第九章 巡る空間⑤
「アイィィィイイリーン! 絶対に逃すなよぉぉおぉおお!」
迷路のように、もしかするとそれ以上に難しく複雑な通気口で、翼の生えた小さな氷の城はアイリーンを手玉に取って気ままに転がす。
それこそ小鳥のように素早く、蝶のように優雅に、小さく身軽なのを良いことに、より狭く細い場所へ誘い込む。
しかしアイリーンにも勝算がないわけではない。
羽根を生やしたネズミとなったのだ。
ただ大きさで不利が大きいことから、爪を異常に伸ばして、顎下から脳を串刺しにするとネズミは息絶え、死骸が消滅すると魂を消した。
この過程を危険と察知した氷の城は、一時停止でアイリーンの行方を探る。
注意深く神経を研ぎ澄ませて、アイリーンの新たな憑依対象に対策を講じる。
〈ヒュゥゥゥウウウッ! トタンッ!〉
真上からのアイリーンの気配を感じて、逃げるための距離を図りながら、今現在のアイリーンの姿を記憶に焼き付ける。
現在アイリーンはまだ生まれたばかりの目も開けられないはずの子ネズミの姿のまま強引に生やした羽根を羽ばたかせて、驚異的なスピードで駆け出した。
ただただ氷の城だけしか見えていないからか、先程より格段に早く、正確に迫って来る。
執念で迫るアイリーンの形相は恐ろしいもので、見るからに恐怖そのもの。
この異常なまでの執着は、一体どこからやって来るのか。そんな率直な疑問が湧くほど、追い詰められた氷の城にアイリーンの脅威が降り掛かるのだ。
特にアイリーンが驚異的なのは、それぞれ適した肉体の判断や用途の選び方が飛び抜けて上手く、氷の城を凌ぐスピードで追うところだろう。
この速さ、子ネズミの潜在能力とは無関係なようで、無残にも肉体を死の瀬戸際まで酷使させることで、アイリーンの能力を存分に開放させているのだ。
生後間もない肉体は、この俊敏な動きに耐えることへの限界を迎えていて、アイリーンの貪欲さでこの肉体を維持できているだけで、本来の肉体の魂が弱まれば、憑依はより快適となる。
死に物狂いという言葉があるように、その驚異的な能力に氷の城も翻弄されつつある。
体力消費と速度減速に期待した直角を連続で曲がる瞬間すら、氷の城より上手く回避してくるのだ。
今なら氷の城は知り得ている、アイリーンの暴挙と奇想天外な能力の根元を。
遁走を決めてこの後の展開に賭ける氷の城は、よりスピードを増して、この入り組んだ通気口を目的地へ迷うことなく進み、アイリーンを誘導していく。
すぐ後ろまで迫る勢いで、別の通気口を繋ぐ廊下を通過するために一度現した先には、アイリーンにとっての運命の導きのように、最も愛しい人物を目撃すると、世界はスローモーションに落ちて、子ネズミの姿を早々と捨て去り、ある人物に全神経を注ぐ。
「ふ、ふ、フレイィィイィィイィィ?」
先ほどの奔走はまるで無かったかのように、氷の城の行方を追う任務を早々に放棄して、フレイしか目に入らないアイリーンは、フレイの視界に自身をだけを映す独占欲に駆り立てられて、至近距離で見つめる。
「ふ、フレイ……ッ」
『シッ! 声を出さないで。僕の背中をしっかり掴んで身体を隠して!』
興奮するアイリーンを真正面で向かい合いながら、小声でグアンを誘導する。
それは突然のこと。
この極寒の中、談笑しながら小走りで逆さまの廊下や階段を下り、塔の最深部を目指していたフレイ一行だが、思わぬ強敵と鉢合わせしてしまったのだ。
嫉妬深く執念深くもあるアイリーンのこと、グアンたちを見れば標的が移るのは確実だ。
一人と一匹を守るため、フレイは冷静な対処を求められる。
「やあ、アイリーン。機嫌のほどは良さそうだけど、一体どうしたんだい?」
唐突にフレイの放つ〈アイリーン〉という名前にグアンは驚く。
フレイがあれだけ危険視した人物なのだ、思わず反応してしまうのも無理はない。
そんな様々な思惑が交差する中、暗雲立ち込めるこの狭い空間。
目前で繰り広げられている戦いから守られる立場だからこそフレイの指示は絶対だが、多く謎と守られることの余裕、そしてほんの少しの好奇心がグアンを積極的にさせてしまう。
フレイの注意を蹴って、アイリーンの姿を再びこの目に映そうと背中を伸ばそうとするが、フレイの両手が頑なに阻止してくる。
「ふ、フレ、フレイィィイイィイィイ!」
今のアイリーンの興奮状態は収集がつかず、至近距離でフレイを視界に入れたい強い思いがアイリーンの脳へ堪らない高揚感を無限に作り出している。
ただ適当に選んだ脆い身体は、この興奮に耐えきれない実感もあるのだ。そしてなによりも気に入らないのがグアンの存在。
あろうことかフレイに心から守られている感覚が、アイリーンの気分を悉害す。
「グアぁぁぁあああンンんんんんん!」
全力の憎悪を含んで自身の名前を呼ばれたグアンは、この重々しく危険な雰囲気を改めて察したが既に手遅れ。
フレイの背中に身を窄めて視線を遮ろうとするが、生憎アイリーンはとんでもない粘着質であることから、首を蛇のように長く伸ばしてグアンを捉えようとする。
「ぐぅう、あぁぁああ、んんんんん???」
フレイがあくまで自然に、丁寧にアイリーンからグアンを遠ざけるが、アイリーンの執念はあまりにしぶとい。
グアンに視線を送ると、首を明後日の方向へ不自然に曲げた。
「……ッ、あ、あぁッ!」
初めて目が合ったアイリーンの形相は、人間の持つそれとは異なり、危険な化物そのもの。
満足に声も上げられない状況のグアンを守るように、しかし露骨に守り過ぎないよう話題を変え、視線を再び自身へ向かわせるようアイリーンを懸命に誘い出そうとする。
アイリーンはそんなフレイの焦りに気が付けなような阿呆ではない。
嫉妬で発狂寸前まで追い詰められる感覚が、アイリーンを更に狂わせるのだから。
この状況でグアンを逃がそうものなら、守るそぶりを見せようならと、何をしてもアイリーンの顰蹙を買ってしまうのは明らかだ。
ならばこの場合、グアンをひと時も離さないのが正解になる。
「君は僕を探していたのだろう。詰まらない感情は捨てた方が身のためだと思うが?」
「つ、詰まらないだとぉお? フレイィ、図に乗るのも大概にしろよぉおぉぉおお!」
「ああ、そうか。詰まらないのはその醜い感情だけでなく、君の存在だったか!」
「ふ、フレ、フレイィィイィィッ!!!」
愛が嫉妬に変わり、嫉妬が憎悪に変わる。
その極端な憎悪によってアイリーンの怒りの矛先が完全にフレイへ傾いた瞬間、フレイはグアンを振り落とさないようしっかり掴んで、アイリーンの怒りを受け止める態勢を整える。
何故ならここはアイリーンの感情一つで空間が歪み、空気が歪み、環境まで変えてアイリーンが最も得意とする空間へ変化を促したのだから。
そんなアイリーン優勢な環境から、気を引き締めろとフレイの五感が震え訴えるのだ。
アイリーンの汎用性に富んだ能力を発揮させると、この極寒の中でも活発な行動を起こす、致死率の高い細菌や即効性のあるウイルスを厳選して、フレイを襲う企てを造った。
〈パァアアァアアァアンッ!〉
このアイリーン優勢な環境下で、緑の爪が鋭く伸びた手でフレイを平手打ちをすると同時に、フレイの頬を削る。
そんな中でも紅い身体は素早い回復を見せて、決して劣らない再生能力を見せつけた。
その有意義な光景にアイリーンの口角は上がる。
「裏切りぃぃいぃい! これはぁあぁあ、酷いぃぃい、う、うらッ、裏切りぃぃいぃい!」
「君はどこまでも都合よく話をすり替える。自身の甘さを理解して人の心を知る為に、少し自分を見つめ直した方が良い。これは忠告ではない、命令だ」
〈パァアアァアアァンッ!〉
自身の不幸や不遇に酔い痴れるアイリーンに、フレイの言葉の真意など伝わるはずもなく、強い憎悪が強い殺意へ変わることが当然のように、感情は更に身勝手な方向へ向かう。
現状フレイは両手が使えない。
なにより背中のグアンを見せれば、確実に標的をグアンに変えるだろう。
付け加えこの空間もアイリーン有利に環境激化が進んでいる。
このあまりに不利な条件が揃った中で、フレイが出した答えは、苦渋の選択。




