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呉視点三国志:孫権の章①

229年(黄龍元年・こうりゅうがんねん)

 建業(けんぎょう)の空(そら)は、まるで新しい時代(じだい)の始まり(はじまり)を告げるかのように晴(は)れ渡(わた)っていました。宮中(きゅうちゅう)には金(きん)の幔幕(まんまく)が揺(ゆ)れ、太鼓(たいこ)や鐘(かね)の音(おと)が鳴(な)り響(ひび)いています。呉(ご)の君主(くんしゅ)、孫権(そんけん)は、ついに「皇帝(こうてい)」として即位(そくい)し、元号(げんごう)を「黄龍(こうりゅう)」と改(あらた)めました。

 孫権(そんけん)は幼(おさな)い頃(ころ)から兄(あに)である孫策(そんさく)の遺志(いし)を継(つ)ぎ、冷静(れいせい)で決断力(けつだんりょく)に優(すぐ)れた統治者(とうちしゃ)として呉を治(おさ)めてきました。その彼を支(ささ)えるのが、文武両道(ぶんぶりょうどう)に秀(ひい)で、夷陵(いりょう)の戦(たたか)いで大勝利(たいしょうり)を収(おさ)めた名将(めいしょう)、陸遜(りくそん)です。彼はこの日、上大将軍(じょうだいしょうぐん)・右都護(うとご)・荊州牧(けいしゅうぼく)という重(おも)い役職(やくしょく)を拝命(はいめい)し、その功績(こうせき)が正当に評価(ひょうか)されたことを喜(よろこ)んでいました。

 陸遜(りくそん)は温和(おんわ)で柔軟(じゅうなん)な性格(せいかく)ながらも、戦略(せんりゃく)や政治(せいじ)に長(た)けており、呉の防衛(ぼうえい)と内政(ないせい)に欠(か)かせない存在(そんざい)となっていました。

 その祝い(いわい)の席(せき)には、文官(ぶんかん)として政治手腕(せいじしゅわん)に優(すぐ)れ、内外(ないがい)の情勢(じょうせい)を把握(はあく)する俊英(しゅんえい)、歩騭(ほち)が静(しず)かに集(あつ)まっていました。彼は冷静(れいせい)で洞察力(どうさつりょく)に富(と)み、陸遜(りくそん)と協力(きょうりょく)して呉の基盤(きばん)を固(かた)めていました。

「しかし……さすがは陸将軍(りくしょうぐん)。赤壁(せきへき)、夷陵(いりょう)、石亭(せきてい)と積(つ)み重(かさ)ねた戦功(せんこう)が、ようやく正(ただ)しく報(むく)われましたな」

 歩騭(ほち)は敬意(けいい)を込(こ)めて言(い)いました。

「過分(かぶん)なお言葉(ことば)です。私はただ、与(あた)えられた責任(せきにん)を果(は)たしてきただけです。むしろ、この国(くに)の柱石(ちゅうせき)は、官(かん)と民(たみ)の調和(ちょうわ)を図(はか)る文臣(ぶんしん)にあります。歩君(ほくん)の働(はたら)きはいつも頼(たよ)もしく感じております」

 陸遜(りくそん)の柔(やわ)らかい声(こえ)に、歩騭(ほし)はわずかに目(め)を伏(ふ)せて笑(わら)いました。

「お褒(ほ)めにあずかり光栄(こうえい)ですが、私はまだ先代(せんだい)の張公(ちょうこう)には遠(とお)く及(およ)びません……。それにしても、張昭(ちょうしょう)殿(どの)のご辞退(じたい)は残念(ざんねん)でなりませんな」

 張昭(ちょうしょう)は呉の老練(ろうれん)な政治家(せいじか)で、かつては朝廷(ちょうてい)の丞相(じょうしょう)職(しょく)に推挙(すいきょ)されたものの、年齢(ねんれい)を理由(りゆう)に固辞(こじ)しており、なおも強(つよ)い影響力(えいきょうりょく)を持(も)つ人物(じんぶつ)です。

「ええ。皇帝陛下(へいか)が丞相(じょうしょう)の位(くらい)をお授けになろうとされましたが、高齢(こうれい)を理由に特進位(とくしんい)でお控(ひか)えになりました。張公(ちょうこう)ほどの方(かた)なら、一歩(いっぽ)退(ひ)いても朝堂(ちょうどう)に大(おお)きな影響(えいきょう)を与(あた)え続(つづ)けるでしょうが」

 陸遜(りくそん)の表情(ひょうじょう)には、敬意(けいい)と寂(さび)しさが混(ま)じっていました。

 そこへ、一人(ひとり)の青年(せいねん)が盃(さかずき)を手(て)に笑(わら)いながら歩(ある)み寄(よ)ってきました。

「話(はなし)が堅(かた)いですな。せっかくの祝いの席です。今夜(こんや)ぐらいは『老臣(ろうしん)の辞退(じたい)』など忘(わす)れて、痛飲(つういん)と参(まい)りましょうぞ」

 声(こえ)の主(ぬし)は諸葛恪(しょかつかく)──大将軍(たいしょうぐん)・左都護(さとご)に任(まか)された諸葛瑾(しょかつきん)の長子(ちょうし)であり、才気煥発(さいきかんぱつ)の俊英(しゅんえい)です。彼は父(ちち)に似(に)た温厚(おんこう)な性格(せいかく)の奥(おく)に、燃(も)え盛(さか)る自負(じふ)を秘(ひ)めていました。

「これは諸葛少将軍(しょかつしょうしょうぐん)。御父上(おちちうえ)のご昇進(しょうしん)、誠(まこと)におめでとうございます」

 歩騭(ほち)が杯(さかずき)を掲(かか)げると、諸葛恪(しょかつかく)はにっこりと笑(わら)って答(こた)えました。

「ありがとうございます。父はまだまだ朝夕(ちょうせき)の政務(せいむ)に追(お)われておりますが、左都護(さとご)とは光栄(こうえい)すぎて眩(まぶ)しいくらいです」

「大将軍(たいしょうぐん)、左都護(さとご)……張温(ちょうおん)以来(いらい)の重職(じゅうしょく)ですね。呉の西辺(せいへん)を任(まか)されるに足(た)る方(かた)でしょう」

 陸遜(りくそん)はうなずきました。

「あなたも、いつか父君(ちちきみ)に劣(おと)らぬ重職(じゅうしょく)に就(つ)かれるでしょう」

「はて、それはいつの話でしょうな?」

 諸葛恪(しょかつかく)は冗談(じょうだん)めかしながらも、瞳(ひとみ)の奥(おく)に鋭(するど)い光(ひかり)を宿(やど)していました。志(こころざし)を胸(むね)に秘(ひ)め、彼は己(おのれ)の時(とき)を待(ま)っているのです。

 再(ふたた)び盃(さかずき)が注(そそ)がれ、話題(わだい)は呉(ご)の未来(みらい)へと移(うつ)っていきました。

「陛下(へいか)は蜀(しょく)との関係(かんけい)をさらに深(ふか)めようとされています。劉禅(りゅうぜん)公(こう)との和親(わぼく)を保(たも)ち、魏(ぎ)に対抗(たいこう)する体制(たいせい)を固(かた)めるご意向(いこう)です」

 歩騭(ほち)の言葉(ことば)に、陸遜(りくそん)は静(しず)かに、頷(うなず)きました。

「私も同意見(どういけん)です。呉(ご)が帝(みかど)となった今(いま)、魏(ぎ)も必(かなら)ず動(うご)きを見せるでしょう。蜀(しょく)との同盟(どうめい)が揺(ゆ)らがぬよう、信義(しんぎ)を守(まも)らねばなりません」

「魏(ぎ)は甘(あま)くはありませんまい。あの司馬懿(しばい)も動(うご)いているとか」

 諸葛恪(しょかつかく)が眉(まゆ)をひそめて呟(つぶや)くと、陸遜(りくそん)はその若者(わかもの)の目(め)をまっすぐに見(み)つめて応(こた)えました。

「だからこそ、我(わ)らが力(ちから)を合わせるのです。文(ぶん)と武(ぶ)、若(わか)き才(さい)と老成(ろうせい)が並(なら)び立(た)つ時(とき)、呉(ご)は盤石(ばんじゃく)たる国(くに)となるでしょう」

 言葉(ことば)が静(しず)かに空間(くうかん)に染(し)み渡(わた)ると、三人(さんにん)は黙(だま)って杯(さかずき)を掲(かか)げました。それはただの祝杯(しゅくはい)ではなく、呉(ご)の未来(みらい)に賭(か)けた決意(けつい)の証(あかし)であったのです。



229年:黄龍(こうりゅう)元年

 孫権(そんけん)は「黄龍(こうりゅう)元年」を建元(けんげん)し、自ら「呉皇帝(ごこうてい)」を名乗(なの)りました。これは魏(ぎ)の曹丕(そうひ)に対抗(たいこう)し、独自(どくじ)の正統性(せいとうせい)を打ち出(うちだ)すもので、呉(ご)は正式(せいしき)に一国(いっこく)として成立(せいりつ)したのです。

 孫権(そんけん)は即位(そくい)後(ご)、魏(ぎ)の制度(せいど)を参考(さんこう)に中央政権(ちゅうおうせいけん)を整備(せいび)しました。中書省(ちゅうしょしょう)や尚書省(しょうしょしょう)を設け、政務(せいむ)の分掌(ぶんしょう)を明確(めいかく)にし、皇帝(こうてい)中心(ちゅうしん)の体制(たいせい)を築(きず)きます。

 人材登用(じんざいとうよう)では、出自(しゅつじ)にとらわれず、才能(さいのう)ある者(もの)を積極的(せっきょくてき)に取り立(た)てました。とりわけ張昭(ちょうしょう)は孫権(そんけん)に仕(つか)える文臣(ぶんしん)であり、政治(せいじ)を支(ささ)える重鎮(じゅうちん)です。顧雍(こよう)もまた、学識(がくしき)と実務(じつむ)に優(すぐ)れた文臣です。

 軍事(ぐんじ)面(めん)では、呂蒙(りょもう)や陸遜(りくそん)といった将軍(しょうぐん)が活躍(かつやく)しました。呂蒙(りょもう)はもと武将(ぶしょう)ながら学問(がくもん)に励(はげ)み、孫権(そんけん)の信頼(しんらい)も厚(あつ)い人物(じんぶつ)です。陸遜(りくそん)は赤壁(せきへき)の戦(いくさ)や夷陵(いりょう)の戦(いくさ)で大功(たいこう)を挙(あ)げた名将(めいしょう)で、孫権(そんけん)から新たに上大将軍(じょうだいしょうぐん)、右都護(うとご)、荊州牧(けいしゅうぼく)の役職(やくしょく)を賜(たまわ)りました。

 孫権(そんけん)の治世(ちせい)は実利主義(じつりしゅぎ)と柔軟性(じゅうなんせい)に富(と)み、地方豪族(ちほうごうぞく)との協調(きょうちょう)も重視(じゅうし)されました。そのため、呉(ご)は江東(こうとう)地域(ちいき)で安定(あんてい)した勢力(せいりょく)を保(たも)つことができたのです。

 孫権(そんけん)が掲げた「士(し)は学べばすなわち達(たっ)す」という言葉(ことば)は、若(わか)き呂蒙(りょもう)の学問奨励(がくもんしょうれい)にも表(あらわ)れており、学(がく)と武(ぶ)の両立(りょうりつ)が重(おも)んじられました。

 首都(しゅと)・建業(けんぎょう)、現在(げんざい)の南京市(なんきんし)は長江(ちょうこう)沿(ぞ)いに位置(いち)し、軍事(ぐんじ)と交通(こうつう)の要衝(ようしょう)でした。孫権(そんけん)はここに壮麗(そうれい)な宮殿(きゅうでん)や官庁(かんちょう)を築(きず)き、南方王朝(なんぽうおうちょう)にふさわしい都(みやこ)を整備(せいび)します。自然(しぜん)の地形(ちけい)は外敵(がいてき)からの防衛(ぼうえい)に適(てき)し、水運(すいうん)によって各地(かくち)から物資(ぶっし)が集(あつ)まり、商業(しょうぎょう)と文化(ぶんか)が栄(さか)えました。

 政治的(せいじてき)には皇帝独裁(こうていどくさい)と文臣(ぶんしん)・武将(ぶしょう)の補佐(ほさ)がバランスよく機能(きのう)し、経済的(けいざいてき)にも長江(ちょうこう)下流(かりゅう)の豊(ゆた)かな土地(とち)を背景(はいけい)に安定(あんてい)した国力(こくりょく)が培(つちか)われていきます。また、文化面(ぶんかめん)でも建業(けんぎょう)は南方知識人(なんぽうちしきじん)の拠点(きょてん)となり、儒学(じゅがく)や歴史(れきし)の研究(けんきゅう)が盛(さか)んに行(おこな)われました。

 こうして孫権(そんけん)の呉(ご)は、政治(せいじ)・軍事(ぐんじ)・経済(けいざい)・文化(ぶんか)の四本柱(しほんばしら)に支(ささ)えられた独自(どくじ)の国家体制(こっかたいせい)を確立(かくりつ)し、三国鼎立(さんごくていりつ)の一角(いっかく)として長期(ちょうき)にわたりその地位(ちい)を維持(いじ)したのです。



233年頃(嘉禾2年)

 合肥新城(がっぴしんじょう)の建設(けんせつ)は、三国時代(さんごくじだい)における呉(ご)の北方防衛(ほくほうぼうえい)を大きく支(ささ)える転換点(てんかんてん)となりました。時(とき)の呉の皇帝(こうてい)、孫権(そんけん)は、魏(ぎ)との長年(ながねん)の抗争(こうそう)において合肥(がっぴ)の地(ち)を重視(じゅうし)し、より強固(きょうこ)な防衛拠点(ぼうえいきょてん)を築(きず)くことを決意(けつい)します。

 合肥(がっぴ)は長江(ちょうこう)の北岸(ほくがん)、淮南(わいなん)地方(ちほう)に位置(いち)する要衝(ようしょう)であり、魏(ぎ)と呉(ご)の勢力(せいりょく)がしばしば激突(げきとつ)する戦場(せんじょう)でした。特(とく)に合肥旧城(がっぴきゅうじょう)は、魏の建国者、曹操(そうそう)が築(きず)いた堅牢(けんろう)な城塞(じょうさい)であり、孫権(そんけん)自らが幾度(いくど)となく攻略(こうりゃく)を試(こころ)みたものの、そのたびに敗北(はいぼく)を喫(きっ)しています。

 とりわけ有名(ゆうめい)なのが合肥の戦(いくさ)で、張遼(ちょうりょう)ら魏(ぎ)の猛将(もうしょう)に呉軍(ごぐん)が大損害(だいそんがい)を受(う)けたことです。この苦(にが)い経験(けいけん)が、後(のち)に「新城(しんじょう)」築城(ちくじょう)の必要性(ひつようせい)を孫権(そんけん)に確信(かくしん)させたといわれています。

 新城(しんじょう)の建設(けんせつ)が始(はじ)まったのは、嘉禾(かか)3年、西暦(せいれき)234年(ねん)ごろと推定(すいてい)されています。これは蜀(しょく)の軍師(ぐんし)、諸葛亮(しょかつりょう)が五丈原(ごじょうげん)で北伐(ほくばつ)を展開(てんかい)していた時期(じき)と重(かさ)なります。魏(ぎ)が蜀(しょく)に対応(たいおう)している隙(すき)をついて、孫権(そんけん)は合肥旧城(がっぴきゅうじょう)から南方(なんぽう)へ少(すこ)し下(くだ)った場所(ばしょ)、すなわち長江(ちょうこう)に近(ちか)い地域(ちいき)に「合肥新城(がっぴしんじょう)」を築(きず)くよう命(めい)じました。ここは水運(すいうん)に優(すぐ)れ、物資(ぶっし)の輸送(ゆそう)が安定(あんてい)して行(おこな)える要所(ようしょ)でした。

 新城(しんじょう)の構造(こうぞう)は非常(ひじょう)に堅牢(けんろう)でした。高(たか)く厚(あつ)い城壁(じょうへき)、深(ふか)い壕(ほり)に囲(かこ)まれ、敵(てき)の侵入(しんにゅう)を防(ふせ)ぐ設計(せっけい)がなされていました。城門(じょうもん)は二重(にじゅう)構造(こうぞう)で、守備兵(しゅびへい)が内外(ないがい)から挟撃(きょうげき)できるようになっていました。また、烽火台(ほうかだい)や見張(みは)り台(だい)が設(もう)けられ、北方(ほっぽう)からの魏軍(ぎぐん)の動静(どうせい)をいち早(はや)く察知(さっち)できるようになっていたのです。

 この新城(しんじょう)の防備(ぼうび)には、呉(ご)の名将(めいしょう)たちが配置(はいち)されました。とくに朱然(しゅぜん)は孫権(そんけん)に仕(つか)えた武将(ぶしょう)で、賢明(けんめい)な指揮官(しきかん)として知られています。全琮(ぜんそう)もまた勇敢(ゆうかん)で有能(ゆうのう)な将軍(しょうぐん)であり、魏軍(ぎぐん)の度重(たびかさ)なる侵攻(しんこう)を防(ふせ)ぎ抜(ぬ)きました。

 蜀(しょく)が滅亡(めつぼう)するまで、この合肥新城(がっぴしんじょう)は呉(ご)の最前線(さいぜんせん)として魏軍(ぎぐん)の圧力(あつりょく)に耐(た)え続(つづ)けることになります。

 興味深(きょうみぶか)い逸話(いつわ)として、孫権(そんけん)が築城(ちくじょう)予定地(よていち)を自(みずか)ら視察(しさつ)した際(さい)、 「この地(ち)に城(しろ)を築(きず)けば、千(せん)兵(ぺい)で万(ばん)兵(ぺい)を防(ふせ)げよう」 と語(かた)ったと伝(つた)わります。これは、彼(かれ)が単(たん)に戦術上(せんじゅつじょう)の利便性(りべんせい)だけでなく、合肥新城(がっぴしんじょう)に呉(ご)の命運(めいうん)を託(たく)したことを示(しめ)す言葉(ことば)でした。

 合肥新城(がっぴしんじょう)は単(たん)なる城(しろ)ではなく、呉(ご)の政治的(せいじてき)・軍事的(ぐんじてき)意志(いし)の象徴(しょうちょう)でした。その堅牢(けんろう)さと防衛力(ぼうえいりょく)は、魏(ぎ)にとって常(つね)に脅威(きょうい)であり続(つづ)け、三国時代(さんごくじだい)の勢力図(せいりょくず)を安定(あんてい)させる一端(いったん)を担(にな)ったのです。



233年・景耀6年

 青龍元年(せいりゅうがんねん)(西暦二三三年)、魏(ぎ)の辺境に、ひとつの新たな城が築かれました。名を合肥新城(がっぴしんじょう)と申します。

 この城の誕生には、ひとりの老将の知恵と執念がありました。名は満寵(まんちょう)、かつて曹操(そうそう)に仕えた歴戦の智将で、今は合肥の太守として南方防衛を任されておりました。

 満寵は地図を睨みながら、部下に言いました。

「……何度も言うが、旧(ふる)い合肥城は呉(ご)の水軍にとって、格好の的なのだ。水路が便利すぎて、敵の船が直接押し寄せてくるではないか」

 それに応じたのは、若き将校のひとり、張嵩(ちょうすう)でした。

「しかし太守殿。城を捨てて引くとなれば、敵に背を向けたと誤解されます。士気が下がりましょう」

「張嵩、おぬし兵法を忘れたか? 敵が攻めやすい場所を守り続けるは、愚か者の所業ぞ。退くは進むが如し、とは孫子(そんし)の言でもある」

 実際、旧合肥城は長江(ちょうこう)の支流に近く、呉の水軍が幾度も襲来していました。援軍の拠点となる寿春(じゅしゅん)からも距離があり、救援に手間取ることも度々でした。

 満寵は地形を測量し、旧城の北西、約三十里(り)(約十五キロメートル)の地に、新たな要害の築城を朝廷へ上奏しました。

 ところが、すぐに反対の声が上がります。特に強く反発したのは、若き能吏の蔣済(しょうさい)でした。彼は尚書(しょうしょ)で、軍政に通じた知識人でした。

「満太守。城を捨てるのは臆病の現れ、民も兵も動揺いたしますぞ」

「ふん、言うと思ったわ。では逆に問う、呉が十万の舟を並べて来たとき、どう守る? “気合”か? それとも“忠義”か?」

 蔣済は返す言葉を失います。その隙をついて、尚書のひとり趙咨(ちょうし)が進み出ました。

「陛下。満寵殿の案、理に適っております。兵の疲弊を防ぎ、呉の矛先を鈍らせる策にございましょう」

 こうして皇帝・曹叡(そうえい)(字:明帝(めいてい))は、満寵の上奏を認めます。彼は父・曹丕(そうひ)より王位を継いだ若き皇帝で、しばしば実務派の意見に耳を傾ける理知的な人物でした。

「よい。新たなる合肥の城、そなたに任す。満寵、存分に築け」

「はっ。この命、余さず果たしてみせましょう」

 かくして工事は始まりました。設計は敵の水軍を寄せ付けぬよう工夫され、堀(ほり)と土塁(どるい)を重ね、隘路(あいろ)に砦(とりで)を築いて固めました。兵と民が交代で土を運び、杭(くい)を打ち、汗を流して完成を急ぎます。

 ある夜、松明の灯りの下、満寵が静かに呟きました。

「この城は、単なる砦ではない。呉に奪われた命と誇り、そのすべてを取り返す――我ら魏の、新たなる刃となろう」

 こうして合肥新城は誕生し、後の数度にわたる呉の侵攻を防ぐ重要な防衛拠点として、魏の南方を守り続けたのです。



234年・景耀7年

西暦(せいれき)二三四年──蜀(しょく)の国では景耀(けいよう)七年のこと。

 この年、蜀(しょく)の丞相(じょうしょう)・諸葛亮(しょかつりょう)は、魏(ぎ)への北伐(ほくばつ)を進める中で、戦局を有利に進めるためには、呉(ご)との連携が不可欠であると考えていました。

 諸葛亮(しょかつりょう)は、魏(ぎ)の防衛を分散させるため、蜀(しょく)が関中(かんちゅう)を攻めると同時に、呉(ご)が南から攻勢をかける策を立てました。

 五丈原(ごじょうげん)の陣中にて、諸葛亮(しょかつりょう)は地図を前にして、淡々とした口調で話し始めます。

「魏(ぎ)を打ち破るには、正面から挑むだけでは限界があります。関中(かんちゅう)を攻める我が軍と呼応して、呉(ご)が南から攻勢をかければ、魏の防衛は二分されるでしょう」

 諸葛亮(しょかつりょう)は、かつて劉備(りゅうび)に仕えた天才軍師で、いまや蜀(しょく)の政と軍を一手に担う存在です。その姿はやせ細り、声にもかすれが混じりますが、その目の奥には炎のような意志が灯っていました。

「呉(ご)と手を組むのは簡単ではありませんが……孫権(そんけん)殿は理で動くお方。こちらから、理ある形で誘えば、きっと動くはずです」

 隣に控えていた参軍(さんぐん)・楊儀(ようぎ)が腕を組み、少し眉をひそめて応じました。

「丞相(じょうしょう)、孫権(そんけん)殿は打算的です。策を誤れば、我らだけが魏(ぎ)とぶつかることにもなりましょうぞ」

 楊儀(ようぎ)は慎重な参謀にして、諸葛亮(しょかつりょう)の右腕ともいえる存在でした。几帳面で論理的ですが、他人に厳しい一面もあります。

「それゆえ、こちらから先に一手を打ちます。彼に“魏(ぎ)を裂く”という機会を提示いたしましょう」

 そうして諸葛亮(しょかつりょう)は、筆を執り、建業(けんぎょう)の孫権(そんけん)へと密書をしたためたのでした。

──蜀(しょく)はこれより関中(かんちゅう)に進軍いたします。

 魏(ぎ)の目を北に向けさせるため、呉(ご)には合肥(がっぴ)あるいは寿春(じゅしゅん)方面にて、動きをお見せ願いたく──

 数日後。呉(ご)の都・建業(けんぎょう)の大殿では、皇帝・孫権(そんけん)が密書を前に、湯をすすりながら臣下たちを見渡していました。

「蜀(しょく)の丞相(じょうしょう)・諸葛亮(しょかつりょう)からの文だ。“我が軍が北で動くゆえ、呉(ご)は南から魏(ぎ)を圧迫してくれ”……そう申しておる」

 孫権(そんけん)は若くして国を継ぎ、武略と政略を兼ね備えた英傑です。老獪(ろうかい)なようでいて決断力もある、まさしく大国の君主の器でした。

 左右には、歴戦の将・朱然(しゅぜん)、血気盛んな呂拠(りょきょ)、文官の顧譚(こたん)らが控えています。

「はは、丞相(じょうしょう)殿の筆は丁寧だが、結局“魏(ぎ)に殴り込め”ということじゃないか。相変わらず強引だな」

 呂拠(りょきょ)は孫策(そんさく)の息子で、若くして武勇にすぐれた将軍です。だが気質はやや奔放で、軽口をたたくこともしばしばでした。

 朱然(しゅぜん)が静かに口を開きます。

「合肥新城(がっぴしんじょう)にはすでに我が軍の布陣が整っております。兵糧の備えも充分。いま動けば、魏(ぎ)に対する圧力は効果的でございます」

 朱然(しゅぜん)は慎重で誠実な将。孫権(そんけん)からの信頼も厚く、合肥(がっぴ)の守りを任されている老練な軍人です。

 顧譚(ことん)は扇を閉じ、低い声で申しました。

「ですが、蜀(しょく)の動きが陽動だけであったなら、我が軍のみが大きな損をすることとなりますな。信じて良いか、見極めが要ります」

 顧譚(こたん)は冷静な文官で、時に皮肉を交えながらも理路整然と意見を述べる人物です。

 孫権(そんけん)はしばし黙し、湯のみを置いて、再び文を見つめました。

「……蜀(しょく)が動かず、呉(ご)だけが動けば魏(ぎ)は南へ向く。蜀(しょく)が動き、呉(ご)が静かであれば魏(ぎ)は北へ向く。だが、両者が動けば?」

 その声には、深い読みと自信がこもっていました。

「魏(ぎ)は裂けよう。目を、心を、軍をも」

しばしの沈黙のあと、顧譚(こたん)が苦笑を浮かべながらうなずきました。

「成程……その理屈にはうなずけます。これは丞相(じょうしょう)殿との、策士同士の“盤”でございますな」

孫権(そんけん)は笑みを浮かべて立ち上がりました。

「合肥(がっぴ)には朱然(しゅぜん)を、寿春(じゅしゅん)には呂拠(りょきょ)を。それぞれ動かす。蜀(しょく)がどう動こうと、魏(ぎ)を裂くにはこの一手が最善じゃ」

そして文机に向かい、返書の筆をとりました。

「“呉(ご)は進む。魏(ぎ)の目を裂かんがため”……よし、これでゆこう」

 こうして、諸葛亮(しょかつりょう)と孫権(そんけん)は、戦わずして魏(ぎ)の兵を分け、戦局を動かすための“連携”を再び結ぶこととなったのでした。



234年・景耀7年

 秋、蜀(しょく)の軍営では、涼やかな風が南山を渡り、木の葉のざわめきを運んでいました。将帥の帳幕の奥、丞相(じょうしょう)・諸葛亮(しょかつ・りょう)は静かに筆を置き、湯気の立つ茶に手を伸ばしました。その背に、慎ましくも芯のある声が届きます。

 「丞相(じょうしょう)……お尋ねしてよろしいでしょうか」

 言葉の主は姜維(きょう・い)です。涼州(りょうしゅう)出身の若き将で、かつて魏(ぎ)の天水郡(てんすいぐん)で中郎将(ちゅうろうしょう)を務めていましたが、諸葛亮の北伐(ほくばつ)時に蜀へ降り、以後、諸葛亮の片腕として軍務に励んでいます。

 「うむ、姜維。今日は少し静かだからな。話してみなさい」

 「……北伐(ほくばつ)。なぜこれほどまでに繰り返されるのですか。幾度も攻め、幾度も退く。これを止めることはできぬのですか?」

 言葉は静かでしたが、瞳には真摯な熱がありました。諸葛亮はひとつ深く息を吐き、湯呑を置きました。

 「……民(たみ)を思うならば、戦などせぬに越したことはない。だが、それは我が身一代で済む話ではないのだ」

 「……と仰いますと?」

 「漢(かん)は未だ滅びておらぬ。天の命は未だ、我らに在る。魏(ぎ)は簒奪者(さんだつしゃ)だ。かの曹操(そう・そう)・曹丕(そう・ひ)父子が奪いし天下を、正さねばならぬ。これは天の道であり、義(ぎ)である。ゆえに止めるわけにはいかぬのだ」

 「義を貫くために……ですか」

 「そうだ。だがそれだけではない。北には人口、兵糧、鉄馬がある。南には山、川、毒霧……自然が味方とはならぬ。もし魏(ぎ)が本気で南下すれば、我らは守りきれぬ。よって攻め続け、牽制することが、蜀(しょく)を守る最も確実な手立てなのだ」

 姜維は拳を握りました。その掌には微かに汗が滲んでいました。

 「……ならば、呉(ご)を攻めるのは? あちらも豊かな土地を持っています。しかも、背後を突くならば手薄では」

 諸葛亮の顔がわずかに翳りました。だが、即座に静かな微笑みを浮かべます。

 「姜維。我らが三国鼎立(ていりつ)を保つゆえに、呉(ご)は盟を結んでいる。その呉(ご)を攻めれば、魏(ぎ)と手を組まれる恐れがある。敵を一つにするより、二つに分けておく方が得策だ。魏(ぎ)を崩せば、呉(ご)もまた流れに従う」

 「では、全ては魏(ぎ)を打つための道、ということですね」

 「その通りだ。戦は剣を振るうだけではない。民(たみ)の心を得ねば、天下は治まらぬ。魏(ぎ)に生きる者たちに、義(ぎ)を知らしめ、正しきを信じさせねばならぬ。だからこそ、北へと向かうのだ」

 姜維は黙って頷きました。月の光が幕の隙間から差し込み、諸葛亮の姿を淡く照らしていました。

 「姜維。いつか、そなたがこの道を引き継ぐであろう。だからこそ、いまより目を開き、心を開いて、義(ぎ)とはなにかを見極めてゆけ」

 「……心得ました。丞相(じょうしょう)」

 その声は、確かに響きました。遠く、夜の静寂の中、魏(ぎ)の北の地へと通じる道が広がっていくようでした。

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