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呉視点三国志:孫権の章⑤

245年:赤烏せきう八年

落日らくじつこころざし――父子ふしたくされたちゅうともしび

 西暦せいれき二四五年。みやこ建業けんぎょうはるびながらも、しずかにしずんでおりました。まつりごと中枢ちゅうすうでは、皇太子こうたいし孫和そんか魯王ろおう孫覇そんはとの後継者争こうけいしゃあらそいが激化げきかしていました。

 その渦中かちゅうにいるのが、かつて夷陵いりょういくさ大勝利だいしょうりおさめ、知略ちりゃく武勇ぶゆうそなえた名将めいしょう陸遜りくそんです。

 陸遜りくそんは、有名ゆうめい名家めいかに生まれ、ぶんすぐれ、清廉せいれんで知られた人物じんぶつです。忠義ちゅうぎつらぬき、何度なんどくに危機ききからすくってきました。しかし今回は、かれしんじる正義せいぎ言葉ことばやいばとなり、おのれることとなりました。

 病床びょうしょう陸遜りくそんかお青白あおじろく、ほおせこけていました。そのそばらには、まだわか気鋭きえい将軍しょうぐん陸抗りくこうすわっていました。陸抗はちち陸遜りくそん息子むすこであり、後にの重要な武将ぶしょうとして知られます。

 「父上ちちうえ……どうして、ここまでに……」陸抗りくこうふるえるこえで問いかけました。

 「孫和そんかさまこそ正当せいとうだともうしただけです。それが、どうしてつみになるのです?」

 陸遜りくそんうす微笑ほほえみ、枕元まくらもとかれたすずりとしました。

 「こうよ。主上しゅじょう批判ひはんひかえよ。私は戦場せんじょう以外いがいたたかいではさいがなかっただけだ」

 「陛下へいか仕打しうちは、あまりにもひどい」

 「そこまでにしておけ。おまえにとっては叔父上おじうえであろう。おとしされたのだ」

 「父上ちちうえは、無念むねんではないのですか?私は無念むねんでなりません」

 その問い(とい)に、陸遜りくそんはしばしだまり込み、やがて微笑ほほえみをかべました。

 「張昭殿ちょうしょうどの周瑜殿しゅうゆどのきておられればな。詮無せんなきことだが」

 「丞相じょうしょうたる父上ちちうえこえ無視むししたのです。もはやだれ補佐ほさしても無駄むだなのかもしれません」

 「孫登様そんとうさまきていれば、こんなことには……ごとだな。わたしいたか」

 陸抗りくこうなみだこらえ、こぶしにぎりました。

 そんな息子むすこつめ、陸遜りくそん枕元まくらもとから一巻いっかんしょを取りしました。

 「これをて。わたしあゆんだ記録きろくだ勝利しょうりうらにある失敗しっぱい歓喜かんきかげにある後悔(こうかい――)すべてがまっている」

 陸抗りくこうだまってそれをけ取りました。表紙ひょうしにはただ一文字ひともじ、『まこと』とありました。

 「こうよ、私はちゅういた。しかし、おまえにはえらんでほしい。ただしきことをすには、とき沈黙ちんもくもまたけんである」

 「それは、父上ちちうえもっと苦手にがて武器ぶきではありませんか」

 「――苦手にがてなものほど、のち必要ひつようになるのだ」

 二人ふたりちいさくわらいました。

 そののち陸遜りくそんはゆっくりとじられました。

 「よきしょうとなれ、よきしんとなれ。そして、よきちちとなれ」

 それが陸遜りくそん最期さいご言葉ことばとなりました。享年きょうねん六十三ろくじゅうさん死後しごかれには「昭侯しょうこう」のおくりなおくられました。そのは、“ときらすもの”を意味いみします。



245年:赤烏せきう8年

 ――『ものちかい――陸抗りくこう決起けっき

 ちち陸遜りくそんそうわったよるかぜしずかで、そらにはひとつ、しろほそつきかんでいました。

 陸抗りくこうはひとり、ちち愛用あいようしていた書斎しょさいすわっていました。

 つくえうえには、ちちしるした『まこと』とだけしるされた一巻いっかんひらかれています。

 「“けんよりするどく、まことけんよりおもい”か……。まったく、父上ちちうえらしい言葉ことばです」

 ひとごとにしては、こえねつがこもっていました。

 ちち陸遜りくそんは、ただの軍人ぐんじんではありませんでした。

 かれ名将めいしょうとして、数多あまた戦場せんじょうせいし、巧妙こうみょう戦術せんじゅつふか知恵ちえおおくの部下ぶかたみまもいたおとこ

 その遺志いしぐことは、簡単かんたんなことではありません。陸抗りくこうはその重責じゅうせきを、みて感じていました。

 だが、それでもかれ決意けついしていました。

 ちち背中せなかい、未来みらい背負せおって覚悟かくごを。

 ――その決意けついむねいだいていたそのとき突然とつぜんたたかれました。

 「……失礼しつれいいたします。陸将軍りくしょうぐん、お入り(はい)しても?」

 あらわれたのは、呂岱りょたいでした。

 呂岱りょたいは、長年ながねん陸遜りくそんともささえてきた老練ろうれん政治家せいじかであり、軍事ぐんじのベテランです。

 「陸将軍りくしょうぐん――いえ、もう“陸侯りくこう”とぶべきでしょうな」

 陸抗りくこうだまってうなずきました。

 ちち死後しごかれはその大任たいにんぐことをめいじられ、領兵将軍りょうへいしょうぐん任命にんめいされたのです。

 その命令めいれいけたとき、陸抗りくこうこころなかでこうちかいました。

 「わたしぐのは、ただのへいではありません。父上ちちうえきずげた信頼しんらいと、たみいのち――それをまもるために、私はがる」

 「いえ、まだわかい。だからこそ、おぬし背負せおうべき重責じゅうせきおもうと、こころから応援おうえんしたい」

 「ありがとうございます。しかし、私は父上ちちうえ背中せなかつづけるだけではりません。私自身じしんみちを――」

 「みちひらくか。なるほど、よい覚悟かくごだ。だが、まずは実行じっこうだ」

 呂岱りょたいおだやかなかおをしながらも、そのするどく、陸抗りくこう決意けついためすように見守みまもっていました。

 そのよる陸抗りくこうこころめました。

 ちちきずいたものをこわすことなく、ぎゃくにさらに強固きょうこなものにするためには、なにをすべきか――。

 そして、動向どうこう不穏ふおんだというしらせがとどきます。

 その瞬間しゅんかん陸抗りくこうはすぐに行動こうどう開始かいししました。

 ――戦場せんじょう

 呉軍ごぐんうごし、陸抗りくこうあたらたに任命にんめいされた領兵将軍りょうへいしょうぐんとして、ちち陸遜りくそんへいいで出陣しゅつじんしました。

 その軍勢ぐんぜいは、陸遜りくそん生前せいぜん指揮しきしていた部隊ぶたいそのものであり、熟練じゅくれんした兵士へいしたちがそろっていました。

 陸抗りくこうはその部隊ぶたい見渡みわたし、けっしてちいさなものではない責任せきにんおもさを感じかんじとったことでしょう。

 戦場せんじょうでは、陸抗りくこう指示しじいます。

 「前衛ぜんえいみぎ展開てんかい! 左翼さよく火矢ひやはなて! 守備隊しゅびたいうしろの突破とっぱふせげ!」

 その指揮しきぶりは見事みごとでした。

 ちちおしえをしっかりといでおり、そしてそれをみずからのあやつり、実行じっこううつしていました。

 戦場せんじょうなか敵軍てきぐんあわてふためき、魏軍ぎぐんはその混乱こんらんからなおることができませんでした。

 「突撃とつげき! 前進ぜんしん! これが父上ちちうえみちならば、わたしまよわずすすむのみ!」

 陸抗りくこうさけびました。

 やがて、戦いは勝利しょうりへとかたむきました。

 陸抗りくこうちち遺志いしむねに、そしてみずからの信念しんねんをもって、のためにたたかつづけることをちかったのです。



248年:赤烏十一年

 みやこ建業けんぎょう

 そのつめたいかぜ宮殿きゅうでん大廳だいていころ皇太子こうたいし孫和そん・わ魯王ろおう孫覇そん・はあらそいは、もはやめるすべを知らぬほどに激化げきかしていました。

 孫和は、呉の初代皇帝こうていである孫権そん・けん第三子だいさんしで、おだやかで人望じんぼうがあるとひょうされる皇太子です。一方いっぽう、孫覇は孫権の四男よんなんで、冷徹れいてつ性格せいかく王位おういへの野心やしんつよ人物じんぶつです。

 あらそいはもはや、兄弟きょうだい単純たんじゅん対立たいりつにとどまらず、呉の未来みらい決定けっていづける重大じゅうだいたたかいへと発展はってんしつつありました。

 「よ、どうしてもわたし排除はいじょするつもりか?」孫和はいきみました。あに、孫覇のつめたい眼差まなざしをけて。

 「何(なに十一)をうか。父上ちちうえ意志いししたがい、ものとするのだ」孫覇のこえは、まるでかたてつのようにつめたくひびきました。だがその言葉ことばうらには、重圧じゅうあつ焦燥しょうそうかくれていることに、孫和はづいていました。

 「もの、ということは……、わたしいのちも?」孫和の問い(とい)に、孫覇はわずかなをおいてから、にやりとわらみをかべました。

 「いのちうばうことなど、いまの私はかんがえていない。だが、王位おういれなければならぬ」その言葉ことばに、孫和のむねはひどくくるしくなりました。

 かれにとって、王位おういめぐあらそいは、このうえなくみじめでおそろしいものにおもえました。だが、すでにそのあらそいのさきには、数多あまた忠義ちゅうぎちかったものたちのいのちがかかっているのです。

 「おまえがそうであるのなら、私はこのままだまってはおれぬ」孫和はかっと見開みひらくと、冷静れいせいよそおいながらいました。

 そのとき、孫覇のうしろにっていたかげうごきました。

 「まさか、姉上まで……」全公主ぜんこうしゅ――孫権そん・けんむすめ孫魯班そん・ろはんである。彼女かのじょは、ひときわ冷徹れいてつ眼差まなざしをけて、二人ふたり兄弟きょうだいあらそいを見つめていました。

 「弟たちのあらそいをていて、なにも感じ(かんじ)ないわけではありません」全公主のこえは、冷徹れいてつでありながらもうつくしくひびきました。

 「ですが、私は皆さまの意志いし尊重そんちょうし、孫覇様そん・はさま支持しじいたします」その言葉ことばに、孫和の表情ひょうじょうゆがみました。

 「なんだと!? あなたまで、あいつにくのか!?」

 「当然とうぜんのことです。あなたには、父上の玉座はふさわしくありませんもの」

全公主は、冷静れいせいかえすと、あっさりとそらし、おとうといかりを無視むししました。

 孫和は、言葉ことばまらせながらも、無力感むりょくかんを感じずにはいられませんでした。

 「ですが、私を皇太子に命じたのは父上です。父上の決定をないがしろにされるのですか?」

全公主はほそめ、孫和をじっと見据みすえていました。

 「あらあら、父上はもうお年を召されています。もう、すっかり判断もにぶられていますわ。だからこそ、しっかりした私のようなものが後継者を見定めないといけません。私にふさわしい皇帝を」

 その瞬間しゅんかん、孫和は全公主が兄・孫覇そん・は支持しじする理由りゆうをようやく理解りかいしました。だが、孫和はけっしてがるつもりなどありませんでした。

 かれふかいきい込み、言葉ことばつむします。

 「わたしは、父上ちちうえの判断が間違っているとは思いません。そして、父上ちちうえのぞんだのは、こういったあらそいではないはずです。アナタたちが王位おうい執着しゅうちゃくするあまり、おおくのもの犠牲ぎせいになることに、私はこころいためています」

 その言葉ことばに、全公主は一瞬いっしゅん表情ひょうじょうえましたが、すぐにそれをかくし、しずかにせました。

 「孫和そん・わ、あなたも争いの虚しさを理解りかいしているのですね。それならば、アナタのお気持ち一つで、あらそいをけることができるのでは?」

 「無理むりです。私は父上ちちうえ意思いしまもるために、ここにつづけるのです!」

 ――そのとき宮殿きゅうでんそと突如とつじょうまひづめおとひびわたりました。なにかがきる予兆よちょうでした。

 「どうした?」全公主ぜんこうしゅするどく問い(と)いかけると、侍従じじゅういきらせてんできました。

 「陛下へいか騎兵隊きへいたいが……使者ししゃむかれるためにうごいています!」

 その知らせに、孫和は見開みひらき、そして瞬時しゅんじこころなかなにかがまったような感覚かんかくおぼえました。――これが、変局へんきょくはじまりか。

 「かせろ!」孫和は一歩いっぽまえすすみ、みじかめいじました。

 そして、同時どうじ全公主ぜんこうしゅいました。

 「ときたようね。わたしきます。私は負けるつもりなどないわよ」

 二宮にきゅうへんが、いよいよ本格化ほんかくかした。未来みらいけたたたかいが、宮廷内きゅうていないひろげられようとしていたのです。



248年(赤烏11年)――。

 二宮のにきゅうのへんは、の初代皇帝・孫権そんけんが晩年に直面した後継者こうけいしゃあらそいのことです。ここでは、その背景や主要人物をわかりやすく解説します。

皇太子こうたいし孫登そんとうについて

 孫登は孫権の長男ちょうなんで、かしこ温厚おんこう性格せいかくで知られていました。建安24年(219年)に皇太子に立てられ、当時とうじから多くの文官ぶんかん武将ぶしょう信頼しんらいされていました。特に呉を支えた名臣めいしんである魯粛ろしゅく陸遜りくそんらの支持しじを受け、「この人が後を継げば呉は安泰あんたい」と多くの人が考える存在でした。

● 孫登の後継者問題こうけいしゃもんだい

 しかし、241年(赤烏四年)、孫登は若くして病死びょうししてしまいます(享年33歳)。孫登には数人の息子むすこがいましたが、いずれもおさなく、彼らを後継者にすることは難しかったのです。そこで孫権は別の息子の中から後継者を選ぶ必要がありました。候補に挙がったのが二人です。

 孫和そんかは孫登の三男さんなんで、聡明そうめいかつ人望じんぼうも厚く、母は正室せいしつ王夫人おうふじんでした。

 一方、孫覇そんはは孫権の第四子だいよんしで、勇ましく野心家やしんかでした。母は孫権の寵妃ちょうひである潘夫人はんふじんです。

 孫和は正統せいとうな皇太子候補として赤烏10年(247年)に正式に太子となりました。しかし、孫覇も自らの能力のうりょく出自しゅつじに自信を持ち、「兄と張り合おう」と動き始めました。

● 取り巻きたちの暗躍あんやく

 この頃から宮廷内きゅうていないでは、孫和派そんわは孫覇派そんははの対立が激化げきかします。両派の取り巻き、すなわち家臣かしん宦官かんがん姻族いんぞくがそれぞれ裏でさくを巡らせました。

 孫和派の中心は張休ちょうきゅう顧譚こたんといった穏健おんけん忠義ちゅうぎを重んじる人物たち。

 一方、孫覇派の中心は呂拠りょきょ孫峻そんしゅん、そして宦官のような陰謀家いんぼうかタイプでした。孫峻は後に政権せいけんを乗っ取るほどの策士さくしで、二宮の変の混乱に深く関わります。

 両派は互いを中傷ちゅうしょうし、孫権の前で相手をおとしめ合いました。これにより孫権は疑心暗鬼ぎしんあんきとなり、やがて誰も信じられなくなっていきます。

● 孫権の娘の陰謀いんぼう

 ここで登場するのが孫権の娘の一人、孫魯班そんろはんです。彼女は策略さくりゃくけ、政争せいそうにも積極的に関与かんよしたことで知られています。おっとである全琮ぜんそうは有力な武将ぶしょうであり、政界せいかいでも強い影響力えいきょうりょくを持っていました。

 孫魯班は孫覇派に加担かたんし、孫和を中傷する讒言ざんげんを孫権に伝え、太子妃(たいしひ=孫和の妻)を自害じがいに追い込むよう仕向け、さらに王夫人(孫和の母)を毒殺どくさつさせようとした説もあります。執拗しつよう攻撃こうげきを続けていきました。

結末けつまつ:二宮の変とは何か?

 赤烏11年(248年)、孫権はこの兄弟争いに耐えかね、孫覇も孫和も共にはいしました。孫和は太子の座を剥奪はくだつされて庶人しょじんとなり、のちに自害します。孫覇は死罪しざいもしくは毒殺されたと伝えられます。

 これが「二つのふたつのみや、すなわち孫和と孫覇による争い」――二宮の変の実態です。その後、孫権は末の息子・孫亮そんりょうを後継者に立てましたが、彼はまだ若く、政治は孫峻ら有力者による専横せんおう政治となり、呉の政局せいきょくは混乱していきました。

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