第二十章 地獄と共に①
それはアゼレッダ王国でフレイがアイリーンと出会う少し前。
アディがゼファの魂を取り込んですぐのこと。
観客は突然の謎の光に驚き、すぐに収まったアディに全ての注目が集中する。
アディはあの子供の姿から成人した姿に変わり、両足には重厚な装備が組み立てられている。
その装備された左足太ももには【09】と黒く大きな刻印も見える。
〈シュッ……、トン!〉
左足のつま先を軽くトンと鳴らした瞬間、アディの姿は闘技場にいなくなる。
驚くまま探してみれば、闘技場で一番高い場所にあるアディの観覧席の日除けのための岩に佇んでいた。
「あ、アイリーン様ッ! あれって……」
この想像もしていなかった光景に、デリムが青ざめながら頼りない小声でアイリーンに問う。
この唐突な変異は作戦の失敗と共に、完全なる形勢逆転を意味しているも同然だからだ。
「アディがゼファを取り入れて目覚めたな。……エヴァンとエヴァがしくじったか」
デリムにも聞こえないような小声で、いつまでも好き勝手する者達の名を呟くアイリーン。
上手く進んでいた計画の全てを水の泡とされたことへの怒りは半端なく、エヴァンとエヴァに対する嫌悪感は増す一方だ。
要求することは壮大で、規格外の注文すると言うのに、それだけの対価を払うこともなく、貰えて当然の態度でふんぞり返るのがあの二人。
なぜそこまで偉そうになれるのか、流石にアイリーンでも解しがたい人種なようだ。
事実アイリーンはあの二人の実子でないのだから、デリムに請求するのなら理解が追い付くが、デリムでは満足に欲求を満たせないからこそ、アイリーンに粘着質に纏わりつく。
グラームを侵食し、アゼレッダを栄えさせてまで万全の態勢を差し出したと言うのに、だ。
しかしそれ以上にアイリーンは、別のことに心は大きく揺さぶられている。
「アディが、あの下級生体が私を抜かすだと? 下等生物の分際で?」
この現実が許せないアイリーンは、豪華なドレスを着たままエレンツェの姿でルネを後にする。
まるであの時、あの瞬間、《冥々裡の地獄ホンレフ》を彷彿とさせる展開が思い浮かぶだけに、冷静な対処を思い浮かべるよりも、あの時の何もできなかった悔しさが再び溢れ出す。
「あ、アイリーン様ッ、待ってくださいッ!」
重いドレスを着たまま優雅に、しかしずんずん進むアイリーンが、これから起こるアディの反撃とルネの崩落にいち早く気がつき、他の不思議がる貴族に関心を向けるはずもなく、ただ一人の理解者と見るフレイを追うために、アイリーンは素早くアゼレッダを目指す。
「フレイは今、間違いなくアゼレッダにいるッ! アゼレッダにいるのだぁあッ!」
フレイに生き続ける苦しさから助けを求めるような強い足取りで、無我夢中で愛されることを求める幼子のように、ただ純粋にフレイが欲しくて欲しくて仕方ない心が疼くようだ。
今はまだ騒然としているだけの人気のないルネの正門を通り抜け、すぐ傍の森の中へ入っていくと、アディが創った異空間に辿りつく。
まるで創作した張本人かのように、慣れた手つきでルネの空間からアゼレッダに向けて消えていくと、その後ろをデリムが追った。
***
美しい大海原を背景に、断崖絶壁に城を成す《天子の揺籃ルネ》は、突如、大地が裂けるような地響きを鳴らした。
それは明らかに不穏な知らせであり、まさしく崩壊の合図。
〈ヒュッ……、ゴッガッッ、ガガガガガガガッ、ドッゴッッンッ!〉
「ひっ、ひやぁあぁあぁああっ!」
硬く装備されたつま先を立てて、身体を再び宙に浮かせた瞬間、アディは闘技場の中央でたった一度、怒涛の一突きを硬い地盤に刺すと、連鎖が起こり、いとも容易く壊していく。
アディの処刑実行役として役目を全うするはずだった男らは、地中深くへ落ちて、情けない声を出したが最後、その消息を永遠に断ち切った。
男達が地面の歪みに消えて、細かく割れた小さな破片が大量に宙を浮く現象が軽く観客席に辿り着けば、趣味の悪い夢でも見ているのかと現実を受け入れられなかった貴族達が正気を取り戻したこの瞬間、酷いパニックが連鎖する。
「ゼファよ、私はこの国の崩壊を切望している。……最初から最後はこのつもりで建国したのだよ。地獄で良い、お前に辿り着いたらどうか罪深いこの私を叱ってくれ」
多くの悲鳴や逃げ惑う罵声が数えきれないほど飛び交う中、脱出のための猶予も含めて、今はもう聞こえないゼファの魂に対して、誰にも言えなかった告白を言葉に出した。
支えてくれたエレンツェやランディが消えて、アディの生きる灯火は格段に小さくなった。
それでも太陽は一番高い所に姿を見せて、アディの選択を見逃すまいと明るく照らす。
この国を一望すると愚かな貴族達の慌てぶりがよく見えて、その姿が逆にアディの覚悟を固める。
そんな自暴自棄なアディの後ろで、ある人物がゆっくり丁寧に言葉を紡いだ。
「あら、自害でもするつもりなの? ……久しぶりね、アディルメル」
聞き覚えのある穏やかな女性の声色は、アディの辛くて悲しい感情を一瞬で鷲掴む。
「じゅ、ジュノさま……ッ!」
今にも泣き崩れそうなアディルメルの肩を抱いて、ジュノは今に至るまでの健闘を称える。
「よくやってくれたわね、貴女の苦労と努力を無駄にしないわ」
「じゅ、ジュノさまッ! ジュッ、ジュノッ、さまッ!」
今まで多くを我慢してきたツケだろうか、凛々しく威厳あるカリスマ性溢れるアディルメルは、ジュノの前では子供のように泣き崩れる。
生き続けることこそ拷問だったかのように。
「アディルメル、貴女のゼファも、エレンツェだって生きているわ、生きているのよ」
「わ、私は、生きる価値のない人間ですッ! ……もう、生きたくないんですッ!」
まるで走馬灯のように地獄の人生を振り返って、辛い日々を気丈に生き抜いた反動の精神的ダメージは、恐らくジュノも想像するより重く根深いだろう。
例えこの人生を終わらせても、また新たな人生を歩むことへの恐怖だって耐え難いもの。
生き続けることが地獄と言わんばかりに、ジュノに生きることへの放棄を心底望む。
「貴女の気持ちは痛いほど分かるわ。でも、私たちは生きなければならないの。まだこの先、更に辛くて苦しい事があろうとも……。それが私たちの使命であり宿命よ」
容赦ない現実を静かな口調で解くジュノを前に、更に泣き崩れるアディルメル。
それでもジュノがアディの手を離さなかったのは、彼女の痛みと苦しみを少しでも取り除くため。
もちろんそれだけでアディの地獄の辛さが消えるなどと、そんな生易しいことは微塵も考えてはいない。
それはジュノの複雑な表情によって克明に表れている。
すべてはこれからも起こりうるだろう不幸に震えるアディのために、この辛い現実に慣らす必要があるからだ。
それがどれほど残酷で非情な行為かを、ジュノが理解できないはずがない。
それでも背中を押さなければ、人間に使い勝手良い人形として永遠に扱われる運命となる。
「わ、私たちに神はいないのですか? 私たちを助けてくれる神はッ!」
アディの心からの悲痛な叫びはジュノを大いに悩ませる。
しかし答えは一つしかない。
「アディルメル。神などと言う存在は、所詮、戒めの存在でしかないわ。自分が自分の力で立ち上がるために必要不可欠な存在。だから誰の心にも神がいて、悪魔もいるのよ」
「あ……、あぁ、あぁぁあああぁぁあぁぁ……ぁ、ぁッ!」
現実という残酷な仕打ちが、生きるための強さを奪う。
それでもアディは涙を流せば全てを洗い流せると信じて、ただそれだけを信じて、今はジュノと言う名の神に縋りつく。
貴族達が城外へ散らばりを見せた頃、がらんどうの闘技場は本格的な崩壊を開始する。
それでもジュノはアディを離さなかった。いや、離せなかった。
二人の足元が崩れ始めて、海に呑まれていく地面の中央で、どうにもならない感情をこのルネのように崩れ落ちるままこの身も消えてしまえたらと、ジュノの表情は強張る。
それほどに現実が苦しいアディに何の救済もできず、自身の力不足を改めて思い知らされて、アディの感情を包んで共に悩み、共に苦しむただの気休めで終えるだけのちっぽけな存在。
地面はすでに原形を失くしている。それでもアディを安全な場所への誘導すらできない。
死んで消えて、終える。
その言葉は本来一人の人格が亡くなる、悲しみの言葉だったはず。
そんな辛い意味と現象だったものが、どうしてこうも軽い言葉になってしまったのか。
「アディ、貴女は今、この心臓を共に貫く覚悟はあるの?」
「……わ、私は、もうッ、もうッッ!」
見るからに苦しむアディを見ると、共に死へ背中を押すのなら、この命を犠牲にするのも惜しくない。
本末転倒、そんな言葉が悪意を持ってジュノを指差すように責め立てる感覚。
ただ無責任になれるほど、アディの気持ちが痛くて仕方なかったのだろう。
どうする事も出来ないまま、二人の身体はゆっくりに沈む。飛び散った破片がジュノたちを招待するように、共に地獄に落ちる覚悟の手が、必死に絡み合う手が強張った。
そんな一時の迷いは、ある者の介入によって不発に終わることを知る。




