呉視点三国志:丁奉の章④
257年:太平三年
天は重く、風は乾いておりました。蜀の将軍・姜維は剣の手入れを終えると、そっと腰を下ろしました。隣には、かつて魏の名門・夏侯家に生まれ、今は蜀に身を寄せる男、夏侯覇が座っております。
「やれやれ、今年もまた西へ出る気ですかな?」
「ええ。大将軍たる者、戦を忘れてはならぬと思いまして」
姜維は笑いましたが、その眼は笑っておりませんでした。彼は、かの諸葛亮の遺志を継ぎ、幾度も魏へと北伐を試みた男でございます。
「ですが、今年で何度目です?天水・狄道──そして鍾会どもが穴熊のように籠もって動かぬのに、正攻法とは……頑固ですなあ、あなたも」
「それでも我らは攻めねばなりません。攻め続けることで、蜀の威信は保たれるのです」
「威信、ですか」
夏侯覇は目を伏せました。彼もまた武門に育ち、戦で父を亡くし、魏を追われて蜀に逃げてきた身。かつては名将・夏侯淵の子として魏に仕えましたが、いまは異国で客将として日々(ひび)を送っております。
「蜀はもはや余裕がありません。国力は疲弊し、民もやせ細っております。魏の内乱か、天の奇跡か……それがなければ、我らの勝機は薄い」
「魏とて安泰ではありませんぞ。司馬一門の専横に、忠臣たちも歯を食いしばっております。わたしの従兄弟など、密かに眉をひそめておりました」
夏侯覇はそう言って、遠くを見つめました。
「あなたの従兄弟……夏侯玄殿ですね」
「ええ。才気あふれる男でした。が、あれもまた、時勢を読み違えたのです。忠義など、この世には通じぬのかと、そう思いました」
「それでも、わたしは信じたい。忠義と志が、最後には報われると」
姜維の声は静かでしたが、胸の内には炎が燃えておりました。
「この十年、我らはたしかに負け続けてきました。だが、剣を捨てれば、それこそ終わりです。敗れてなお立つ、それが蜀の将でございましょう」
「……まるで、孔明どのが憑いておられるようだ」
「亡き師の名に恥じぬよう、生きてまいりました」
ふと、風が変わりました。西から冷たい空気が吹き込んできます。戦の季節が近づいているようでした。
「ところで、魏の国防方針ですが……最近は守りを固める一方のようですな。陳泰、鄧艾らが蜀の動きを読んで、各地に防衛線を張っております」
「ええ。狄道に陣を構えた鄧艾など、動きが鋭い。迂回策も通じぬ。愚直な戦いでは勝てません」
「ですが、我らにはまだ一手あります。あなたの頭脳であれば」
「いえ、もはや勝負を決するのは兵の数でも、策略でもありません。生き残る気概、それだけです」
焚き火の火が、ぱちりと音を立てて弾けました。
「しかしまあ……十年でよくもまあ、ここまで戦を続けましたな」
「夏侯殿。わたしは、こう思っております。命が尽きるその日まで、剣を置く気はございません」
「わたしも同じですよ。魏でも蜀でもなく、この命が尽きるその日まで、あなたの剣に付き合いましょう」
二人の将の間に、言葉はいりませんでした。互いの顔に刻まれた戦の年輪こそが、全てを物語っておりました。
夜は静かでした。星の下、ふたりの戦友が、次なる戦に備えて剣を研いでいたのでございます。
258年:太平三年
太平三年。孫峻はこの世を去り、彼の従弟である孫綝が政の中心に現れました。孫綝は見た目は柔和で礼儀正しいものの、その内心には冷徹で狡猾な策略を秘めておりました。機敏で言葉は少ないながらも鋭く、まるで静かに獲物を狙う猛獣のようでした。
「民か国か。まずは我が立たねば始まらぬ」
孫綝は反対勢力を容赦なく排除し、権力を完全に掌握しました。廷臣たちは冷たい目で見守りましたが、誰も公然と彼に逆らえませんでした。
一方、即位して六年となる皇帝・孫亮は十代半ばで自分の立場を自覚し始めていました。孫亮は孫権の長男であり、若くして帝位についた若き皇帝です。
「朕はただの飾り物ではない」
「陛下、それは……少々(しょうしょう)お言葉が過ぎます」
「過ぎようとも、玉座に座って言えば、それが正義だろう?」
少年から青年へ成長した孫亮は、自分の政治を描き始めていました。しかし、その動きは孫綝にとって危険な芽にすぎませんでした。
西暦258年(せいれき258ねん)、魏の中原では諸葛誕が反乱を起こしました。諸葛誕は魏の有力な将軍で、この反乱は魏に大きな動揺をもたらしました。孫綝はこれを好機と見て、呉の軍を動かそうとしました。
しかし、孫綝の策は雑すぎました。呉軍は魏の圧力に耐えられず、援軍として派遣された兵はほとんど壊滅しました。進軍は遅れ、補給は乱れ、兵士たちの士気は地に落ちてしまいました。
「諸葛誕に頼るなど、愚策だ。今まで魏将の反乱はあっさりと鎮圧されたではないか。つけいる隙などなかった」
「そうだな。馬鹿の一つ覚えとしか思えない」
戦の失敗は孫綝の威信を大きく損ないました。これを見て、孫亮は決意しました。
「今こそ、あの男を排除すべき時だ」
しかし、孫綝の策謀は上手で、孫亮の計画は露見し、逆に彼自身が廃位(はいi)されてしまいました。代わりに孫権の第六子である孫休が皇帝に擁立されました。孫休は学問を好み温厚な性格ですが、内に情熱も秘めていました。
「弟のような飾り物には終わらぬ」
即位直後の孫休は従順に振舞い、孫綝の怒りを買わぬよう努めました。
「まずは調和から始めよう」
「陛下は賢明でございますな」
「凡庸に見せるのも、時には武器だ」
孫綝は温厚な孫休に油断し始めました。やがて機が熟し、宮中で孫綝は突然兵に囲まれました。秘密に訓練された近衛兵が素早く突入したのです。
甲冑の音が響き、刃が光ります。孫綝は立ち上がり怒りをあらわにしました。
「陛下、これは何事か?私を排除するつもりか!」
「今までの独断専行と傲慢、死をもって償え」
孫休は静かに、しかし厳かに言い放ちました。孫綝はその場で斬られ、呉を牛耳った黒幕は終わりを迎えました。
こうして孫休は親政を始めました。五経博士を設置し、農政を改革、治水事業に着手しました。五経博士とは儒教の経典を研究し教育する役職です。
「儒を立て、農を興し、水を治めねば国は立たぬ」
「殿下、まるで先々代の再来ですな」
「褒めすぎだ。私は私の道を歩くだけだ」
一時、呉の国力は持ち直りました。民は安心し、士人は集い、国は久々(ひさびさ)の安定を得ました。
しかし、時は人の心を変えます。孫休は学問にのめり込み、やがて趣味だったキジ狩りに没頭しました。政務は重臣の濮陽興と張布に任せられ、宮廷では緩んだ空気が支配するようになります。やがて、陰謀が渦巻くようになりました。
このように呉はまた次の激動に向かって動き出したのです。
258年:太平三年
風が涼しくなってまいりました。秋の軍営には、ひときわ静謐な空気が流れております。
その夜、呉の名将・丁奉の帳の中に、若き将軍補佐官である黎斐がひそかに顔を覗かせました。
「将軍。お話ししたいことがございます」
「堅いな。何だ、まさか酒の無心ではあるまいな」
「……いえ。諸葛誕のことです」
「……そう来たか」
丁奉は一度、盃を置き、ゆっくりと深く息をつきました。黎斐も正座のまま、帳の明りの中に身を沈めます。
「諸葛誕は、どうしてああなったのでしょう」
「お主も気になるか。あの男の最期は、やはり尋常ではなかったな」
丁奉は遠くを見つめるように言葉を紡ぎました。
「魏において、諸葛誕は代々(だいだい)の忠臣の家柄だ。祖父の諸葛豐は曹操に仕え、父もまた名臣として名を馳せた。誕自身もかつては一軍を任される才覚の持ち主だった」
「ですが、あの司馬昭が……」
「そうだ。司馬氏が魏の政を私物化し、皇帝を操り人形に変えた。それを見た誕は、黙っておれなかったのだろう」
「つまり、忠義の果ての挙兵、ですか?」
「そのとおり。ただし、実は、諸葛誕は、反乱せざるを得ない状況に追い詰められたのだ」
「どういう事ですか?」
「司馬昭は、反乱を起こされると厄介な武将を警戒していた。そして、彼らをわざと反乱するしかない状況に追い込んだ」
「なぜそのような事を?」
「いつ裏切るかもわからない。でも、裏切らないかもしれない人間というものは権力者として厄介だからな。ずっと警戒しなければならないから疲れる。それならば、自分の組んだ予定の中で裏切ってもらったほうが鎮圧しやすい」
丁奉は手元の地図を指でなぞりながら続けます。
「だから、司馬昭は早かった。兵を三十万も動かし、寿春を包囲した。我ら呉も、盟約に応えて援軍を出した。が、間に合わなかった」
「我が軍も、丹陽から急行しました。将軍は途中の水路を強行突破なされ……」
「斬り込み、押し破り、橋を焼いた。あの時の突撃、今でも膝がうずくよ」
丁奉は苦笑いを浮かべましたが、瞳の奥には痛みが宿っていました。
「だが、敵は堅かった。諸葛誕の裏切りをはじめから予定として組み込んでおいたからだろう。」
「最後は……」
「諸葛誕は自刃した。降伏を潔しとせず、城内に火を放ち、自ら命を絶った。呉から送り込んだ将兵も、半ばが討たれ、半ばが捕らえられた」
「呉には、苦い結末となりましたな……」
「だからな、黎斐。諸葛誕は卑劣な反逆者ではないのさ。逃れられない仕立てられた反逆者という運命の中で可能な限り、運命に抗おうとした男だと思うぞ」
「我が呉が援軍を出したのは正しかったのでしょうか?」
「わからんな。だが、諸葛誕配下には、彼に心酔する者たちが多かっただろう?彼の配下の兵士は数百人もの兵が降伏を拒否した。『諸葛公のために死ぬのだ。心残りはない』と言い放ち、全員が処刑された。義は諸葛誕にあったのだろうな。」
「ならば、なぜここまで一方的に魏軍が勝利したのでしょうか?」
「司馬昭自ら全力をもって戦ったからだろうな。悔しいがヤツは軍才がある。父親の司馬懿を見ているようだった。」
「このまま、呉は魏に勝てぬままなのでしょうか?」
「そうはさせぬさ。司馬昭は魏の有力な将たちを自ら殺している。反乱者に仕立て上げてな。そのような自らの手足を喰らうような行為。いつまでもうまくいかぬさ。」
丁奉は立ち上がり、帳の外に吹く秋の夜風に目を細めました。
「黎斐。まだまだ戦は続く。だが、心を折らぬ限り、呉は滅びぬ」
「はい、将軍。私もまた、志を抱いてまいります」
その夜、明りの中に、呉の誠意と忠義の光が静かに燃えていた。
258年:太平三年
ある夜――
丁奉は呉の有力な将軍であり、冷静沈着で知られる指揮官だった。その帳の中に、陸抗が静かに訪れた。陸抗は呉の重臣で、知略に優れた将である。
「将軍、少しお話を伺いたい。」
その声は穏やかだが、確かな決意が感じられた。
丁奉は盃を置き、穏やかな笑みを浮かべる。
「何か悩みごとか?」
陸抗は座布団に腰を下ろし、まっすぐに丁奉を見据えた。
「魏の動向についてお尋ねしたいのです。司馬一族が魏を乗っ取った背景について、将軍のお考えを聞きたくて。」
丁奉は少し考え込み、口を開いた。
「司馬一族が魏を掌握したのは偶然ではない。彼らは曹操の時代から徐々(じょじょ)に力を固めてきた。司馬懿は策謀に長け、その息子たちも巧みに権力を伸ばした。」
「死んだ兄の司馬師も、弟の司馬昭も、並外れた才覚の持ち主だ。」
陸抗は頷く。
「司馬師は曹操に仕えた時から抜群の策略家として名を馳せていました。司馬昭はそれをさらに超えましたが、なぜ魏では反乱が絶えないのでしょうか?」
丁奉は視線を少し落とし、冷静に答えた。
「司馬師の時代から魏は内部対立が激しかった。司馬懿が権力を固めたが反発も招いた。司馬師はその頭脳と大胆な手腕で政権を動かしたが、多くの敵もいた。それが司馬昭が権力を握る理由だ。」
「司馬昭とはどのような人物ですか?」
「彼は単なる武将ではない。政治にも長け、戦の腕も優れている。だが何より冷徹な性格が際立つ。人心掌握に優れ、味方を増やすのが上手だった。」
丁奉は盃を傾け、さらに続けた。
「彼の恐ろしさは計画性と忍耐力にある。家族や部下を巧みに操り、最終的に魏の政権を完全に掌握したのだ。」
「それでは、我ら呉はどのように動くべきでしょうか?」
陸抗は真剣な目で尋ねた。
「魏の反乱は目立つが、呉は慎重であるべきだ。司馬一族が動揺している今がチャンスとも言えるが、無理に介入してはならぬ。呉は信義を守りつつ、魏の内乱を静かに見守るのが賢明だ。」
丁奉は陸抗を見据えた。
「無理に動けば、司馬昭に討たれる恐れがある。だが、内部から崩れ始めた時こそ、勝負をかける時だと見極めねばならない。」
「つまり、魏が内部で争っている間は、我らはその隙を狙うべき、ということですね。」
「その通りだ、陸抗。常に目を鋭くしておけ。」
陸抗は静かに頷いた。
「ありがとうございます、将軍。私もさらに考えを深めます。」
「戦は一度始まれば全てを巻き込む。お前の持ち場で見極めを誤るな。」
丁奉の目には一瞬、戦場の光景が浮かんだようだった。戦の匂いが辺りを支配している。
「では、これで失礼します。」
陸抗が立ち上がると、丁奉は静かに酒を注ぎ、二人の会話は呉の未来を決める重要な指針となった。




