせたライオンだ。
「肉食獣か。想定内だがしかし、どこか……、んッ?」
良く見れば、猛獣たちの現状が目視で分かるほどの、惨い鞭打ちの形跡が見える。
中には血が滲み出ている新しい傷もあり、腹を空かしていると言うよりは、人間の存在が恐ろしいが故に、激しい憎悪を抱いてクレスを敵視しているのが丸わかりだ。
「……黄泉の扉を開く。生かしてあげたいところだが、いかんせんこの環境じゃな」
ここの観衆にとってクレスも猛獣も、単なる使い捨ての玩具にしかならない。
ならば未来を生きる新しい命として生まれ変わった方が、このライオンたちも安らかに眠れる判断からだろう。
少なくともこれからの恐怖と絶望は回避できる。
これは長年、死後の道に分岐点はない地獄で育ったクレスの頭で決着させた学び。
「悪いな、俺たちの勝手で辛い目に遭わせて。最後くらいは安らかに……、」
クレスなりの恩恵で導くあの世への道標。
しかし猛獣たちに生を諦める様子はない。
この状況で不可思議な雰囲気を見て、様々な事例を観察してきたクレスの勘が働いた。
「まさか、子供を生け捕りにされているのか?」
そのまさか、だ。
怒る親ライオンたちの視線の方向を見れば、あの三日月型の特等席のすぐ下に設置された狭い檻に、生まれたばかりの数匹の子ライオンたちが鳴いている。
「まさか、ここまで……ッ、ん?」
ふと真上の特等席まで見上げると、檻には入れられていない、銀色の毛並みの非常に珍しいホワイトライオンの赤ん坊が一匹、この惨劇を見下すような凛々しい佇まいを見せている。
「あ、あのホワイトライオンも群れの子供なのか? だが、しかし……、」
クレスが難色を示すのは、この親ライオンたちの寿命が残り僅かという残酷な現実。
日常的な虐待に加え、特に母ライオンは子供を産んだその足でこの闘技場へ放り込まれた可能性まである。
殆どのライオンは傷が深く化膿もしており、見るからに痛々しい中、最後の力を振り絞り、クレスに敵意を見せるのは最後まで子を守りたいが故の行動と見受けられる。
「今、お前たちに与えられるのは死だけだ。恨むなら俺を恨め、正面から受け止めてやるさ」
納得のいく結末が存在しない中で、クレスが出した答えはあまりに厳しいもの。
〈シュッ、パーンッ!〉
子ライオンが見ている前で、クレスは残酷にも親ライオンの群れに安らかな眠りを与えた。
体内からあの偽装金貨を手の内に抜き出し、手先の強い圧で半分に折り畳む過程で、親指と中指で激しく弾いて、ライオンの頭部へと吸い込まれるように命中させたのだ。
興奮とそれによる歓声は穴に詰まったように止まり、目は見開き、驚くまま無音になる会場。
「き、規則違反だ! 奴は武器を持っているぞ! 罰だ、罰を与えろッ!」
予想外な結末に転んだことに不満を持つ者が、声を大に不正の確実性を訴える。
ざわつく会場は小声で汚い言葉が止めどなく飛び交う中、差別の目がクレスに注がれた。




