第一章 巣立ちの時②
〈キィィ……〉
最初こそ強気の姿勢でも、どうしても申し訳なさが勝つのか、豪快に扉を開けることができなくて、ゆっくり周囲をチラチラと目を動かして地獄の支配人の様子と機嫌を探ろうとするが、目の前で真顔の地獄の支配人が今か今かとワクワクしながらクレスを待っていた。
クレスの性格をよく観察されていたようで、驚きよりも感謝、或いは少し引いたりもする。
「な、なにがアンタの決断の材料となった? そう判断に至った経緯くらいあるんだろ?」
クレスの立場から言ってこの問いは当然の疑問だ。
慣れ親しんだ場所から唐突に追い出されて、最悪、路頭にさ迷う恐れだってある。
なによりクレスには支配人の目的が見えてこない。
「決断というか経緯と言うか、……ただ、何となく? ガハハ!」
「いくらなんでも適当にもほどがあり過ぎるだろッ!」
真剣に考えたことが馬鹿らしくなる回答に、流石のクレスもうんざりする。
「ただなぁ、俺様の決定は回避厳禁だ。絶対に覆ることはねぇ」
「現実世界へ行く決心くらい腹括っているさ。ただなぜそう突発的に?」
この短時間で腹を括ったことに機嫌を良くした支配人は、少し考え込むと今の現状を話す。
「お前は最奥の阿鼻地獄を辿ったことがあるだろう?」
「それなら物心ついた頃、初めて地獄を案内してくれた時、何もない場所と言ってすぐ折り返した空間のことだろ?」
阿鼻地獄は現実世界にも認知されているほど、地獄で名高い最階層の深層部のことだ。
但し、悪名高いのは名ばかりで、実際は広大な空間が一面に広がる場所で、恐らく何らかの目的達成のため存在させている特別な場所で、少なくともクレスが認識した範囲ではまったく使われた形跡のない、害を持たないただの虚無な空間だと認識しているようだ。
「未だ手つかずで放置しているのは何かしらの思惑があると思っていたが?」
「そうだ、理由あって最階層を閉鎖してる。しかし最近、こじ開けたような痕跡がだな……」
「痕跡? アンタに厳重に閉鎖されているはずのあの空間にか?」
「侵入者の情報は俺様に通達できるよう、常に管理下に置いている。そう易々とは侵入できない空間なのは一目瞭然。なにより常に移動している空間だ、好奇心に駆られた行為には思えん」
亜空間は様々な形があるが、それは柔軟系柔軟系と固定系に大きく二手に分かれる。
分かりやすい例をあげるなら、太陽や地球も亜空間の一部であり、固定系へ分類される。
逆に宇宙は大きさに制限がないが故に柔軟系へと分類されるように、今回、問題の阿鼻地獄は、規模が地球一つ分はある巨大な亜空間な上に珍しい柔軟系になる。
基本、柔軟系は小さなものならごく普通によく見る空間の代表格で、より空間が大きくなれば創造が難しい亜空間ではある。よって阿鼻地獄は、非常に珍しい形式の亜空間でもあるのだ。
「となると、阿鼻地獄を使って何かを企んでる輩がいるってことか? しかしそれは、」
「そうだ、高確率で敵ではないということだ」
ただでさえ常に空間内を移動し続ける阿鼻地獄に、肉体を持たないままの才能も開花できず能力にも乏しい敵が何かを企むのは考えにくい。
「そこでクレス、お前だ。お前が地球中を旅して、仲間と接触して理由と目的を判明させろ」
「ま、まじか……」
真っ当な依頼を受けて、流石のクレスもこれ以上の言葉は出てこない。
そんな真剣な話の最中に、どこからともなく愛菓子をササッと取り出し、黒龍のまま器用に煙草を吸うような仕草でハードボイルドを演出する地獄の支配人。
しかしボリボリと食す音がマヌケに響くものだから、この場の雰囲気に気まずさが漂う。
「あ、アンタには育ててもらった恩はあるさ。今回の依頼だけで返せるものじゃないがな」
意外かも知れないが、地獄の支配人は子供の遊びには適度に放任主義でありながら、教育には非常に熱心だった。
特に現実世界に通ずる勉強、特に礼儀作法や道徳は抜かりなかった。
「当然! お前を育てるに、〈子守り伝説〉を創った男だからな、俺様はッ!」
「こ、子守り伝説?」
見るからに赤ん坊の頃は苦戦していたのは丸わかりで、夜泣きから地獄の亜空間へ連れ立つことも多々あったようで、罵詈雑言が飛び交う環境は教育に宜しくない中で、こんなところで権力者の威厳を遺憾なく発揮して、無言の中、赤子の泣き声だけが響く地獄は異様で、慣れない日常の中でも義務だけはしっかり果たしていた〈子守り伝説〉をクレスは知りもしない。
なによりぶつくさ文句を言いつつも、地獄の支配人の責務に憧れているクレスがいるのだから、育て方に間違いがなかったことだけはよく分かる。
よってクレスの自我が育つにつれ、緊張感を失くしたこの関係逆転は、頑張ってきた支配人の素が出たリラックスの時間。
「だからしっかり親孝行しーろーよーッ」
「アンタが口にすると今までの価値が駄々下がるだけだぞ、心に余裕を持て」
多くの威厳とそれ相当の覇気を纏った歴戦の猛者であるはずの地獄の支配人は、誰もがクスリと笑うような、絶妙な変顔を披露して真剣なクレスをおちょくる。
改めてこれが自身の養父かと思うと、猛烈に格好悪く、尋常じゃない情けなさも感じるお年頃のクレス。
将来いずれクレスもこうなるのではと、よく分からない深刻な不安まで抱えながら。
「それにしたってもう巣立ちか……、まだ夢見心地のようだな」
「何も問題ないぞ。ただ生活のサイクルが少し変わるだけだッ、こう、クルッとなッ」
「まあ、アンタならそう言うだろうと思っていたよ」




