第二十章 地獄と共に②
〈グググッ、……ググッ!〉
「ガハハッ! おい、ジュノ。お前、馬鹿かぁ? あぁそうだった、真正の馬鹿だったな!」
「……、地獄の支配人」
ジュノたちが落ちていく真下から出てきて二人を救ったかと思えば、すぐ大きな亀裂ができた断崖絶壁のルネを補強し、今すぐ崩れ落ちないよう黒龍の長い身体でとぐろを巻いて、事情を察して時間稼ぎをしてくれる、地獄の支配人が遠路はるばる現実世界までやって来た。
「貴方、地獄の管理はどうしたの? まさか放棄してきたなんて言わないわよね?」
「馬鹿に付ける薬はないっと、巷では言うのかぁ? ガハハッ!」
「まったく……、」
地獄の支配人がジュノとアディに対する配慮で、この距離と空間を駆け抜けてくれたのは、大きな借りを一つ作ったということ。
とても返すことが不可能な大きな借りを。
黒龍としての地獄の支配人の姿は、普通の人間の目には見えていない。
ただそれだけにあまりに不自然な形を保ちながら、ここまで来て崩壊しないこの城の不思議に、遠くから人間達は多大な恐怖を感じている。
それが不吉と言わんばかりに、より遠く遠くへと着の身着のまま急いで散っていく人間を目にして、地獄の支配人はご満悦だ。
「アディルメルも顔合わせるのは久しいな、元気、……ではないか、ガハハッ!」
アディの腫れた両目を見て、その深刻さと遠慮からかいたたまれず、なぜか思わず笑う。
「ジュノさま、地獄の支配人……、ありがとうございます」
「なんで俺様は呼び捨てなんだよッ! ガハハ! ……あ、気にするなよ」
多方面で心強い味方が到着して助けられて、アディも少しだけ力を分けて貰えたようだ。
「支配人がいるならルネ崩壊の手引きは任せるわ。アディルメルの補助をお願い。私はアゼレッダに向かうわ、アイリーンが見当たらないの、きっとフレイの所へ行ったんだわ」
温かな体温を分かち合った身体を離すと、アディの両頬をジュノが優しく包む。
「アディルメル、貴女の人生はこれからも波乱続きよ。でもね、私たちは遠い未来に笑い合えると信じているわ。これまでもこれからも貴女の努力を無駄にはしない、誓って言えることよ」
アディが女性の姿になっても高身長のジュノには遠く及ばず、その上童話に出て来る王子様のような優しく凛々しい表情は、アディにこそばゆい感情も与え残したようだ。
あまりの恥ずかしさと騒がしい心臓の音で、言葉が全く入らないほどに。
「……何やってるんだ、お前ら。俺様にはそんな趣味無いからなッ!」
このやり取りには、流石の地獄の支配人も白い目で眺めている。
「あら、私たちが不純に見えたの? それは素晴らしい思考をお持ちのようで?」
相変わらず皮肉も込めて、呆れかえっている地獄の支配人すらおちょくるジュノ。
アディの後ろ髪を引かれる想いに気付きつつも、両頬に沿えた手をゆっくり放した合図で、傷つき苦しんだアディの心を包み込んだこの瞬間、あの優しい表情のジュノはもういない。
ルネに背を向けた頃には、重苦しい責任感を背負う覚悟の表情で、ジュノの怒りを表現している。それは同胞の心と体を弄んだ敵に対する、情け容赦ない憤怒が心を支配した瞬間だ。
「……ジュノさまはお一人で大丈夫だろうか。地獄の支配人よ、アイリーンは間違いなくエレンツェの身体を手に入れたまま、フレイさまと激突しているだろう。……嫌な予感がする」
「気にするな、と言った手前、なんで俺様だけ呼び捨てなんだ……。しかしまぁ、フレイもいるし、丸く収まるんじゃね? お前が心配するような無謀なことはしねーよ、ガハハッ!」
いくら同胞の肉体を手に入れたアイリーン相手とは言え、あの二大勢力が一丸となれば、誰も歯が立たないことは真実を知る者ならば常識であり、覆らない事実でもある。
「俺様は忙しいんだ、やる事ちゃっちゃっと終わらせてすぐ帰る。ガハハッ!」
「そうだな、支配人。もうルネに未練はない」
「……だからなんで俺様だけ敬語じゃないんだ?」
地獄の支配人の配慮によって不自然な状態のルネの岩盤を、内側から更にきつくとぐろを巻いて、ルネの中枢なる場にアディの祝福で武装した両足で一点集中の攻撃を仕掛けた。
これはアディの力技ではなく、物体が持つ細胞を分解したことから起こる、09としての脅威の能力だ。
それは細胞を消し去るのではなく、脆くした物質を木っ端微塵に破壊する物理的なもの。
よって飛び散る破片や欠片の残骸は消えることがない故、地獄の支配人の力を借りて、硬い地盤から成るルネを根こそぎ異空間へ消し去っていく。
ただこれらはアディの森の異空間を事前に支配人が拾い移動させて、アディに返したと言う方が正しい。
断崖絶壁がごっそりくり抜かれて、城を跡形もなく消したルネは、天子の揺籃ルネと呼ばれた面影はもうどこにもないのだから。
「アディ! もうすぐクレスたちがルネに到着しそうだ。俺様は帰っても良いか?」
「あぁ、ありがとう支配人。後は上手くやるから心配は要らぬ。安心して帰ってくれ」
「そうか、……クレスのこと頼んだぞ、ガハハッ!」
「分かっている。……クレスを私の元へ送って来てくれた恩は忘れない、ありがとう」
「アイツは遅かれ早かれ一人立ちが必要だった。時がクレスを導いたんだろ、俺様は関係ない。それにアディ、お前が見返りとして愛菓子を用意してくれただろ、それだけで儲けもんだ!」
「見返りが吊り合ってないな、ここまで積極的に協力してくれるとは流石に思わなかったよ」
相変わらずアディの支配人に対する雑い対応に疑問を持ちつつも、持ち場に帰れば愛菓子が待ってくれている。
黒龍としての肉体が軽く地面を透けて通り、地中深くにある異空間を目指して、地獄の亜空間へと誘う。
「今後クレスとは滅多に会わんだろうな……」
現実世界と地獄の亜空間との行き来の最中。
今になって長い長いクレスとの思い出が、支配人の思考から走馬灯のように駆け巡った。
事前にジュノに話を持ち掛けられ、アイリーンの脅威から逃れたひ弱なクレスを抱いて、体温を分け合い、心から安堵した日々。
赤ん坊の時期があまりに長いため、毎日が育児にてんてこ舞いだっただろう。
過酷な乳幼児を抜けると、何でも興味を示すクレスがより好奇心旺盛で元気いっぱいに走るのも、また別の意味で苦労をしたとも言える。
「そういえば一度人間の生活を実感させるために、現実世界へ一緒に降りた事もあったな」
人間界へ向かう感覚は、クレスにとって大きな経験であり、これからの財産にもなる。
しかし考えれば考えるほどクレスとの時間は、支配人にとってもかけがえのない時間だった。
「まさか、寂しいとか何とか思ってないだろうな、俺様よ……」
少し心に穴が開いたような、そんな感覚が支配人の心を少し締め付ける。
支配人は自身が知る、生きるための知恵の殆どを与え、もちろん多くは自身で考えさせるために、答えをはぐらかしたり、教えなかったりもした。
それほどに、この世は生き辛い。
「これからクレスにも多くの試練にぶつかるだろうな……」
正直な話、地獄の支配人が駆け足で生きた人生は、後悔と悲痛の連続だった。
人間でいることを生涯、已める判断をしたほどなのだから。
多くに泣いて、多くを笑って、いつか幸せに過ごせるようになることを、支配人も強く望んでいるようだ。
そのために、今も生き続けているのだから。




