第十五章 雨は昇る
宙に浮かぶフレイのどす黒い腫瘍の侵食完了を、クレスは肉眼で確認した。
フレイは一見黒塗りへと変化したかのようにも見えるが、身体中に巨大な膿としこりを浮き上がらせた外見は、まさに完全体を彷彿とさせるような、その姿形は頗る醜い、悍ましいものに進化を遂げている。
しかしこの光を失くした世界で、フレイの皮膚の隙間から漏れる僅かなマグマの光が最後の救いであり、唯一の希望となるのは人間にとって皮肉そのものと思われる。
そんな最大の元凶のフレイがさらなる高みを目指して、ゆっくり上昇する動きを見せた。
フレイの身体中の細胞の隙間から幾千もの光が一瞬で世界中を席巻し、柔い光が四方八方細かな動きで標準を定めて多くの光を重ねて、より強い一筋の光へ変わっていく過程を見る。
それはクレスは勿論、地球上に散らばる同胞にも届くほどの、不思議で力強い橙の光線だ。
「ま、まさか陸を打ち落とす気なのかッ? フレイの奴……、正気か?」
この不穏にいち早く気が付いたクレス。
続く同胞たちも差し迫る不安に、心掴まれる。
そんな不吉な予感そのままに、一斉に放たれたのは橙のレーザー光線。
橙の光線はクレスが想像した以上に広範囲に及ぶ。地球の裏側まで軽々と、世界中の大地を破壊させて、陸を次々と広大な大海原へ沈めていくのだから。
人間の文明の象徴は、フレイという存在の前ではあまりに脆く、いとも容易く崩壊する残酷な現実を見せた。
〈ゴゴゴゴゴゴゴッ……、ゴゴ、ゴゴ、ゴゴプッ、ゴゴプッ!〉
崩れ落ちていく建物は続々と地中に食われて、大陸は割れて海水に呑まれていく。
恐ろしいほどの轟音を立てて崩れて、黒い海に呑まれていくこの世の地獄。
しかしあれだけのレーザー光線に狙われたはずのクレスたちは、全くの無害であることに心底驚く。
「……なぜ、俺たちは無事なんだ? これのせいなのか?」
誰もが目を逸らしそうな悲惨な状態を冷静に見下げて、次々起こるイレギュラーな事態を淡々と分析する。
今現在クレスたちは、穏やかな光で出来た小さなドーム状の結界に包まれているのだ。
どうやらあのレーザー光線は破壊という名目の下、第一に各地の同胞を結界で保護する目的で放たれた光線であることが証明されている。
現に光の結界はとてつもない速度で同胞をクレスの許に連れて、続々と集結していくのだから。
結界同士が融合して大きくなり、好奇心から触れようとしても、生き物のように拒んで反って触れさせようとしてくれない。
「ここで全てを見届けろって訳か。想像した以上に、とんでもないことになったな……」
続々と同胞たちと合流する中、クレスの焦りは増す一方だ。
そんなクレスの不安を他所に、突如何も見えなかった暗黒の空が紅塗りの紅へ色を変えて、この大地の全貌を照らす。
人間が生きた文明は容易く黒い海に呑まれて消え去り、見渡す限りの水平線も現れた。
夕焼けの赤より濃く、血で染め上げたような不気味な紅で空間は色を変えて、絶望に輪を掛けたような感覚。
同胞たちも唾を飲むことすら忘れて、この残酷な現象に釘付けとなる。
「…………ッ? ステラッ!」
あまりに多くの不気味が連なる中、クレスは少し離れた場所で横たわるステラの存在をクレスは発見する。クレスと同じくドーム状の結界に包まれて、ピクリとも動かないステラを。
「ステラッ! クソッ、どうやったここから出れるッ?」
相変わらずこの結界は触れられることを拒否し続けており、懸命なクレスを揶揄うように扱うが、クレスの感情を読み取ったのか、一時結界に触れることを許すものの、柔い見た目そのままに唐突に鉄のような硬さに変化したりする。
どう足掻こうがこの空間から出す気はないことを宣言したも同然だ。
故にことを穏便に進めたいという想いの、この結界の意志も汲み取れる。
「黙って見てろってことかよッ!」
相変わらず寝たきりのステラの容態が判らない状況の中で、更なる変異が現れる。
地上から謎の黒い雫が空へ向かってゆっくり上昇を始めたのだ。
全てを呑み込んだ黒い海が発端のようで、比較的大きめな雨粒のような黒い物体が、冴えわたる紅い天に引き寄せられて昇って行く。
強力な引力によって吸い寄せられる過程から、黒い粒は雫のような形で、超低速でその一粒一粒を目視で確認できるような遅さを見せている。
そんな光景にクレスたちはただただ圧倒されて、様々な可能性を潰しながら答えを模索することに懸命で、言葉を発することも忘れて、沈黙したまま見届けることしか出来ない。
あまりに奇想天外な現象に、クレスたちは夢中で何度も地を見下ろし、天を見上げた。
「……ッ? す、ステラ? ステラッ!」
この不思議に関心を奪われて、一瞬目を離した隙に、あの光の結界と共にステラの姿は忽然と消える。
まるで空間からごっそりと抜き取られたかのように。
「な、なんなんだ、なにが起ころうとしている?」
既にその存在が失われたとばかり思われた太陽が顔を出し、太陽の橙と同化した燃えるような紅は、世界の終わりを演出するかのような、絶望を漂わせるようなほど深く濃いもの。
大量の黒い雫を上昇させる漆黒の海との境界線で、世界をはっきり二分化させた。
ゆっくり上昇する黒い雫が逆光を起こして、よりその一粒一粒を引き立たせる。
なによりこの長い時間は、クレスたちにも様々な思惑を広げた。
皆、この黒い雫と紅い空、そして恐ろしさを纏う太陽の橙のカラクリを知りたいのだ。
そんな同胞の一人が興味本位に黒い雫を恐る恐る凝視すれば、三つの謎は容易く紐解かれ、新たな導きへの第一歩を踏み締めることとなる。
黒い雫は穏やかに紅い天へ召される。
他の雫と交わることなく、完璧に計算尽くされた絶妙な間隔を保って、太陽に照らされながらただひたすら紅い天を目指して昇るのだ。
実のところ正反対に位置する00の理念と02の信念は、この時初めて重なる。
同じ空間を生きているのは勿論、同じ名を持ち、同じ属性を持つが、これ以上の共通点はどこにも存在しない、それぞれがたった一つの個性。
常に交わることを極力避けた二人のフレイの想いが重なったことで、用意周到に組み立てられた新たな世界が目覚める暗示を送り込む。
黒い雫は黒い物質が溶け込んだ雨粒ではなく、黒い粒子で囲われた、《監獄の鉄格子》。
これは単に鉄格子を形作っている訳ではない。生きて意志を持つ粒子が徹底した監視の下、脱走を無力化させていているようだ。
そこまでして厳重に監禁するものの正体、それは。
「これはッ! まさかこんな……ッ! 皆、見てくれッ」
より強くなる太陽の橙に照らされて、鮮明に見えたその雫の中にクレスたちは絶句する。
軽やかに上昇する黒の粒子の隙間から見えたのは、物言わぬ植物を始め、昆虫、魚、動物に至るまで様々な生物が閉じ込められた檻、そのものを表現している。
そんな雫に混じって時折、上昇するのは《人間》だ。
黒い雫に閉じ込められた人間たちは、今後の行方は想像出来ないものの、不吉な予感は嫌と言うほど感じ取れているよう。
死の世界と化した地球の現状を見て、絶望が人間の精神を壊すのだ。
黒い粒子の隙間から見えるレンズのような仕様で作られた雫本体は、屈折することで内外に映る物体を変化自在に痩せては太らせ、それはそれは滑稽に見せている。
「これがジュノの言っていた地球を【打算】で変える計画ってやつの全容か? となれば、この黒い雫は人間側の属性の生体が全て昇るという仕組みか? ……ハッ、随分、大層なことだ」
この黒い雫は対人間属性のみが紅い天に転送されるシステム。
それは哺乳類は勿論のこと、昆虫類、魚類、植物類に至るまで多岐にわたり、膨大な雫の数の分だけ天に召されている。
まるで地獄の頂を昇るかのように。
これは空間が進化の帰路へ道を折り返した合図。
残り少ない大地が脆いケーキのように崩れて、上昇する黒い雫が極端に減少して、人間属性の命が全て天に昇った瞬間、この星はさらに大きく変わろうとしている。
「これじゃあ革命を起こすっていうより、崩壊を始めているってのが正しい判断だろうよ」
この頃には世界中に散らばっていた同胞とも全員合流した。
しかし人間の絶望感が世の行く末を大いに物語り、流石のクレスたちにも人間たちの絶望感が伝染してしまう。
そんな同情で浸る時間、地球の本格的な改革を前に、突然クレスや同胞たちを守る結界が強い光に包まれる。
次第に光が天地共に不透明な白い壁に様変わりすると、外部の様子は完全に遮断されて、轟音と共に内部の環境及び空間を瞬く間に変化させる現象が起こるという、到底あり得ない現象をまざまざと見せつけて、革命のための総仕上げが始まった。
「お、おいおいおいッ! 今度はなんなんだ? 何が起こるってんだ?」
相次ぐ緊急事態に参るクレスだが、その驚きは想像するより大きなものとなる。
不透明になった結界は唐突に天井を高く、奥行きも広く、巨大な空間に様変わり、それこそ本物と見間違うような青空や大地が形作られると、急成長する山やどこからともなく流れる川や泉まで具現化させて、まるで小さな地球のような星を創り上げるのだから。
空高くには太陽と思わしき光の源が顔を覗かせて、奥に宮殿まで出現させる。
この場にいる全員、言葉一つ発せない衝撃で圧倒されるが、更なる衝撃を呼ぶこととなる。
高台に聳え立つ白い宮殿の溝から流れる水が小さな太陽に照らされてか、煌びやかな七色に反射させて泉へ合流すると、突然現れた鮮やかな虹の架け橋から、見たこともない美しい色や愛らしい形の動物や魚、昆虫たちが出現して、清らかな水を求めて集まり出すのだ。
なによりこの未確認生物たちには、クレスたちを警戒する様子が見受けられない。
それどころか非常に人馴れしていている。
警戒心のない生物たちは、何の躊躇もなく、固まる同胞たちに近づき、可愛い愛嬌まで振る舞いて懐くのだから。
あまりに予想外過ぎて、最初こそ同胞たちも強張るものの、次第にこの生物たちの無邪気さに心癒されていく。
ただ警戒心の強いクレスだけがこの光景を良好とは捉えず、寧ろ心から不快感を覚えた。
「これらは何らかの罠の可能せぇえッ! グハッッ!」
疑心暗鬼なクレスに、一匹の小動物がクレスの顔面に吸い込まれるように引っ付いた。
息が続かないクレスの顔は、だんだん赤く染まって窒息寸前まで追い込まれる。
それでも相変わらず平常心を絶やさず維持したまま、未だ離れぬ気配を見せない小動物をつまみ、間髪入れずに鋭い睨みを利かせたクレス。
そのフカフカなプリティラインでクレスを追い込んだのは、金色の毛並みに碧眼を持つ、可愛らしいモモンガ。
悪気はないらしく、愛くるしい動きとつぶらな瞳をクリクリと動かして、クレスの怒りを鎮火させる。
というより、クレスにとって敵視するには恥ずかしすぎる相手なのだ。
クレスもこれほどの強敵を、今後も見つけられないと言い切れるほどの無邪気さを振る舞うのだから。この光景を目にした同胞たちの、ドッとした笑いで雰囲気は和む。
この小さな空間の外で、改革の総仕上げを始めた過酷な現状を忘れてしまうほど、クレスたちは楽しい時間に誘われて、心地よい夢に酔いしれた。
それは大なる母の愛に包まれた瞬間でもある。




