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呉視点三国志:孫権の章③

234年:建興十二年

 蜀軍しょくぐんは、漢中かんちゅうの手前にあるせまい道、斜谷やこくすすんでいました。すでにてき魏軍ぎぐん追撃ついげきとおざかり、撤退てったい成功せいこうしたかにえました。しかし――。

 魏延ぎえんはみんなとはちがう道を取り、まっすぐ漢中かんちゅう目指めざして進軍しんぐんしていたのです。魏延は蜀の有能ゆうのう将軍しょうぐんですが、その強引ごういん性格せいかく問題もんだいを起こすこともありました。

 その知らせをいた楊儀ようぎは、冷静れいせい戦術せんじゅつけた参謀さんぼうですが、そのかおつよばってゆがみました。

 「なにをしているんですか……魏延に、別行動べつこうどうめいじたおぼえはありません!」

 報告ほうこくけ、楊儀はついにつくえたたいておこりを爆発ばくはつさせました。

 「これは謀反むほんです! ぐん命令違反めいれいいはんです!――馬岱ばたいけ。れ。あれは、諸葛亮しょかつりょうさまがしんじた軍を私情しじょうみだおとこだ!」

 馬岱はまゆをひそめましたが、やがて無言むごんでうなずきました。馬岱は魏延を討つことを任されたわかき将軍で、義理ぎりを重んじる誠実せいじつ人物じんぶつです。

 魏延は谷間たにまの道のさきがけした野原のはらへいととのえていました。楊儀をしのけ、自分が軍の主導権しゅどうけんにぎろうとしているのはあきらかでした。

 そこへ、馬のひづめおとひびきます。

 魏延はかえり、すぐに口元くちもとをゆがめてわらいました。

 「……馬岱か。まさか、おまえ刺客しきゃくじゃないだろうな」

 「ちがいます。ただ、めいたしにました」

 「ふん、命令めいれいしたがうだけの男か」

 「そうかもしれません。でも、それが軍です。アナタのように好き勝手すきかってにふるまう者は軍ではない」

 「お前はおれだれだとおもっている!? 最後さいご殿軍しんがりは誰がつとめた!? 誰が蜀軍を無事ぶじかえしたとおもっている!」

 「っています。だからこそ……せめて俺がやります」

 馬岱は手綱たづないてゆっくりと下馬げばし、そのしずかに、しかしするどく魏延を見据みすえました。

 「……いい目をするようになったな、小僧こぞうむかしの馬岱とは別人べつじんだ」

 「恐縮です。」

 そして、馬岱ばたいは大声を張り上げる。

 「皆の者、手を出すな。楊儀ようぎ様の勅命ちょくめい魏延ぎえん殿を斬る。だが、私もこの命令には不服である。何が正しいかは私と魏延ぎえん殿との一騎打ちで決める!」

 「言うではないか?俺に情けをかけたつもりか?」

 魏延はけんき、地面じめんりました。

 その剣は一直線いっちょくせんに馬岱をねらい、かぜるような太刀筋たちすじ空気くうきき、地面をえぐります。

 しかし馬岱は一歩いっぽきません。

 「私は殺されるつもりはありません。魏延ぎえん殿、申し訳ないが命を頂戴します。」

 たがいに一閃いっせん

 風が一瞬いっしゅんまりました。

 魏延は見開みひらいたままひざをつきました。

 「お前、つよくなったな……まさか……おれが……」

 「申しもうしわけありません……」

 馬岱の剣先けんさきから、一滴いってきが地面にちました。

 「お前のことはきらいじゃなかった……馬鹿正直ばかしょうじきなところがな……」

 魏延はそうのこし、膝からくずちました。

 翌朝よくあさ

 楊儀は魏延のくびを前に、つめたくはなちました。

 「反逆者はんぎゃくしゃ処分完了しょぶんかんりょう以上いじょうです」

 そのかおには、満足まんぞくかなしみもなく、ただうつろろな責任感せきにんかんだけがのこっていました。

 馬岱はそのつめ、だれにもこえないようにちいさくつぶやきました。

 「あなたがきていたら……きっとちが未来みらいもあったでしょうに……」



237年(嘉禾6年)― 凌統りょうとうの死

 「いまなにかがこったのか?」

 呉王ごおう孫権そんけんは、にした書状しょじょう無造作むぞうさにテーブルにいた。そのかおにはふかなやみがかんでいる。かれ目線もくせんとおく、部屋へやすみすわっていた家臣かしんたちにけられた。

 「…殿との、おおきたしかに。」

 かれ忠臣ちゅうしん陸遜りくそん孫権そんけん冷静れいせい態度たいどくちひらいた。陸遜りくそんは呉のすぐれた軍師ぐんしであり、孫権そんけんにとって最も信頼しんらいできる重臣じゅうしん一人ひとりだった。

 つづけて、丁奉ていほう言葉ことばえらぶように慎重しんちょうはなした。

 「凌統りょうとうさまが、急逝きゅうせいされたとのこと。あれほどのわかさで…」

 凌統りょうとう孫呉そんご将軍しょうぐんであり、わかくして戦場せんじょうけ、おおくの戦果せんかげていた。

 孫権そんけんかおひそめ、こころなか何度なんど反芻はんすうしていた言葉ことばがついにくちた。

 「何故なぜだ。かれぐんはしらだとおもっていたのに…」

 丁奉ていほうはその問い(とい)にこたえるすべを知ら(し)らず、だまってかれ見守みまもるしかなかった。

 陸遜りくそんがり、孫権そんけんかってふか一礼いちれいした。

 「無念むねんながら、凌統りょうとうさま功績こうせきけっしてわすれぬ。」

 「我々(われわれ)は、今後こんごかれのようにたたかつづけ、ささえるべきだ。」

 孫権そんけんかれつめ、無言むごんうなずいた。



237年(嘉禾6年)― 全琮ぜんそう朱桓しゅかんの対立

 廬江ろこういくさえ、もどった将軍しょうぐんたちのあいだに、不穏ふおん空気くうきただよはじめていた。

 「私は、再度さいど進攻しんこう提案ていあんします!」

 全琮ぜんそうは、廬江ろこうからの帰還きかん途中とちゅういくさへのあつ意欲いよくかくすことなくこえした。全琮ぜんそうは呉の有力ゆうりょくな将軍で、積極的せっきょくてき攻勢こうせい主張しゅちょうする人物じんぶつだ。かれはまるでほのおのようにえていた。

 「もう一度いちど領土りょうど圧迫あっぱくするのです!」

 その言葉ことばに、朱桓しゅかんするど視線しせんけた。朱桓しゅかんは呉の老練ろうれんな将軍で、冷静れいせい状況じょうきょう見極みきわめるタイプだった。

 「だが、我々(われわれ)の兵力へいりょく疲弊ひへいしている。無謀むぼう進撃しんげきは命取り(いのちとり)になる。」

 朱桓しゅかん慎重しんちょう反論はんろんしたが、全琮ぜんそうはその冷静れいせいさを挑戦ちょうせんめ、言葉ことばつよめてかえす。

 「なにもわかっていない! 我々(われわれ)がけば、挑戦ちょうせんみとめたことになり、我がわがくに威信いしんちる!」

 「威信いしんもとめるあまり、いのちてるわけにはいかぬ。」

 朱桓しゅかん冷静れいせいこたえたが、全琮ぜんそうはさらにはげしく舌鋒ぜっぽうるった。

 「我々(われわれ)が臆病おくびょうであっては、栄光えいこうはどうなる!」

 その言葉ことばに、周囲しゅうい空気くうき一瞬いっしゅんこおりついた。

 そののち全琮ぜんそう朱桓しゅかん判断はんだん反発はんぱつし、再度さいど進軍しんぐんつよ主張しゅちょうしたが、朱桓しゅかんによりそのうそあばかれ、責任せきにんわれることになった。



238年(嘉禾七年)― 朱然しゅぜん

 「いかに朱然しゅぜんが、われらのためにたたかったか――かたるまでもあるまい」

 主君しゅくん孫権そんけんは、しずかに言葉ことばしぼした。沈痛ちんつう面持おももちには、信頼しんらいしていた将軍しょうぐんうしなった悲しみが、ありありとにじんでいた。

 朱然しゅぜんわかくして孫家そんけつかえ、陸口りくこう防衛ぼうえいにんたしつづけた、まもりのかなめであった。

 「朱然ほど忠義ちゅうぎあつものは、われぐんにはほかにおらぬ」

 そうってせたのは、かつてかれ幾度いくど戦場せんじょうともにした名将めいしょう陸遜りくそんである。

 「だが、朱然しゅぜんいたむことは、もちろん大事だいじではあるが……」

 かれはそっとかおげた。

 「我々(われわれ)が、ここであゆみをめてはならぬ。それこそ、朱然しゅぜんたましいたいして無礼ぶれいというもの」

 その言葉ことばに、孫権そんけんおおきくうなずいた。

 「それゆえ、かれ葬儀そうぎ盛大せいだいおこなおう」

 すると、だまってみみかたむけていた丁奉ていほうが、ふかひざり、ゆっくりとこうべれた。

 「朱然しゅぜん功績こうせきは、われらがわすれることなく、かならずやこうつたえてまいりましょう」

 言葉ことばすくなに、しかししずかにおもく――朱然しゅぜんは、にとってひとつの時代じだいわりをげるものだった。



239年(嘉禾八年)― 曹叡そうえい

 「――曹叡そうえいが……くなった、か」

 孫権そんけんは、ほうせをると、しばし沈黙ちんもくした。ゆびさきにはちからがこもらず、ただてのひらかれたふみ見下みおろしていた。

 はどこかとおくをていた。かつては敵将てきしょうとして、また同時どうじ同世代どうせだい治者ちしゃとして、意識いしきつづけていた男――曹叡そうえい

 第二代皇帝こうていは、ついにった。

 「あらたな皇帝こうてい即位そくいしようと……我々(われわれ)の立場たちばわらぬ」

 そうった孫権そんけん声音こわねには、かすかな苛立いらだちと不安ふあんじっていた。

 たいする陸遜りくそんは、慎重しんちょう面持おももちで、言葉ことばつむぐ。

 「新帝しんていは、まだ若年じゃくねんおよんでおります。ゆえに、宮中きゅうちゅう動揺どうようや、政変せいへん見極みきわめねばなりますまい」

 孫権そんけんはゆっくりとうなずいた。だが、そのひとみ依然いぜんとして、きたそら彼方かなた――洛陽らくよう方向ほうこうにらんでいるようでもあった。

 しばしの静寂せいじゃくが、二人ふたりあいだながれる。

 皇帝こうていわる。

 それは、やがてにもかげとす――そのことを、だれよりも孫権そんけん理解りかいしていた。



241年(赤烏四年)―― 諸葛瑾しょかつきん

 「……諸葛瑾しょかつきんが、った、か」

 そのしらせを聞いたとき、孫権そんけんはまるで心臓しんぞうにぎられたように、いきまらせた。あずけていたはしらからこし、ながいためいきをひとつついた。

 「――諸葛瑾の死は、にとって、はかれぬ痛手いたでである」

 声音こわね怒気どきはなく、ただふか喪失そうしついろたたえていた。かずおおくの会議かいぎで、孫権そんけんとなりすわり、しずかに諫言かんげんべ、ときなごやかなみで空気くうきやわらげたおとこ――それが諸葛瑾しょかつきんだった。

 「かれ智慧ちえがなければ、われらは夷陵いりょう苦境くきょうも、合肥がっぴ苦境くきょうも、えられなかったでしょう」

 陸遜りくそんった。おくふかかなしみをたたえながら、けれど声音こわねらぎはなかった。

 「だが――」

 つづけた陸遜りくそん言葉ことばは、確信かくしんびていた。

 「かれ意志いしぎ、われらはあゆみをめてはなりませぬ。たたかいも、くにも、これからが正念場しょうねんばでございます」

 孫権そんけんはしばらく沈黙ちんもくしていたが、やがてゆっくりとこしげ、玉座ぎょくざあるした。両手りょうてひろげ、虚空こくう見上みあげる。

 「――諸葛瑾しょかつきんいまやすらかにねむるがよい。されど……」

 そこで、かれ言葉ことば区切くぎり、しずかに、けれどもはっきりとつづけた。

 「は、けっしてたおれぬ――そなたのこころざしかならまもってみせる」

 そのちかいは、殿とのはしらに、天井てんじょうに、そして、おのれむねに、ふかしずかにひびいた。



234年~237年

 西暦せいれき二三四年にひゃくさんじゅうよねんから二三七年にひゃくさんじゅうしちねんころ――。

 みやこ建業けんぎょうにはなつ気配けはいがただよい、政庁せいちょうにはつよ日差ひざしがんでいました。しゅりのはしら赤金せききんひかりらされてきらめき、建物たてもの荘厳そうごんさをいっそうてていました。

 その玉座ぎょくざすすたのは、諸葛恪しょかつ・かく

 わかくしてあたまれる俊英しゅんえいで、くち達者たっしゃなことで知られる人物じんぶつです。ちち重臣じゅうしん諸葛瑾しょかつ・きん。あの諸葛亮しょかつ・りょうあににあたります。かくは、やや生意気なまいきなところもありましたが、聡明そうめい理知的りちてき態度たいどをとり、ひととのきにもけていました。

 「――で、陛下へいか。やっぱりわたしくのですね?」

 諸葛恪しょかつ・かくかるあごき、わらみをかべながらたずねます。

 「ほかにだれがいる」

 孫権そん・けん即答そくとうし、手元てもと酒杯しゅはいたくもどしました。かれ皇帝こうていで、人材じんざい見抜みぬちからと、素早すばや判断はんだんで知られた人物じんぶつです。

 「山越さんえつひそみ、ときに我々(われわれ)の喉元のどもとねらとらだ。武力ぶりょくだけでは解決かいけつできん。そなたの話術わじゅつ知恵ちえたよっておる」

 「ふむ……説得せっとくというより、調伏ちょうぶくですね」

 かくかたをすくめつつ、玉座ぎょくざわきつふたりにをやりました。

 一人ひとり陳表ちん・ぴょう名門めいもん陳家ちんけ血筋ちすじ冷静沈着れいせいちんちゃく将軍しょうぐんで、軍律ぐんりつくわしい人物じんぶつです。

 もう一人ひとり顧承こ・しょう宰相さいしょう顧雍こ・よう息子むすこで、文武両道ぶんぶりょうどう優秀ゆうしゅう青年せいねん将校しょうこうでした。

 「おふたりが同行どうこうしてくれるなら、すこしは安心あんしんして芝居しばいてますな」

 「なるほど、芝居しばいですか。ならば流血沙汰りゅうけつざたにはせぬ筋書すじがきでたのみますよ」

 顧承こ・しょうがさらりとかえすと、陳表ちん・ぴょう口元くちもとみをかべました。

 「いくさ台本だいほんどおりにすすみませぬ。お手柔てやわらかにねがいます、恪殿かくどの

 孫権そん・けん三人さんにん見渡みわたし、ちからづようなずきました。

 「よいか。これより山越さんえつ帰順きじゅんさせ、われらの六万ろくまん、いや十万じゅうまんへいくわえよ。未来みらいは、そなたらのにかかっておる!」

 やまふか曇天どんてんした太鼓たいこ地響じひびきのようにひびきました。

 「敵襲てきしゅうーっ!!」

 山越さんえつ集落しゅうらく警鐘けいしょうひびきます。呉軍ごぐんきりをつんざいてあらわれました。

 その先頭せんとうけていたのは、あか騎兵鎧きへいよろい諸葛恪しょかつ・かくです。

 「てき意表いひょうけ! 顧承こ・しょう右手みぎてはやしまわめ!」

 「ただいま、ちょっとみちまよっておりますが、まぁけます!」

 わらいながらかえ顧承こ・しょう部隊ぶたいはやしけ、敵軍てきぐん背後はいごきました。

 「陳表殿ちんぴょうどの左丘さきゅう弓隊きゅうたいおさえてください!」

 「了解りょうかい!」

 い、てき伏兵ふくへいふうめます。戦場せんじょう混沌こんとんとしたうずしました。

 その最中さなか諸葛恪しょかつ・かく一直線いっちょくせん山越さんえつ頭目とうもくへとります。

 「け!」

 そのこえ剣戟けんげきおとるようにひびきました。

 「おまえたちの勇気ゆうきわれみとめておる! だが、たたかいだけがみちではない!」

 頭目とうもくやりつえわりにがり、するどにらみつけました。

 「おまえたちはわれらの土地とちうばいにたのだろう」

 「ちがう!」

 諸葛恪しょかつ・かく即座そくざさけびます。

 「我々(われわれ)は、おまえたちのちから必要ひつようとしている。ここでぬか、ともきるか――えらべ!」

 きりなか頭目とうもくしずかにやりろしました。

 たたかいはわりました。

 三十余部さんじゅうよぶ山越さんえつ族長ぞくちょうらが降伏こうふくし、六万ろくまんにんたみひきいて建業けんぎょうにやってきました。

 「これは……じつ見事みごと光景こうけいですね」

 陳表ちん・ぴょう感心かんしんし、顧承こ・しょう耳元みみもとささやきます。

 「宴会えんかい席順せきじゅん、またややこしくなりますな」

 「いっそ、山越さんえつみなさんに上座かみざすわっていただきましょうか」

 「あたらしいかぜってやつですね」

 その会話かいわこうで、孫権そん・けん満足まんぞくげにわらっていました。

 「諸葛恪しょかつ・かく、よくやった」

 「お言葉ことば光栄こうえいです」

 かくあたまげてこたえました。

 「ですが……また政務せいむえそうですね。山越さんえつの人々(ひとびと)は自由じゆうこのみますし、ふでよりこぶし得意とくいな方々(かたがた)ばかりですので」

 「ならば、そなたがふでこぶしもふるえばよい」

 孫権そん・けん冗談じょうだんに、政庁せいちょうわらいにつつまれました。

 こうして諸葛恪しょかつ・かく陳表ちん・ぴょう顧承こ・しょうらは山越さんえつ平定へいていし、あらたに六万ろくまんへいたみました。それは、のちのささえるおおきなちからとなっていったのです。



234年~237年

 三国さんごく時代じだい南方なんぽう江東こうとう地域ちいき中心ちゅうしん勢力せいりょくきずいた政権せいけんであり、その領土内りょうどないには「山越さんえつ」とばれる異民族集団いみんぞくしゅうだん多数たすう居住きょじゅうしていました。

 山越さんえつは、古代こだいの「百越ひゃくえつけい民族みんぞくぞくし、江南こうなん山間部さんかんぶ中心ちゅうしん生活せいかつしていた人々(ひとびと)です。漢民族かんみんぞくとはことなる文化ぶんかち、焼畑農業やきはたのうぎょう狩猟しゅりょうなどをいとなみながら自立的じりつてきらしていました。中央政権ちゅうおうせいけんへの従属意識じゅうぞくいしきうすく、外部勢力がいぶせいりょくによる支配しはいにはつよ抵抗ていこうしめしました。

 孫策そんさく江東こうとう制圧せいあつし、あといだ孫権そんけん基盤きばんきずなかで、山越さんえつ存在そんざいおおきな課題かだいとなります。とく初期しょき山越さんえつ反乱はんらん相次あいつぎ、政権安定せいけんあんていおびやかす存在そんざいでした。かれらは山地さんちり、かしたゲリラ戦法せんぽう呉軍ごぐんなやませました。

 しかし孫権そんけんは、たんなる武力制圧ぶりょくせいあつだけではなく、次第しだい山越さんえつ帰順きじゅんさせ、一部いちぶとして政策せいさくへと転換てんかんしていきます。たとえば呂蒙りょもう陸遜りくそん諸葛恪しょかつかくといった将軍しょうぐんたちにめいじて討伐とうばつおこないつつ、投降者とうこうしゃたいしては兵士へいし労働力ろうどうりょくとして登用とうようする懐柔策かいじゅうさくりました。

 とくに234ねんから237ねんにかけて、諸葛恪しょかつかく陳表ちんひょう顧承こしょうらが山越さんえつたいして大規模だいきぼ討伐とうばつ実施じっしし、おおくの山越民さんえつみん帰順きじゅんします。そのさい、なんと六万ろくまんにんにもおよ(及)ぶ兵士へいしあらたに呉軍ごぐん編入へんにゅうされたとされており、これはにとって重要じゅうよう人的資源じんてきしげん確保かくほにつながりました。

 このようににとって山越さんえつは、たんなる敵対勢力てきたいせいりょくではなく、懐柔かいじゅうすれば国力こくりょくささえる基盤きばんともなる存在そんざいでした。江南こうなん人口じんこうすくなく、漢民族かんみんぞくだけでは国政こくせいささえきれなかったため、山越さんえつとの共存きょうぞん活用かつよう現実的げんじつてき選択せんたくでもあったのです。

 ただし、すべてが順調じゅんちょうにいったわけではありません。山越さんえつ一度いちど帰順きじゅんしてもふたた反乱はんらんこすこともあり、歴史れきしつうじて断続的だんぞくてき対立たいりつ協調きょうちょうかえされました。また孫呉そんごは、山越さんえつ以外いがいにも南方なんぽう少数民族しょうすうみんぞくや倭(わ:日本)などとも接触せっしょくち、外交がいこう交易こうえきつうじてその支配圏しはいけんひろげていきました。

 孫呉そんごという国家こっかは、異民族いみんぞくたたかい、同時どうじにそのちからりてきずかれた「多民族国家たみんぞくこっか」でもあったのです。

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