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呉視点三国志:陸抗の章⑤

271年(建衡3年)

宿将しゅくしょう丁奉ていほうは、やまいとこしておりました。

枕元まくらもとには、息子むすこ丁承ていしょうが付ききております。

父上ちちうえ、ご気分きぶんはいかがですか?」

丁承ていしょうは、心配しんぱいそうにこえをかけました。

「ああ、しょうか。あんずるな。わしはまだ、黄泉こうせん使つかいにはわたさんぞ」

丁奉ていほうこえは、ほそってはいても、そのおくにはかつての勇猛ゆうもうさが宿やどっておりました。

「しかし……」

丁承ていしょう言葉ことばまらせると、丁奉ていほうわらいました。

「おまえ殊勝しゅしょうになったものよ。むかしはおれのかくれてばかりおったくせに」

「それは……子供こどもころはなしでしょう」

丁承ていしょうは、すこれたようにこたえます。

「ふむ。ときつのははやいものよな。おもえば、わしは生涯しょうがいのためにたたかってきた。数々(かずかず)の戦場せんじょうけ、おおくのてきほふってきたわ」

丁奉ていほうは、とお過去かこつめているようでした。

父上ちちうえのご武勇ぶゆうは、かたがれることでしょう」

武勇ぶゆうなどというものは、ればただのおもよ。大切たいせつなのは、このくに末永すえなが安泰あんたいであることだ」

そのとき一人ひとり使者ししゃあわただしくんできました。

丁奉様ていほうさま! 只今ただいましん軍勢ぐんぜい国境こっきょう侵犯しんぱんしたとの知らせが!」

使者ししゃ言葉ことばに、丁奉ていほう表情ひょうじょうわりました。やまいのせいでよわっていたからだに、ふたたちからみなぎるようです。

「なに……しんやつらが……!」

丁奉ていほうは、無理むりやりからだこそうとしました。

父上ちちうえ、お身体からだがまだ……!」

丁承ていしょう制止せいししようとしますが、丁奉ていほうはそれをはらいました。

「わしはまだ、たたかえる! たとえこのちようとも、たてとなってみせる!」

老将ろうしょう気迫きはくに、周囲しゅういものいきみました。

しかし、丁奉ていほうからだ限界げんかいむかえておりました。はげしいせきとともに、そのくずちます。

父上ちちうえ!」

丁承ていしょうは、あわててり、丁奉ていほうこしました。

しょう……おまえは、わしのあとぎ、のためにくせ……けっして、おくすることなく……」

それが、丁奉ていほう最期さいご言葉ことばとなりました。

そのとしのうちに、丁奉ていほうしずかにいきったのです。晩年ばんねんまでその勇猛ゆうもうさをうしなわず、のために尽力じんりょくしたかれは、朝廷ちょうていにとって、かけがえのない損失そんしつとなりました。



272年(建衡三年けんこうさんねん

 建衡三年、西暦で272年。長江ちょうこう中流の要衝ようしょう西陵せいりょう西晋せいしんが激しく対峙たいじする戦いが始まりました。西陵は呉の国境の要所として極めて重要な場所であり、ここを失うことは呉の命運を大きく左右するものでした。

 呉は長年の戦乱せんらん孫晧そんこう皇帝の専制政治により、内部が徐々に不安定ふあんていになっていました。孫晧は強権的な支配で知られ、多くの有能な将軍や重臣が離反や不満を抱くようになっていたのです。その一人が西陵の守将しゅしょうを務める歩闡ほせんでした。彼は名門めいもん歩騭ほちの息子で、かつては忠義ちゅうぎを尽くす誠実な将軍として名をせていましたが、孫晧政権の圧政に失望し、秘密裏に敵の西晋に内応ないおうする道を選びました。

 「裏切りか……しかも歩闡とはな」

 呉の大都督だいととく陸抗りく・こうは静かにさかずきを置きました。陸抗は名将・陸遜りく・そん嫡男ちゃくなんで、父譲ちちゆずりの優れた戦略眼せんりゃくがん冷静沈着れいせいちんちゃく指揮しきで知られていました。その人柄は兵士へいし民衆みんしゅうからも深く信頼しんらいされていました。

 「殿との、やはりこちらから動いて西陵を固めるべきだと思います」

 諸葛靚しょかつ・せいの名臣・諸葛誕しょかつ・たんの息子で、陸抗の参謀さんぼうとして才覚さいかくを発揮していました。

 「歩闡の寝返りの裏には、敵将・羊祜ようこがいるに違いない。気を抜けませんな」

 羊承ようしょうは陸抗の実務を支える冷静な片腕かたうでであり、慎重に状況を分析していました。

 「父上ちちうえ兵糧へいろうの備えは十分ですか? 敵は遠征軍えんせいぐんですから、持久戦じきゅうせんに持ち込めば勝機しょうきはあります」

 陸景りく・けいは陸抗の次男じなんで、勇猛ゆうもうながらも戦略に長けた若き将軍です。

 陸抗は深く頷き、地図ちずの上に手を置いて言いました。

 「我々の作戦はこうだ――西陵を囲む形で舟師しゅうしを配置し、包囲網ほういもうを徐々に狭める。敵が動けばわなにかかり、動かなければ兵糧不足へいろうぶそくで崩れる」

 軍は素早く動き、完璧な包囲を完成させました。西陵周辺にくいが打ち込まれ、船が川を静かに渡りながら城を包囲します。指揮は緻密ちみつで無駄がありませんでした。

 城内の歩闡は顔を青ざめ叫びました。

 「晋の援軍えんぐんはまだか! 陸抗の策、なぜこれほど完璧なのだ……!」

 その時、陸抗からの檄文げきぶんが包囲網の外から届きます。

 『大義たいぎに背き、友を売る者に未来なし。投降とうこうせよ、さすれば命は保証ほしょうする』

 兵士たちの士気しきが揺らぎ始めた頃、歩闡の腹心ふくしんが寝返り、城門が開かれました。

 「突撃とつげき!」呉軍が一斉いっせいに城内へ駆け込みます。やりひらめき、が飛び交い、兵士たちは城壁を駆け上がりました。陸抗の軍勢は疾風しっぷうのように城を制圧せいあつしました。

 こうして西陵は陥落かんらくしたのです。

 遠くからそれを見届けた西晋の名将・羊祜ようこは、静かにおうぎを閉じてつぶやきました。

 「やはり、陸遜りく・そんの子か。恐るべし」

 呉は、この勝利で再び国の命脈めいみゃくを繋ぎとめたのでした。



272年(建衡3年)

 長江ちょうこうが大きく蛇行だこうする地、西陵せいりょうにおいて、二つの強大な軍勢ぐんせいがにらみ合っていました。片やしん王朝おうちょう代表だいひょうする名将めいしょう羊祜ようこひきいる精鋭せいえいたち。羊祜は、若いころから学問がくもんはげみ、仁徳じんとく知略ちりゃくそなえた人物じんぶつとして知られています。彼は戦場せんじょうでは冷静れいせいかつ大胆だいたん采配さいはいるい、数々(かずかず)の戦いで勝利しょうりを収めてきました。

 もう一方いっぽうには、未来みらいたくされた若き英雄えいゆう陸抗りくこうの軍がじんかまえていました。陸抗は、呉の名将であった父、陸遜りくそんおそえを受けて才能さいのう開花かいかさせた将軍しょうぐんです。冷静沈着れいせいちんちゃくでありながら、内にめた強い闘志とうしを持ち、卓越たくえつした指揮しき能力のうりょくで呉の数々の危機ききすくってきました。その威風堂々(いふうどうどう)とした姿すがたは、敵軍てきぐんさえも畏敬いけいねんいだかせたほどです。

 この二人は、長年ながねんにわたり戦場で幾度いくども激しい戦いをり返してきましたが、単なる敵対てきたい関係かんけいえた、たがいに対するふか敬意けいいとわずかながら友情ゆうじょうきずなはぐくまれていたのです。

 そもそも、この対立たいりつ背景はいけいには、晋と呉が長江流域ちょうこうりゅういき支配しはいめぐって激しくあらそっていた時代状況じだいじょうきょうがあります。晋はほろぼしたあと中国統一ちゅうごくとういつを目指し、呉もまた南方なんぽう強国きょうこくとして独立どくりつまもろうとしていました。このため、西陵の地は両国りょうこく重要じゅうよう戦略拠点せんりゃくきょてんとして、何度なんど激戦げきせん舞台ぶたいとなったのです。

 ある日、羊祜は使者ししゃを陸抗の陣営じんえいつかわせました。使者の手には、丁寧ていねいつつまれた酒壺しゅこと、小さな薬箱やくばこにぎられていました。

陸抗殿りくこうどのにおかれましては、長らく辺境へんきょうの守りにご尽力ごしんりょくされ、さぞご苦労くろうおおいことと存じます」使者は羊祜の言葉を丁寧ていねいに伝えました。

「つきましては、このさけにて日頃ひごろねぎらいを、そして、このくすりにてどうかご自身じしん御身体みからだ大切たいせつになさってください、と羊祜様ようこさまがおっしゃっておりました」

 陸抗は、届けられた贈りおくりものと羊祜の心遣こころづかいに深く感じ入りました。

「これはご丁寧ていねいに……羊祜殿ようこどののご厚意こうい、しかとうけたまわりました」

 陸抗は使者に深々(ふかぶか)とあたまを下げ、丁重ていちょうれいべました。そして羊祜の好意こういこたえようと、自らも名産めいさんひんえらび、使者にたくして羊祜のもとへ送り返しました。

「羊祜殿には、わたくしからのささやかなおれいしなでございます。どうかおおさめください」

 後日ごじつ、陸抗のもとに羊祜がやまいたおれたという知らせが届きました。普段ふだんは冷静沈着な陸抗の表情ひょうじょうにも、わずかな動揺どうようが見られました。宿敵しゅくてきとはいえ、その才能さいのうを深く尊敬そんけいしていたからです。

(まさか、羊祜殿が……)

 陸抗は密かに良薬りょうやくを探し求めさせ、使いのものに託して羊祜の陣へ送り届けさせました。

「これは、わがくん陸抗様りくこうさまよりお見舞みまいの品でございます。どうか少しでもお身体からだの助けになればと……」

 使者は羊祜の病床びょうしょうひざまずき、薬を差し出しました。羊祜は、思いがけない陸抗の温かい心遣いに深く感じ入りました。病のとこでそっと目頭めがしらを押さえる羊祜のほおには、一筋ひとすじなみだが伝ったと伝えられています。

 戦場せんじょうでは、両者りょうしゃ一寸いっすんすきあたえまいと、互いにてるかぎりの知略をくして軍をぶつけ合いました。へいときこえを上げ、あめそらおおいます。たいするしんの軍も鉄壁てっぺき陣形じんけいくずさず、槍衾やりぶすま応戦おうせんします。るがす騎馬隊きばたい突撃とつげきひるがえはた血潮ちしお。陸抗は冷静に戦況せんきょうを見つめ、的確てきかく指示しじ兵士へいしたちに送ります。その采配は精密機械せいみつきかいのように無駄むだがなく、よどみません。

 一方いっぽう、羊祜も高台たかだいから戦場全体ぜんたいを見渡し、老獪ろうかい戦略せんりゃく呉軍ごぐんを追いめます。鋭い眼光がんこうは戦場のあらゆる動きを見逃さず、つぎを淀みなくり出します。両軍りょうぐん兵士へいしたちは、それぞれのしょうの指揮のもと死力しりょくくして戦いました。剣戟けんげき交錯こうさくし、怒号どごうう中、戦場はまさにが入りじる阿鼻叫喚あびきょうかん様相ようそうていしていました。

 しかし、そんな激しい戦いのなかでも、敵味方てきみかた立場たちばえた私的してき交流こうりゅうが確かに存在していました。言葉ことばわさずとも、たがいの高潔こうけつ精神せいしん相手あいてへのふか敬意けいいつうっていたのです。

 この二人の名将めいしょう羊祜ようこ陸抗りくこうあいだはぐくまれた稀有けう友情ゆうじょう物語ものがたりは、後世こうせいにまでかたがれました。敵対てきたいする立場たちばであっても、たがいを尊重そんちょう理解りかいうことの大切たいせつさをおしえてくれる、美しいエピソードとして今もなお人々(ひとびと)のこころふかつのです。



272年(建衡3年)

 中国の三国時代さんごくじだい終盤で、しん長江ちょうこうはさんで対峙たいじしていた時期です。三国時代は、呉、しょくの三国が覇権はけんを争った時代で、蜀が滅亡めつぼうした後は、晋と呉の二国が最後の対決相手となりました。そのため、両国は長江を国境線こっきょうせんとして緊張状態きんちょうじょうたいにありました。こうした状況下じょうきょうかで、晋の名将めいしょうであり荊州けいしゅう方面の軍事指揮官しきかんであった羊祜ようこは、学問がくもんいくさの両方にすぐれた人物でした。一方、呉の荊州牧けいしゅうぼくとして長江の西側にしがわを守る陸抗りくこうもまた、武勇ぶゆう教養きょうようそなえた将軍でした。両者は敵同士でありながら、互いに敬意けいい友情ゆうじょうを深めていたのです。

 そもそも両国の間には幾度いくどもの小競り合いがありましたが、激しい戦闘は避けられていました。その理由の一つが、この二人の名将の間に芽生えた相互理解そうごりかいと人間的な信頼しんらいでした。羊祜は荊州の守りを固めつつ、文化的教養を重視し、また部下たちにも仁義じんぎを説いていました。陸抗も同様に、呉の荊州を安定させるために尽力じんりょくし、文武両道ぶんぶりょうどうに優れていたことで知られています。

 まず最初の逸話いつわは、「国境こっきょうでの出会であい」です。ある日、羊祜が長江の国境付近で狩猟しゅりょうを楽しんでいたところ、偶然ぐうぜんにも陸抗と出会いました。通常ならば敵同士の遭遇は緊迫きんぱくした状況になりますが、両者は武器ぶきることなく、お互いに遠くかられいを交わし、静かに別れました。周囲の兵士へいしたちは緊張しましたが、この礼節れいせつある対応は、戦場にあっても無用な衝突しょうとつを避けようとする二人の人格じんかくを示しています。

 二つ目の逸話は「書簡しょかんによる交流こうりゅう」です。羊祜と陸抗は、表面的には敵国の将軍でありながら、たびたび文通ぶんつうを重ねていました。その内容は、単なる軍事上の駆け引きではなく、お互いの健康を気遣きづかう言葉や時事問題じじもんだいに関する意見交換いけんこうかん、さらには儒教じゅきょう的な理念りねん倫理観りんりかん共有きょうゆうが中心でした。これらの書簡は現存げんそんしていませんが、『三国志さんごくし』や裴松之はいしょうし注釈ちゅうしゃくによって、その交流があったことが明らかになっています。羊祜も陸抗もともに儒学じゅがくに通じた人物であり、敵であっても心を通わせることができる素養そようがありました。

 三つ目の逸話は「羊祜の遺言ゆいごん」です。272年、病気びょうき体調たいちょうくずした羊祜は、政治や軍事の第一線だいいっせんから退くことになりました。後任こうにん杜預とよに向けて、彼はこう語ったと伝えられます。「陸抗は呉の柱石ちゅうせきである。彼が健在けんざいなうちは軽々(かるがる)しく攻めてはならない。しかしもし彼が亡くなれば、速やかに呉を攻撃こうげきすべきだ」と。この言葉は、陸抗に対する深い敬意けいいと、戦略家せんりゃくかとしての冷静れいせい判断はんだんを示しています。羊祜にとって陸抗は、単なる敵将ではなく、おのれと同じくらい高潔こうけつ尊敬そんけいできる人物だったのです。

 これらの逸話は、戦乱せんらんの時代にあっても、高潔な将軍たちが互いの人格を尊重そんちょうし、平和へいわを願い続けたことを物語っています。羊祜と陸抗の関係は単なる戦場での敵味方の対立ではなく、儒教的じゅきょうてきとく基盤きばんとした静かな「けい」の精神の交流であり、やがて両国が血を流すことなく和解わかいする可能性も示唆しさしていたのかもしれません。

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