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呉視点三国志:丁奉の章②

252年:太元元年

■東興雪戦記(とうこうせっせんき)

 東興(とうこう)の地は、鉛色(なまりいろ)の空と白銀(はくぎん)の雪に閉ざされていました。視界を覆う細雪(ささめゆき)は、まるで戦場に降りかかる鎮魂(ちんこん)の布のように、静かに、冷たく、空中を舞っていたのです。

 呉軍(ごぐん)の陣営(じんえい)は、物音ひとつせず、静まり返っていました。遠くに霞(かす)む魏軍(ぎぐん)の旗が、わずかに風に揺れ、兵たちの足音も雪に吸い込まれていきます。

「……雪の中で戦うとはな」

 そう呟(つぶや)いたのは、丁奉(てい・ほう)という将軍です。彼は、これまで幾度(いくど)もの戦場を潜(くぐ)り抜けてきた歴戦の指揮官であり、冷静な判断力と大胆な行動力で知られています。彼は、白い雪の上に一歩を刻みながら、ぼそりと口を開きました。

「ふん……好都合(こうつごう)だ」

 隣に立つ呂拠(りょ・きょ)は、呉の名門の家に生まれ、父は名将・呂範(りょ・はん)という老練(ろうれん)な将軍です。彼の口元には、どこか余裕とも皮肉ともとれる微笑(ほほえ)みが浮かんでいました。

「雪は、隠れ蓑(みの)になる。魏軍(ぎぐん)がこの白さに気を取られているうちに――我らの刃(やいば)は、背中に届く」

「……奴(やつ)らの背を突く、か」

 丁奉は、膝を折って地面に広げられた簡素な布図(ふず)を見つめました。布に描かれた地形を指でなぞりながら、敵の布陣(ふじん)を冷静に分析します。

「……ここだな。諸葛誕(しょかつ・たん)の軍が中央を固めていて、左右はやや緩(ゆる)い。雪に紛(まぎ)れて後方へ回り込めば……」

「お前の言う通りだ。だが――派手にやりすぎるなよ?」

 呂拠が軽口(かるくち)を叩(たた)きます。しかし、その目は鋭(するど)く雪空を見つめていました。

「……派手ではなく、確実にやるだけだ」

 丁奉が立ち上がります。その横顔には、わずかに笑みが浮かんでいました。

「――夜を、待つ」

 深夜、東興の町はまるで死の帳(とばり)に包まれたように静まり返っていました。しかしその静寂の中、呉軍の兵たちは密かに動いていたのです。

 雪を踏む音さえも殺(ころ)して進む兵たちは、息を潜(ひそ)め、白い世界に身を溶かしながら、ただ前へと進みました。

 その先頭には、丁奉が立っていました。彼は雪の舞(ま)い方を見て、風の流れを読み取ります。

「……諸葛誕(しょかつ・たん)め、寝首(ねくび)をかかれるとは夢にも思っておるまい」

 彼が低く呟(つぶや)くと、隣の呂拠が薄く笑いました。

「信じているんだよ、我々がただ雪に足を止めていると。……だが、それが奴(やつ)の墓穴(ぼけつ)だ」

 呂拠の声には、鋼(はがね)のような芯がありました。

「兵(へい)の動きに惑(まど)わされず、間隙(かんげき)を突く。それだけだ」

「ふん……そろそろだな」

 丁奉は無言で手を掲げ、それを合図に呉軍は静かに、そして一気に動き出しました。

「今だッ!」

 丁奉の号令が雪を裂(さ)き、百(ひゃく)の矢(や)が魏軍の背後に降り注ぎました。突然の混乱に、魏兵(ぎへい)たちは叫びを上げながらも、すぐには反応できません。

「敵襲(てきしゅう)だッ! 何者だッ――!?」

「構うな、突けッ!!」

 丁奉の軍は、怒涛(どとう)の勢いで魏軍の後背(こうはい)を突きました。兵たちは雪を蹴(け)り、矛(ほこ)を振るい、刃(やいば)が稲妻のように閃(ひらめ)きました。

 混乱は瞬時に崩壊へと転じ、敵陣は急速に崩れていきます。

「やはり……奴(やつ)ら、雪に目を奪われていたな!」

 呂拠が、後ろから続く部隊に叫びました。

「丁奉の策、まさに的中だ!」

「これが、我ら呉の戦だ――!」

 丁奉は矛を振るい、敵陣を力強く貫きました。その刃の先には怯(おび)える魏兵がいましたが、声を上げる暇(いとま)もなく倒れていきます。

 雪原(せつげん)は赤く染まり、丁奉の姿はまるで鬼神(きしん)のようでした。

「退けッ! 退けぇッ!」

 魏軍を率いる大将・諸葛誕が怒声を上げましたが、兵たちはすでに士気(しき)を失っていました。反撃する余地もなく、魏軍は潰走(かいそう)していきます。

「副将の韓綜(かん・そう)を打ち取ったぞ!我らの勝利だ!」

「終わったな……」

 呂拠が息を吐きました。白い戦場には、ただ紅(くれない)が滲(にじ)んでいました。

 夜が明ける頃、戦の跡に再び静かに雪が降っていました。勝利した呉軍の将、丁奉と呂拠は、かつての戦場を歩いていました。

「……よくやったな、丁奉」

 呂拠が、笑うでもなく、静かに言いました。

「まさか、あそこまで完璧にいくとは」

「……まだ足りない」

 丁奉は遠くを見つめていました。雪の向こうに、まだ見ぬ次の戦が待っているかのようです。

「戦は常に変わる。油断した時が、終わりだ」

「その言葉、お前らしいな」

 呂拠が小さく笑い、丁奉と肩を並べて歩いていきました。

 この戦功により、丁奉は冠軍将軍(かんぐんしょうぐん)に任じられ、都亭侯(とていこう)に封ぜられました。

 しかしその誇りよりも、彼の目に映るのは――まだ見ぬ未来の戦場でした。

「……次は、どこだ?」

 丁奉は、雪空に向けて、低く呟(つぶや)きました。



253年:建興(けんこう)二年

 秋(あき)、魏(ぎ)と呉(ご)は長年(ながねん)にわたる領土(りょうど)争(あらそ)いのさなかにありました。合肥新城(がっぴしんじょう)は魏の重要拠点(じゅうようきょてん)であり、呉にとっては南進(なんしん)の足掛(あしが)りと考(かんが)えられていました。呉軍(ごぐん)の若(わか)き指揮官(しきかん)、諸葛恪(しょかつかく)はこの機(き)を逃(のが)さず、合肥新城(がっぴしんじょう)を包囲(ほうい)し魏軍(ぎぐん)を追(お)い詰(つ)める計画(けいかく)を練(ね)っていました。彼(かれ)は名将(めいしょう)として知られ、戦略(せんりゃく)と兵(へい)を巧(たく)みに操(あやつ)る手腕(しゅわん)に長(た)けていました。隣(となり)には、長年(ながねん)戦場(せんじょう)を渡(わた)り歩(ある)いてきた老練(ろうれん)な将軍(しょうぐん)丁奉(ていほう)が控(ひか)えており、その冷静(れいせい)な判断(はんだん)は諸葛恪(しょかつかく)にとって大きな支(し)えでした。

 合肥新城(がっぴしんじょう)を守(まも)るのは魏軍(ぎぐん)でした。城主(じょうしゅ)である張特(ちょうとく)は勇猛(ゆうもう)果敢(かかん)な将軍(しょうぐん)で、城内(じょうない)の兵士(へいし)たちを力強(ちからづよ)く率(ひき)いていました。また、彼(かれ)の側(そば)には参謀(さんぼう)として文欽(ぶんきん)が控(ひか)え、冷静(れいせい)な分析(ぶんせき)と迅速(じんそく)な指揮(しき)で戦局(せんきょく)を支(ささ)えていました。

 戦(いくさ)は冬(ふゆ)の訪(おとず)れと共(とも)に始(はじ)まりました。呉軍(ごぐん)は冷たい風(かぜ)と雪(ゆき)が舞(ま)う荒(あ)れ地(ち)を包囲(ほうい)し、諸葛恪(しょかつかく)が指揮(しき)をとって城壁(じょうへき)に向(む)かって兵(へい)を繰(く)り出(だ)しました。兵士(へいし)たちは寒(さむ)さに耐(た)えながらも、必死(ひっし)に槍(やり)や矢(や)を携(たずさ)え突(つ)き進(すす)みました。

 「進(すす)め、全軍(ぜんぐん)一気(いっき)に押(お)し込(こ)むのだ!」諸葛恪(しょかつかく)は凛(りん)とした声(こえ)で命令(めいれい)を飛(と)ばしました。

 その瞬間(しゅんかん)、雪(ゆき)を蹴散(けち)らす足音(あしおと)が城壁(じょうへき)に響(ひび)きわたり、呉兵(ごへい)が盾(たて)と槍(やり)を振(ふ)りかざして激(はげ)しく魏軍(ぎぐん)に襲(おそ)いかかりました。剣戟(けんげき)が火花(ひばな)を散(ち)らし、叫(さけ)び声(ごえ)が戦場(せんじょう)を揺(ゆ)るがしました。城壁(じょうへき)の上(うえ)から魏兵(ぎへい)が矢(や)を射(い)放(はな)ち、応戦(おうせん)しましたが、呉軍(ごぐん)はその隙(すき)を突(つ)いて城の死角(しかく)を狙(ねら)う別働隊(べつどうたい)が動(うご)き出(だ)しました。

 「丁奉(ていほう)、今(いま)こそだ!」諸葛恪(しょかつかく)の声(こえ)が響(ひび)くと、老練(ろうれん)な将軍(しょうぐん)丁奉(ていほう)は重々(おもおも)しい足取り(あしどり)で援軍(えんぐん)を率(ひき)いて城壁(じょうへき)の背後(はいご)から一気(いっき)に攻(せ)めかかりました。

 城内(じょうない)では、張特(ちょうとく)が大声(おおごえ)で兵士(へいし)たちを鼓舞(こぶ)し、文欽(ぶんきん)は冷静(れいせい)に戦況(せんきょう)を分析(ぶんせき)していました。

 「持(も)ちこたえろ!我々(われわれ)の勝利(しょうり)は目前(もくぜん)だ!」張特(ちょうとく)は槍(やり)を振(ふ)りかざし、戦士(せんし)たちを鼓舞(こぶ)しました。

 しかし、激(はげ)しい攻防(こうぼう)は互(たが)いに消耗(しょうもう)を激(はげ)しくし、やがて呉軍(ごぐん)の勢(いきお)いは鈍(にぶ)り始(はじ)めました。兵士(へいし)たちの体力(たいりょく)は限界(げんかい)に達(たっ)し、諸葛恪(しょかつかく)は撤退(てったい)を決断(けつだん)せざるを得(え)ませんでした。

 「退(しりぞ)け!」諸葛恪(しょかつかく)は沈着(ちんちゃく)に撤退(てったい)の号令(ごうれい)を下(くだ)しました。

 雪(ゆき)が舞(ま)う戦場(せんじょう)に、疲労困憊(ひろうこんぱい)した呉兵(ごへい)たちの足音(あしおと)が響(ひび)き渡(わた)りました。

 戦(いくさ)が終(お)わった後(あと)、諸葛恪(しょかつかく)と丁奉(ていほう)は並(なら)んで静(しず)かに夜空(よぞら)を見上(みあ)げていました。二人(ふたり)の顔(かお)は疲(つか)れ切(き)っており、落胆(らくたん)の色(いろ)が隠(かく)せませんでした。

 「せっかくの機会(きかい)だったのに、力(ちから)及(およ)ばず悔(くや)しい限(かぎ)りだな。」丁奉(ていほう)は歯噛(はが)みをしながらぽつりと言(い)いました。

 「まだ挽回(ばんかい)の余地(よち)はある。だが、敵(てき)も侮(あなど)れない相手(あいて)だと痛感(つうかん)した。」諸葛恪(しょかつかく)は固(かた)く唇(くちびる)を結(むす)びました。



253年:建興(けんこう)二年

 呉(ご)の大帝(たいてい)・孫権(そんけん)が崩御(ほうぎょ)しました。国全体が揺れ動き、宮廷(きゅうてい)には重苦しい空気(くうき)が満ちておりました。

 次の皇帝(こうてい)となったのは、わずか十歳(じゅっさい)の幼帝(ようてい)、孫亮(そんりょう)でございます。幼くして国の政治(せいじ)を任せるには、あまりに早すぎる年齢(ねんれい)でした。

 そのため、実質的(じっしつてき)に政権(せいけん)を握ったのが、太傅(たいふ)・大将軍(だいしょうぐん)である諸葛恪(しょかつかく)でございます。諸葛恪は名門(めいもん)・諸葛氏(しょかつし)の出身(しゅっしん)で、鋭い知略(ちりゃく)と率直(そっちょく)な物言い、そして明るい性格(せいかく)で知られております。彼は諸葛瑾(しょかつきん)の子(こ)であり、三国志の名軍師(めいぐんし)諸葛亮(しょかつりょう)の甥(おい)にあたります。

 呉(ご)の大帝(たいてい)・孫権(そんけん)の死を知った魏(ぎ)は、好機(こうき)と見てすぐに侵攻(しんこう)を開始(かいし)しました。魏の将軍(しょうぐん)である胡遵(こじゅん)と諸葛誕(しょかつたん)が軍を率いて、呉の東興(とうこう)に迫ってまいりました。

 「来るべき時が来たようだな」

 諸葛恪は軍議(ぐんぎ)の席(せき)でにやりと笑いながら言いました。

 「魏の連中(れんちゅう)、孫呉(そんご)を侮(あなど)った代償(だいしょう)は高くつくであろう」

 敵軍(てきぐん)の進軍(しんぐん)は速やかでしたが、諸葛恪の布陣(ふじん)は一歩(いっぽ)も譲(ゆず)りませんでした。彼は左右(さゆう)に伏兵(ふくへい)を潜(ひそ)ませ、水軍(すいぐん)を後方(こうほう)に配置(はいち)して敵を誘(いざな)い込み、一気(いっき)に挟撃(そうげき)しました。

 ――疾風(しっぷう)のごとく呉軍(ごぐん)が駆(か)け抜けます。槍(やり)が突(つ)き刺さり、矢(や)が舞い散(まいち)り、戦(いくさ)の音が天(てん)を震(ふる)わせました。

 魏軍(ぎぐん)は為す術(すべ)もなく崩(くず)れ、諸葛恪は大勝利(だいしょうり)を収めました。世間(せけん)は彼を称(たた)え、「第二の周瑜(しゅうゆ)」と呼びました。

 「東興の勝ち戦(いくさ)、さぞ気分(きぶん)が良(よ)ろしかろう?」

 そう尋(たず)ねる家臣(かしん)に、諸葛恪は盃(さかずき)を掲(かか)げて言いました。

 「勝つべくして勝ったまで。だが、次(つぎ)はもっと大きな勝利を手にしなければならぬ」

 翌年(よくねん)、諸葛恪は勢(いきお)いそのままに魏へ侵攻(しんこう)いたしました。しかし今回は天(てん)が味方(みかた)しませんでした。魏軍の防備(ぼうび)は固く、攻略(こうりゃく)は思うように進みませんでした。加(くわ)えて、陣中(じんちゅう)に疫病(えきびょう)が発生(はっせい)し、呉軍は多(おお)くの命(いのち)を失(うしな)いました。

 「天よ……なぜ我が軍を試(ため)みるのか」

 諸葛恪の顔(かお)には初めて焦燥(しょうそう)の色(いろ)が浮(う)かびました。

 敗軍(はいぐん)を率(ひき)いて帰還(きかん)した諸葛恪は、失(うしな)った声望(せいぼう)を取り戻(もど)すため、国内(こくない)の豪族(ごうぞく)たちを押さえつけました。彼らの特権(とっけん)を削(そ)ぎ、中央集権(ちゅうおうしゅうけん)の基盤(きばん)を築(きず)こうとしたのです。

 「力ある者が好き勝手(かって)をする世を終わらせたい。それが悪いことか?」

 側近(そっきん)が進言(しんげん)するたびに、彼はそう言って聞き入れませんでした。

 しかし、その強引(ごういん)な改革(かいかく)は敵(てき)を生みました。特に皇族(こうぞく)である孫峻(そんしゅん)は諸葛恪を快(こころよ)く思っておりませんでした。孫峻は孫権の従子(いとこちがい)で、表向きは忠義(ちゅうぎ)を装(よそお)いながら、内に野心(やしん)を秘(ひ)めた人物(じんぶつ)でございます。

 ある夜(よる)、孫峻は密(ひそ)かに仲間(なかま)と謀(はかりごと)をめぐらせておりました。

 「諸葛恪殿(しょかつかくどの)は賢(かしこ)いが、賢すぎる者は長く生きられぬものだな」

 「では、毒(どく)でも盛(も)るのか?」

 「いや、ここは堂々(どうどう)と、朝議(ちょうぎ)の席(せき)で――」

 そして、ついにその日が訪れました。朝議の席で、孫峻の兵(へい)が突然(とつぜん)として諸葛恪を取り囲(かこ)みました。

 「孫峻(そんしゅん)殿!これは何の真似(まね)だ!」

 驚(おどろ)きつつも諸葛恪は毅然(きぜん)として声を上げました。

 「国家(こっか)のためだ。お主(ぬし)には退(しりぞ)いてもらう」

 孫峻の声は冷(つめ)たく、剣(けん)を抜く音だけが応(こた)えました。

 「ふざけるな!私は国家の柱だぞ。ぬわ~~~!」

 その日、諸葛恪は斬(き)られました。世を震(ふる)わせた英雄(えいゆう)は、権力(けんりょく)の渦(うず)に呑(の)まれ、あっけなく舞台(ぶたい)を去ったのでございます。



253年:建興(けんこう)二年

 幼帝(ようてい)・孫亮(そんりょう)が即位(そくい)し、諸葛恪(しょかつかく)が政権(せいけん)を握っていた時代(じだい)のことです。

 私は呉(ご)の武将(ぶしょう)、丁奉(ていほう)です。諸葛恪殿(しょかつかくどの)が遺したものの一つに、法(ほう)と秩序(ちつじょ)を重んじる精神(せいしん)がある。今回は、当時の孫呉における刑罰(けいばつ)について少し語らせていただきたいのです。

 孫呉の刑罰は、その種類(しゅるい)と重さによって区分(くぶん)されており、国の法治(ほうち)の根幹(こんかん)を支えていた。

 まず、最も重い刑罰は死刑(しけい)です。これは反逆(はんぎゃく)、謀反(むほん)、重罪(じゅうざい)を犯した者に科せられました。刑の執行は厳格(げんかく)であり、国家の安全(あんぜん)を脅(おびや)かす者に対しては容赦(ようしゃ)なく断罪(だんざい)されました。

 次に、流刑(るいけい)や遠島(えんとう)といった辺境(へんきょう)への追放(ついほう)も用いられました。これは罪状(ざいじょう)が比較的軽く、しかし社会から遠ざける必要がある者に対してです。

 さらに、鞭打ち(むちうち)や杖刑(じょうけい)といった身体的(しんたいてき)な罰も広く使われました。これらは犯罪の程度(ていど)に応じて回数(かいすう)が定められており、矯正(きょうせい)を目的としたものです。

 また、科料(かりょう)や没収(ぼっしゅう)などの財産(ざいさん)に関わる罰もあり、特に役人(やくにん)が職権乱用(しょっけんらんよう)した場合には厳しく処罰(しょばつ)されました。

 身分(みぶん)に応じて刑罰の適用(てきよう)が異なるのは確かです。庶民(しょみん)に対しては厳罰(げんばつ)が一般的(いっぱんてき)だが、官吏(かんり)や高官(こうかん)には多少(たしょう)の軽減(けいげん)がありました。しかし、諸葛恪は法の前の平等(びょうどう)を強く信じ、どんな身分の者であろうと不正(ふせい)を見逃さなかったのです。

 私、丁奉もその志(こころざし)を胸に、法の執行(しっこう)にあたりました。たとえ親しい者であっても、違法(いほう)を犯せば断固(だんこ)として罰を与える。これが我ら武士(ぶし)の義務(ぎむ)であり、国家(こっか)を守る道であると信じています。

 諸葛恪殿の逝去(せいきょ)は国の大きな損失(そんしつ)であるが、その遺志(いし)は今も私たちの心に息づいている。彼が守ろうとした公正(こうせい)な法の精神(せいしん)が、孫呉の未来(みらい)を支える礎(いしずえ)となることを信じて疑いません。

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