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呉視点三国志:終焉の章

276年:天璽(てんじ)元年

 呉(ご)の都・建業(けんぎょう)では、不穏(ふおん)な空気が漂(ただよ)っていました。前の名将(めいしょう)であり、国の支えであった陸抗(りく・こう)が亡くなって以来、国の屋台骨(やたいぼね)は少しずつ揺らいでいたのです。陸抗はその知略(ちりゃく)と武勇(ぶゆう)で知られ、呉の守りを長く支えてきましたが、その死は呉にとって大きな損失でした。

 陸抗の後を継ぐはずだったのは、その嫡子(ちゃくし)であり若き将軍(しょうぐん)・陸景(りく・けい)です。陸景は父譲(ちちゆず)りの聡明(そうめい)さと冷静(れいせい)さを兼ね備え、武芸(ぶげい)にも優れていました。しかし、国を揺るがす問題はそれだけではありませんでした。

 呉の皇帝(こうてい)である孫晧(そん・こう)は、かつては英明(えいめい)で知られていましたが、近年は宦官(かんがん)たちに取り囲まれ、酒や遊興に溺(おぼ)れていました。そのためか、宮中(きゅうちゅう)には猜疑心(さいぎしん)が渦巻(うずま)き、暴政(ぼうせい)と粛清(しゅくせい)が頻発(ひんぱつ)していたのです。忠臣(ちゅうしん)が次々と命を落としていく様子に、国の将来に不安を抱く者たちが増えていきました。

 そんな中、建衡元年(279年)のある夜、朝廷(ちょうてい)の有志(ゆうし)たちが密かに集まりました。そこには宰相(さいしょう)の張悌(ちょう・てい)、陸抗の息子である若き将軍・陸景、そして諸葛靚(しょかつ・せい)、孫晧の弟・孫震(そん・しん)といった人物がいました。張悌は温厚(おんこう)で理知的(りちてき)な人物で、陸抗亡き後の呉の政権を支えるべき存在とされていました。

 諸葛靚(しょかつ・せい)が険しい表情(ひょうじょう)で告げました。「また一人、処刑(しょけい)されました。今回は呂文(りょ・ぶん)殿です」呂文もまた、国を支えようとした忠臣の一人でした。

 張悌は机を強く叩き、「またか……」と嘆きました。「皇帝陛下が疑いを持つたびに、忠臣が次々に命を奪われている。もう誰が敵(てき)で誰が味方(みかた)か、陛下ご自身も分からなくなっているのだ」

 孫震は冷ややかに、「諫言(かんげん)をした者の末路(まつろ)は決まっています。生き残るには、黙って従うしかありません」と言い放ちました。

 しかし、陸景は鋭い口調で反論しました。「もし我々が黙り込めば、父上(ちちうえ)の名を汚すことになります。父は言っていました。『戦場(せんじょう)で死ぬのは武人の本望(ほんもう)だが、国が崩壊(ほうかい)するのを見過ごすのは恥だ』と」

 諸葛靚は驚いた顔で、「あの陸抗殿(りく・こうどの)が、そんな言葉を……」とつぶやきました。

 張悌はゆっくり立ち上がり、「よろしい。ならば、まず私が陛下に直接(ちょくせつ)進言(しんげん)しましょう」と宣言しました。

 陸景は慌てて止めに入りました。「張公(こう)、それは危険です。命の保証はありません」

 張悌は穏やかに笑いながら言いました。「もう私は五十を超えた年齢です。命を惜しむつもりはありません。それよりも、若い君たちを守るために、この地位にいるのです」

 陸景(りくけい)は言いました。

「張悌(ちょうてい)殿の覚悟は感服しました。ならば、主君を諌めて死ぬのではなく、魏と戦って死にませんか?まもなく、魏は大軍をもってこの国に攻めてくるでしょう。ここにいる全員、戦って民のために死にましょう。」

 諸葛靚(しょかつ・せい)は、その言葉に強く同意しました。

「そうですぞ、張悌(ちょうてい)殿、死に急ぎも、抜け駆けもナシですぞ。直言して逆鱗(げきりん)に触れるなどなさらぬように」

「仕方ないですな。この張悌(ちょうてい)、自重しましょう。たとえ直言すべき状況でもグッと堪える事を約束しますぞ」「おお、若輩者の意見を聞いて頂きありがとうございます」

 翌朝、張悌(ちょうてい)は朝堂(ちょうどう)で孫晧に直言しました。その結果、孫晧(そんこう)の逆鱗(げきりん)に触れます。しかし、陸抗(りくこう)や諸葛靚(しょかつ・せい)らの必死のとりなしで孫晧は怒気を収めます。結果的に張悌の忠義心を疑うには至らず、「あやつは心がまっすぐすぎる」として咎(とが)めるに留めたと伝えられます。



279年:天紀三年(てんき さんねん)

 この年、西晋(せいしん)が三国時代(さんごくじだい)最後の大きな戦いに踏み切りました。そもそも三国時代は、後漢(ごかん)が衰えた後に魏(ぎ)、蜀漢(しょくかん)、呉(ご)の三国が覇を競(きそ)った時代です。しかし蜀漢はすでに滅亡(めつぼう)し、呉も内政の乱れや疲弊(ひへい)が目立つようになっていました。こうした情勢(じょうせい)の中、三国統一を目指す西晋の司馬炎(しば・えん)が南方の呉攻略(ごこうりゃく)を決断(けつだん)したのです。

 司馬炎は後漢末から続く混乱を終わらせ、国を安定させるために政治(せいじ)と軍事(ぐんじ)両面で力を発揮した皇帝(こうてい)です。彼は祖父(そふ)である司馬懿(しば・い)譲りの冷静な判断力(はんだんりょく)と、周到(しゅうとう)な軍略(ぐんりゃく)を備えていました。冬の洛陽(らくよう)で玉座(ぎょくざ)に腰掛(こしか)け、司馬炎は静かに「呉はもう限界か……」と呟(つぶや)きます。

 この時、西晋の重臣(じゅうしん)であり老将(ろうしょう)の杜預(と・よ)が進み出ました。杜預は蜀漢滅亡の際にも重要な役割を果たした、冷静沈着(ちんちゃくちんちゃく)な軍師(ぐんし)です。「陛下(へいか)、呉は内政(ないせい)が乱れ、民(たみ)も疲弊(ひへい)しております。今こそ攻める好機(こうき)です」と進言(しんげん)します。司馬炎は目を細め、「勝てるのか、杜預」と尋ねました。

 杜預は揺るぎない自信(じしん)で答えました。「勝ちます。王濬(おう・しゅん)将軍(しょうぐん)は水軍(すいぐん)の名将であり、長江(ちょうこう)を下れば呉は防げません」王濬は質実剛健(しつじつごうけん)な猛将(もうしょう)で、水上戦闘(せんとう)において類稀(たぐいま)れな才能(さいのう)を持っていました。

 司馬炎は「王濬か……あの剛毅(ごうき)な将が長江に出れば、南の空気も凍(こお)るな」と呟(つぶや)き、杜預と微笑(びしょう)を交わしました。

 その頃、巴郡(はぐん)では王濬が水軍を率いて出陣準備(しゅつじんじゅんび)を進めていました。副将(ふくしょう)が報告(ほうこく)に駆けつけ、「将軍、全艦(ぜんかん)進軍の準備が整いました!」と告げます。王濬は甲板(こうはん)を踏みしめて頷(うなず)き、「よし、長江を割(さ)って進め。風も水も我らの味方だ!」と号令(ごうれい)をかけました。

 こうして王濬の水軍は一斉(いっせい)に長江を下り、楼船(ろうせん)は風を孕(はら)んで川面(かわも)を疾走(しっそう)しました。その姿はまるで戦神(せんしん)が舞い降りたかのように勇ましく、先鋒(せんぽう)の旗が激しく翻(ひるがえ)りました。

 一方、陸上(りくじょう)では杜預が冷静に軍勢(ぐんせい)を率い、無駄なく着実に南へと進軍(しんぐん)を続けていました。

 洛陽では司馬炎が密かに呟きます。「三国の時代は終わりを迎える。乱世(らんせい)を静めるのだ……」こうして、西晋の大軍(たいぐん)が南へと動き出し、長江を下り荒野(こうや)を越え、三国最後の覇権(はけん)を賭けた壮大(そうだい)な戦いの幕が切って落とされたのです。



280年:天紀(てんき)四年

 春(はる)。中国(ちゅうごく)を三つに分けて争った三国時代(さんごくじだい)も、ついに終わりを迎えようとしていました。そもそも三国時代とは、後漢(ごかん)が弱体化(じゃくたいか)したあと、魏(ぎ)、蜀漢(しょくかん)、呉(ご)の三国が中国を分割(ぶんかつ)し、互いに覇権(はけん)を争った時代のことです。しかし蜀漢はすでに滅び、呉も内部(ないぶ)の混乱(こんらん)が深まっていました。そのような状況(じょうきょう)のなか、北方(ほっぽう)を支配(しはい)する西晋(せいしん)が最後(さいご)の南征(なんせい)を開始(かいし)し、呉の都である建業(けんぎょう)を目指して進軍(しんぐん)していたのです。

 西晋の大軍(たいぐん)を率いるのは、老練(ろうれん)の名将(めいしょう)王濬(おう・しゅん)と、戦略家(せんりゃくか)として知られる杜預(と・よ)。王濬は実直(じっちょく)で豪胆(ごうたん)な水軍(すいぐん)の将軍(しょうぐん)であり、杜預は政治(せいじ)と軍事(ぐんじ)両面(りょうめん)で冷静(れいせい)な采配(さいはい)を振るう軍師(ぐんし)でした。

 一方、建業の王宮(おうきゅう)では、呉の最後の皇帝(こうてい)である孫晧(そん・こう)が玉座(ぎょくざ)に腰掛(こしか)け、酒の盃(さかずき)を手にしていました。かつては剛毅(ごうき)で知られた彼も、長年の疑心暗鬼(ぎしんあんき)と苛烈(かれつ)な粛清(しゅくせい)によって多くの有能な人物を失い、国の基盤(きばん)は腐食(ふしょく)していたのです。

「張悌(ちょう・てい)は戻ったか」と孫晧は低く重い声で尋ねました。張悌は呉の有能な将軍(しょうぐん)で、最後の防衛線(ぼうえいせん)で晋軍(しんぐん)と戦い続けていました。

 それに答えたのは文臣(ぶんしん)であり、元は中原(ちゅうげん)で高名(こうめい)を馳せた諸葛靚(しょかつ・せい)です。彼は冷静沈着(れいせいちんちゃく)な知識人(ちしきじん)であり、状況(じょうきょう)を正確(せいかく)に把握(はあく)していました。

「まだ戻ってはおりません、陛下(へいか)。最後の防衛線にて抗戦(こうせん)を続けております」

「ならば戻る見込みはないな」

 孫晧は天井(てんじょう)を見上げて苦笑(くしょう)しました。「我が代(よ)で、この旗(はた)を降ろすことになるとはな」その言葉に側近(そっきん)たちは沈黙(ちんもく)し、場の空気は凍りつきました。

 やがて軍政(ぐんせい)を司る将軍(しょうぐん)・孫震(そん・しん)が口を開きました。彼は剛直(ごうちょく)で、皇帝にも遠慮(えんりょ)なく諫言(かんげん)をする男です。

「陛下。いまは意地(いじ)を張る時ではありません。都(みやこ)を灰(はい)にして晋軍に渡すのは、民(たみ)に何の益(えき)もありません」

「ふっ……諫言とは思えぬほどに率直(そっちょく)だな」

「はい、正直(しょうじき)が売りなもので」

 孫晧はふっと笑い、盃を机に置きました。「降ると決めたら、潔(いさぎよ)く参ろう。せめて帝王(ていおう)として最後(さいご)の姿(すがた)を飾(かざ)る」

 そのとき、若き武将(ぶしょう)・陸景(りく・けい)が進み出ました。彼は名将(めいしょう)陸抗(りく・こう)の子であり、父譲りの気品(きひん)と知略(ちりゃく)を兼ね備えた才子(さいし)です。陸抗は孫呉の有力な将軍で、かつて多くの戦場で活躍(かつやく)した人物でした。

「陛下。私が先に晋軍の陣(じん)へ赴(おもむ)き、条件(じょうけん)を探ってまいります。父の名にかけて、恥(は)をかかせませぬ」

 孫晧は頷(うなず)きました。「お前の父・陸抗が生きておれば、まだ何か道もあったかもしれぬな……」

「父が生きておれば、そもそもこの状況(じょうきょう)にはなっていなかったでしょうな」陸景は平然(へいぜん)と返し、場の空気が一瞬(いっしゅん)緩みました。

「生意気(なまいき)だな」

「誉(ほ)め言葉と受け取りましょう」

 孫晧は思わず笑い、臣下(しんか)たちにも微かな笑みが広がりました。

 こうして三月十五日、孫晧は正装(せいそう)を整え、晋軍の前に進み出ました。玉璽(ぎょくじ)を捧(ささ)げ、静かに頭(こうべ)を垂れました。

「吾(われ)、孫晧。天に代わりし皇統(こうとう)を今ここに終え、晋に帰命(きめい)す」

 王濬は無言(むごん)でそれを受け取り、杜預が筆(ふで)を走らせました。こうして戦(いくさ)なき平定(へいてい)が成し遂げられたのです。

 孫呉の滅亡(めつぼう)は、後漢末(ごかんまつ)から続いた三国時代の終焉(しゅうえん)を意味していました。約九十年にわたる混乱(こんらん)の歴史に、ようやくひとつの句点(くてん)が打たれたのです。

 孫晧はその後、洛陽(らくよう)に送られ、「帰命侯(きめいこう)」の爵位(しゃくい)を与えられました。

 都(みやこ)の門(もん)が閉じられたとき、陸景は空を見上げてぽつりと呟(つぶや)きました。

「終(お)わったか。されど、我(われ)は生き延びてやる。我(われ)が生きておる限りは呉は滅びた事にならん」

 それは、亡国の王の負け惜しみだったのかも知れません。

 なお、晋が呉を攻めたとき、張悌(ちょうてい)は義務を果たすために自ら出陣します。敗北必至と知りながらも徹底抗戦を選択します。潘鳳(はんほう)・孫震(そんしん)らと共に奮戦し、戦死しました。臨終に際しては、「忠義を全うするのが臣の道」として、最後まで孫晧(そんこう)を責めることなく、呉の命運を嘆いたとされています。

陸景も、晋の軍勢と江西の皖口(かんこう)で激突します。この戦いで、陸景は壮絶な戦死を遂げました。



280年:天紀(てんき)四年(よねん)

 西暦(せいれき)280年の春(はる)、ついに孫呉(そんご)の都(みやこ)であった建業(けんぎょう)に、晋(しん)の軍旗(ぐんき)が高(たか)く掲(かか)げられました。

 孫堅(そんけん)、孫策(そんさく)、そして孫権(そんけん)。三代(さんだい)にわたって血(ち)と知恵(ちえ)で築(きず)き上(あ)げた大国(たいこく)は、孫晧(そんこう)が皇帝(こうてい)となった代(よ)でついに崩(くず)れ去(さ)ったのです。

 この崩壊(ほうかい)に至(いた)る経緯(けいい)を理解(りかい)するために、まず孫晧(そんこう)という人物(じんぶつ)を紹介(しょうかい)しましょう。彼(かれ)は孫呉最後(さいご)の皇帝(こうてい)で、もともとは剛毅(ごうき)と称(しょう)された強(つよ)い人物(ひと)でしたが、次第(しだい)に猜疑心(さいぎしん)が強(つよ)くなり、多(おお)くの有能(ゆうのう)な重臣(じゅうしん)を粛清(しゅくせい)しました。その結果(けっか)、国民(こくみん)の信頼(しんらい)は失(うしな)われ、国の基盤(きばん)は腐食(ふしょく)していったのです。

 このような混乱(こんらん)の中(なか)、晋(しん)は徐々(じょじょ)に勢力(せいりょく)を強(つよ)め、最終的(さいしゅうてき)に大軍(たいぐん)を率(ひき)いて建業(けんぎょう)へと迫(せま)りました。指揮官(しきかん)は老練(ろうれん)の名将(めいしょう)・王濬(おうしゅん)と、戦略家(せんりゃくか)として知られる杜預(とよ)。二人(ふたり)は知謀(ちぼう)と決断力(けつだんりょく)に優(すぐ)れた将軍(しょうぐん)でした。

 一方(いっぽう)、建業(けんぎょう)では孫晧(そんこう)が玉座(ぎょくざ)に座(すわ)り、酒(さけ)の盃(さかずき)を手にしながらも、その表情(ひょうじょう)は重苦(おもくる)しく暗(くら)かったのです。

 その後(のち)、孫呉(そんご)が滅亡(めつぼう)したことは、中国(ちゅうごく)の歴史(れきし)における重要(じゅうよう)な転換点(てんかんてん)となりました。後漢末(ごかんまつ)から続(つづ)いた三国時代(さんごくじだい)は、ここに終焉(しゅうえん)を迎(むか)えたのです。

 しかし、建業(けんぎょう)とその周辺(しゅうへん)の地(ち)は、ただの敗(やぶ)れた土地(とち)として忘(わす)れ去(さ)られたわけではありません。むしろそこには、新(あら)たな時代(じだい)へと繋(つな)がる力(ちから)が静(しず)かに息(いき)づいていました。

 時代(じだい)が流(なが)れる中(なか)、北(きた)の戦乱(せんらん)を逃(のが)れた士人(しじん)や貴族(きぞく)たちが江南(こうなん)に集(あつ)まりました。陸遜(りくそん)の子孫(しそん)や周瑜(しゅうゆ)の一族(いちぞく)、そして孫家(そんけ)の血(ち)を引(ひ)く者(もの)たちも、そこで新(あたら)しい拠点(きょてん)を築(きず)いたのです。

 若(わか)き武将(ぶしょう)・陸景(りくけい)もまた、その一人(ひとり)でした。彼は名将(めいしょう)・陸抗(りくこう)の子(こ)で、父(ちち)譲(ゆず)りの知略(ちりゃく)と気品(きひん)を兼(か)ね備(そな)えた才子(さいし)です。国(くに)の滅亡(めつぼう)を嘆(なげ)きつつも、江南(こうなん)の再建(さいけん)に力(ちから)を尽(つ)くしました。

 ある日(ひ)、彼は旧臣(きゅうしん)たちと城壁(じょうへき)の上(うえ)から街(まち)を見渡(みわた)し、こう語(かた)りました。

「我(われ)らが敗(やぶ)れたのは軍略(ぐんりゃく)だけではない。心(こころ)が腐(くさ)っていたのだ。それでも、この地(ち)に残(のこ)されたものを腐(くさ)らせてはならぬ」

 それに対(たい)して、文臣(ぶんしん)・諸葛靚(しょかつせい)は深(ふか)く頷(うなず)きました。彼は冷静(れいせい)な知識人(ちしきじん)で、かつて中原(ちゅうげん)で名声(めいせい)を得(え)た人物(じんぶつ)です。

「まったく、その通(とお)りです。剣(けん)を置(お)いた者(もの)にも、戦(たたか)う道(みち)はあります。筆(ふで)を持(も)ち、言葉(ことば)で民(たみ)を守(まも)るのです」

 彼らの目指(めざ)したのは、武力(ぶりょく)によらぬ文化(ぶんか)の形成(けいせい)でした。こうして江南(こうなん)には独自(どくじ)の文化(ぶんか)が開花(かいか)し始(はじ)めました。これが後(のち)に「六朝文化(りくちょうぶんか)」と呼(よ)ばれるものです。

 「六朝」とは、三国時代(さんごくじだい)の呉(ご)に始(はじ)まり、晋(しん)、宋(そう)、斉(せい)、梁(りょう)、陳(ちん)と続(つづ)く南朝(なんちょう)の六(ろく)つの王朝(おうちょう)を指(さ)します。いずれも建業(けんぎょう)(後(のち)の建康(けんこう))を都(みやこ)としたため、江南(こうなん)が文化(ぶんか)の中心(ちゅうしん)となったのです。

 この時代(じだい)、江南(こうなん)は単(たん)なる避難地(ひなんち)ではなく、洗練(せんれん)された文化(ぶんか)の発信地(はっしんち)となりました。

 まず、詩(し)の発展(はってん)が挙(あ)げられます。竹林(ちくりん)の七賢(しちけん)に代表(だいひょう)される清談文化(せいたんぶんか)が花開(はなひら)き、文人(ぶんじん)たちは思想(しそう)と感性(かんせい)を詩(し)に込(こ)めました。自然(しぜん)との調和(ちょうわ)、人生(じんせい)の儚(はかな)さ、清貧(せいひん)を讃(たた)える価値観(かちかん)が、江南(こうなん)の詩人(しじん)たちの筆(ふで)によって巧(たく)みに表現(ひょうげん)されたのです。

 書道(しょどう)もまたこの時代(じだい)に飛躍的(ひやくてき)に進化(しんか)しました。王羲之(おうぎし)をはじめとする名筆家(めいひつか)がこの地(ち)に現(あらわ)れ、「蘭亭序(らんていじょ)」のような傑作(けっさく)を世(よ)に残(のこ)しました。柔(やわ)らかく流(なが)れる筆致(ひっち)は、北方(ほっぽう)の剛直(ごうちょく)な風(ふう)とは異(こと)なる南方(なんぽう)文化(ぶんか)の美(うつく)を象徴(しょうちょう)しています。

 そして、江南(こうなん)は絵画(かいが)や音楽(おんがく)においても多彩(たさい)な才能(さいのう)を輩出(はいしゅつ)しました。青銅器(せいどうき)や陶磁器(とうじき)の製作(せいさく)技術(ぎじゅつ)も向上(こうじょう)し、これらの工芸品(こうげいひん)は後世(こうせい)に多大(ただい)な影響(えいきょう)を及(およぼ)しました。

 こうして孫呉(そんご)が滅亡(めつぼう)してなお、その精神(せいしん)と文化(ぶんか)は江南(こうなん)に根付(ねづ)き、やがて中国文化(ちゅうごくぶんか)の重要(じゅうよう)な一翼(いちよく)を担(にな)うに至(いた)ったのです。

 歴史(れきし)とは、敗者(はいしゃ)の物語(ものがたり)であり、勝者(しょうしゃ)の物語(ものがたり)でもあります。しかし孫呉(そんご)の場合(ばあい)、敗者(はいしゃ)でありながらも、その文化(ぶんか)の香(かお)りは時空(じくう)を超(こ)えて今(いま)なお我々(われわれ)を魅了(みりょう)し続(つづ)けているのです。

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