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呉視点三国志:孫権の章①

229年(黄龍元年・こうりゅうがんねん)

 建業けんぎょうそらは、まるで新しい時代じだいの始まり(はじまり)を告げるかのようにわたっていました。宮中きゅうちゅうにはきん幔幕まんまくれ、太鼓たいこかねおとひびいています。君主くんしゅ孫権そんけんは、ついに「皇帝こうてい」として即位そくいし、元号げんごうを「黄龍こうりゅう」とあらためました。

 孫権そんけんおさなころからあにである孫策そんさく遺志いしぎ、冷静れいせい決断力けつだんりょくすぐれた統治者とうちしゃとして呉をおさめてきました。その彼をささえるのが、文武両道ぶんぶりょうどうひいで、夷陵いりょうたたかいで大勝利たいしょうりおさめた名将めいしょう陸遜りくそんです。彼はこの日、上大将軍じょうだいしょうぐん右都護うとご荊州牧けいしゅうぼくというおも役職やくしょく拝命はいめいし、その功績こうせきが正当に評価ひょうかされたことをよろこんでいました。

 陸遜りくそん温和おんわ柔軟じゅうなん性格せいかくながらも、戦略せんりゃく政治せいじけており、呉の防衛ぼうえい内政ないせいかせない存在そんざいとなっていました。

 その祝い(いわい)のせきには、文官ぶんかんとして政治手腕せいじしゅわんすぐれ、内外ないがい情勢じょうせい把握はあくする俊英しゅんえい歩騭ほちしずかにあつまっていました。彼は冷静れいせい洞察力どうさつりょくみ、陸遜りくそん協力きょうりょくして呉の基盤きばんかためていました。

「しかし……さすがは陸将軍りくしょうぐん赤壁せきへき夷陵いりょう石亭せきていかさねた戦功せんこうが、ようやくただしくむくわれましたな」

 歩騭ほち敬意けいいめていました。

過分かぶんなお言葉ことばです。私はただ、あたえられた責任せきにんたしてきただけです。むしろ、このくに柱石ちゅうせきは、かんたみ調和ちょうわはか文臣ぶんしんにあります。歩君ほくんはたらきはいつもたよもしく感じております」

 陸遜りくそんやわらかいこえに、歩騭ほしはわずかにせてわらいました。

「おめにあずかり光栄こうえいですが、私はまだ先代せんだい張公ちょうこうにはとおおよびません……。それにしても、張昭ちょうしょう殿どののご辞退じたい残念ざんねんでなりませんな」

 張昭ちょうしょうは呉の老練ろうれん政治家せいじかで、かつては朝廷ちょうてい丞相じょうしょうしょく推挙すいきょされたものの、年齢ねんれい理由りゆう固辞こじしており、なおもつよ影響力えいきょうりょく人物じんぶつです。

「ええ。皇帝陛下へいか丞相じょうしょうくらいをお授けになろうとされましたが、高齢こうれいを理由に特進位とくしんいでおひかえになりました。張公ちょうこうほどのかたなら、一歩いっぽ退いても朝堂ちょうどうおおきな影響えいきょうあたつづけるでしょうが」

 陸遜りくそん表情ひょうじょうには、敬意けいいさびしさがじっていました。

 そこへ、一人ひとり青年せいねんさかずきわらいながらあるってきました。

はなしかたいですな。せっかくの祝いの席です。今夜こんやぐらいは『老臣ろうしん辞退じたい』などわすれて、痛飲つういんまいりましょうぞ」

 こえぬし諸葛恪しょかつかく──大将軍たいしょうぐん左都護さとごまかされた諸葛瑾しょかつきん長子ちょうしであり、才気煥発さいきかんぱつ俊英しゅんえいです。彼はちち温厚おんこう性格せいかくおくに、さか自負じふめていました。

「これは諸葛少将軍しょかつしょうしょうぐん御父上おちちうえのご昇進しょうしんまことにおめでとうございます」

 歩騭ほちさかずきかかげると、諸葛恪しょかつかくはにっこりとわらってこたえました。

「ありがとうございます。父はまだまだ朝夕ちょうせき政務せいむわれておりますが、左都護さとごとは光栄こうえいすぎてまぶしいくらいです」

大将軍たいしょうぐん左都護さとご……張温ちょうおん以来いらい重職じゅうしょくですね。呉の西辺せいへんまかされるにかたでしょう」

 陸遜りくそんはうなずきました。

「あなたも、いつか父君ちちきみおとらぬ重職じゅうしょくかれるでしょう」

「はて、それはいつの話でしょうな?」

 諸葛恪しょかつかく冗談じょうだんめかしながらも、ひとみおくするどひかり宿やどしていました。こころざしむねめ、彼はおのれときっているのです。

 ふたたさかずきそそがれ、話題わだい未来みらいへとうつっていきました。

陛下へいかしょくとの関係かんけいをさらにふかめようとされています。劉禅りゅうぜんこうとの和親わぼくたもち、対抗たいこうする体制たいせいかためるご意向いこうです」

 歩騭ほち言葉ことばに、陸遜りくそんしずかに、うなずきました。

「私も同意見どういけんです。みかどとなったいまかならうごきを見せるでしょう。しょくとの同盟どうめいらがぬよう、信義しんぎまもらねばなりません」

あまくはありませんまい。あの司馬懿しばいうごいているとか」

 諸葛恪しょかつかくまゆをひそめてつぶやくと、陸遜りくそんはその若者わかものをまっすぐにつめてこたえました。

「だからこそ、らがちからを合わせるのです。ぶんわかさい老成ろうせいならとき盤石ばんじゃくたるくにとなるでしょう」

 言葉ことばしずかに空間くうかんわたると、三人さんにんだまってさかずきかかげました。それはただの祝杯しゅくはいではなく、未来みらいけた決意けついあかしであったのです。



229年:黄龍こうりゅう元年

 孫権そんけんは「黄龍こうりゅう元年」を建元けんげんし、自ら「呉皇帝ごこうてい」を名乗なのりました。これは曹丕そうひ対抗たいこうし、独自どくじ正統性せいとうせいを打ちうちだすもので、正式せいしき一国いっこくとして成立せいりつしたのです。

 孫権そんけん即位そくい制度せいど参考さんこう中央政権ちゅうおうせいけん整備せいびしました。中書省ちゅうしょしょう尚書省しょうしょしょうを設け、政務せいむ分掌ぶんしょう明確めいかくにし、皇帝こうてい中心ちゅうしん体制たいせいきずきます。

 人材登用じんざいとうようでは、出自しゅつじにとらわれず、才能さいのうあるもの積極的せっきょくてきに取りてました。とりわけ張昭ちょうしょう孫権そんけんつかえる文臣ぶんしんであり、政治せいじささえる重鎮じゅうちんです。顧雍こようもまた、学識がくしき実務じつむすぐれた文臣です。

 軍事ぐんじめんでは、呂蒙りょもう陸遜りくそんといった将軍しょうぐん活躍かつやくしました。呂蒙りょもうはもと武将ぶしょうながら学問がくもんはげみ、孫権そんけん信頼しんらいあつ人物じんぶつです。陸遜りくそん赤壁せきへきいくさ夷陵いりょういくさ大功たいこうげた名将めいしょうで、孫権そんけんから新たに上大将軍じょうだいしょうぐん右都護うとご荊州牧けいしゅうぼく役職やくしょくたまわりました。

 孫権そんけん治世ちせい実利主義じつりしゅぎ柔軟性じゅうなんせいみ、地方豪族ちほうごうぞくとの協調きょうちょう重視じゅうしされました。そのため、江東こうとう地域ちいき安定あんていした勢力せいりょくたもつことができたのです。

 孫権そんけんが掲げた「は学べばすなわちたっす」という言葉ことばは、わか呂蒙りょもう学問奨励がくもんしょうれいにもあらわれており、がく両立りょうりつおもんじられました。

 首都しゅと建業けんぎょう現在げんざい南京市なんきんし長江ちょうこう沿いに位置いちし、軍事ぐんじ交通こうつう要衝ようしょうでした。孫権そんけんはここに壮麗そうれい宮殿きゅうでん官庁かんちょうきずき、南方王朝なんぽうおうちょうにふさわしいみやこ整備せいびします。自然しぜん地形ちけい外敵がいてきからの防衛ぼうえいてきし、水運すいうんによって各地かくちから物資ぶっしあつまり、商業しょうぎょう文化ぶんかさかえました。

 政治的せいじてきには皇帝独裁こうていどくさい文臣ぶんしん武将ぶしょう補佐ほさがバランスよく機能きのうし、経済的けいざいてきにも長江ちょうこう下流かりゅうゆたかな土地とち背景はいけい安定あんていした国力こくりょくつちかわれていきます。また、文化面ぶんかめんでも建業けんぎょう南方知識人なんぽうちしきじん拠点きょてんとなり、儒学じゅがく歴史れきし研究けんきゅうさかんにおこなわれました。

 こうして孫権そんけんは、政治せいじ軍事ぐんじ経済けいざい文化ぶんか四本柱しほんばしらささえられた独自どくじ国家体制こっかたいせい確立かくりつし、三国鼎立さんごくていりつ一角いっかくとして長期ちょうきにわたりその地位ちい維持いじしたのです。



233年頃(嘉禾2年)

 合肥新城がっぴしんじょう建設けんせつは、三国時代さんごくじだいにおける北方防衛ほくほうぼうえいを大きくささえる転換点てんかんてんとなりました。ときの呉の皇帝こうてい孫権そんけんは、との長年ながねん抗争こうそうにおいて合肥がっぴ重視じゅうしし、より強固きょうこ防衛拠点ぼうえいきょてんきずくことを決意けついします。

 合肥がっぴ長江ちょうこう北岸ほくがん淮南わいなん地方ちほう位置いちする要衝ようしょうであり、勢力せいりょくがしばしば激突げきとつする戦場せんじょうでした。とく合肥旧城がっぴきゅうじょうは、魏の建国者、曹操そうそうきずいた堅牢けんろう城塞じょうさいであり、孫権そんけん自らが幾度いくどとなく攻略こうりゃくこころみたものの、そのたびに敗北はいぼくきっしています。

 とりわけ有名ゆうめいなのが合肥のいくさで、張遼ちょうりょう猛将もうしょう呉軍ごぐん大損害だいそんがいけたことです。このにが経験けいけんが、のちに「新城しんじょう築城ちくじょう必要性ひつようせい孫権そんけん確信かくしんさせたといわれています。

 新城しんじょう建設けんせつはじまったのは、嘉禾かか3年、西暦せいれき234ねんごろと推定すいていされています。これはしょく軍師ぐんし諸葛亮しょかつりょう五丈原ごじょうげん北伐ほくばつ展開てんかいしていた時期じきかさなります。しょく対応たいおうしているすきをついて、孫権そんけん合肥旧城がっぴきゅうじょうから南方なんぽうすこくだった場所ばしょ、すなわち長江ちょうこうちか地域ちいきに「合肥新城がっぴしんじょう」をきずくようめいじました。ここは水運すいうんすぐれ、物資ぶっし輸送ゆそう安定あんていしておこなえる要所ようしょでした。

 新城しんじょう構造こうぞう非常ひじょう堅牢けんろうでした。たかあつ城壁じょうへきふかほりかこまれ、てき侵入しんにゅうふせ設計せっけいがなされていました。城門じょうもん二重にじゅう構造こうぞうで、守備兵しゅびへい内外ないがいから挟撃きょうげきできるようになっていました。また、烽火台ほうかだい見張みはだいもうけられ、北方ほっぽうからの魏軍ぎぐん動静どうせいをいちはや察知さっちできるようになっていたのです。

 この新城しんじょう防備ぼうびには、名将めいしょうたちが配置はいちされました。とくに朱然しゅぜん孫権そんけんつかえた武将ぶしょうで、賢明けんめい指揮官しきかんとして知られています。全琮ぜんそうもまた勇敢ゆうかん有能ゆうのう将軍しょうぐんであり、魏軍ぎぐん度重たびかさなる侵攻しんこうふせきました。

 しょく滅亡めつぼうするまで、この合肥新城がっぴしんじょう最前線さいぜんせんとして魏軍ぎぐん圧力あつりょくつづけることになります。

 興味深きょうみぶか逸話いつわとして、孫権そんけん築城ちくじょう予定地よていちみずか視察しさつしたさい、 「このしろきずけば、せんぺいばんぺいふせげよう」 とかたったとつたわります。これは、かれたん戦術上せんじゅつじょう利便性りべんせいだけでなく、合肥新城がっぴしんじょう命運めいうんたくしたことをしめ言葉ことばでした。

 合肥新城がっぴしんじょうたんなるしろではなく、政治的せいじてき軍事的ぐんじてき意志いし象徴しょうちょうでした。その堅牢けんろうさと防衛力ぼうえいりょくは、にとってつね脅威きょういでありつづけ、三国時代さんごくじだい勢力図せいりょくず安定あんていさせる一端いったんになったのです。



233年・景耀6年

 青龍元年せいりゅうがんねん(西暦二三三年)、の辺境に、ひとつの新たな城が築かれました。名を合肥新城がっぴしんじょうと申します。

 この城の誕生には、ひとりの老将の知恵と執念がありました。名は満寵まんちょう、かつて曹操そうそうに仕えた歴戦の智将で、今は合肥の太守として南方防衛を任されておりました。

 満寵は地図を睨みながら、部下に言いました。

「……何度も言うが、ふるい合肥城はの水軍にとって、格好の的なのだ。水路が便利すぎて、敵の船が直接押し寄せてくるではないか」

 それに応じたのは、若き将校のひとり、張嵩ちょうすうでした。

「しかし太守殿。城を捨てて引くとなれば、敵に背を向けたと誤解されます。士気が下がりましょう」

「張嵩、おぬし兵法を忘れたか? 敵が攻めやすい場所を守り続けるは、愚か者の所業ぞ。退くは進むが如し、とは孫子そんしの言でもある」

 実際、旧合肥城は長江ちょうこうの支流に近く、呉の水軍が幾度も襲来していました。援軍の拠点となる寿春じゅしゅんからも距離があり、救援に手間取ることも度々でした。

 満寵は地形を測量し、旧城の北西、約三十里(約十五キロメートル)の地に、新たな要害の築城を朝廷へ上奏しました。

 ところが、すぐに反対の声が上がります。特に強く反発したのは、若き能吏の蔣済しょうさいでした。彼は尚書しょうしょで、軍政に通じた知識人でした。

「満太守。城を捨てるのは臆病の現れ、民も兵も動揺いたしますぞ」

「ふん、言うと思ったわ。では逆に問う、呉が十万の舟を並べて来たとき、どう守る? “気合”か? それとも“忠義”か?」

 蔣済は返す言葉を失います。その隙をついて、尚書のひとり趙咨ちょうしが進み出ました。

「陛下。満寵殿の案、理に適っております。兵の疲弊を防ぎ、呉の矛先を鈍らせる策にございましょう」

 こうして皇帝・曹叡そうえい(字:明帝めいてい)は、満寵の上奏を認めます。彼は父・曹丕そうひより王位を継いだ若き皇帝で、しばしば実務派の意見に耳を傾ける理知的な人物でした。

「よい。新たなる合肥の城、そなたに任す。満寵、存分に築け」

「はっ。この命、余さず果たしてみせましょう」

 かくして工事は始まりました。設計は敵の水軍を寄せ付けぬよう工夫され、ほり土塁どるいを重ね、隘路あいろとりでを築いて固めました。兵と民が交代で土を運び、くいを打ち、汗を流して完成を急ぎます。

 ある夜、松明の灯りの下、満寵が静かに呟きました。

「この城は、単なる砦ではない。呉に奪われた命と誇り、そのすべてを取り返す――我ら魏の、新たなる刃となろう」

 こうして合肥新城は誕生し、後の数度にわたる呉の侵攻を防ぐ重要な防衛拠点として、魏の南方を守り続けたのです。



234年・景耀7年

西暦せいれき二三四年──しょくの国では景耀けいよう七年のこと。

 この年、しょく丞相じょうしょう諸葛亮しょかつりょうは、への北伐ほくばつを進める中で、戦局を有利に進めるためには、との連携が不可欠であると考えていました。

 諸葛亮しょかつりょうは、の防衛を分散させるため、しょく関中かんちゅうを攻めると同時に、が南から攻勢をかける策を立てました。

 五丈原ごじょうげんの陣中にて、諸葛亮しょかつりょうは地図を前にして、淡々とした口調で話し始めます。

を打ち破るには、正面から挑むだけでは限界があります。関中かんちゅうを攻める我が軍と呼応して、が南から攻勢をかければ、魏の防衛は二分されるでしょう」

 諸葛亮しょかつりょうは、かつて劉備りゅうびに仕えた天才軍師で、いまやしょくの政と軍を一手に担う存在です。その姿はやせ細り、声にもかすれが混じりますが、その目の奥には炎のような意志が灯っていました。

と手を組むのは簡単ではありませんが……孫権そんけん殿は理で動くお方。こちらから、理ある形で誘えば、きっと動くはずです」

 隣に控えていた参軍さんぐん楊儀ようぎが腕を組み、少し眉をひそめて応じました。

丞相じょうしょう孫権そんけん殿は打算的です。策を誤れば、我らだけがとぶつかることにもなりましょうぞ」

 楊儀ようぎは慎重な参謀にして、諸葛亮しょかつりょうの右腕ともいえる存在でした。几帳面で論理的ですが、他人に厳しい一面もあります。

「それゆえ、こちらから先に一手を打ちます。彼に“を裂く”という機会を提示いたしましょう」

 そうして諸葛亮しょかつりょうは、筆を執り、建業けんぎょう孫権そんけんへと密書をしたためたのでした。

──しょくはこれより関中かんちゅうに進軍いたします。

 の目を北に向けさせるため、には合肥がっぴあるいは寿春じゅしゅん方面にて、動きをお見せ願いたく──

 数日後。の都・建業けんぎょうの大殿では、皇帝・孫権そんけんが密書を前に、湯をすすりながら臣下たちを見渡していました。

しょく丞相じょうしょう諸葛亮しょかつりょうからの文だ。“我が軍が北で動くゆえ、は南からを圧迫してくれ”……そう申しておる」

 孫権そんけんは若くして国を継ぎ、武略と政略を兼ね備えた英傑です。老獪ろうかいなようでいて決断力もある、まさしく大国の君主の器でした。

 左右には、歴戦の将・朱然しゅぜん、血気盛んな呂拠りょきょ、文官の顧譚こたんらが控えています。

「はは、丞相じょうしょう殿の筆は丁寧だが、結局“に殴り込め”ということじゃないか。相変わらず強引だな」

 呂拠りょきょ孫策そんさくの息子で、若くして武勇にすぐれた将軍です。だが気質はやや奔放で、軽口をたたくこともしばしばでした。

 朱然しゅぜんが静かに口を開きます。

合肥新城がっぴしんじょうにはすでに我が軍の布陣が整っております。兵糧の備えも充分。いま動けば、に対する圧力は効果的でございます」

 朱然しゅぜんは慎重で誠実な将。孫権そんけんからの信頼も厚く、合肥がっぴの守りを任されている老練な軍人です。

 顧譚ことんは扇を閉じ、低い声で申しました。

「ですが、しょくの動きが陽動だけであったなら、我が軍のみが大きな損をすることとなりますな。信じて良いか、見極めが要ります」

 顧譚こたんは冷静な文官で、時に皮肉を交えながらも理路整然と意見を述べる人物です。

 孫権そんけんはしばし黙し、湯のみを置いて、再び文を見つめました。

「……しょくが動かず、だけが動けばは南へ向く。しょくが動き、が静かであればは北へ向く。だが、両者が動けば?」

 その声には、深い読みと自信がこもっていました。

は裂けよう。目を、心を、軍をも」

しばしの沈黙のあと、顧譚こたんが苦笑を浮かべながらうなずきました。

「成程……その理屈にはうなずけます。これは丞相じょうしょう殿との、策士同士の“盤”でございますな」

孫権そんけんは笑みを浮かべて立ち上がりました。

合肥がっぴには朱然しゅぜんを、寿春じゅしゅんには呂拠りょきょを。それぞれ動かす。しょくがどう動こうと、を裂くにはこの一手が最善じゃ」

そして文机に向かい、返書の筆をとりました。

「“は進む。の目を裂かんがため”……よし、これでゆこう」

 こうして、諸葛亮しょかつりょう孫権そんけんは、戦わずしての兵を分け、戦局を動かすための“連携”を再び結ぶこととなったのでした。



234年・景耀7年

 秋、しょくの軍営では、涼やかな風が南山を渡り、木の葉のざわめきを運んでいました。将帥の帳幕の奥、丞相じょうしょう諸葛亮しょかつ・りょうは静かに筆を置き、湯気の立つ茶に手を伸ばしました。その背に、慎ましくも芯のある声が届きます。

 「丞相じょうしょう……お尋ねしてよろしいでしょうか」

 言葉の主は姜維きょう・いです。涼州りょうしゅう出身の若き将で、かつて天水郡てんすいぐん中郎将ちゅうろうしょうを務めていましたが、諸葛亮の北伐ほくばつ時に蜀へ降り、以後、諸葛亮の片腕として軍務に励んでいます。

 「うむ、姜維。今日は少し静かだからな。話してみなさい」

 「……北伐ほくばつ。なぜこれほどまでに繰り返されるのですか。幾度も攻め、幾度も退く。これを止めることはできぬのですか?」

 言葉は静かでしたが、瞳には真摯な熱がありました。諸葛亮はひとつ深く息を吐き、湯呑を置きました。

 「……たみを思うならば、戦などせぬに越したことはない。だが、それは我が身一代で済む話ではないのだ」

 「……と仰いますと?」

 「かんは未だ滅びておらぬ。天の命は未だ、我らに在る。簒奪者さんだつしゃだ。かの曹操そう・そう曹丕そう・ひ父子が奪いし天下を、正さねばならぬ。これは天の道であり、である。ゆえに止めるわけにはいかぬのだ」

 「義を貫くために……ですか」

 「そうだ。だがそれだけではない。北には人口、兵糧、鉄馬がある。南には山、川、毒霧……自然が味方とはならぬ。もしが本気で南下すれば、我らは守りきれぬ。よって攻め続け、牽制することが、しょくを守る最も確実な手立てなのだ」

 姜維は拳を握りました。その掌には微かに汗が滲んでいました。

 「……ならば、を攻めるのは? あちらも豊かな土地を持っています。しかも、背後を突くならば手薄では」

 諸葛亮の顔がわずかに翳りました。だが、即座に静かな微笑みを浮かべます。

 「姜維。我らが三国鼎立ていりつを保つゆえに、は盟を結んでいる。そのを攻めれば、と手を組まれる恐れがある。敵を一つにするより、二つに分けておく方が得策だ。を崩せば、もまた流れに従う」

 「では、全てはを打つための道、ということですね」

 「その通りだ。戦は剣を振るうだけではない。たみの心を得ねば、天下は治まらぬ。に生きる者たちに、を知らしめ、正しきを信じさせねばならぬ。だからこそ、北へと向かうのだ」

 姜維は黙って頷きました。月の光が幕の隙間から差し込み、諸葛亮の姿を淡く照らしていました。

 「姜維。いつか、そなたがこの道を引き継ぐであろう。だからこそ、いまより目を開き、心を開いて、とはなにかを見極めてゆけ」

 「……心得ました。丞相じょうしょう

 その声は、確かに響きました。遠く、夜の静寂の中、の北の地へと通じる道が広がっていくようでした。

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