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呉視点三国志:丁奉の章③

255年(ねん):太平元年(たいへいがんねん)

 太平元年。寿春(じゅしゅん)はいつになく静まり返っておりました。その静けさの裏で、魏(ぎ)の将軍・文欽(ぶんきん)は深刻な決断を下しておりました。彼は魏帝への忠誠を捨て、反旗を翻す覚悟を決めたのです。その理由は、司馬一族の台頭が魏の政権にとって脅威となり、己の命を守るにはもはや反乱しか道がなかったからでございます。

「父上、どうしてこのようなことを?」

 文欽の息子、文鴦(ぶんおう)は驚きと疑念を隠せませんでした。

「魏の命運がかかるこの時に、なぜ背くのですか?」

 文欽は深く息をつき、冷たい目で息子を見つめました。

「お前にはまだわかるまい。司馬の権勢は日々増し、皇帝はすでに傀儡(かいらい)と化している。民も正義も見捨てられた。だからこそ、呉に助けを求めねばならぬのだ。」

 文鴦は言葉を飲み込みました。父の理は理解できましたが、心に燻る不安は消えませんでした。

「仕方ありません。こうなったからには父上に従います。魏軍と…いや、司馬一族と存分に戦わせていただきます」

 文鴦は腹を決めたのです。

 一方、呉の勇将・丁奉(ていほう)はこの反乱の報を受けると、すぐさま出陣の準備を整えました。魏軍の内部分裂は、呉にとって千載一遇の好機。丁奉の軍が寿春に到着すると、文欽の軍勢はすでに整っており、戦はまさに始まらんとしておりました。

「行け!」

 丁奉の号令とともに、呉軍は一斉に突撃を開始。矛と剣が交錯し、戦場は怒号と悲鳴に包まれました。

文欽の反乱に対しては、当時の権力者である司馬師(しばし)自らが討伐に駆け付けました。

魏軍と反乱軍は激戦に突入します。

 その激戦の中、ひときわ目を引く武将が一騎、魏軍の本陣目がけて突き進んでおりました。文鴦(ぶんおう)――その若き体躯が雷鳴の如く敵を裂き、疾風の如く駆け抜けていきました。

「そこを退けえッ!」

 文鴦(ぶんおう)の矛が振るわれるたび、魏軍の兵が薙ぎ倒されていいます。彼の勢いは誰にも止められず、ついにその猛進は司馬師のいる本陣にまで及びました。

「なに!? あの猛将は誰だ?あれは……文欽の息子か!なんという豪勇なのだ…」

 報を受けた司馬師(しばし)は顔を強張らせました。軍議の途中、彼は突然、目元を押さえて呻きました。

「うぐっ……!」

 長年患っていた眼疾が、恐怖と緊張で悪化し、その場で激痛に襲われたのです。

「将軍!? いかがなされました!?」

 部下が駆け寄る中、司馬師は叫び声を上げ、顔を覆った手の隙間から――飛び出しかけた眼球が覗いておりました。

「見るな……誰にも、見るな……!」

 その場に崩れ落ち、呻(うめ)く司馬師(しばし)。まさしく、文鴦の只中を裂くような突撃が、将の心身を打ち砕いた瞬間でございました。

「俺の目がつぶれようとも、この戦いは勝利する。我が執念を甘く見るなよ!」

司馬師(しばし)の執念ともいえる指揮でじりじりと勢いを盛り返します。

結局は、司馬師(しばし)率いる魏軍の逆転勝利となります。

 戦の趨勢(すうせい)は次第に魏軍優勢に傾きましたが、文鴦の勇名はこの戦で大きく響き渡ることとなります。しかし、文欽は敗北の末に逃亡します。反乱は鎮圧されました。だが、あの時の文鴦の猛進が、司馬師を戦場から退かせ、彼の命脈をも絶つことになるとは――誰も予想ができなかったでしょう。

「父上、大丈夫ですか?こうなった以上は呉を頼るほかありません。何とか呉に落ち延びましょう」

 燃える戦場の果て、文鴦は己の矛を杖代わりにして、父と共に呉への逃亡を図ります。



255年(ねん):太平元年(たいへいがんねん)

 鈍(にび)色(いろ)の空(そら)が、寿春(じゅしゅん)の町(まち)を静(しず)かに覆(おお)っておりました。春先(はるさき)とはいえ風(かぜ)はまだ冷(つめ)たく、肌(はだ)を刺(さ)すように吹(ふ)いております。

 丘(おか)の上(うえ)にただひとり、若(わか)き武人(ぶじん)が立(た)っておりました。その名(な)は──文鴦(ぶんおう)。彼(かれ)は、かつて魏(ぎ)の将軍(しょうぐん)であった文欽(ぶんきん)の息子(むすこ)で、若(わか)くしてすでに幾多(いくた)の戦(いくさ)を経験(けいけん)してきた猛将(もうしょう)でございます。

 町(まち)を遠(とお)く見下(みお)ろしながら、彼(かれ)は細(ほそ)く息(いき)を吐(は)きました。

 「父上(ちちうえ)……もうすぐですぞ」

 その声(こえ)は、小枝(こえだ)のように折(お)れ、風(かぜ)にさらわれて消(き)えてゆきました。

 忠(ちゅう)を尽(つ)くしたはずの魏(ぎ)の彼ら親子への仕打ちは残酷でした。文鴦(ぶんおう)父(ちち)・文欽(ぶんきん)は反乱を起こしたものの敗北します。

 残(のこ)された道(みち)は一(ひと)つだけ──呉(ご)への亡命(ぼうめい)です。

 文鴦(ぶんおう)は命(いのち)がけで長江(ちょうこう)を渡(わた)り、ついに呉(ご)の地(ち)へと足(あし)を踏(ふ)み入(い)れました。

 その報(しら)せが届(とど)くと、彼(かれ)を迎(むか)えたのは、当時(とうじ)政権(せいけん)の実権(じっけん)を握(にぎ)っていた宰相(さいしょう)・孫峻(そんしゅん)と、歴戦(れきせん)の勇将(ゆうしょう)・丁奉(ていほう)でございました。丁奉(ていほう)は、若(わか)い頃(ころ)から呉(ご)の戦場(せんじょう)で活躍(かつやく)し、沈着冷静(ちんちゃくれいせい)な判断力(はんだんりょく)と実行力(じっこうりょく)で知られる人物(じんぶつ)です。

 孫峻(そんしゅん)は、玉座(ぎょくざ)の背凭(そびら)にゆるりともたれながら、眼(め)を細(ほそ)めて言(い)いました。

 「ほう……文欽(ぶんきん)と文鴦(ぶんおう)の親子が剣(つるぎ)を捨(す)てずにここまで来(き)たか。何(なに)を申(もう)すつもりか、見(み)せてもらおうか」

 文鴦(ぶんおう)は怯(ひる)まず、まっすぐに一礼(いちれい)いたします。

 その様子(ようす)をじっと見(み)ていた丁奉(ていほう)が、眉(まゆ)をわずかに上(あ)げて、静(しず)かに問いかけました。

 「亡命(ぼうめい)の目的(もくてき)は、復讐(ふくしゅう)か、それとも再起(さいき)か?」

 「……呉(ご)のために戦(たたか)う覚悟(かくご)がございます。私(わたし)の剣(つるぎ)が、必要(ひつよう)とされるのであれば」

 言葉(ことば)に揺(ゆ)らぎはなく、眼(め)には決意(けつい)の炎(ほのお)が宿(やど)っておりました。

 孫峻(そんしゅん)はくく、と鼻(はな)を鳴(な)らします。

 「若(わか)いくせに、ずいぶんと口(くち)が回(まわ)る。いい面構(つらがま)えだ。……丁奉(ていほう)、どうする? 我(わ)が軍(ぐん)に、一匹狼(いっぴきおおかみ)を放(はな)ってみるのも、悪(わる)くなかろう」

 丁奉(ていほう)は短(みじか)く頷(うなず)きました。

 「文鴦(ぶんおう)よ、呉(ご)に入(い)る以上(いじょう)は、ただの亡命者(ぼうめいしゃ)ではなく──戦士(せんし)として生(い)きよ。それが、そなたの道(みち)だ」

 文鴦(ぶんおう)は即座(そくざ)にひざまずき、拳(こぶし)を地(ち)につけました。

 「ご信任賜(たまわ)れるのであれば、命(いのち)を懸(か)けてお応(こた)えいたします」

 その姿(すがた)を見下(みお)ろしながら、孫峻(そんしゅん)は冷(ひ)ややかな声(こえ)で言(い)いました。

 「この国(くに)では、忠誠(ちゅうせい)を口(くち)で語(かた)る者(もの)など信用(しんよう)されぬ。剣(つるぎ)で示(しめ)せ。命(いのち)で証(あかし)せ。──それが、呉(ご)という国(くに)ぞ」

 「心得(こころえ)ております。呉(ご)のために戦(たたか)い、骨(ほね)を埋(う)める覚悟(かくご)にございます」

 それは強(つよ)がりでも虚勢(きょせい)でもなく、真実(しんじつ)の声(こえ)でございました。

 丁奉(ていほう)は、ちらと孫峻(そんしゅん)を見(み)やり、静(しず)かに言(い)いました。

 「才(さい)あり、と見(み)ました」

 孫峻(そんしゅん)は手(て)を広(ひろ)げて、薄(うす)く笑(わら)いました。

 「ならば──呉(ご)へようこそ、文鴦(ぶんおう)殿(どの)。その剣(つるぎ)、しかと見(み)せてもらおうぞ」

 こうして、文鴦(ぶんおう)は呉(ご)に迎(むか)え入(い)れられました。いつの間にか父の文欽(ぶんきん)は息子の付属品のような扱いになっていました。

丁奉(ていほう)の現場(げんば)での強(つよ)い推薦(すいせん)、そして孫峻(そんしゅん)の政治的(せいじてき)後押(あとお)しによって、彼(かれ)は単(たん)なる亡命者(ぼうめいしゃ)としてではなく──将(しょう)としての道(みち)を歩(あゆ)むこととなったのです。

 最初(さいしょ)に配属(はいぞく)されたのは、長江(ちょうこう)北岸(ほくがん)の防衛軍(ぼうえいぐん)。そこは魏(ぎ)との緊張(きんちょう)が未(いま)だ色濃(いろご)く残(のこ)る最前線(さいぜんせん)でございました。

 文鴦(ぶんおう)はただ、己(おのれ)の名誉(めいよ)のため、そして父(ちち)無念を晴らすため、日々(ひび)剣(つるぎ)を研(と)ぎました。

 朝(あさ)に霧(きり)を裂(さ)き、夕(ゆうべ)に鍛錬(たんれん)を欠(か)かさず、誰(だれ)よりも黙々(もくもく)と剣(つるぎ)を振(ふ)るうその背(せ)に、次第(しだい)に部下(ぶか)たちの信頼(しんらい)が集(あつ)まっていったのです。



256年:太平(たいへい)二年

呉(ご)の政治は、また暗い影(かげ)に包(つつ)まれました。


 三年前、一時期権力者だった諸葛恪(しょかつ・かく)が無残(むざん)に殺されてしまいました。彼は、諸葛瑾(しょかつ・きん)という有名な政治家の息子で、頭の良さでは定評がありました。しかし、その強い政治のやり方が敵を増やし、ついには「謀反(むほん)を企てた」という疑いをかけられて処刑されてしまいました。

 その後、新しいリーダーとなったのは、皇族の孫峻(そん・しゅん)でした。彼は呉の初代皇帝・孫権(そん・けん)のいとこにあたります。見た目は礼儀正しくて穏やかに見えましたが、実は野心(やしん)と猜疑心(さいぎしん)に満ちていました。

 孫峻(そん・しゅん)は、諸葛恪(しょかつ・かく)を倒すための計画を立てて成功させた冷たい策略家でもありました。

 彼は丞相(じょうしょう)に任命(にんめい)されると、諸葛恪が進めていた政治改革をすべて取り消し、自分の思うままに政治を動かしました。民(たみ)の苦しみなどまったく考えず、宮中(きゅうちゅう)では毎日のように舞(まい)や酒宴(しゅえん)が行われ、豪華な宝石(ほうせき)や金銀(きんぎん)が惜しみなく使われました。

 ある夜、孫峻は酒杯(しゅはい)を掲げてこう言いました。

「陛下(へいか)の時代には、これくらい華やかな宴(うたげ)がふさわしい」

 言葉は丁寧(ていねい)でしたが、その心は冷たく虚しいものでした。

 しかし、その豪華な暮らしの裏では、人々の不満(ふまん)がどんどん大きくなっていました。多くの人が孫峻に背を向け、密かに彼を討つ計画を立てたのです。

 ですが、孫峻の警戒(けいかい)は厳しく、計画はすぐにバレてしまいました。関わった人は全員捕まって処刑されました。

 孫峻は冷ややかな笑みを浮かべながら、その死体(したい)に酒をかけたと言われています。

 ところが、その年の晩秋(ばんしゅう)、孫峻は夜にうなされて目を覚ましました。

「やめろ……やめろ、貴様(きさま)……!」

 冷や汗をかきながら、まるで見えない敵と戦っているかのように手を振り上げていました。

 夢の中で、すでに死んだはずの諸葛恪の亡霊(ぼうれい)が、赤い鎧(よろい)を着て孫峻の顔を殴ってきたのです。

 翌朝、侍女(じじょ)が寝室を訪れると、孫峻はすでに息を引き取っていました。死因はわかっていませんが、顔は恐怖に凍りついていたと言われています。

宮中では「諸葛恪の亡霊が孫峻を連れて行った」と噂(うわさ)され、人々は天(てん)が正義(せいぎ)を見ているのだと語り合いました。

 こうして孫峻の時代は終わりましたが、呉の政治は安定するどころか、もっと暗く危険な時代へ向かっていくのでした。

 その後、孫峻のいとこである孫綝(そん・りん)が権力を握ります。彼もまた冷酷(れいこく)で策略に長けた人物で、呉の運命(うんめい)を大きく左右することになるのです。



257年:太平(たいへい)三年

 魏(ぎ)の重臣(じゅうしん)である諸葛誕(しょかつたん)は、中央(ちゅうおう)で実権(じっけん)を握(にぎ)りつつあった司馬昭(しばしょう)に反旗(はんき)を翻(ひるがえ)し、寿春(じゅしゅん)の城(しろ)に立(た)て籠(こも)りました。

 諸葛誕(しょかつたん)は魏(ぎ)の名門(めいもん)である諸葛氏(しょかつし)の出身(しゅっしん)で、忠誠心(ちゅうせいしん)が強(つよ)く、保守的(ほしゅてき)な性格(せいかく)で知ら(し)られておりました。一方(いっぽう)、司馬昭(しばしょう)は父(ちち)の司馬懿(しばい)と兄(あに)の司馬師(しばし)から政権(せいけん)を受(う)け継(つ)ぎ、事実上(じじつじょう)の魏(ぎ)の支配者(しはいしゃ)となっておりました。

 反乱(はんらん)は長期化(ちょうきか)し、数(すう)か月(げつ)にわたる籠城(ろうじょう)の末(すえ)、城内(じょうない)では兵糧(ひょうろう)が尽(つ)きかけ、士気(しき)も次第(しだい)に低下(ていか)しておりました。

ここで、諸葛誕(しょかつたん)に対し、かつての敵だった呉軍より救いの手が伸べられます。

かつて、魏軍に反乱を起こして亡命していた、文欽(ぶんきん)と文鴦(ぶんおう)の親子が援軍として駆け付けました。

 「我々(われわれ)に必要(ひつよう)なのは、外(そと)への突破口(とっぱこう)だ。」

 そう進言(しんげん)したのは、援軍(えんぐん)の一翼(いちよく)を担(にな)う勇将(ゆうしょう)、文欽(ぶんきん)でございました。彼(かれ)は武勇(ぶゆう)に優(すぐ)れ、かつて幾度(いくど)も戦功(せんこう)を挙(あ)げた歴戦(れきせん)の将(しょう)であり、城外(じょうがい)に突破隊(とっぱたい)を出(だ)すことを主張(しゅちょう)いたしました。

 しかし、諸葛誕(しょかつたん)は首(くび)を横(よこ)に振(ふ)りました。

 「今(いま)は持(じ)ち堪(こた)えるしかない。外(そと)に出(で)れば、敵(てき)の罠(わな)に嵌(はま)る恐(おそ)れがございます。」

 互(たが)いの意見(いけん)は食(く)い違(ちが)い、両者(りょうしゃ)の関係(かんけい)は悪化(あっか)していきました。

 文欽(ぶんきん)は気性(きしょう)が激(はげ)しく、自己主張(じこしゅちょう)が強(つよ)い一方(いっぽう)、諸葛誕(しょかつたん)は猜疑心(さいぎしん)が強(つよ)く、周囲(しゅうい)との協調(きょうちょう)を苦手(にがて)としておりました。

 じつは、魏の同僚時代から文欽(ぶんきん)と諸葛誕(しょかつたん)は、仲が悪かったのです。

 ある夜(よる)、諸葛誕(しょかつたん)は密(ひそ)かに側近(そっきん)を呼(よ)び寄(よ)せ、囁(ささや)くように申(もう)しました。

 「文欽(ぶんきん)は私(わたし)を裏切(うらぎ)るつもりではないか……?」

 その不安(ふあん)は、やがて確信(かくしん)へと変(か)わってまいりました。証拠(しょうこ)はございませんでしたが、疲労(ひろう)と焦燥(しょうそう)の中(なか)、諸葛誕(しょかつたん)の判断力(はんだんりょく)は鈍(にぶ)っておりました。

 「先(さき)に動(うご)かなければ、やられてしまいます。」

 ついに諸葛誕(しょかつたん)は決断(けつだん)し、文欽(ぶんきん)を捕(と)らえるよう命(めい)じました。

 「何をするか!私はお前を助けるためにここに来たのだぞ!」

 連行(れんこう)される文欽(ぶんきん)は叫(さけ)びましたが、諸葛誕(しょかつたん)はその叫(さけ)びに耳(みみ)を貸(か)しませんでした。ついに彼(かれ)は文欽(ぶんきん)を処刑(しょけい)いたしました。

 その報(しら)せを聞(き)いたのは、文欽(ぶんきん)の息子(むすこ)である文鴦(ぶんおう)でございました。若(わか)くして軍才(ぐんさい)を認(みと)められていた文鴦(ぶんおう)は、冷静沈着(れいせいちんちゃく)な性格(せいかく)と俊敏(しゅんびん)な判断力(はんだんりょく)を併(あわ)せ持(も)つ新進(しんしん)の武将(ぶしょう)でございました。

「何をするか!諸葛誕(しょかつたん)め!援軍として来た父を殺すなど許されんぞ!」

文鴦(ぶんおう)は、父を殺した諸葛誕(しょかつたん)を倒す事が宿願となります。父の仇を取るためには手段など選んでいられません。文鴦(ぶんおう)は魏軍(ぎぐん)に降伏します。

「以前は父の判断でやむなく反乱を起こし呉軍に亡命しました。しかし、その父は諸葛誕(しょかつたん)に無残に殺されました。父は間違っていました。今度は私自身の判断で魏軍(ぎぐん)に戻りたいと考えます。どうか、諸葛誕(しょかつたん)を倒す機会を私に与えて下さい。」

 このような理由で文鴦(ぶんおう)は魏軍(ぎぐん)に再度参加する事を希望しました。やがて魏軍の指揮官であった司馬昭(しばしょう)の信任(しんにん)を得(え)ます。その結果、文鴦は司馬昭配下の将として、諸葛誕の籠もる寿春(じゅしゅん)攻囲戦に加わり、諸葛誕軍との戦闘でたびたび武勲(ぶくん)を挙げました。特に父の仇(かたき)である諸葛誕(しょかつたん)に対する強い敵意から、奮戦(ふんせん)したと記録されております。

 二度の亡命を行った数奇な将、文鴦(ぶんおう)は、父(ちち)を討(う)たれた悲運(ひうん)を乗(の)り越(こ)え、彼(かれ)は次代(じだい)の英雄(えいゆう)として歴史(れきし)に名(な)を刻(きざ)んでいったのです。

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