第七章 夢なら目覚めて②(グアン視点)
一度闇に落ちてしまえば最後、悪行に手を染めるのはそれはそれは早かった。
この時には周辺諸国から恐れられる国と思われているのだろう、単なる興味本位や肝試しの一環で、ホンレフに足を踏み入れる輩は年中問わず必ずいるのが通例で、そんな馬鹿な人間を相手にスリをするのは私にとって簡単で、なにかしら爽快感はあった。
最初こそ戸惑っても徐々に麻痺する自分を見て、嫌気が立つこともあったけど、もう、何がどうでも何でもよかった。
私は自暴自棄を通り越して、生きることへの脱力感を覚えるほど気力を失くしてた。
日々手を汚していく私の変化に、その悪事を見下す優越感と、下へ落ちていくことへの満足感から、住人達の自尊心を満たして尚、心からの喜びを感じていたのかも知れない。
笑顔のまま軽やかに、まるで昔からの友人と話すかのような態度で近寄って来るのには、今までで一番緊張したのと同時に、嬉しさよりも苦しさを感じたのは忘れられない過去。
だって笑顔のままテーブルいっぱいのご馳走を勧めてくるのだから。
私は知っている。
この豪華な料理の数々は、人肉を使用したものだと。
そしてきっと料理を口にする私の瞬間を見るために集まるのは、私を道化か何かと考えているのだろうか。
でも今までの経験から前のように戻ることの方が辛くて、特に心を偽るのが得意になった私が、笑顔のまま美味しそうに口に運ぶと、爆笑を堪え切れない人間達の薄ら笑いが聞こえないはずがない。
それでも口の感覚が分からないまま無我夢中で頬張ると、わざとらしい笑い声を受け流すように、食事を次々豪快に口に入れていく。
この時の私にとって、自分を守る最良の方法だった事は理解していたんだ。
これがここの住人達と表向き友好的に過ごすための、唯一の条件だったことを。
だって悲しみに暮れる毎日を続けるより、偽りでも笑顔で長い人生を過ごす方がきっと合理的。
でもきっと私を力で直接制圧しないで、人間の責任の擦り付けと計算高さを心底理解出来た瞬間でもあった。
そんな地獄の毎日に転機が訪れたのは、紅髪の長身の男が来た話題で持ち切りとなった、他の誰でもない、フレイの存在だった。
普段は話の輪にすら入れなかった私の耳にも入るほどの浸透力を持ってたんだ。
当然女性陣の浮足立った口調から、どんな男なのか一度見てみたいと素朴な興味はあったけど、歓迎する気は更々無かった。
だって結局は私の口に入るかも知れないし。
そんな想像が当たり前になってしまった事が虚しかったけど、既に涙は砂漠のように干乾びて、心まで枯渇して失うものがなくなった私は、自分すら盾に使う事に躊躇もない。
生きることを根底から捨てた瞬間、私はよそ者の男の財布を掏ったんだ。
***
辛いだけでは言い表せない過去を回想し、改めてフレイの存在が心身を掬ってくれた事実に辿り着けた。
映像による幼少にの私によって、私の回想の下、不憫で歪な成長をする他なかった過程を嫌と言うほど見せつけられて、記憶の彼方へ追い込んだ想いが感情と共に溢れ出す。
どうしてこんな扱いをされなければいけなかったか、まだ答えは出ていない。
間違いないのは、私がこの時のためにまだ生きていると言うこと。
改めて自分のお人好しと馬鹿さ加減には残念に思うも、少しの光と大きな希望を求め託して、現在無意味にニタニタ笑うだけの幼い自分に、確かな方向を指し示すための行動を起こす。
「フレイだよ! フレイを見つけるの! あ、紅い髪の、わっ、私のッ……!」
とても長い人生で一切与えられなかった愛情を、たった一度、突然現れたフレイからの溢れんばかりの愛で心が喜びに満たされて、伝う涙が止まらなくて、上手く言葉を話せない。
「こ、これ! これがっ! フレ……イのっ、……フレイッの!」
幼い私の焦点は常に別のところにあると言うのに、過去の自分にフレイの右腕を見せて、明るい未来の道を教え伝えようと必死だった。
でもそんな幼い自分が薄い氷の壁で隔てられると、小さなヒビから透明さを失くして、幼い自分の姿が見えなくなる。
でも幼い自分が空間から完全に消えた事で、私は周囲の環境の変化に改めて気が付く。
薄い氷の壁は私を覆うように、守るように丸く囲い包んでいくんだ。
この氷に普段噂で聞いてたような寒さはなくて、どこかひんやり冷たいだけのもので、砂漠育ちの物珍しさから興味と興奮が尽きない。
何より不安が育たないのは、フレイの右腕が自発的に温度調節を行ってくれて、その心地良さから私の精神状態を安定に保ってくれているように感じる。
謎の氷の空間に、フレイの右腕。
それはまるで暖かな愛を注ぐような、常に必要としてくれるような、そんな波動で共鳴を引き起こしたように思う。
表現が多少歪だけど、一人の人として私に敬意を払って接してくれる。
誠実さと優しさに包まれながら、ポッカリと穴の開いた心が豊かな感情で溢れる初めての感覚に戸惑うも、拒否や恐怖の感情は生まれず、次第に心許してゆっくり静かに瞳を閉じる。
私にとっての幸福が何一つ存在しなかったホンレフでの時間が、今現在の幸せに繋がると言うのなら、私は全てを受け入れる事ができる。
そう悟った瞬間、自然と涙は引いていく。
これが起源なのかは定かではないけど、今一度瞼を閉じてこの空間に身を投じると、邪悪な空気が怒り狂ったように私に襲い掛かろうとした瞬間、氷の地面に亀裂が入り、球体の氷のバリアに守られるように包まれて、次第に大きくなる亀裂の下へゆっくりと落ちて行く。
懸命にフレイの右腕を抱き、二度と逸れない信念を持って私はこの身を氷の球体に任せた。




