呉視点三国志:陸遜の章⑦
226年:呉の黄武5年
傷は深く、寒気は骨まで届いておりました。陣幕の中、老将・韓当は静かに床に伏しておりました。
「……よくぞ、生きて戻られましたな。韓将軍」
陸遜はひざまずき、傷だらけのその身を支えます。韓当の唇には微かな笑みが浮かんでおりました。
「おや、あの頃は……わたしが若造の肩を抱かえて戦場を駆けておりましたのに……今はおまえが、こうして老兵の手を取るとは……ふふ、時は流れるものですなあ……」
「お言葉ですが、将軍はまだ老兵などでは――」
「よい、よい。もう、剣も持てますまい」
韓当はゆっくりと首を横に振りました。血のにじむ唇で、懐かしそうに語り始めます。
「……思い出しますな。最初にお仕えしたあの方――孫堅様。あの方は、まさしく猛虎でした」
「猛虎、ですか」
「ええ。戦となれば、真先に敵陣へ突撃する。矢が飛ぼうが、槍が来ようが、お構いなし。わたしなど、何度『せめて盾を持ってください』とお願いしたことか」
陸遜は思わず吹き出しました。
「その猛虎の背を追いかけて、祖茂殿も必死でしたな。あの方、火の中でも笑って突っ込んでいく。鎧を焼いて帰ってきたこともありました」
韓当は目を細め、頷きます。
「ふふ、火の粉を払って、『ちょっと熱かった』と言いましてな……命知ら(し)らずにも程がある」
「……黄蓋殿は?」
「うん、あれはもう、鉄のような人。重く、強く、曲がらぬ心の持ち主。己の背に何十の矢を受けようとも、びくともしなかった。まさに呉の礎です」
外から、遠く太鼓の音が聞こえてきました。誰かが軍を動かしているようです。
「そして、孫策様。あれは……あれは、若き雷でしたな」
「我が義父は、雷、ですか」
「走り、斬り、駆け、すべてが一瞬。敵に回せば震えるが、味方ならこれほど心強い主君はない。……よく、わたしの槍を笑って奪っていきました」
「奪ったのですか?」
「『貸してみろ、わたしが刺した方が早い』と……ええ、早かったとも。戻ってきたとき、槍の穂先は赤く染まっておりました」
陸遜はその光景を思い浮かべ、静かにうなずきました。
「そして、周瑜……あれはまことに美しき風のような人でした」
韓当の目は遠くを見つめておりました。
「風が舞い、言葉が踊り、戦が詩になる……。計略を一つ耳にするだけで、わたしなどではとても追いつけなかった。……でも、心根は優しかった。わたしが寒いと手を差し出してくれた」
「周都督は、戦の中でも詩を忘れなかったのですね」
「まさしく。それが、あの人の強さでした」
韓当の呼吸が少し荒くなります。しかし、彼は苦しさを押し隠すように、最後の一人を語ります。
「そして、呂蒙。あれは……賢く、厳しく、そして誰よりも努力家でした」
「はい、わたしも呂将軍には多くを学びました」
「かつては無学と笑われ、将の器ではないと言われた……。だが、彼は変わりました。文字を学び、兵法を学び、ついには関羽を討つほどに……あれほど己を高めた者を、わたしは他に知りません」
「確かに努力家でしたな。あのお方は…」
「あっ!程普殿を語るのを忘れ…」
言葉が止まりました。韓当はしばし目を閉じ、静かに息を吐きました。陸遜はその手を強く握り、涙をこらえました。
「……皆、よく戦いましたな。わたしは幸いにも、こうして生きていられます。しかし、あの時の傷は……わたしの体にだけでなく、心にも深く刻まれております」
「どうか、将軍、安らかにお休みください。われわれは必ず、孫呉の未来を築いてみせます」
陸遜の声は震えながらも、力強く響きました。韓当は薄く笑みを浮かべ、静かに息を引き取りました。
風が吹き、陣の外の木々(きぎ)がざわめきます。韓当の想い出と共に、孫呉の未来もまた、静かに動き始めておりました。
226年:黄武5年
魏の皇帝・曹丕の死が、孫呉の朝廷に冷たい風のように吹き込みました。しかし、その風はやがて熱を帯びたささやきに変わっていきます。
孫権の私室では、軍議を兼ねた密談が開かれていました。彼の眼はまるで炎のように燃えております。隣に控えるは孫呉の名将・陸遜。夷陵の戦いで蜀の劉備を破り、国を救った英雄であり、文武両道の才を示す冷静沈着な知将です。
「陸遜、今こそ魏を攻める好機かもしれぬ。曹丕が亡き今、魏は骨抜きとなっているだろう?」
孫権がそう言うと、陸遜はわずかに目を伏せ、静かに答えました。
「陛下。夜に咲く花は朝までは持ちません。ですが、夜が明ければまた別の花が咲くこともございます」
「つまり、急いでは事を仕損じると申すか?」
「はい。新帝・曹叡は若年ながら、父に劣らぬ血気盛んなお方と聞きます。魏に混乱があっても、それが我らの好機とは限りませぬ」
「だが、国境を固めているだけでは、兵も民も張り合いがない。敵が弱った今、何もしないわけにはいかぬ」
陸遜は微笑を浮かべ、一歩前に出ました。
「ならば、我が軍は動きしましょう。ただし、剣ではなく影にて動くのです」
「影とは?」孫権が問い返すと、
「魏の辺境にて小規模な動きを見せ、敵の反応を探ります。軍を本格的に動かすのはその後で遅くはありません。あるいは、蜀と連携し陽動を図るのも手の一つ。敵の陣形を見極めてからこそ、本陣を動かすに値するのです」
孫権は机を軽く叩き、笑みをこぼしました。
「おぬしの話はいつも詩のようだな。だが耳に心地よく、理にもかなっておる」
「詩とは言え、今はまだ韻を踏むには早すぎます」
その言葉に、室内は一瞬の沈黙ののち、笑いに包まれました。
――数日後。
陸遜の命で呉軍は国境地帯にて小規模な奇襲を展開します。
素早く、静かに、矢のように。
夜陰に紛れて前線をかすめ、敵陣の動きを探るのです。
魏の兵は警戒を強めましたが、陸遜の狙いは敵の裏をかくこと。真正面から挑まず、あくまで揺さぶるのです。まるで水面に投げられた石が波紋を広げるように。
ある夜、陸遜は親衛の将とともに地図を広げ、静かに言いました。
「大軍を動かすには、大義と勝算の両方が必要です。今はその種を蒔く時。焦って咲く花は、根が腐ります」
「ですが、敵が隙を見せれば……」
「その時こそ――刀もまた詩を詠むもの」
そう言うと陸遜は剣を抜き、卓上のろうそくの灯を斬り落としました。
火は音もなく消え、ただ細い煙だけが空へ昇っていきました。
曹丕の死は確かに一つの機会。されど陸遜は浮き足立つことなく、深く大地を踏みしめ、その先を見つめていました。勝利の種を正しく蒔くために――誰よりも冷静な瞳を持つ将の姿がそこにありました。
228年:黄武7年――
濡須の冷たい風が吹きすさぶ中、呉軍の陣営には緊張感がみなぎっていました。魏の名将・曹休が大軍を率いて南下してきたとの報が届いたからです。
この曹休という人物は、魏の中でも屈指の戦略家として知られており、その軍勢は数だけでなく質も高いことで恐れられていました。呉としては、この強敵を迎え撃つにあたり、慎重かつ綿密な戦略が必要でした。
「――面倒な相手が来ましたな、陸大都督」
濡須の守備を任されている老練な将軍・徐盛が、皮肉を込めた笑みを浮かべながら陸遜のもとに現れました。
陸遜は呉軍の若き指揮官ながら、冷静な判断と卓越した戦術眼で多くの戦を勝利に導いてきた人物です。彼は地図を広げ、冷静に敵の動きを分析していました。
「魏の諸侯は、いつも兵力の数だけで勝てると思い込んでいます。ありがたいことに、私たちにとっては最高の学びの機会です」
陸遜は柔らかな笑みを浮かべながら答えました。
「学びの機会とはまた……余裕ですね」
徐盛が感心したように言うと、陸遜は静かに続けます。
「焦りは禁物です。焦れば知恵は働かず、ただの力任せの戦になってしまいます」
そこへ、若き猛将・丁奉が駆け込んできました。兜を脱ぎ捨て、豪快に声をあげます。
「さて、会議でしょうか?それとも雑談?どちらにせよ、私にも加えてくださいよ」
徐盛は苦笑いを浮かべ、丁奉もまた戦への熱意を隠しません。
陸遜は指で地図のある地点を指しました。
「ここ、石亭にて敵の分断を仕掛けます。徐盛殿、あなたは濡須で敵の主力を引きつけてください」
「心得ました。これは私の得意分野です」
「丁奉殿、潘璋殿、別働隊を率いて石亭へ向かい、敵の退路を断ちます」
「面白くなってきましたな!火でも煙でも派手にやってやりましょう!」
こうして夜陰に紛れ、呉軍の別働隊は石亭へと忍び寄ります。
冷たい風に肌が切られるような夜でしたが、丁奉の眼は燃えるような闘志に輝いていました。
「潘璋、合図は忘れるな。火矢は左の崖からだ。先走ると俺が背中を叩くぞ」
「はいはい、丁奉将軍。背中は勘弁してくださいよ」
やがて、石亭の静寂を破り、火矢が闇を切り裂いて飛びました。敵陣に火の手が上がり、魏兵たちは混乱し始めます。
「今だ、叩け!」
丁奉の号令とともに、呉兵たちは疾風のごとき突撃を仕掛けました。刃が閃き、盾が砕け散ります。
一方、正面の濡須では徐盛が巧みに敵の注意を引きつけ、退却を許しません。
「まだだ……退くな!ここで敵を釘付けにしろ!」
徐盛の号令に兵たちは奮起し、耐え抜きました。
その時、石亭で丁奉の別働隊が敵の背後を襲い、魏軍は大混乱に陥りました。
「今が勝負だ!全力で突け!」
陸遜の冷静な判断と部隊たちの奮闘が実り、魏軍はついに敗走を余儀なくされました。
この濡須の戦いは、呉が魏に対して示した強い意志と巧みな戦略の象徴となったのです。
228年黄武七年
石亭の戦。魏の曹休が率いる大軍を打ち破り、陸遜は戦場を離れ、ようやく家路につきました。長い戦いから解放され、剣を納めたのです。
門をくぐると、聞き慣れた声が耳に届きました。
「遜様!」
走り寄ったのは妻でした。彼女は孫策の娘であり、凛とした美しさの中に父上譲りの強さを秘めておりました。
「ただいま戻りました。……少し、痩せましたか?」
「そちらこそ、甲冑の下に骨だけしか残っていないのでは?」
微笑み交わしながら、妻はそっと陸遜の腕に触れました。
「また勝ったのですね」
「ええ。しかし、勝って帰っても、こうして迎えてくれる者がいなければ、ただの孤独な将軍で終わります」
「またそうやって、口が滑らかなんだから」
ふと柱の影から小さな姿がのぞきました。
「ちちうえ?」
2歳になったばかりの陸抗が、あどけない瞳で見上げています。
陸遜は目を細め、そっと膝をつきました。
「抗、ただいま。待っていてくれたか?」
「うん!」
笑顔で駆け寄ってきた小さな体を、陸遜は優しく抱き上げました。その温もりに、どれほど救われたことでしょう。
その後ろから、ゆっくりと歩み出たのは大喬です。孫策の正室にして孫権の義姉、呉の良家を支える女傑です。
「ご無事で何よりです、陸遜殿」
「義母上様、ご心配をおかけしました」
「心配など、通り越しておりました。ですが、あなたは帰ってきた。……ならば、申し上げるべきことがございます」
大喬は静かに視線を孫――陸抗へと向けました。
「この子は、孫策様の血を引いております。そして、あなたの血も継いでいる。やがて、この呉を支える者となるでしょう」
「……あの小さな子が、ですか?」
「今はまだ幼くとも、時は育てます。あなたのような父が導けば、この子はきっと……」
陸遜は黙って息子を見つめました。小さな手が、無垢な笑みとともに、彼の頬をそっと叩きます。
「つよい? つよい?」
「……ああ、強くなる。父よりも、ずっと」
すると妻が歩み寄り、口を開きました。
「父の意志を継ぐ者が、この家にはふたりおります。一人は抗。そしてもう一人は、あなた」
陸遜は驚いたように目を見開きます。
「私が、孫策殿の……?」
「そうです。父は剣で呉を築きました。けれど、今は知で守る時代。あなたの才こそ、父が望んだ『次』なのです」
「……それは、光栄に過ぎます」
「ならば、その光を絶やさないで。私も、母上も、そして抗も――あなたに託しております」
陸遜は静かに頷きました。戦場では剣を、家では言葉を。すべては、呉の未来のために。
「承知しました。私は、この家と、この国を背負って立ちましょう。父上の意志と、あなたの信を受けて」
その夜、灯りのともる座敷には、家族三人の笑い声が響いておりました。それは、嵐の中にも絶えぬ、確かな光でございました。
228年:黄武七年。
陸遜は戦から帰還し、建業の邸宅にて、妻が用意した料理を前に座っていた。疲れた表情を浮かべつつも、香り豊かな料理を口に運ぶと、その旨さに心がほっとする。
「今日の料理も素晴らしいですね、まさに戦の疲れが癒されます」
妻は微笑んで、軽く首をかしげる。
「お気に召していただけて何よりです。ところで、戦で得た知識が少しは役立ちましたか?」
「ふむ、戦のことばかり考えていたが、そういえば食事のことも考えるべきだな。魏の庶民はどうしても粗食が多い。特に西北の方では、主食は粟や大麦、それに豚肉や干し魚がメインになる。しかし、戦争で物資が不足している時期が長く続くと、ひたすら粟の粥ばかりになったりするのだ」
「それは辛そうですね…でも、きっと大切な食材があるのでしょう?」
「もちろんだ。長江を挟んで呉の食文化はずいぶん異なる。呉では、主に米が食べられるのだが、そこでも地域差がある。例えば、江南では魚介類が豊富で、焼き魚や干し魚、海藻を使った料理が定番だ。それに、新鮮な野菜をふんだんに使った料理が、庶民には嬉しいものだろう」
妻は頷きながら、テーブルの上の料理を少し整えた。
「呉では、これらが食生活の中核なのですね。それに比べて蜀の食生活はどうですか?」
「蜀は、山が多いため、農業に適した土地が限られている。だからこそ、蜀の庶民は特に野菜を大事にしているが、肉を手に入れることが少ないのが現実だ。蜀では、豆腐や野菜を中心に、米を多く使った料理が多い。また、四川地方特有の辛味を効かせた料理が好まれているため、香辛料の使用も多いな。唐辛子や花椒をたっぷり使った料理が一般的だ」
「辛い料理が好まれているのですね…まさに地元の気候に適した食材です」
「その通りだ。蜀は戦場で食事が限られることも多いから、庶民は食材を工夫して食べ物を無駄にしないようにしている。だが、どこの地域でも、人々(ひとびと)は工夫を重ねて、毎日の生活をしっかりと支えている。私たち呉でも、何か食材に不自由すれば、その土地の特色を生かして食事を整える。何より、食事が心を豊かにするからな」
妻は満足げに笑った。
「戦を終え、あなたが帰ってきてくれて本当にうれしいです。少しでも元気が出るような料理を作ったつもりですが、少しでも役に立ったなら、何よりです」
「あなたの料理は、何より私にとって最高のものだよ」




