呉視点三国志:陸遜の章④
222年:黄武元年
陸遜は、戦の前に冷徹に計算を重ねました。蜀軍の侵攻が予想される場所には、険しい地形を巧妙に利用して陣を構えました。彼の策は、決して急がず、相手が焦るまで持久戦を続けるというものでした。
「これが、陸遜の真の力か……」
呉の軍師たちは、陸遜の戦術を見守りながらも、その冷静さと堅実さに感心しておりました。陸遜は部下にこう言い聞かせます。
「どんな挑発にも乗らず、守りを固めろ。決して先手を打ってはならない」
蜀軍は何度も挑発してきましたが、陸遜は一切動じませんでした。風が吹き、木々がざわめく中で、呉軍の兵たちはひたすらに耐え、堅守を続けておりました。
時は夏から秋にかけて、蜀軍はその暑さと湿気に苦しんでおりました。兵糧の輸送も難しく、状況は次第に悪化していきました。
「呉軍の陣地が、何も変わらない……。あれでは前進できない」
蜀の将軍たちは苛立ちを隠せませんでした。しかし、劉備はまだ諦めておりませんでした。彼の心には仇討ちの炎が燃え盛っておりました。
「このままで終わるわけにはいかん! さらに攻撃を強化せよ!」
劉備の命令で、蜀軍はさらに陣を広げ、山林の中に複数の拠点を築きました。彼らは長期戦の覚悟を決め、疲弊しながらも進み続けました。しかし、これこそが陸遜にとっては好都合な展開でした。
陸遜は、蜀軍の動きに目を光らせておりました。長期の膠着状態が続く中、蜀軍が次第に焦りを見せ始めたことに気づきました。何よりも、その疲労が彼の計画通りでした。
「皆よく耐えた!今だ!囚われた屈辱は 反撃の嚆矢だ」
陸遜はすぐに反撃を決意しました。そして、乾燥した気候と風向きを利用した策を立てました。それは、蜀軍の長い陣営を一気に混乱させる、壮大な火攻めでした。
「火をつけろ!紅蓮の弓矢を撃て!黄昏に緋を穿つ!」
陸遜の命令で、兵たちは速やかに準備を整えました。乾いた草木に火をつけ、風向きを味方につけました。山林に立ち込めた煙は、蜀軍の目に見えぬところから迫ってきました。
「火の手が広がった! まずい!」
蜀軍は突然の火攻めに翻弄されました。燃え上がる炎に、彼らの陣は混乱の渦に巻き込まれました。木々が焼け、煙が空を覆い、蜀軍の隊列は乱れに乱れました。
その中で、韓当は冷静に行動しておりました。彼は陸遜の指揮下で活躍し、弓を取り出すと、火の中から飛び出し、蜀軍の指揮官たちを狙い撃ちしました。
「矢を番え追い駆けよ!標的は逃さない!」
韓当の弓矢が次々と命中し、蜀軍の指揮系統が崩れました。その隙をついて、呉軍の兵士たちは猛烈に突撃をかけ、蜀軍は壊滅的な打撃を受けました。
戦の終息とともに、呉軍は勝利を手にしました。陸遜は静かに戦場を見渡し、その成果を内心で噛みしめておりました。
戦後、陸遜の功績は大いに称賛され、韓当はその戦功により、威烈将軍に昇進し、石陽侯に封じられることとなりました。
「貴方の働きがなければ、我が勝利はありませんでした。見事です。韓当殿」
陸遜は韓当を労い、その肩を軽く叩きました。韓当は照れくさそうに笑いました。
「ありがとうございます、陸遜殿。だが、これも皆で一丸となったおかげです」
二人は戦場の勝利を、静かに噛みしめておりました。蜀軍の長期滞陣とその油断をつき、見事に逆転を果たしたのでございます。
222年:蜀漢の章武元年から二年
……ああ、此度も、ついに筆を取る暇はございませんでしたな。
我は――馬良、字を季常と申します。劉備殿に仕え、荊州の政を預かり、そして、この戦にて、その生涯を閉じることとなりましょう。
ふむ……陸遜、あれは、やはり只者ではございませなんだな。
なぜ、陸遜が我らを迎え撃ったのか?
なぜ、あえて水軍を避けさせ、我らに険しき山道を選ばせたのか?
なぜ、夷陵の大将に、老将を差し置いて、彼が抜擢されたのか?
――すべて、理に適っておりました。
……まずは、我らの進軍について申しましょう。
水路をゆけば、たしかに早し。けれど、呉の水軍は強し。周瑜、魯粛の代より鍛え抜かれ、関羽将軍とて、その刃を封じられたほど。
劉備殿はそれを承知の上で、あえて陸路を選ばれたのです。
艱難を越え、地の利を得て、呉の本陣を衝かんとの策――
……が、それこそが、陸遜の描いた「罠」にございました。
あの若き将。文を愛し、筆を携える文士と侮られながらも、その胸の内には烈火の胆を秘めておりました。齢三十、しかも兵に指一本触れぬまま、ただ静かに、我らを睨み据えていたのです。
彼は動かぬ。ひと月、ふた月――ただ、防を固めるのみ。
我らは夏の炎暑に喘ぎ、兵は疲れ、陣は伸びきり、糧秣は尽きかけておりました。
そして――その刹那――
風が変わり、空が乾き、夜の闇にひそやかな気配。
気づけば、尾根を越えて火が舞い、木々が唸りを上げて燃え盛り、我らの陣は、まるで紙のごとく――焼け落ちていったのです。
「馬良どの、もはやこれまでにございますっ!」
叫ぶ声を背に、我は剣を抜きました。筆を持つ指が、刃を握るはこれが最後か……と、思いながら。
陸遜。あれは、ただの文官ではございませぬ。兵を動かすより、敵の策を読み、心を断つ男。
なぜ彼が選ばれたか?
――それは、呉の主・孫権殿が、人の器を見抜いたからにほかなりませぬ。
あの者は、勝つべくして勝った。義や怒りに惑わされず、冷静に、淡々と――
劉備殿は、関羽殿の仇を討たんとされた。その志や、正義を我は疑いませぬ。
されど、義のみでは勝てぬ戦がある。
それが、この――夷陵にございました。
……筆が……筆が欲しい。もう一度だけ、兄弟と語らいたい。蜀の志を、記したい……。
――馬謖よ。どうか、お前だけは、道を見失うことなきように……。
(ここにて、馬良、夷陵に殉ず)
222年から223年:呉の黄武元年から2年
……戦場は、あまりにも静かでございました。
夷陵の山嶺に風が吹き渡り、蜀軍の旗が、破れたまま乾いた空を掠めて揺れておりました。地には血痕と焼け焦がれた兵衣、折れた槍……戦いの跡だけが残り、生きた声はほとんど聞こえませぬ。
劉備殿は、その中を歩まれておりました。敗残兵を率い、西へ――白帝城を目指して。
「急げ……皆、急げ……敵に追いつかれてはならぬ……!」
そのお声は、嗄れておりました。力強くあろうとしても、戦をくぐり抜けたお身体は、すでに限界近く。兵たちもまた、疲弊の色を隠しきれませぬ。乾いた唇、泥にまみれた脚。誰もが、希望を失ってはならぬと、自らを奮い立たせておりました。
「陛下……」
一人の将が進み出て、劉備殿に申し上げました。
「このままでは危ううございます。しばし、ここでお休みを――」
けれども、劉備殿は首を振られました。静かに、されどはっきりと。
「否……いまは歩く。白帝へ……この命が尽きる前に、辿り着かねばならぬのだ」
その御姿に、誰も言葉を重ねることは出来ませなんだ。主の焦りが、痛いほど胸に沁みるようでございました。
――その頃、陸遜は、まるで異なる静けさの中におりました。
戦後の本陣にて、彼は地図を前に、しばし考えておりました。
「……敵はすでに撤いたか」
副官が頭を垂れて報告いたします。
「はっ。蜀軍、敗走しております。兵もまばらで、組織的な抵抗は見られませぬ」
それを聞いても、陸遜の眉は動きませぬ。むしろ、その眼差しはより深く、遠くを見ているようでございました。
「追うな」
「……は?」
若き将が驚き、声を上げます。
「大都督、今こそ劉備を討ち果たす絶好の機会にございます!」
しかし、陸遜は静かに言いました。
「……劉備とは、ただの将ではない。策も、伏兵も、あるやもしれぬ。今は兵を休めよ。深追いして、逆に損なうては、我らの勝ちも台無しとなる」
その声音に、一同が圧倒されました。
柔和なるがゆえに、却って恐ろしく、彼の言葉には誰も抗えませなんだ。
一方、白帝城へと向かわれる劉備殿の足取りは、徐々(じょじょ)に重くなってゆきました。
長き山路を越え、ようやく城門が見えたとき――彼の膝が、ふいに折れました。
「劉備公!」
駆け寄る臣下の手を、彼は微かに払い、呻くように申されました。
「……もう、……もう、……限界かもしれん……な」
そのお声は、もはや誰に聞かせるでもなく、己に言い聞かせるような、ひどく静かな呟きでございました。
次の瞬間、彼の身体は音もなく地に崩れ落ち、そのまま――意識を失いました。
やがて、白帝城にて病床につかれた劉備殿は、程なく崩御されたといいます。
関羽殿の仇を討たんがために、天下に義を問うたその志は、ついに実ることなく、ひとつの時代を終えたのでございました。
陸遜は、勝ってもなお、慎しみ深く在りました。追わず、奢らず、静かに戦後を整えました。
されど、その沈黙のうちに、蜀の命脈は確かに削られており、そして、呉は確かに前へと歩み始めていたのです。
222年から223年:呉の黄武元年から2年
炎天下の夷陵を越え、ついに勝利の凱旋の日がやってきました。
先頭を進む大都督・陸遜は、汗でびっしょりの甲冑姿のまま、ゆっくりと孫権の前に馬を進ます。兵士たちの足音が大地を揺らし、呉の旗が風にたなびきました。
「我が君、夷陵にて劉備軍を打ち破り、無事に兵を帰還させました」
陸遜の声は静かで、凛としていました。
孫権は馬上から陸遜を見下ろし、目を細めて頷きます。
「よく戻ったな。お前の策がなければ、呉の命運は尽きていたかもしれぬ」
そのそばで韓当がにやりと笑いながら言いました。
「まったくです。火攻めのときは、眉毛が焦がれそうになったり敵の矢が飛んできたりして、生きた心地がしませんでしたよ」
「それでも弓は外さなかったでしょう?あなたの眉毛に感謝しています」
陸遜の言葉に韓当は思わず笑い出しました。
「眉毛で褒められたのは初めてだ!」
将たちは笑い合いながらも、その背中には確かな勝利の重みがありました。
しかし、凱旋の喜びは束の間。陸遜はすぐに戦後の処理に取りかかりました。
焼けた家には布を送り、飢えた人々(ひとびと)には粥を配りました。生き残った村人を集めて村の再建を進め、兵士には略奪を禁じました。
「都督、こんな焼け野原に何の価値があるのですか?」
朱然が眉をひそめて尋ねます。
「焼け野原も、人の手でやがて豊かな土地に戻ります。民を守ることは、戦いよりも強い力です」
陸遜の声は低く、しかし揺るぎないものでした。
「なるほど……では私は粥の味見役ということで」
「食う役だけは素早いですね」
韓当の皮肉に朱然がむっとし、兵士たちの笑いが広がりました。
ある日、都に戻った陸遜の元に、息を切らせた文官が駆け込んできました。
「都督……ご子息が……!」
「子息?」
陸遜は一瞬きょとんとしましたが、すぐに理解し、目を見開きました。
「まさか……!」
「はい、立派な男子にございます!」
その瞬間、普段は冷静な陸遜の顔がほころびました。
「そうか……そうか……!名前は“抗”にしよう。“陸抗”だ」
「“抗う”とは?」
「時には道に、時には不正に、時には己の弱さに抗う男になってほしい――そう願いを込めて」
陸遜の目には、戦場とは違う、父親としての優しいまなざしが宿っていました。
朱然が肩をぽんと叩きました。
「よし、では祝い酒だ。都督も父親らしく酔っぱらってもらわねば!」
「いや、それは……控えめに……」
「父親初日くらいは酔っておかんと!坊やが酒豪になったら困りますぞ!」
韓当も笑いながら酒を注ぎました。杯を持った陸遜は、照れながら口を開きます。
「では、一杯だけ」
杯を干した瞬間、彼の頬はほんのり赤らみました。戦を乗り越え、平穏の始まりがゆっくりと陸遜のもとへ訪れたのでした。




