呉視点三国志:陸遜の章⑥
225年:黄初6年
長江の水面は風にさざめき、灰色の空には重たい雲が垂れ込んでいました。
西暦225年、魏の皇帝・**曹丕**は、自分で大軍を率いて呉の領土へ攻め込もうとしていました。これは長年の夢だった「親征」──皇帝が自ら軍を動かす作戦であり、曹丕はこれによって一気に呉を服従させ、天下統一へと進もうとしていたのです。
魏と呉は、何年にもわたって土地をめぐる争いを続けてきました。曹丕は父・曹操の遺志を受け継ぎ、勢力を広げるため急いで行動していましたが、呉のある江東は守りが堅く、なかなか攻め落とすことができませんでした。そこで、曹丕は自分が前線に出て、兵士たちの士気を上げて一気に勝負を決めるという強い決意をしたのです。
一方、呉の国でも、曹丕の動きを早くから察知していました。そこで、名将の**徐盛や朱桓**たちが、長江沿いに防衛の準備を整えていました。彼らは地形や風といった自然の条件をよく理解し、それらを利用して魏軍を止めるため、細かく計算された作戦を立てていたのです。
広陵という場所に陣を敷いた曹丕は、太鼓の重たい響きを背に、目の前の長江をにらみつけていました。
「この長江を越えれば、江東は我がものだ……父の悲願。赤壁の戦いの屈辱。ここで晴らす!」
彼の目には、向こう岸に堂々と構える呉の守備軍の姿が映っていました。
その最前線に立っていたのが、呉の将・徐盛でした。彼は冷静なまなざしを崩さず、まるで長江そのもののように揺るがぬ存在感を放っていました。
「どんなに魏軍が押し寄せようとも、この長江はそう簡単には渡らせぬ!我が軍は天にも届く城壁と思うがいい」
その隣では、副将の朱桓が、焙じ茶をすすりながら冗談を口にしました。
「長江の神も我が味方しているようですな。船を出せば転覆し、橋を架ければ暴風が吹き荒れる」
「他人の土地を欲しがれば天罰が下るものさ。帰って黄河の治水にでも精を出していればいいのだ」
「ふふ、それならば、痛い目に遭わせて長江の恐ろしさを教えててやらねばいけませんな」
やがて、魏軍の水軍が動き始めました。濁った流れの中を、いくつもの戦船が押し寄せてきました。先頭の船が徐盛の号令で標的になりました。
「撃てぇ!」
その合図で、たくさんの矢が一斉に空へと飛び立ち、続いて投石機から火のついた石が飛び出しました。戦場となった川の表面は、一瞬で炎に包まれました。
朱桓は自らの隊を先に出撃させ、矢に火をつけて敵の船に撃ち込みました。火が一艘、また一艘と船を焼き、魏の兵たちは混乱して水に飛び込む者もいました。
「左翼、朱桓隊!敵の揚陸船を叩け!」
「了解! 火矢を連射するぞ!」
風を切って飛ぶ火の矢が、敵の船の甲板を焼き、黒い煙が空に立ちのぼっていきました。
一方その頃、広陵にある曹丕の本陣では、あせりが広がっていました。
「なぜだ……どうして渡れぬのだ!」
参謀たちはだまったままで、川を前にして苦しそうな顔をしていました。兵士たちも疲れ果て、冷たい風がその心まで冷やしていました。
そして数日後、曹丕は誰にも言わずに撤退を決めました。広陵には、敗北の静かな余韻だけが残ったのでした。
226年(黄初7年)
江夏の城は、初夏の雷鳴に揺れておりました。天を裂くような稲妻が長江を照らし、対岸に翻る魏の黒き旗を赤々(あかあか)と照らし出します。
その光景を見下ろしながら、孫韶は静かに笑いました。
「やれやれ……魏の皇帝殿は、よほど呉の風が気に入ったようですな」
彼は孫堅の甥にして、呉の宗室の一人。字は公礼でございます。
孫韶は文武に通じ、若き頃より民政にも長けた誠実な武人でございます。呉郡や丹陽郡にて地方統治の実績を積み重ね、今は江夏太守として、この国境の城を守っておりました。
この年、魏の皇帝・曹丕は病を押して南征を断行。これが彼の最後の親征となるのでございます。
江夏の城では、孫韶が部将たちを集めて戦評を開いておりました。
「魏が攻めてくると?」
報告したのは若き副将、呉景でございました。
「はい、殿。水陸両道よりの進軍と見られます。兵数も万を超える規模と……」
その言葉に応じて、老練な文官・黄扈が地図を広げました。
「敵は急ぎましょうが、江夏の地形は水路が複雑、道も細く狭い。あちらの舟は重く、こちらの機動力には及びませぬ」
それを聞いて、孫韶はふと頷き、静かに言葉を継ぎました。
「ならば、こちらは速く、軽く、そして鋭くあれ」
その一言に、兵たちの目に炎が灯りました。士気は一気に高まり、兵も将も、いずれの顔にも覚悟と信念が浮かびます。
やがて戦の火蓋が切って落とされました。
魏軍は大河を舟団で下り、夜半、霧に紛れて江夏を包囲せんと動きます。
「将軍、敵の舟が近づいております!」
副将が慌てて駆け寄ると、孫韶は手を上げてそれを制しました。
「焦るな。敵の勢いが強い時こそ、こちらは静かに構えるのだ」
そう言って、彼は剣を静かに抜きました。その眼差しは、鋼のように研ぎ澄まされておりました。
「矢筒を満たせ。火箭、構え!」
その命令とともに、江夏の城壁から火矢が一斉に放たれ、魏の舟団を炎の嵐が襲います。火の鳥が夜霧の中を翔、魏の前線を焼き払ったのでございます。
「しまった、読まれていたか!」
魏軍の混乱を見て、孫韶はさらなる一手を命じました。
「門を開け、伏兵、陽動せよ! 騎兵は西の丘を回り込め!」
夜の城門が開き、軽装の兵たちが飛び出して魏の左翼を突きます。後方からは投石機が火薬玉を放ち、魏の陣をさらに混乱させました。
重装で動きの鈍い魏軍は対応に手間取り、ついには指揮系統が崩壊。戦場に響くのは、呉軍の怒濤の声でございました。
「奴ら、動きが鈍いぞ! 押せ、押せぃっ!」
孫韶は前線に立ち、自ら槍を振るって兵を鼓舞します。
「我らが江夏を、呉を、守るのだ!」
数日にわたる攻防の末、魏軍はついに撤退の決断を下します。江夏の地に、敵の旗は一本たりとも残されませんでした。
「曹丕、退いたか」
副将が報告すると、孫韶はふっと笑いました。
「ならば、よい土産話になろう。“老将が江夏を守りきった”とな」
それを聞いた呉景が言います。
「……殿、それを言うなら“老将”ではなく、“剛将”でございましょう」
「ほう? ではそなたの文に期待しておこう。尾ひれを付けすぎぬようにな」
一同が笑いに包まれたその日、江夏の地には静かで優しい風が吹いていたのでございます。
なおこの時――。
呉の名将・陸遜は、巴丘を拠点に西方の国境を守っておりました。夷陵以西では蜀との緊張が続いており、陸遜は補給線の管理と防衛の要として動き続けていたのです。
孫韶と陸遜。このふたりの名将が、東西から呉の盾となり、静かに、しかし確かに、魏の野望を砕き続けていたのでございました。
226年:黄初7年
江夏の城門が勢いよく開かれ、勝利の凱旋を果たした孫韶が堂々(どうどう)と姿を現した。彼の背には、曹丕率いる魏の大軍を撃退した栄光が鮮やかに輝いている。
「見ろ、見ろ! 我が英雄が戻ったぞ!」
城内には歓声が沸き起こり、群衆の熱気があたりを包んだ。
その中、馬を進めて迎えに来たのは呉の名将、陸遜と徐盛である。
陸遜はにっこりと微笑みながら、
「お疲れ様でした、孫韶殿。魏の大軍を退けるとは、さすがのご武勇でございますな」
と声をかける。
徐盛は少し茶目っ気を帯びた笑みを浮かべて横から口を挟んだ。
「ええ、ええ、孫韶殿の戦術は見事でしたよ。まるで若き日の孫堅殿のような華麗な戦いぶりでしたな」
孫韶は顔を赤らめながらも照れ笑いを浮かべた。
「伯符にはまだまだ及びませぬが、わずかでも力を尽くせたことは誇りに思います」
徐盛は肩を叩き、
「その謙遜がまた孫韶殿らしい」
と言った。
陸遜が言葉を継いだ。
「しかし、この疲労はまるであの赤壁の戦の時のようですな」
孫韶は遠くを見るように顔をしかめ、重い記憶を呼び起こす。
「赤壁……あの時は命の瀬戸際を何度もくぐり抜けました。水路を制し、敵の包囲網を突破した瞬間、まさに死と隣り合わせでございました」
徐盛もまた、目を細めて懐かしむように言う。
「ええ、あの夜の恐怖と緊張感は今も忘れがたく、戦の意味を何度も考えさせられました」
孫韶は静かに頷き、
「魏の軍もよく耐えました。しかしその苦難があったからこそ、今の呉があるのだと思えば、戦いの苦労も報われるというものでございます」
陸遜が興味深そうに話題を変えた。
「徐盛殿も同じ思いでございますかな?」
徐盛は笑みを深め、
「ええ、何度も思い返します。命を賭して戦ったその先に呉の未来があると」
孫韶も深く頷きながら、未来を見据えた。
「だが、この勝利もまた一時のものでございます。今後も呉は強くあらねばなりません」
徐盛も力強く同調した。
「そうですね。孫権殿が帝位に就かれるとあれば、なおのことです」
陸遜は穏やかながらも鋭い目で言葉を継いだ。
「孫権殿が皇帝となれば、呉は新たな時代へと歩み出す。私たちもその礎となるよう努めねばなりますまい」
孫韶は静かに胸を張り、未来への決意を語った。
「この呉を守り抜き、さらなる繁栄へと導く。それが我が使命であります」
その時、徐盛が笑顔で提案した。
「さて、疲れた体を癒す前に、勝利の宴を開きましょうや」
陸遜も嬉しそうに頷く。
「ええ、今宵は杯を重ね、共に語り合う時といたしましょう」
孫韶も微笑んだ。
「それでは、三人で勝利を祝し、呉の未来に乾杯と参りましょうか」
こうして江夏の城に、喜びと希望の宴が静かに幕を開けた。
226年:黄初7年
初秋の風が長江の川面を渡って吹いています。江南はまだ暑さが残っていましたが、石頭城の一室には、扇を閉じた男たちが集まっていました。
主座に腰を下ろすのは、呉の大都督、陸遜です。文武両面で優れ、夷陵の大勝を成し遂げて、その名を天下に轟かせた若き名将でした。隣には、毅然とした顔の朱桓。その豪胆さと機略で、何度も呉を危機から救った経験豊富な武将です。そしてもうひとり、端整な容姿に柔和な笑みを浮かべる孫韶。孫堅の弟である孫静の孫にあたり、文武両道の才子として称賛される若き逸材です。
「……陸都督、これほどまでに国境が動かないのは、もしかすると平和の兆しでしょうか?」
孫韶が盃を置き、問いかけました。
「いいえ、韶公、それは違います」
陸遜は盃を口に運び、静かに微笑しました。
「昔は群雄割拠の時代でした。土地を取り合い、日々(ひび)、国境が変わりました。曹操が冀州を平定すれば、劉表が荊州を割き、孫策殿が江東を制しました」
「まるで賭博のようなもの。毎日が一か八かの勝負だった、ということですな」
朱桓が笑いながら言いました。
「その通りです。ですが今は違います。三国鼎立の形ができあがり、境界は固まりました。今や、攻める者が疲れ、守る者が勝ちます」
「ふむ、なるほど……」
孫韶がうなずきました。
「ならば、なぜそうなったのです? 陸都督の考えを教えてください」
陸遜は少し目を細めました。その瞳の奥に、冷徹な戦局の真理が宿っています。
「それは、国という器が完成してきたからです。昔は領地だけが欲しくて、国政や兵站は後回しでした。しかし、いまや三国とも制度が整い、民が安定し、城が築かれています」
「つまり……守る城がある、ということですな」
「ええ。しかも、攻めるには莫大な兵糧や兵器、そして多くの日数が必要です」
「昔のように、『明日攻めて明後日には城を取る』というわけにはいきませんよね?」
朱桓が苦笑しました。
「おっしゃる通りです。兵法には『長期の遠征は兵を疲れさせる』とあります。しかも今はどの国も守りを固めています。だから攻める側は必ず疲弊し、守る側は防備の利を活かして勝利」
「……ということは、われら呉もむやみに攻めず、しっかり守りを固める時ということですね」
孫韶の声には、若者らしからぬ静けさがありました。
「その通りです、韶公。ですが――ただ守るだけでは、いずれチャンスを逃します。われらがなすべきことは、いかにして敵を疲れさせ、好機に攻つかです。それをこそ考えなければなりません」
「ふふ、つまり敵に攻めさせて勝つ。いわば、呉らしい戦い方ですな」
朱桓が盃を高く掲げました。
「都督の慧眼に、乾杯いたしますぞ!」
盃が打ち鳴らされ、笑いが湧きました。
三国は静かに鼎立していました。しかし、その静けさの裏には、いつ火花が散るとも知れぬ緊張が張り詰めていたのです。




