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呉視点三国志:孫権の章⑥

248年:赤烏十一年(せきう・じゅういちねん)『言葉(ことば)の剣(けん)、策(さく)の矢(や) —諸葛恪(しょかつかく)、建業(けんぎょう)に立(た)つ—』

 建業(けんぎょう)の政庁(せいちょう)は、いつになく張(は)り詰(つ)めた空気(くうき)に包(つつ)まれていました。魏(ぎ)の情勢(じょうせい)は読(よ)めません。

 蜀(しょく)では姜維(きょうい)が再(ふたた)び北(きた)へと軍(ぐん)を動(うご)したとの報(ほう)が入(はい)ったばかりです。南(みなみ)の呉(ご)にとっては、静(しず)かなる嵐(あらし)の予兆(よちょう)に等(ひと)しいものでした。

 その日(ひ)、政庁(せいちょう)に集(あつ)められた重臣(じゅうしん)たちの前(まえ)で、最(もっと)も鋭(するど)く言葉(ことば)を放(はな)ったのは、若(わか)き才人(さいじん)諸葛恪(しょかつかく)でした。

 彼(かれ)は諸葛瑾(しょかつきん)の息子(むすこ)であり、諸葛亮(しょかつりょう)の甥(おい)にあたります。父(ちち)譲(ゆず)りの弁舌(べんぜつ)と、叔父(おじ)譲(ゆず)りの戦略眼(せんりゃくがん)を兼(か)ね備(そな)えた政治家(せいじか)であり武将(ぶしょう)です。口(くち)は灼熱(しゃくねつ)、頭(あたま)は冷徹(れいてつ)――それが彼(かれ)の評(ひょう)でした。

 「魏(ぎ)の使者(ししゃ)がまた“善隣外交(ぜんりんがいこう)”などとほざ(ざ)いてきたようですが、その手紙(てがみ)の末尾(まつび)には、“呉(ご)が誤(あやま)れば再(ふたた)び雷霆(らいてい)を落(お)とす”と記(しる)されていましたな。これは脅(おびや)かしか、それとも詩(し)のつもりか」

 唇(くちびる)を歪(ゆが)めて笑(わら)う諸葛恪(しょかつかく)に、重臣(じゅうしん)のひとりが苦笑(くしょう)を浮(う)かべます。

 「魏(ぎ)らしい言(い)い回(まわ)しですな」

 「ええ、実(じつ)に魏(ぎ)らしい。前文(ぜんぶん)に礼節(れいせつ)、後文(こうぶん)に剣(けん)。文字(もじ)のつくりが仏(ほとけ)でも、へんが刀(かたな)じゃ信用(しんよう)ならん」

 言葉(ことば)を続(つづ)けながらも、諸葛恪(しょかつかく)の指(ゆび)は卓上(たくじょう)の地図(ちず)をなぞっていました。魏(ぎ)、蜀(しょく)、呉(ご)の国境線(こっきょうせん)を鋭(するど)く見(み)つめます。

 「姜維(きょうい)が動(うご)いた以上(いじょう)、魏(ぎ)は北(きた)に意識(いしき)を向(む)けねばなりません。その隙(すき)を、我々(われわれ)がどう活(い)かすか……そこが肝心(かんじん)です」

 その隣(となり)に控(ひか)えていたのは、まだ若(わか)き将軍(しょうぐん)、陸抗(りくこう)です。先代(せんだい)・陸遜(りくそん)の後(あと)を継(つ)ぎ、領兵将軍(りょうへいしょうぐん)となったばかりですが、父(ちち)の遺志(いし)と才知(さいち)を確(たし)かに受(う)け継(つ)いでいます。

 「ですが、姜維(きょうい)殿(どの)の戦果(せんか)は未知数(みちすう)。蜀(しょく)が敗(やぶ)れれば、魏(ぎ)の報復(ほうふく)が南(みなみ)に向(む)かう恐(おそ)れもあります」

 陸抗(りくこう)は静(しず)かに意見(いけん)を挟(はさ)みます。

 諸葛恪(しょかつかく)はその言葉(ことば)を遮(さえぎ)ることなく、頷(うなず)きました。

 「見事(みごと)な慎重(しんちょう)さだ、陸抗(りくこう)。だが策(さく)とは、慎重(しんちょう)さと大胆(だいたん)さが釣(つ)り合(あ)わねば成(な)り立(た)たん。魏(ぎ)が姜維(きょうい)に気(き)を取(と)られている間(あいだ)に、我(わ)らは江陵(こうりょう)と武昌(ぶしょう)の守(まも)りを固(かた)める。表(おもて)では友好(ゆうこう)を演(えん)じ、裏(うら)では備(そな)えを整(ととの)える――まるで芝居(しばい)ですな」

 「では、姜維(きょうい)に支援(しえん)の使者(ししゃ)を?」

 ある若(わか)い文官(ぶんかん)が問(と)います。

 諸葛恪(しょかつかく)は扇(おうぎ)を畳(たた)んで言(い)いました。

 「さすがにそれは露骨(ろこつ)すぎます。だが、言葉(ことば)の裏(うら)にもう一(ひと)つの真意(しんい)を込(こ)めるのは我々(われわれ)の得意分野(とくいぶんや)でしょう。友好(ゆうこう)の言葉(ことば)で魏(ぎ)を惑(まど)わせ、行動(こうどう)では呉(ご)の地(ち)を鉄壁(てっぺき)にする」

 陸抗(りくこう)が一歩(いっぽ)前(まえ)に出(で)ます。

 「では私(わたし)に、軍(ぐん)の再編(さいへん)と補給線(ほきゅうせん)の整理(せいり)をお任(まか)せください。戦(たたか)わずして備(そな)える、これもまた父(ちち)の教(おし)えです」

 「頼(たの)もしいな、陸将軍(りくしょうぐん)。まるで陸遜(りくそん)殿(どの)がそこに立(た)っておられるようだ」

 政庁(せいちょう)の空気(くうき)が、僅(わず)かに和(やわ)らぎました。

 鋭(するど)い舌(した)と冷静(れいせい)な目(め)――諸葛恪(しょかつかく)の策(さく)。

 静(しず)かに燃(も)える忠義(ちゅうぎ)と策謀(さくぼう)への信(しん)――陸抗(りくこう)の覚悟(かくご)。

 二人(ふたり)の若(わか)き才(さい)が、呉(ご)という大船(たいせん)を動(うご)かし始(はじ)めていたのです。



249年:赤烏(せきう)12年

 長江(ちょうこう)のほとりに冷たい風が吹いていました。徐盛(じょせい)は病に倒れ、そのまま静かに息を引き取りました。彼は孫呉(そんごう)建国(けんこく)の柱(はしら)として数々の防衛戦(ぼうえいせん)を成功させた名将(めいしょう)であり、その死は朝廷(ちょうてい)に深い衝撃(しょうげき)を与えました。

 建業(けんぎょう)の城外(じょうがい)、徐盛の墓前(ぼぜん)には黒衣(こくい)の男が一人、静かに立っていました。朱然(しゅぜん)です。彼もまた呉の宿将(しゅくしょう)として幾多(いくた)の戦場(せんじょう)をくぐり抜けてきた男であり、厳格(げんかく)な外見(がいけん)に反して情(なさけ)に厚く、部下思いとして知られています。

「徐盛……お前(まえ)がいなくなって、戦(いくさ)が静かに思えてならん」

 朱然はかすれた声でつぶやきました。彼の目には光が宿っておらず、その背中には年老いた将軍(しょうぐん)の疲れがにじんでいました。

「戦場での背中、今でもはっきり思い出せる。あのとき、お前がいなけりゃ、濡須口(じゅすこう)で俺は魏(ぎ)に討たれていたろう」

 そのとき背後(はいご)から足音(あしおと)がしました。丁奉(ていほう)と陸抗(りくこう)でした。丁奉はかつて徐盛の副将(ふくしょう)として戦ったこともあり、朱然とも親しい間柄(あいだがら)です。陸抗は若き将(しょう)として、父・陸遜(りくそん)の志(こころざし)を継ぎ、成長著しい俊英(しゅんえい)でした。

「朱然殿(どの)、冷えますな。まるで徐将軍(じょしょうぐん)が上から我らを見ているようです」

「見てるとも。『まだ泣くな、愚か者(おろかもの)ども。酒でも酌み交わせ(くみかわせ)』って顔でな」

 丁奉の冗談(じょうだん)に、三人の間に一瞬笑いが走りましたが、すぐに静寂(せいじゃく)が戻りました。陸抗が真っすぐに墓に向かい、言葉を紡ぎました。

「徐将軍、父が常々申しておりました。貴殿(きでん)のごとき将(しょう)と並び立てたことを誇りに思うと。私も、貴殿の志を忘れずにまいります」

 そして一年後、朱然もまた病に倒れ、静かに世を去りました。彼の死もまた、呉の人々にとって大きな喪失(そうしつ)でした。

 朱然の葬儀(そうぎ)ののち、陸抗と丁奉は静かに語り合いました。

「これでまた、一つの時代(じだい)が終わった気がしますな」

「いや、終わらせるわけにはいかん。我らが次の柱となるのです」

 風が木々(きぎ)を鳴らしました。それは、往きし英雄(えいゆう)たちの声のように響いていました。



252年:建興(けんこう)元年(がんねん))

 建業(けんぎょう)の空(そら)は、薄墨(うすずみ)を流したように曇(くも)っていました。鐘(かね)の音(おと)が都(みやこ)じゅうに響(ひび)き渡(わた)り、人々(ひとびと)は黙(だま)して頭(あたま)を垂(た)れていました。呉(ごう)の礎(いしずえ)を築(きず)いた大帝(たいてい)、孫権(そんけん)が、ついに世(よ)を去(さ)ったのです。

 宮殿(きゅうでん)の奥(おく)、静(しず)まり返(かえ)った正殿(せいでん)にて、若(わか)き新帝(しんてい)・孫亮(そんりょう)が即位(そくい)の儀(ぎ)を受(う)けていました。年(とし)わずか十歳(じゅっさい)。重責(じゅうせき)にはあまりに幼(おさな)く、政(まつりごと)の舵(かじ)を誰(だれ)が握(にぎ)るか、朝廷(ちょうてい)ではさまざまな思惑(しわく)が渦巻(うずま)いておりました。

 その儀の裏手(うらて)。ひとりの男(おとこ)が、沈(しず)んだ顔(かお)で庭(にわ)を見つめていました。

 彼の名(な)は丁奉(ていほう)。武勇(ぶゆう)に優(すぐ)れ、北伐(ほくばつ)や江防(こうぼう)に幾度(いくど)も戦功(せんこう)を挙(あ)げた名将(めいしょう)です。若(わか)い頃(ころ)から兵士(へいし)の中(なか)で鍛(きた)えられ、飾(かざ)らぬ物言(ものい)いと胆力(たんりょく)で知られています。このたび偏将軍(へんしょうぐん)に昇進(しょうしん)し、次代(じだい)の柱石(ちゅうせき)として期待(きたい)されていました。

「……賢(かしこ)くも、ずいぶんと小(ちい)さな背中(せなか)だな」

 丁奉は、幼(おさな)い孫亮(そんりょう)が玉座(ぎょくざ)に就(つ)く姿(すがた)を思(おも)い返(かえ)し、ぽつりと漏(も)らしました。

「丁将軍(ていしょうぐん)、あれはまだ子供(こども)に過(す)ぎません。玉座にいるのは獅子(しし)ではなく、子猫(こねこ)ですよ」

 にやりと笑(わら)って現(あらわ)れたのは、諸葛恪(しょかつかく)でした。先帝(せんてい)の信任(しんにん)篤(あつ)く、知略(ちりゃく)に長(た)けた人物(じんぶつ)です。尊大(そんだい)な物言(ものい)いも多(おお)いものの、それに見合(みあ)う実力(じつりょく)を備(そな)えていました。

「猫(ねこ)も牙(きば)を持(も)つ日(ひ)が来(き)ましょう。問題(もんだい)は、それまで国(くに)が持(も)ちこたえられるかですな」

「いっそ将軍(しょうぐん)が牙になってはどうです? あの若(わか)にとって」

「そう言(い)うあなたは、爪(つめ)になるつもりかね?」

 ふたりは視線(しせん)を交(か)わし、含(ふく)み笑(わら)いを交(か)わしました。

 その場(ば)へ、陸抗(りくこう)が静(しず)かに現(あらわ)れました。若(わか)くして父(ちち)・陸遜(りくそん)の遺志(いし)を継(つ)ぎ、智勇(ちゆう)を兼(か)ね備(そな)える将(しょう)として注目(ちゅうもく)されていました。丁奉とは旧知(きゅうち)の間柄(あいだがら)です。

「孫権様(そんけんさま)の遺志は、武(ぶ)でなく、和(わ)にありました。争(あらそ)いではなく、支(ささ)える道(みち)を選(えら)ばねばなりません」

「……言(い)ってくれる。お主(ぬし)の父上(ちちうえ)に叱(しか)られそうだ」

 丁奉はわざと肩(かた)をすくめ、空(そら)を見上(みあ)げました。

「だが、乱世(らんせい)は待(ま)ってくれん。北(きた)の魏(ぎ)は牙(きば)を研(と)いでいる。蜀(しょく)もいつまた戦(いくさ)を始(はじ)めるか……私(わたし)らが腰(こし)を落(お)ち着(つ)けている暇(ひま)はなさそうだ」

「されど、兵(へい)を振(ふ)るう前(まえ)に知恵(ちえ)を振(ふ)るう。それが呉(ご)の道(みち)かと」

 陸抗(りくこう)の言葉(ことば)に、諸葛恪(しょかつかく)が皮肉(ひにく)を込(こ)めて笑(わら)いました。

「――ならば、われらが道(みち)を誤(あやま)らぬよう、しっかり見張(みは)っていてくれ、陸将軍(りくしょうぐん)」

「お互(たが)いに、ですね。国(くに)を支(ささ)えるのは、いつの世(よ)も人(ひと)の志(こころざし)ですから」

 三人(さんにん)の視線(しせん)は、次第(しだい)に晴(は)れゆく空(そら)へと向(む)けられました。帝(みかど)が替(か)わっても、国(くに)は止(と)まることなく進(すす)んでいきます。

 丁奉(ていほう)の心(こころ)には、決意(けつい)の火(ひ)が灯(とも)っていました。

 たとえ帝(みかど)が幼(おさな)かろうと、この国(くに)を守(まも)る。かつて孫権(そんけん)の旗(はた)の下(もと)で共(とも)に戦(たたか)った戦友(せんゆう)たちの志(こころざし)を、自分(じぶん)が継(つ)いでみせると。



252年:建興元年(けんこうがんねん))

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■ 孫呉(そんご)の人事制度(じんじせいど)(252年(ねん)頃(ごろ))

 三国時代(さんごくじだい)の呉(ご)は、孫権(そんけん)(182年~252年。呉の初代皇帝であり、長期政権(ちょうきせいけん)を築(きず)いた君主(くんしゅ))が国家を治めていました。孫権が強(つよ)く君主として支配(しはい)したことで、中央(ちゅうおう)と地方(ちほう)にまたがる独自(どくじ)の人事制度(じんじせいど)が発展(はってん)しました。基本的(きほんてき)には、かつての漢代(かんだい)の官制(かんせい)を引(ひ)き継(つ)ぎつつも、戦乱(せんらん)という激(はげ)しい時代(じだい)の実情(じつじょう)に合(あ)わせて、軍事(ぐんじ)と行政(ぎょうせい)が緊密(きんみつ)に結(むす)ばれた特徴(とくちょう)のある体制(たいせい)でした。

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● 武官(ぶかん)の階級(かいきゅう)と役割(やくわり)

 呉(ご)の武官制度(ぶかんせいど)は、戦場(せんじょう)で指揮(しき)が取りやすいように柔軟(じゅうなん)に階級(かいきゅう)が編成(へんせい)されていました。

 最も上(うえ)の地位(ちい)にあるのが「大将軍(だいしょうぐん)」で、これは国家(こっか)の軍事全体(ぐんじぜんたい)を統括(とうかつ)する責任者(せきにんしゃ)です。たとえば陸遜(りくそん)(183年~245年。呉の有力な将軍(しょうぐん)であり、軍事・政治(せいじ)の両面(りょうめん)で重要(じゅうよう)な役割(やくわり)を果(は)たしました)が丞相(じょうしょう)を兼任(けんにん)していたこともあり、強(つよ)い発言力(はつげんりょく)を持(も)っていました。

 その次(つぎ)に「征西将軍(せいせいしょうぐん)」「征北将軍(せいほくしょうぐん)」などの将軍号(しょうぐんごう)があり、これらは戦場(せんじょう)の地域(ちいき)や任務(にんむ)に応(おう)じて与(あた)えられます。

 さらに「都督(ととく)」という役職(やくしょく)があり、これは複数(ふくすう)の将軍(しょうぐん)を統括(とうかつ)する地域(ちいき)の軍政長官(ぐんせいちょうかん)です。たとえば「荊州都督(けいしゅうととく)」「西陵都督(せいりょうととく)」があり、軍事(ぐんじ)と行政(ぎょうせい)の両方(りょうほう)にわたる権限(けんげん)を持(も)っていました。

 中間(ちゅうかん)の階級(かいきゅう)には、「校尉(こうい)」「偏将軍(へんしょうぐん)」「牙門将(がもんしょう)」などがあり、これらは部隊(ぶたい)を実際(じっさい)に指揮(しき)する役目(やくめ)を担(にな)っていました。これらの地位は、身分(みぶん)よりも戦功(せんこう)や実績(じっせき)を重視(じゅうし)して与(あた)えられました。

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● 文官(ぶんかん)の階級(かいきゅう)と職掌(しょくしょう)

 文官(ぶんかん)制度(せいど)は、かつての漢王朝(かんおうちょう)の九卿(きゅうけい)や三公制度(さんこうせいど)を引(ひ)き継(つ)ぎつつも、軍政(ぐんせい)との結(むす)びつきが強(つよ)まりました。

 国家(こっか)の政治(せいじ)をまとめるのが「丞相(じょうしょう)」や「大司徒(だいしと)」などの高位官職(こういかんしょく)で、政策(せいさく)を立(た)てたり役人(やくにん)を採用(さいよう)したり、法律(ほうりつ)を整(ととの)えたりします。

 中央(ちゅうおう)の政庁(せいちょう)には「中書令(ちゅうしょれい)」「尚書令(しょうしょれい)」という重要(じゅうよう)な役職(やくしょく)があり、天皇(てんのう)からの詔勅(しょうちょく)を起草(きそう)したり、役人の任免(にんめん)、財政(ざいせい)や軍事(ぐんじ)の統制(とうせい)を担当(たんとう)しました。

 地方(ちほう)では「刺史(しし)」「太守(たいしゅ)」が郡(ぐん)や州(しゅう)ごとに置(お)かれ、治安維持(ちあんいじ)や税金(ぜいきん)徴収(ちょうしゅう)、軍隊(ぐんたい)の指揮(しき)などの権限(けんげん)を持(も)っていました。刺史(しし)は州全体(しゅうぜんたい)の監察官(かんさつかん)として見張(みは)りの役目(やくめ)を果た(はた)し、太守(たいしゅ)は実際(じっさい)に行政(ぎょうせい)を取り仕切る長官(ちょうかん)で、軍事行動(ぐんじこうどう)を指揮(しき)することもありました。

 下級(かきゅう)の役人(やくにん)には「主簿(しゅぼ)」「書佐(しょさ)」がおり、彼らは書類(しょるい)作成(さくせい)や命令伝達(めいれいでんたつ)、実務処理(じつむしょり)を補助(ほじょ)しました。

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● 俸給(ほうきゅう)制度(せいど)と権限(けんげん)

 呉(ご)の役人(やくにん)たちは「禄(ろく)」と呼(よ)ばれる米(こめ)の量(りょう)で給料(きゅうりょう)が決(き)められていました。この米の量は「石(こく)」という単位(たんい)で表(あらわ)され、最高級(さいこうきゅう)の役人(やくにん)には一万石(いちまんごく)以上(いじょう)が支給(しきゅう)されることもありました。

 例(たと)えば――

 丞相(じょうしょう)・大将軍(だいしょうぐん)級(きゅう):一万石(いちまんごく)前後(ぜんご):概算年収: 約2億4千万円

 将軍(しょうぐん)・刺史(しし)・尚書(しょうしょ)級:二千(にせん)~三千石(さんぜんごく):概算年収: 約4,800万円~7,200万円

 校尉(こうい)・太守(たいしゅ)・県令(けんれい):千石(せんごく)前後(ぜんご):概算年収: 約2,400万円

 主簿(しゅぼ)・郎中(ろうちゅう)など:数百石(すうひゃくごく):概算年収: 約数百万~1千万円程度

 また恩賞(おんしょう)として「食邑(しょくゆう)」と呼(よ)ばれる特定(とくてい)の土地(とち)からの収穫物(しゅうかくぶつ)や税収(ぜいしゅう)を自分(じぶん)の領地(りょうち)として受(う)け取(と)ることもありました。

 武官(ぶかん)は軍隊(ぐんたい)の動員(どういん)・訓練(くんれん)・戦闘指揮(せんとうしき)の権限(けんげん)を持(も)ち、戦場(せんじょう)では即断(そくだん)して行動(こうどう)できました。文官(ぶんかん)は日常(にちじょう)の行政(ぎょうせい)・司法(しほう)・財政(ざいせい)を担当(たんとう)し、中央(ちゅうおう)からの命令(めいれい)を実行(じっこう)する役割(やくわり)を果た(はた)しました。

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● 孫呉の人事制度の特徴(とくちょう)まとめ

・軍事(ぐんじ)と政治(せいじ)が密接(みっせつ)に結(むす)びついている

・実績(じっせき)重視(じゅうし)で柔軟(じゅうなん)な役職(やくしょく)配置(はいち)がなされる

・武官(ぶかん)も文官(ぶんかん)も禄(ろく)や食邑(しょくゆう)で報(むく)われる

・地方(ちほう)には刺史(しし)や太守(たいしゅ)が軍政(ぐんせい)を兼務(けんむ)

・将軍(しょうぐん)や都督(ととく)が軍事(ぐんじ)を統括(とうかつ)し、丞相(じょうしょう)などの文官(ぶんかん)が政務(せいむ)を総括(そうかつ)

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