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呉視点三国志:陸抗の章⑥

272年(建衡3年)

 西陵(せいりょう)の砦(とりで)に沈丁花(じんちょうげ)の香(かお)りが漂(ただよ)いはじめた頃のことでした。この時期、孫呉(そんご)と晋(しん)は国境(こっきょう)をめぐり緊張(きんちょう)が続いており、両国(りょうこく)はいつ戦(たたか)いが起こってもおかしくない状況(じょうきょう)にありました。

 孫呉の将軍(しょうぐん)であり、西陵の防衛(ぼうえい)を任されている陸抗(りく・こう)は、かつて魏(ぎ)に仕(つか)えた名将で、父(ちち)・陸遜(りくそん)譲(ゆず)りの武勇(ぶゆう)と知略(ちりゃく)を持ち、厳格(げんかく)で誠実(せいじつ)な性格(せいかく)で知られておりました。

 一方、対岸(たいがん)で晋軍(しんぐん)を率(ひき)いる羊祜(ようこ)は、晋の征南大将軍(せいなんだいしょうぐん)で、かつて魏の名門(めいもん)・羊耽(ようたん)の子(こ)として若(わか)くして才能(さいのう)を認(みと)められました。羊祜は武勇だけでなく、民衆(みんしゅう)を大切(たいせつ)にする仁愛(じんあい)に満ちた将軍で、戦(いくさ)においても無駄な流血(りゅうけつ)を避ける穏健派(おんけんは)として知られていました。

 そんな折(おり)、陸抗のもとに晋軍の羊祜から一通(いっつう)の書簡(しょかん)が届きました。副将(ふくしょう)の朱異(しゅい)は、若(わか)くして武勇を買(か)われた温厚(おんこう)な将軍で、書簡の内容(ないよう)を見てそっと声をかけました。「また、あの方からの書簡でございますか?」

 陸抗は静かに封(ふう)を切(き)り、「今回は“今年の梅(うめ)が香(かお)り高(たか)く、よく眠(ねむ)れました”とある。敵(てき)ながら風雅(ふうが)な御仁(ごじん)よ」と微笑(ほほえ)みました。これは、敵対(てきたい)しながらも互(たが)いの人間性(にんげんせい)を認め合(みとめあ)っている証(あかし)でした。

 さらに陸抗は自ら調合(ちょうごう)した漢方薬(かんぽうやく)の包(つつ)みを取り出し、「この薬も届けてやろう。どうやら羊祜殿は咳(せき)をこじらせたようだ」と朱異に告げます。朱異は驚(おどろ)いて、「敵に薬を送るのですか?」と尋(たず)ねましたが、陸抗はゆっくりと言いました。「戦(いくさ)は勝ち負けだけで決(き)まるものではない。敵(てき)にも信(しん)じる者がいることを知(し)ることこそ、我(わ)が器(うつわ)を揺(ゆ)るがすことはない」と。

 このやり取りは、両者が互(たが)いの誠実(せいじつ)さを認(みと)め、戦場(せんじょう)でも人としての敬意(けいい)を失(うしな)わないことを示しておりました。

 ある夜、西陵の砦の片隅(かたすみ)で焚火(たきび)の炎(ほのお)が揺(ゆ)れていると、副将の朱異が告げました。「抗殿(こうどの)、明日(あす)には晋軍(しんぐん)が動(うご)くかもしれませぬ」。

 陸抗は落ち着いて答(こた)えました。「来(き)たら迎(むか)え撃(う)つのみ。ただし、羊祜殿は無駄(むだ)に血を流(なが)す御仁(ごじん)ではない。わたくしも軽挙(けいきょ)を慎(つつし)む」。

 数日後(すうじつご)、晋軍が小規模(しょうきぼ)に進軍(しんぐん)を始(はじ)め、西陵の守備兵(しゅびへい)が慌(あわ)てて警鐘(けいしょう)を鳴(な)らしました。「敵が来ます!」

 陸抗は冷静(れいせい)に「落(お)ち着(つ)け。無益(むえき)な流血は避(さ)けよ。まず風向(かざむ)きを見よ」と指揮(しき)し、守勢(しゅせい)を堅持(けんじ)しました。晋軍は無理攻(むりぜ)めをせず、西陵の手前(てまえ)で陣(じん)を敷(し)き直(なお)しました。

 その夜、羊祜からまた書簡が届きました。「不意(ふい)の動き、申し訳(もうしわけ)ない。貴殿(きでん)の城(しろ)の南(みなみ)で草賊(そうぞく)が火を上げ、急(いそ)ぎ掃討(そうとう)に向かう途中の誤動(ごどう)であった。明日には兵(へい)を引(ひ)かせる」と記されておりました。

 陸抗はそれを読み終えると小さく笑い、「これでまた無駄な戦(いくさ)は避けられた」と感謝(かんしゃ)しました。そして「敵であっても立派(りっぱ)な人間(にんげん)でありたい。我らの背負う国は違(ちが)えど、目指すものは案外(あんがい)同じかもしれぬ」と呟(つぶや)きました。

 月明(つきあか)りの下(もと)で書簡を読み返す陸抗の瞳(ひとみ)は柔(やわ)らかく、静(しず)かな光(ひかり)を宿(やど)していました。国と国が戦(いくさ)わねばならぬ時代(じだい)であっても、人と人は敬意(けいい)と信義(しんぎ)を交(か)わせることができる――そう示した二人の将軍(しょうぐん)の友情(ゆうじょう)は、今も歴史(れきし)の中で語り継(つ)がれております。



274年(宝鼎元年)

 呉(ご)の都、建業(けんぎょう)では、不穏(ふおん)な空気が静かに広がっていました。呉の将軍(しょうぐん)であり政治家(せいじか)でもある陸抗(りくこう)は、日々(ひび)届く軍事(ぐんじ)報告(ほうこく)や情報網(じょうほうもう)から、敵国(てきこく)である晋(しん)の名将(めいしょう)、羊祜(ようこ)が長江(ちょうこう)沿いに兵力(へいりょく)を着実(ちゃくじつ)に増強(ぞうきょう)していることを知りました。羊祜(ようこ)は有能(ゆうのう)な軍略家(ぐんりゃくか)として知られており、晋の軍事(ぐんじ)を指揮(しき)する重要人物(じゅうようじんぶつ)です。彼の動きは、呉に対して明らかに圧力(あつりょく)を強め、戦争(せんそう)が始まる兆候(ちょうこう)と受け取れるものでした。

 そもそもこの状況(じょうきょう)は、270年代初頭に呉の内政(ないせい)が次第に不安定(ふあんてい)となり、軍備(ぐんび)の管理(かんり)が手薄(てうす)になったことに起因(きいん)しています。孫権(そんけん)の孫であり、現在の皇帝(こうてい)である孫皓(そんこう)は、政治的(せいじてき)に強権的(きょうけんてき)でありながらも軍事的な洞察(どうさつ)が乏しく、陸抗(りくこう)の度重なる警告(けいこく)を軽視(けいし)してきた経緯(けいい)がありました。

 この日、陸抗(りくこう)は慎重(しんちょう)に集めた情報(じょうほう)を携えて、孫皓(そんこう)の元を訪れ、直接(ちょくせつ)上奏(じょうそう)する決意(けつい)を固めていました。

「孫皓殿(そんこうどの)、お時間(じかん)はいただけますか?」

 廊下(ろうか)に響(ひび)く陸抗(りくこう)の声(こえ)に続き、重々(おもおも)しい足音(あしおと)が近づき、孫皓(そんこう)が現れました。彼は孫権(そんけん)の孫(まご)であり、呉の最後の皇帝(こうてい)として知られていますが、その政治手腕(せいじしゅわん)は賛否(さんぴ)が分かれていました。

「何か用(よう)か、陸抗(りくこう)?」

 孫皓(そんこう)は短く切り出しました。無駄な言葉を嫌い、即座(そくざ)に本題(ほんだい)に入るのが常でした。

「はい、陸抗(りくこう)は晋(しん)の羊祜(ようこ)が長江(ちょうこう)沿いで軍備(ぐんび)を増強(ぞうきょう)している情報を得ました。これは呉(ご)に対する重大(じゅうだい)な脅威(きょうい)となり得ます。どうか、早急(さっきゅう)に警戒(けいかい)を強めるよう、上奏(じょうそう)させていただきたいのです。」

「うむ…」

 孫皓(そんこう)はしばらく黙考(もっこう)し、言葉を選びながら口を開きました。

「その件(けん)は、私も耳(みみ)にしています。だが陸抗(りくこう)、君は過去(かこ)にも何度(なんど)も警告(けいこく)を発してきました。しかし、そのたびに戦争(せんそう)は起きなかったではないか。」

「はぁ…」

 陸抗(りくこう)は肩(かた)をわずかに震わせ、慎重(しんちょう)に返答(へんとう)しました。

「確かに過去(かこ)の事例(じれい)もあります。しかし今回は異(こと)なります。羊祜(ようこ)は非常(ひじょう)に計画的(けいかくてき)に動いています。対策(たいさく)を講じなければ、呉(ご)の安全(あんぜん)は保てません。」

「なるほど。」

 孫皓(そんこう)は片手(かたて)で頬(ほお)にあごを当てて考え込みました。

「だが、私は正直(しょうじき)に言って、羊祜(ようこ)が長江(ちょうこう)を越(こ)えて攻めてくることはないと思っています。あれは大国(たいこく)の名将(めいしょう)ですが、遠征(えんせい)には莫大(ばくだい)な費用(ひよう)と兵力(へいりょく)が必要です。今の呉(ご)には内政(ないせい)も安定(あんてい)しており、戦争(せんそう)を始める余裕(よゆう)はないのです。」

「しかし戦(いくさ)は、いつ何時(いまなんじ)起きるか分かりません。敵(てき)が動き出す前(まえ)に準備(じゅんび)を整(ととの)えるのが軍(ぐん)の役目(やくめ)です。」

「お前(まえ)がそう言うなら、警戒(けいかい)を強めておこう。」

 孫皓(そんこう)はやや間(ま)を置き、ついに決断(けつだん)を告げました。

「だが、君(きみ)が上奏(じょうそう)をしても、すぐに軍備(ぐんび)を増強(ぞうきょう)できるとは限りません。今の呉(ご)は経済(けいざい)的に厳(きび)しく、費用(ひよう)を最低限(さいていげん)に抑える必要(ひつよう)があるからです。」

「承知(しょうち)いたしました。」

 陸抗(りくこう)は軽く下を向き、退出(たいしゅつ)しようとしました。その時、孫皓(そんこう)が声をかけました。

「陸抗(りくこう)よ。」

「はい、殿(との)。」

「お前は軍の指揮官(しきかん)として、確かな眼(まなこ)を持っていいる。もし平和(へいわ)が続くなら、それはお前の警告(けいこく)が的中(てきちゅう)しなかった証(あかし)だろう。しかし、もし警告(けいこく)の通(とお)りに事態(じたい)が動けば、お前の判断(はんだん)が正(ただ)しかったと証明(しょうめい)されるだろうな。」

 陸抗(りくこう)は胸(むね)を張り、深く一礼(いちれい)しました。

「その時(とき)は、命(いのち)を懸(か)けて呉(ご)を守り抜(ぬ)きます。」

 孫皓(そんこう)は静かに頷(うなず)き、陸抗(りくこう)を見送りました。

 陸抗(りくこう)は再び自らの部隊(ぶたい)へ戻り、警戒(けいかい)を強化(きょうか)する準備(じゅんび)を着々(ちゃくちゃく)と進めていきました。ですが、孫皓(そんこう)の反応(はんのう)には心(こころ)のどこかに疑念(ぎねん)が残っていました。上層部(じょうそうぶ)が戦争(せんそう)の危険性(きけんせい)を軽視(けいし)していることに対してです。陸抗(りくこう)は、将軍(しょうぐん)としての責務(せきむ)を全う(ぜんとう)しつつ、万が一(まんがいち)の事態(じたい)に備え続ける覚悟(かくご)を新たにしました。

 その後(ご)、時が経つにつれて状況(じょうきょう)はさらに深刻(しんこく)となり、陸抗(りくこう)の警告(けいこく)が現実(げんじつ)となりました。晋軍(しんぐん)の動きは活発(かっぱつ)になり、呉(ご)の準備不足(じゅんびぶそく)が次第(しだい)に明らかになっていきました。



279年(建衡元年)

 呉(ご)の名将(めいしょう)であり政治家(せいじか)でもあった陸抗(りく・こう)が、静かにその生涯(しょうがい)を終えました。享年(きょうねん)は五十四歳(さい)です。彼は長年(ながねん)にわたる戦(いくさ)と政(まつりごと)の重責(じゅうせき)を背負(せお)い、その身と心を確実(かくじつ)に蝕(むしば)まれていました。

 陸抗(りく・こう)は孫呉(そんご)の中心的な将軍(しょうぐん)で、戦場(せんじょう)では冷静(れいせい)な采配(さいはい)で多くの勝利(しょうり)を収めました。政治(せいじ)においても有能(ゆうのう)で、国家(こっか)の安定(あんてい)に大きく貢献(こうけん)しました。しかし、激しい戦乱(せんらん)のなかで身体(からだ)を酷使(こくし)し続けたため、健康(けんこう)は次第に蝕(むしば)まれていったのです。

 ここは、呉の都・建業(けんぎょう)にある陸家(りくけ)の邸宅(ていたく)です。蝉(せみ)の声すら止んだかのような静寂(せいじゃく)の中、床(とこ)に伏(ふ)した陸抗(りく・こう)の枕元(まくらもと)には、親しい部下(ぶか)や友人(ゆうじん)が集まっていました。空気(くうき)は重く、それでいてどこか温かさを感じさせるものでした。

「陸抗殿(どの)……」

 その声(こえ)を絞(しぼ)るように発したのは、忠義(ちゅうぎ)に厚(あつ)い部将(ぶしょう)・羊承(よう・しょう)です。彼は戦(いくさ)のたびに陸抗(りく・こう)の指揮(しき)を信じて槍(やり)を振(ふ)るい続けてきた男(おとこ)でした。

「羊承(よう・しょう)……」

 陸抗(りく・こう)は細(ほそ)く開(ひら)いた瞳(ひとみ)で彼を見つめ、力弱(ちからよわ)く手(て)を伸(の)ばしました。「私の志(こころざし)は……お前(まえ)に託(たく)す。」

「お任(まか)せください。死(し)んでも、決(けっ)して忘(わす)れません。」

 羊承(よう・しょう)の目(め)には、こらえきれぬ涙(なみだ)がにじんでいました。

 部屋(へや)の隅(すみ)では、文官(ぶんかん)の諸葛靚(しょかつ・せい)が静かに目(め)を閉(と)じて祈(いの)るようにしていました。彼は冷静(れいせい)な頭脳(ずのう)で陸抗(りく・こう)を支(ささ)え続けた知恵者(ちえしゃ)です。

「殿(との)、貴方(あなた)がいたからこそ、我々(われわれ)は踏(ふ)みとどまることができました。戦場(せんじょう)で貴方(あなた)の背中(せなか)を見て、幾度(いくど)、勇気(ゆうき)を奮(ふる)い起(お)こしたことか……」

 諸葛靚(しょかつ・せい)の声(こえ)は震(ふる)えていましたが、その言葉(ことば)には深(ふか)い誇(ほこ)りが込(こ)められていました。

「……私は……幸(しあわ)せだった……」

 陸抗(りく・こう)はかすかに微笑(ほほえ)みを浮(う)かべました。その笑(え)みに、かつての将軍(しょうぐん)らしい威厳(いげん)が残っていました。

 そこへ、一人(ひとり)の青年(せいねん)が駆(か)け込(こ)んできました。陸景(りく・けい)――陸抗(りく・こう)の嫡男(ちゃくなん)であり、文武(ぶんぶ)に優(すぐ)れた若き武将(ぶしょう)です。彼はまだ三十歳(さい)にも満(み)たない年齢(ねんれい)ですが、父(ちち)に似(に)て冷静(れいせい)でありながら、情(なさ)け深(ぶか)い性格(せいかく)です。

「父上(ちちうえ)!」

 陸景(りく・けい)は膝(ひざ)をつき、父(ちち)の手(て)を取りました。その手(て)は信(しん)じられないほど冷(つめ)たく、細(ほそ)くなっていました。

「……景(けい)か……お前(まえ)が来(き)てくれて……良(よ)かった。」

「父上(ちちうえ)……俺(おれ)は父上(ちちうえ)のようにはなれません。でも……必(かなら)ず守(まも)ります。呉(ご)を。そして……父上(ちちうえ)の名(な)を。」

「……景(けい)よ……」

 陸抗(りく・こう)の目(め)がうっすらと潤(うるお)みました。

「お前(まえ)には……すべてを託(たく)す……誇(ほこ)りを……受(う)け継(つ)いで……くれ。」

 それを聞(き)いた陸景(りく・けい)は、静(しず)かに頷(うなず)きました。

「ご安心(あんしん)ください。俺(おれ)は陸抗(りく・こう)の子(こ)、陸景(りく・けい)です。退(しりぞ)くつもりは、毛頭(もうとう)ありません。」

 やがて、陸抗(りく・こう)の呼吸(こきゅう)は次第(しだい)に浅(あさ)くなり、胸(むね)の鼓動(こどう)も静(しず)かに消(き)えていきました。その死(し)は、まるで戦いを終(お)えた将軍(しょうぐん)が長い夢(ゆめ)に落(お)ちていくかのようでした。

 外(そと)では、鐘(かね)の音(ね)が鳴(な)っていました。呉(ご)の将軍(しょうぐん)たちは、それが陸抗(りく・こう)の最期(さいご)を知らせるものと悟(さと)り、皆(みな)、静(しず)かに頭(あたま)を垂(た)れました。

 その夜(よる)、陸景(りく・けい)は父(ちち)の遺体(いたい)に膝(ひざ)をつき、誰(だれ)にも聞(き)こえぬ声(こえ)で呟(つぶや)きました。

「父上(ちちうえ)……俺(おれ)は、父上(ちちうえ)が背負(せお)ったすべてをこの身(み)に刻(きざ)みます。呉(ご)が滅(ほろ)びようとも、あなたの志(こころざし)は決(けっ)して潰(つい)えぬよう、命(いのち)を賭(か)けて守(まも)ります。」

 こうして、呉(ご)の英雄(えいゆう)・陸抗(りく・こう)は世(よ)を去(さ)り、その志(こころざし)は次代(じだい)へと受(う)け継(つ)がれていきました。その意志(いし)を胸(むね)に、陸景(りく・けい)は静(しず)かに立(た)ち上(あ)がったのです。



279年(建衡元年)

 洛陽(らくよう)の秋は、ひどく寂(さび)しいものでした。渡り鳥の雁(がん)が西の空をかすめて飛び、史館(しかん)の庭には黄色く枯(か)れた楓(かえで)の葉が音もなく舞い落ちていました。書架(しょか)の陰(かげ)に佇(たたず)むのは、老練(ろうれん)の史臣(ししん)である何充(か・じゅう)という人物です。彼は過去の記録をじっと見つめていました。

 「――陸抗(りく・こう)は、呉(ご)の柱石(ちゅうせき)であった」と、誰に聞かせるでもなく彼の口から漏れました。陸抗は、呉の有力な武将であり、父は名将の陸遜(りく・そん)です。陸遜は三国時代の呉で軍事・政治の要として活躍し、その志を受け継いだのが陸抗でした。彼は父の死後、呉の守護者として長く国を支え続けました。

 唐(とう)の太宗(たいそう)が選んだ六十四名将の一人に陸遜が入っており、その子である陸抗もまた、後世にその名を刻みました。かつて何充自身も、晋(しん)が呉を滅ぼそうとした際に若き軍師・杜預(と・よ)が「呉は滅びるのか」と問うた時、「陸抗が生きている限り、呉は滅びない」と迷わず答えたほどです。実際に陸抗がいる間は、敵の羊祜(よう・こ)も安易に江南(こうなん)に攻め込めなかったのです。

 陸抗は清廉(せいれん)な人物でした。父・陸遜にならい、驕(おご)らず怒らず、利己心を抑え、私情を語りません。質素な衣服(いふく)をまとい、食事は一汁一菜(いちじゅういっさい)という簡素なものでした。城門(じょうもん)を出れば、石畳(いしだたみ)を直す兵卒(へいそつ)にまで言葉をかけるほどの誠実さでした。

 「父の志を継ぐ」――この言葉は陸抗の心の底からの誓いでした。彼は国家(こっか)のために怒り、民衆のために剣を振るいました。しかし戦いは時に、正義の人をも冷酷な存在へと変えてしまいます。

 例えば、反乱を起こした歩闡(ほ・せん)が降伏を申し出た際、陸抗は軍律(ぐんりつ)に従い、彼を斬り、その妻子や一族郎党(いちぞくろうとう)までも処刑しました。幼い嬰児(えいじ)ですら例外ではありませんでした。陸抗は「これは乱を防ぐためだ」と説明しましたが、その判断に納得する者は少なかったのです。

 ある史臣(ししん)はこう語りました。「この非情な報いは子孫にまで及ぶだろう」と。やがてその言葉は現実となります。西晋(せいしん)が中原(ちゅうげん)を制圧(せいあつ)すると、陸抗の甥(おい)にあたる陸機(りく・き)と陸雲(りく・うん)兄弟は、その才知(さいち)を買われて洛陽に招かれました。彼らは優れた文筆家(ぶんぴつか)として国に仕えましたが、やがて朝廷内の讒言(ざんげん)により、共に誅殺(ちゅうさつ)され、陸氏(りくし)の一族は絶えてしまいます。かつて忠臣(ちゅうしん)と讃(たた)えられた家が、無実の罪で倒されたのです。

 その死を悼(いた)んで、孫恵(そん・けい)は手紙にこう記しました。「馬援(ば・えん)が出仕(しゅっし)にあたり、主君(しゅくん)を慎重(しんちょう)に選んだことは有名な話でございます。しかし、陸氏の三人は乱世の権力に身を委ね、かえって殺され、名誉(めいよ)も辱(はずか)しめられた――誠に痛ましいことでございます」と。

 史館に残るその手紙は、墨色(ぼくしょく)が褪(あ)せるほど読み込まれていました。やがて陳寿(ちんじゅ)が『三国志(さんごくし)』を著(あらわ)した際には、陸抗についてこう記されています。「陸抗は自身を律し、先見(せんけん)の明(めい)を持ち、父の遺風(いふう)をよく継いだ。行動は父にやや劣るが、家業(かぎょう)を立派に成し遂げた」と。

 もちろん、非情な決断も史書には正直に残されています。しかし、それでも――。敵将でありながらも、尊敬を込めて陸抗に薬を贈った羊祜のこと。陸抗の死を待って、ついに江南を攻め入った杜預のこと。父の志を継ぎ、乱を防ごうと最後まで尽力した彼の生涯は、単なる武人の物語にとどまらなかったのです。

 洛陽の風に、もうひとひら、楓の葉が舞い落ちました。何充は手にした竹簡(ちくかん)を閉じ、静かに筆を取りました。

 「陸抗伝(でん)、これにて終わりとす」

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