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呉視点三国志:孫権の章④

241年(赤烏4年)

――春光(しゅんこう)の底(そこ)に、影(かげ)は落(お)ちて

春(はる)のやわらかな陽(ひ)ざしが中庭(なかにわ)に降(ふ)り注(そそ)ぎ、紅白(こうはく)の梅(うめ)が静(しず)かに花開(はなひら)いていた。風(かぜ)はなく、空気(くうき)はひっそりと張(は)りつめている。まるで、何(なに)かを隠(かく)しているような静(しず)けさだった。

呉(ご)の都(みやこ)・建業(けんぎょう)の宮殿(きゅうでん)の奥(おく)、書斎(しょさい)の一室(いっしつ)。老(お)いた皇帝(こうてい)・孫権(そんけん)が、机(つくえ)にもたれかかるように身(み)を伏(ふ)せていた。かつて彼(かれ)は、戦場(せんじょう)を駆(か)け抜(ぬ)けて江東(こうとう)を統(す)べ、魏(ぎ)や蜀(しょく)と覇(は)を競(きそ)った名将(めいしょう)であり、父(ちち)・孫堅(そんけん)、兄(あに)・孫策(そんさく)から家(いえ)を継(つ)いだ武人(ぶじん)である。

しかし今(いま)、その背(せ)にはもはや若(わか)き日の覇気(はき)はなかった。彼(かれ)の手(て)には、一通(いっつう)の書状(しょじょう)が握(にぎ)られていた。それは、八年前(はちねんまえ)に亡(な)くなった長男(ちょうなん)・孫登(そんとう)の遺筆(いひつ)だった。

孫登(そんとう)は温厚(おんこう)で学問(がくもん)に優(すぐ)れ、若(わか)くして皇太子(こうたいし)に立(た)てられた人物(じんぶつ)であった。臣下(しんか)からの人望(じんぼう)も厚(あつ)く、孫権(そんけん)自身(じしん)も深(ふか)く期待(きたい)していた。

「……あの子(こ)が、先(さき)に逝(い)くとはの……」

孫権(そんけん)のかすれた声(こえ)が、部屋(へや)の静(しず)けさの中(なか)に沈(しず)み込(こ)んでいく。侍臣(じしん)たちは誰(だれ)も言葉(ことば)を発(はっ)せず、ただうつむいていた。

文(ふみ)の末尾(まつび)には、こう書(か)かれていた。

「父上(ちちうえ)、ご自愛(じあい)くださいますように――」

孫権(そんけん)はそれを見(み)つめ、ふっとかすかに笑(わら)った。

「ふっ……余(よ)の身(み)を、最後(さいご)まで気遣(きづか)うか。どこまでも、親孝行(おやこうこう)な子(こ)じゃ……」

周囲(しゅうい)の誰(だれ)もが、その背(せな)に声(こえ)をかけることができなかった。

やがて、ひとりの老臣(ろうしん)が進(すす)み出(で)て静(しず)かに口(くち)を開(ひら)いた。張休(ちょうきゅう)――孫策(そんさく)時代(じだい)から仕(つか)える古参(こさん)の文官(ぶんかん)であり、誠実(せいじつ)で礼儀(れいぎ)正(ただ)しい人物(じんぶつ)である。

「陛下(へいか)……春(はる)は巡(めぐ)れど、人(ひと)の世(よ)は留(とど)まりませぬ。ご悲嘆(ひたん)の中(なか)とは存(ぞん)じますが、国(くに)には柱(はしら)が必要(ひつよう)にございます。どうか、御決断(ごけつだん)を……」

孫権(そんけん)は、机(つくえ)の上(うえ)の玉璽(ぎょくじ)と筆(ふで)を見(み)つめていたが、しばしの沈黙(ちんもく)ののち、ゆっくりと立(た)ち上(あ)がった。

そして、低(ひく)くもはっきりとした声(こえ)で言(い)い放(はな)った。

「……孫和(そんか)を、皇太子(こうたいし)とする。群臣(ぐんしん)に伝(つた)えよ」

孫和(そんか)は、孫権(そんけん)の次男(じなん)であり、王夫人(おうふじん)を母(はは)に持(も)つ穏和(おんわ)な性格(せいかく)の青年(せいねん)だった。文(ぶん)に通(つう)じ、礼儀正(れいぎただ)しいものの、どこか気弱(きよわ)な印象(いんしょう)を与(あた)える面(めん)もあった。

この決定(けってい)は、ただちに宮中(きゅうちゅう)に伝(つた)わり、さまざまな波紋(はもん)を呼(よ)び起(お)こすこととなる。

その夜(よる)、月(つき)が白(しろ)く瓦屋根(かわらやね)を照(て)らす中(なか)、女官部屋(にょかんべや)では侍女(じじょ)たちが密(ひそ)やかに言葉(ことば)を交(か)わしていた。

「孫和様(そんかさま)が、お継(つ)ぎになるそうですわ」

「ええ、王夫人様(おうふじんさま)のお子(こ)ですし……お優(やさ)しい方(かた)ですけれど、ちょっとお顔(かお)に出(で)やすいのが……」

「そうそう、ちょっと怒(おこ)られたら真(ま)っ赤(か)になって……すぐ落(お)ち込(こ)んでしまうとか」

「でも……孫覇様(そんはさま)は、このまま黙(だま)っておられませんでしょうね」

孫覇(そんは)は孫権(そんけん)の四男(よんなん)で、潘夫人(はんふじん)の子(こ)。容姿端麗(ようしたんれい)で、軍事(ぐんじ)にも長(た)けており、武断派(ぶだんは)の中心(ちゅうしん)とされていた。重臣(じゅうしん)の中(なか)には彼(かれ)を推(お)す者(もの)も多(おお)かった。

「目(め)が違(ちが)うのよ、孫覇様(そんはさま)は。あれは、将軍(しょうぐん)の目ですわ」

「潘夫人様(はんふじんさま)の後押(あとお)しもあるし……静(しず)かに済(す)むとは思(おも)えませんわね」

「国(くに)が、ふたつに割(わ)れなければよろしいのだけれど……」

その囁(ささや)きは、夜風(よかぜ)に紛(まぎ)れて消(き)えていったが、確(たし)かにその夜(よる)、呉(ご)の中枢(ちゅうすう)には火種(ひだね)が落(お)とされたのだった。

後(のち)に「二宮(にきゅう)の変(へん)」と呼(よ)ばれる政争(せいそう)――。その始(はじ)まりは、春(はる)の静(しず)かな夜(よる)にあった。



241年(赤烏4年)

 西暦(せいれき)二四一年(にひゃくよんじゅういちねん)、赤烏(せきう)四年(よねん)の春。芍陂(しゃくひ)の戦地(せんち)では、早朝(そうちょう)から冷(つめ)たい風(かぜ)が吹(ふ)き、太鼓(たいこ)の音(おと)が乾(かわ)いた空気(くうき)を震(ふる)わせていた。

 顧承(こしょう)は、孫呉(そんご)という国(くに)で将軍(しょうぐん)を務(つと)める青年武将(せいねんぶしょう)であった。代々(だいだい)学者(がくしゃ)や官僚(かんりょう)を出(だ)してきた名家(めいか)・顧氏(こし)の出身(しゅっしん)で、若(わか)くして武芸(ぶげい)と知略(ちりゃく)を兼(か)ね備(そな)えた逸材(いつざい)と評判(ひょうばん)だった。

 この頃(ころ)、孫呉は北方(ほっぽう)に勢力(せいりょく)を拡(ひろ)げようとしており、魏(ぎ)との国境地帯(こっきょうちたい)で小競(こぜ)り合(あ)いが続(つづ)いていた。芍陂はその前線(ぜんせん)にあたり、補給(ほきゅう)や連絡(れんらく)の拠点(きょてん)として、魏軍(ぎぐん)にとっても重要(じゅうよう)な場所(ばしょ)であった。

 顧承は三百(さんびゃく)の兵(へい)を率(ひき)い、敵陣(てきじん)の補給所(ほきゅうしょ)への夜襲(やしゅう)を決断(けつだん)する。奇襲(きしゅう)に成功(せいこう)し、火矢(ひや)と剣戟(けんげき)で敵(てき)の兵站線(へいたんせん)を壊滅(かいめつ)させた。

 「突撃(とつげき)せよ! 一人(ひとり)も逃(に)がすな!」

 顧承は先頭(せんとう)に立(た)って陣形(じんけい)を切(き)り崩(くず)し、敵(てき)の弓車(きゅうしゃ)や兵糧庫(ひょうろうこ)を燃(も)やした。味方(みかた)の士気(しき)は最高潮(さいこうちょう)に達(たっ)し、戦果(せんか)は明(あき)らかだった。

 だが、この華々(はなばな)しい勝利(しょうり)こそが、顧承の命運(めいうん)を暗転(あんてん)させることとなる。

 当時(とうじ)の孫呉では、実力主義(じつりょくしゅぎ)を嫌(きら)い、家柄(いえがら)や政治的(せいじてき)なつながりを重視(じゅうし)する保守派(ほしゅは)が力(ちから)を握(にぎ)っていた。顧承のような若手(わかて)で急速(きゅうそく)に頭角(とうかく)を現(あらわ)す人物(じんぶつ)は、既得権益層(きとくけんえきそう)にとっては危険(きけん)な存在(そんざい)であった。

 特(とく)に顧承と対立(たいりつ)していたのが、同(おな)じ孫呉の重臣(じゅうしん)・全氏(ぜんし)である。全氏は豪族(ごうぞく)の出身(しゅっしん)で、政治家(せいじか)としても官僚(かんりょう)としても影響力(えいきょうりょく)が強(つよ)く、巧(たく)みに政敵(せいてき)を排除(はいじょ)してきたことで知られていた。

 「顧将軍(こしょうぐん)、あの戦(いくさ)の話(はなし)、少(すこ)しばかり出来過(できす)ぎてはおらぬか?」

 全氏は一見(いっけん)穏(おだ)やかに笑(わら)いながら、顧承に近(ちか)づいた。

 「兵数(へいすう)、戦果(せんか)、損害(そんがい)の少(すく)なさ……いずれも報告(ほうこく)とは釣(つ)り合(あ)わぬ」

 「戦(いくさ)は勢(いきお)いと天運(てんうん)によるもの。疑(うたが)うとは、味方(みかた)の努力(どりょく)を侮辱(ぶじょく)する言葉(ことば)ですな」

 「あるいは、報告(ほうこく)に粉飾(ふんしょく)があったかもしれぬ。真相(しんそう)は裁(さば)きの場(ば)で明(あき)らかにいたしましょう」

 やがて、全氏は根回(ねまわ)しを済(す)ませ、顧承を戦功詐称(せんこうさしょう)および虚偽報告(きょぎほうこく)の罪(つみ)で告発(こくはつ)した。顧承は抗弁(こうべん)する機会(きかい)すら与(あた)えられず、わずか数日(すうじつ)で裁定(さいてい)が下(くだ)った。

 「顧承、貴殿(きでん)には流刑(るけい)を申し渡(もうしわた)す」

 伝令官(でんれいかん)の声(こえ)は冷(つめ)たく、顧承の功績(こうせき)はすべて無効(むこう)とされ、官職(かんしょく)も剥奪(はくだつ)された。

 「ふっ、戦(たたか)いには勝(か)ったが、政(まつりごと)には敗(やぶ)れたか」

 顧承は笑(わら)って肩(かた)をすくめたが、その目(め)はどこか虚(うつ)ろだった。

 数日後(すうじつご)、顧承は都(みやこ)から流刑地(るけいち)へ護送(ごそう)される途中(とちゅう)、謎(なぞ)の刺客(しかく)に襲(おそ)われ命(いのち)を落(お)とした。刺客は顧承の護衛兵(ごえいへい)に扮(ふん)しており、抵抗(ていこう)も許(ゆる)さず、短剣(たんけん)で心臓(しんぞう)を一突(ひとつ)きしたという。

 誰(だれ)が背後(はいご)にいたのかは、記録(きろく)には残(のこ)されていない。ただ、その死(し)はあまりに整然(せいぜん)と、そして都合(つごう)よく処理(しょり)されていた。



241年:赤烏(せきう)四年

――徐盛(じょせい)、長江(ちょうこう)に砦(とりで)を築(きず)く――

 魏(ぎ)の皇帝(こうてい)・曹叡(そうえい)は再び剣(つるぎ)を南(みなみ)へと向(む)けました。

 「呉(ご)を屈服(くっぷく)させねば、天下(てんか)は我(わ)が手に入らぬ」

 そう公言(こうげん)し、数万(すうまん)の兵(へい)を動員(どういん)して大軍(たいぐん)を長江(ちょうこう)沿(ぞ)いへと派遣(はけん)したのです。

 この曹叡(そうえい)は、先代(せんだい)・曹丕(そうひ)の血(ち)を引(ひ)き継(つ)ぎながらも、豪胆(ごうたん)で攻撃的(こうげきてき)な策(さく)を好(この)む性格(せいかく)でした。だが軍略(ぐんりゃく)においては詰(つ)めが甘(あま)く、勝機(しょうき)を逸(いっ)することもしばしばでした。

 一方(いっぽう)、その南(みなみ)に陣取(じんど)る呉(ご)では、将軍(しょうぐん)・徐盛(じょせい)が静(しず)かに策(さく)を練(ね)っておりました。

 徐盛(じょせい)は、元(もと)は庶民(しょみん)の出身(しゅっしん)ながら、戦場(せんじょう)での冷静(れいせい)な判断(はんだん)と果敢(かかん)な行動(こうどう)で頭角(とうかく)を現(あらわ)した武将(ぶしょう)です。無口(むくち)ながら洞察(どうさつ)に富(と)み、豪胆(ごうたん)さと緻密(ちみつ)さを併(あわ)せ持(も)つ名将(めいしょう)でありました。

 その徐盛(じょせい)が、呉(ご)の重臣(じゅうしん)たちを前(まえ)に、静(しず)かに口(くち)を開(ひら)きました。

 「敵(てき)の大軍(たいぐん)は、威(い)に乗(の)じてまいりましょう。正面(しょうめん)から受(う)けては消耗戦(しょうもうせん)となります。されど――こちらから、城(しろ)を動(うご)かすのです」

 一同(いちどう)は顔(かお)を見合(みあ)わせました。

 「……城(しろ)を動(うご)かす、とは?」

 年長(ねんちょう)の将軍(しょうぐん)・呂岱(りょたい)が眉(まゆ)をしかめます。

 徐盛(じょせい)は笑(わら)みを浮(う)かべました。

 「彼(かれ)らが目(め)にするのは、長江(ちょうこう)にそびえる新(あたら)たな砦(とりで)。まるで鉄(てつ)の壁(かべ)です。船(ふね)を降(お)りる隙(すき)すら与(あた)えませぬ」

 「長江(ちょうこう)に砦(とりで)? まさか、短期間(たんきかん)で築(きず)けると?」

 「築(きず)きます。否(いな)、築(きず)かねば呉(ご)は滅(ほろ)びましょう。偽(にせ)の城郭(じょうかく)でよいのです。外形(がいけい)と威容(いよう)だけで敵(てき)を圧倒(あっとう)する」

 「つまり、敵(てき)の心(こころ)を砦(とりで)で挫(くじ)くと?」

 徐盛(じょせい)は頷(うなず)きました。

 「そうです。敵兵(てきへい)の士気(しき)を削(そ)ぎ、進軍(しんぐん)の意志(いし)を摘(つ)み取(と)ります。戦(たたか)わずして勝(か)つ、それが肝要(かんよう)です」

 呂岱(りょたい)は小(ちい)さく笑(わら)いました。

 「さすがは徐盛殿(じょせいどの)。口数(くちかず)は少(すく)なくとも、剣(けん)より鋭(するど)い策(さく)をお持(も)ちだ」

 「……それに比(くら)べて、我(わ)がらの口(くち)は軽(かる)いことこの上(うえ)ないですな」

 そう洒落(しゃれ)たのは朱然(しゅぜん)です。皆(みな)の緊張(きんちょう)がふっと和(やわ)らぎました。

 「よろしい。総出(そうで)で築城(ちくじょう)を始(はじ)めましょう。敵(てき)が来(く)る前(まえ)に、幻(まぼろし)を現(あらわ)にいたしますぞ」

 数日後(すうじつご)、徐盛(じょせい)の命(めい)のもと、呉(ご)の将兵(しょうへい)は昼夜(ちゅうや)を問(と)わず砦(とりで)を築(きず)きました。木(き)と布(ぬの)で急造(きゅうぞう)された城壁(じょうへき)は遠目(とおめ)には堂々(どうどう)たる構(かま)えに見(み)え、櫓(やぐら)からは旗(はた)が翻(ひるがえ)りました。火矢台(ひやだい)も備(そな)え、鐘楼(しょうろう)まで据(す)えられました。

 そしてついに――

 魏軍(ぎぐん)が長江(ちょうこう)を南下(なんか)してきます。無数(むすう)の船(ふね)が波(なみ)を裂(さ)き、鼓音(こおん)が響(ひび)きました。兵士(へいし)たちは槍(やり)を掲(かか)げ、士気高(しきたか)く押(お)し寄(よ)せてきます。

 だが、彼(かれ)らの目(め)に映(うつ)ったのは、かつて無(な)かった巨大(きょだい)な砦(とりで)でした。

 「……何(なに)だ、あれは? 地図(ちず)にない要塞(ようさい)が……!」

 「馬鹿(ばか)な! 一夜(いちや)であれほどの城(しろ)を?」

 魏軍(ぎぐん)の陣(じん)に動揺(どうよう)が走(はし)ります。船(ふね)の進軍(しんぐん)は滞(とどこお)り、舵取り(かじと)りは乱(みだ)れました。

 「これは罠(わな)ではないか?」

 「上陸(じょうりく)を強行(きょうこう)すれば、全滅(ぜんめつ)もあり得(え)る……」

 徐盛(じょせい)の狙(ねら)い通(どお)りです。

 砦(とりで)の陰(かげ)から、呉(ご)の弓兵(きゅうへい)が矢(や)を放(はな)ち、火矢(かや)が魏軍(ぎぐん)の船(ふね)に飛(と)び火(ひ)を付(つ)けました。慌(あわ)てて水(みず)を掻(か)き混(ま)ぜるも時(とき)すでに遅(おそ)し。火はあっという間(ま)に広(ひろ)がり、船団(せんだん)は混乱(こんらん)しました。

 こうして、徐盛(じょせい)の長江(ちょうこう)砦(とりで)築造(ちくぞう)は、呉(ご)に大きな勝利(しょうり)をもたらしたのです。

 「敵(てき)を知(し)り己(おのれ)を知(し)れば百戦(ひゃくせん)危(あや)うからず――策(さく)もまた兵(へい)なり」

 そう徐盛(じょせい)は呟(つぶや)き、夜空(よぞら)を見上(みあ)げました。星(ほし)は静(しず)かに瞬(またた)いています。



241年(赤烏(せきう)四年)

『静かなる柱(はしら)――陸遜(りくそん)、丞相(じょうしょう)に昇(のぼ)る』

 西暦(せいれき)244年。赤烏(せきう)7年の春――。

 孫呉(そんご)は新(あたら)しい岐路(きろ)に立っていました。魏(ぎ)との対立(たいりつ)、蜀(しょく)との連携(れんけい)、そして国内(こくない)の混乱(こんらん)が続いていたのです。

 そんな時代(じだい)に、ある男(おとこ)が重い責任(せきにん)を担(にな)うことになりました。

 陸遜(りくそん)――。

 呉郡(ごぐん)の名家(めいか)に生まれ、若(わか)くして学才(がくさい)に優(すぐ)れ、温厚篤実(おんこうとくじつ)な性格(せいかく)で知られていました。

 戦場(せんじょう)では冷静沈着(れいせいちんちゃく)、夷陵(いりょう)の戦いで蜀(しょく)の大軍(たいぐん)を火計(かけい)で破り、一躍(いちやく)名将(めいしょう)の座(ざ)に就(つ)いた人物(じんぶつ)です。

 その剛柔(ごうじゅう)併(あわ)せ持(も)つ才(さい)が、ついに国家(こっか)の屋台骨(やたいぼね)として期待(きたい)されました。

 その日、建業(けんぎょう)の朝堂(ちょうどう)は静(しず)まり返っていました。

 孫権(そんけん)は玉座(ぎょくざ)の上(うえ)から群臣(ぐんしん)を見渡(みわた)し、静かに言いました。

 「陸遜(りくそん)を丞相(じょうしょう)に任(にん)ずる。呉(ご)の政治(せいじ)を託(たく)すに足(た)る人物(じんぶつ)よ」

 その言葉(ことば)に場(ば)はどよめきました。武骨(ぶこつ)な将(しょう)、潘璋(はんしょう)が口(くち)を開きます。

 「殿(との)、陸将軍(りくしょうぐん)は確(たし)かに賢人(けんじん)ですが、丞相(じょうしょう)は軍(ぐん)と政治(せいじ)をまとめる大役(たいやく)。あまりに重(おも)すぎますぞ」

 孫権(そんけん)は眉(まゆ)をわずかに動かしました。

 「重(おも)いからこそ耐(た)えられる者(もの)が必要(ひつよう)なのだ。おぬしには火(ひ)を制(せい)した男(おとこ)の胆力(たんりょく)が見(み)えぬか?」

 その時(とき)、陸遜(りくそん)が一歩(いっぽ)進み出ました。

 その姿(すがた)はまるで静(しず)かに燃(も)える篝火(かがりび)のようでした。

 「過分(かぶん)なるお言葉(ことば)、恐悦(きょうえつ)至極(しごく)に存(ぞん)じます。しかし――」

 「“しかし”とは?」

 「私は軍(ぐん)を動(うご)かす者(もの)であって、朝政(ちょうせい)を好(この)む者(もの)ではありません。文官(ぶんかん)の書机(しょき)に縛(しば)られるより、兵(つわもの)の心(こころ)を見つめる方(ほう)が性(しょう)に合(あ)います」

 孫権(そんけん)はふっと笑(わら)いました。

 「だからこそお前(まえ)を選(えら)んだのだ。書机(しょき)に縛(しば)られる者(もの)ではなく、書机(しょき)を叩(たた)ける者(もの)がよい」

 陸遜(りくそん)はしばらく黙(だま)り、やがて深(ふか)く頭(あたま)を垂(た)れました。

 「では、その重(おも)み、しかと担(にな)わせていただきます。命(いのち)尽(つ)きるその日(ひ)まで、呉(ご)の礎(いしずえ)となりましょう」

 その瞬間(しゅんかん)、朝堂(ちょうどう)に漂(ただよ)っていた不安(ふあん)は、雪(ゆき)が解(と)けるように消(き)えました。

 誰(だれ)もが感じていました。

 ――この男(おとこ)ならば、国家(こっか)を支(ささ)えられると。

 その後(ご)、陸遜(りくそん)は丞相(じょうしょう)として内政改革(ないせいかいかく)を進(すす)め、地方豪族(ちほうごうぞく)との調和(ちょうわ)を図(はか)り、武(ぶ)と文(ぶん)のバランスを保(たも)つ政治(せいじ)を行(おこな)いました。

 無闇(むやみ)な征戦(せいせん)を避(さ)け、国力(こくりょく)の充実(じゅうじつ)を目指(めざ)すその姿勢(しせい)は、時(とき)に保守的(ほしゅてき)と批判(ひはん)されることもありました。

 しかし、彼(かれ)の信条(しんじょう)は一貫(いっかん)していました。

 「勝(か)ちとは敵(てき)を討(う)つことにあらず。国(くに)を保(たも)つことこそ真(しん)の勝利(しょうり)なり」

 それは武将(ぶしょう)でありながら、治者(ちしゃ)として生(い)きる覚悟(かくご)の言葉(ことば)でした。

――そして、丞相(じょうしょう)・陸遜(りくそん)。

 その名(な)は、孫呉(そんご)という船(ふね)の静(しず)かな舵取り(かじとり)として、後(のち)の世(よ)に語(かた)り継(つ)がれていくことになります。

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