第一章 平穏な日常②
「ジュノ? いるの? 大丈夫?」
いくら待っても、何度ノックしても、それらしい反応はない。
この三人以外に人はおらず、施錠も設置していないが、ジュノの了承も無く扉を開くことに謝罪の念に駆られつつも寝室を覗いた。
ゆっくり開く扉の音が軋む度、極度の緊張感と罪悪感によってフレイの心は締め付けられる。
少しずつ見える寝室に耳を澄ませれば、真っ暗な部屋の中から細く低く聞こえる吐息の音。
更に扉を開いて外の光で徐々に明らかになる部屋には、ベッドに横になり、息を荒げて丸くなったジュノの背中を確認した。
ただ事ではない状況に思わず駆け寄ったフレイは、身体を持ち上げて顔色を確認すると、両手で強く腹を抱えなから汗だくで、痙攣まで起こすジュノの深刻な症状を見せつけられる。
溢れ出る不安から思わずジュノを自身の胸に埋め、汗ばむ額や頬に触れて体温を確認しながらジュノの症状緩和を辛抱強く待つ。
ジュノがステラたちを身籠った代償は重い。
帝王切開、縫合手術をたった一人で施してから膨大な時間が過ぎてはいるが、その発端で患った発作からは逃れられない運命となった。
これは心身の自由を奪い、気ままな周期が訪れる度に劇痛が過ぎ去るまでの間、我慢する他の改善の方法は存在していない。
ただ歳を重ねたことで多少の慣れは生じている。
もちろん縫合手術によって傷は遜色なく跡形もなく完治はしているが、脳が反動で起こす生理現象は、生体として最大のリスクを背負ったこととなった。
身籠ることに適さない身体なのは明白で、未知の危険を察知した脳は、存在しない受精卵を排出させる強制的な命令を幾度となく繰り返すのだ。
それは女性で言う月経とは似て非なるもので、最初で最後の出産は脳の管轄外であり、直接的な死の恐れと誤認する判断が、皮肉にも回避させたい延命措置としてスイッチが切り替えられたのが原因と見ている。
事実ジュノの内での受精出産は次の希望に未来を託すためだけの機能。
通常ジュノがジュノとして生き続けるためと想うなら、決してあってはならない判断なのだから。
そんな今回の峠を越えたジュノの意識は、痛みが緩和される度、冷静さを取り戻す。
「まったく……、私の身体なのに、こんな制約に負けるなんて……」
ステラたちを産んだ事に後悔はないが、自身の身体というのに言うことを聞かない苛立ちと怒りが交互にやってくる度、倦怠感と気怠さが増す。
自身の無力さは自身がよく理解しているからだ。
「ジュノ? 大丈夫だよ、僕がいるから」
唐突なフレイの一言は一瞬でジュノを現実へ呼び覚ます。
この状況、この体勢を理解すると、あの厄介な症状が何事も無かったように吹き飛んでいく瞬まで実感したのだ。
ジュノの意識回復に大きな安堵に満ちた満面の笑みのフレイの手が、真顔で驚くジュノの頬に優しく触れる。
「??? …………ッ!」
何かがおかしいとは感じていたようで、しかしこうも想像すらしなかった現実が突然やって来ると、後になって様々な不自然さがジュノの脳へと盛んに情報が飛び込んでくる。
そんな慌ただしさが、いつも冷静なジュノの心を必要以上に叩くのだ。
驚きのあまり肝心な声が出ないジュノを丁寧に抱き寄せて、フレイの胸の中にすっぽり納まる状況に耐性は皆無に等しい。
驚き急ぐあまり少々強引に逃れようとするも、その慌てぶりにフレイの不安を煽るだけとの考えが及ばず、簡単には解放させてくれそうにない。
声を張り上げれば済む話だろうが、事が事だけに、どうしても大事にはしたくないのだろう。
そんな中で頬を赤らめるジュノの表情に気が付きにくい暗闇が、唯一の救いでもある。
少し開いた扉が明暗を二分したことを加えて、光に背を向けたフレイの位置から見ても、肝心のジュノの赤面をフレイには認識できていないのだから。
「ジュノ? ……、……ッ? ごめんッ、ほ、本当にごめん!」
心配から目線を合わせようとしたフレイだが、頑なに拒否するジュノの態度から、ようやく自身の失礼且つ出過ぎた行為と悟り、ベットから降りて高速の後退りでひたすら謝罪を繰り返す。
ジュノの機嫌を損ねたと思うばかりの鈍感なフレイがいるのは、ジュノの責任も相当重いことを知らせている。
愛溢れる純粋な心が起こす行動は、時折大胆不敵に、想像もできないような状況を作るが故、フレイに下心がないだけに、ジュノにとって稀に難となる事態に多少の理解は及んでいる。
「そ、外に出る準備をするわっ! お仕事大変だったでしょう、だから、だ、だから出てッ、……出てって、……ッ!」
フレイの豊かな感情をよく認識していても、この唐突なまでに容易に、心からの心配が寄り添う優しさに耐性が無いジュノは、この混乱から仕事の話で軌道修正を図る苦肉の策しか思い浮かばない。
「駄目だよ、まだ安静にして。仕事の話ならまた明日、ちゃんと報告するから!」
「…………ッ!」
この一言で再びジュノに急接近するフレイ。
心の底からの心配によって、即時ベッドから離れようとするジュノの両肩を固く掴んで、なんとしてでも制止させようとする。
フレイの無限に生み出す優しさが、今のジュノには毒そのもののようだ。
毅然とした態度で拒否する方法もあっただろう。
しかしこうも純粋に心配していくれるのだ、むやみやたらと否定するには流石に良心が痛む。
ただこの態勢はジュノにとってあまりに辛いもの。
「そ、そう、分かったわ。今日は養生することにするわ、……あ、ありがとう」
これ以上ジュノの領域に踏み込まれるのは勘弁と言わんばかりに、この部屋から出ることを遠回りに暗示させた言い方で要求する。
フレイの出方に全神経を注いでいるの見て取れる。
多少捉え方は違えどジュノがどれ程苦しんでいるか、自身に置き換えて想像ができるからか、フレイの表情は心配と不安が尽きないようだ。
ただジュノの言動があまりに不自然で狼狽えるような、冷静さを欠けた様子には違和感を感じ取ったような感覚から、少々眉間にしわが寄る。
それでも安静と健康に努める発言を聞いて、フレイに大きな安堵を与えるのだから、これ以上に安心できる言葉はないと考えた。
「じゃあ、ちゃんと身体を大事にしてね。また明日、お休み、ジュノ」
軋む扉を閉じたフレイの超がつく鈍感により、危機を脱したことで沸々と平常心が湧き立つジュノ。
普段こそ完璧で非情な人物を演じるも、この勝手な感情だけは上手く転がすことが出来ない。
暗い部屋の中で、唐突なフレイの登場に驚いたせいで忘れかけた痛みが再び疼き出す。
真っ白なシーツを握って耐える激痛と共に、様々な想いと回想がぐるぐると浮かんでは沈む波を繰り返してしまうからか、よりぐったりしている。
「まったく、私は……」
何度も蘇る、フレイに対する反省と後悔。
なにより強い自責の念が圧倒的に上回って、今更先程の出来事を繰り返す脳の失態を、氷のように冷やし固めた心にまで簡単に浸透させたくはないようだ。
反省ばかりの感情を埋めるために、フレイへの感情を正すために今一度瞼を閉じて、心を穏やかに冷静さを取り戻すための努力に勤しんだ。
***
ジュノが安静する寝室の扉をしっかり閉じたことを確認した。
流石のフレイも今回のジュノの言動には多少引っ掛かりが残っているようだ。
しかし結果的にジュノは久々の安静を選び、日頃のフレイの心配も十分解消させた。ならばこれ以上どこに悩む必要があるのか。
普段から積もり積もった不安が今回、久方ぶりの安堵で快適に過ごせる現実が訪れたと言うのに、どこかその快適の実感が湧かない表情。
それでも結果良かったといわんばかりに、深く頷くことで無理矢理解決に至ろうとするのだ。
そんなどこか満ち足りないままのフレイの足は、幼いステラの部屋へ日課のように自然と向かう。
この円形の宮殿の廊下は基本外壁が存在しておらず、ただ日除けとして天井とそれを支える柱が均等に設置されていて、美しい外の景色が、廊下を歩くだけで視界全体に広がるのだ。
心地よい太陽を誘う光と、穏やかな風に運ばれることでフレイに穏やかな感情を与えてくれる。
宮殿から見える小高い丘は、様々な木々がどっしりと構えていて、ここで生きる生物たちの支柱として役目を果たす。
フレイはこの活力溢れる景色が大好だ。
弱気な感情や落ち込んだ心を前向きにしてくれる、そんな精神安定剤として大役を担っているのだから。
時折楽しそうに飛び交う蝶や小鳥たちが、フレイの周囲を回って遊ぶ様子は、最高の癒しをくれる。
ここはまさしく天国。
そう思わずにはいられない思いが足を止めて、心の底から幸せに震える。
しかしそんな幸福感にどっぷり浸かる間もなく、フレイを求める泣き声で現実に戻された。
「フレイぃ、フレイぃぃいい、フレイのぉ、ばかぁあぁぁああぁ!」
フレイを見つけて走るステラは、大粒の涙をこぼすことでこの多大な怒りを表現している。
「ステラ、今日はどうしたんだ? おいで、ギュっとしよう」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃなステラの顔を両手で優しく拭い、溢れ出る涙の訳を聞く。
愛あるフレイの優しい呼び掛けに素直に甘えて、思いの丈を吐き出すが、それこそ我儘以外の何物でもない内容で、そんな感情すらもフレイはステラの全てを受け止める。
知り得た言葉が少ない中、感極まる表現で同じ内容を訴える方法しかない得られない苛立ちも相俟って、自身に対する不満まで上昇させたことで涙を止める方法を失くす。
そんな無茶苦茶なステラの思想と感情が、手に取るように分かるのもフレイだ。
ステラの率直な想いでありその本心は、ただフレイを独り占めしたいだけのもの。
そんな見え透いた嘘も我儘も計算も知った上で全部受け止める。
通常なら悪循環の何物でもないが、フレイと言う人物は複雑な糸を簡単に解いて元通りにして和解を成立させてしまうのだから、この達人技は侮れない。
ステラはまだ幼いが故、人格形成が未知数なだけに、多少厳しく育てる必要性もあるのだろう。
しかしこれ以上をフレイに求めるのは些か酷と言うもの。
「うーん。どう先導するのが正解かなあ……」
この長い長い子育てに悩むフレイの心情など露知らず、感情を全て曝け出してすっきりした様子のステラは、やはりフレイに甘える他ない。
「フレイぃ、一緒に寝ようよぉ! 寂しいの、嫌だもん!」
この発言はフレイを再び困らせる。
目の前の惨劇がフレイの困惑をより広げるのだから。
「駄目だよステラ。部屋のおもちゃを廊下まで散らかして……」
あまりに理不尽と取れるような不機嫌顔で、お餅のように膨らむステラの頬。
しかし何か名案を思いついたのか、次の瞬間、ステラの顔は甘いチョコレート菓子のようにとろけた。
「じゃあぁ、お片付けすれば一緒に寝てくれるぅ?」
「え? あ、うん。まあ、それなら良いけど……」
突然の提案に曖昧な発言ではあるが、この返事はステラにとっての承諾なのは間違いなくて、途端に満面の笑みを浮かべながら片付けに勤しむステラ。
その様子にフレイの心配と不安は募るばかり。
ステラの精神年齢は相当低い。
致し方ない部分は承知の上で思うことだが、フレイが与えたベタベタな甘さに、改めて後悔と反省が頭の中をぐるぐると回る。
ただ片付けを楽しむステラを見ていると、完全な不正解ではなさそうだと感じる思考が浮上したりもする。
なによりステラの笑顔は愛らしく朗らかで、小さな悩みを吹き飛ばすほどの効力も持つのだから。
結局フレイは、心の底からステラが大好きなのだと自覚に至る。
愛でるようにステラを見ながら、結局フレイも手伝う、そんな日常。




