呉視点三国志:呂蒙の章⑥
219年末から220年初頭頃:建安二十四年の冬から翌二十五年の初め
戦の火が消え、荊州にはようやく静けさ(しずけさ)が戻ってきました。関羽の討伐の戦いは、呂蒙の勝利で終わりました。その後、呂蒙は戦後の処理のため、臨時の仮屋に陣を張り、幕舎に陸遜を招いていました。
「いやはや、ようやく……肩の荷が下りましたな」
そう言いながら、陸遜は湯を啜りました。戦装束のままで、肩にはまだ血の跡が残っていました。
「肩の荷どころか、全身から骨が抜けたような気がする」
呂蒙は腰を下ろし、湯呑を片手に持って、薄く笑いました。
「さて、あの策、効いたな」
「『関羽軍の兵士の家族は呂蒙殿が保護している』という噂のことですか?」
「そうだ」
呂蒙は膝を叩きました。少しだけ誇らしさ(ほこらしさ)が滲んでいます。
「戦は剣や矢だけでは動かない。兵の心もまた戦の場なのだ」
「さすがです。兵に『故郷が守られている』と伝えれば、刃を振る腕も鈍るでしょう」
「もしくは――振れなくなるかもしれん」
呂蒙はそっと焚き火に木をくべました。
「なあ、陸遜。兵というのは不思議なものだ。昨日まで命を懸けていた男が、ふと“妻子”の名前を聞いた瞬間、槍を落とす」
「人は、守るべきものを思い出したとき、一番弱くなるものですね。あるいは、一番強くもなる……」
「ふむ。さて、どちらだったと思う?」
「関羽軍に関して言えば、弱さが出ましたな。兵たちはみんな、心がどこかに行っていました」
呂蒙は顎に手を当て、静かに笑いました。
「関羽は、兵を誇りすぎた。自らの威勢を盾にして、兵の心を道具扱いした」
「その誤算こそ、敗因です」
「その通りだ」
呂蒙は湯をひと口飲み、目を伏せました。
「……かつて周瑜殿が言っていた、戦は“心”だと」
「魯粛殿も言っていました。“義だけでは人は動かない”と」
「俺たちは、あの人たちを見習ってきたのだ。剣だけではなく、心で戦うことを」
静かな風が幕舎の隙間から吹き込んできました。
「この策を思いついたとき、ふと……周瑜殿の顔が浮かんだよ」
「それは奇遇ですね。私は、魯粛殿の声が聞こえた気がしました」
「……本当に聞こえたのか?」
「ええ、“あとは任せたぞ”と」
二人は目を見合わせ、ふっと笑いました。
「……さて、ここからが本当の戦だ。占領地の安定、民の保護、そして……蜀との均衡」
「ええ、気は抜けません。呂蒙殿、お体の具合はもう大丈夫ですか?」
「むしろ今が一番健康だな。全身の血が沸き立っています」
呂蒙は立ち上がり、外の夜空を仰ぎました。星は明く、風は涼しく、次なる歴史の幕が開かんとしていました。
西暦220年:建安二十五年
荊州――その名前を巡って、多くの武将が命を懸けて戦った土地です。
その荊州をついに手に入れたのは、呉の猛将・呂蒙でした。
周到な策略と、まるで風のように速い軍略で、関羽を討ち取り、長年の懸念を払拭したその功績は、誰の目にも明らかでした。
「本当に……あんな豪傑を騙すなんて。呂蒙殿はただ者じゃないな」
そう言ったのは、朱然でした。彼は呂蒙の幕舎を訪れ、戦後の処理について話し合っていました。
「“病気を装って、陸遜と交代し、関羽を油断させる”…まるで脚本みたいだな」
呂蒙は微笑んで答えました。手に湯呑を持ちながらも、顔には疲れがにじんでいます。
「脚本か……それなら、そろそろ終わりかもしれないな」
「……冗談を。まだまだ役者は幕を下ろしてないぞ」
ところが、そんな冗談を言っていたその直後、呂蒙の体調は急激に悪化し、床に臥せることとなりました。
最初は軽い頭痛や倦怠感でしたが、それはどんどん深刻になっていきました。
「体が……焼けるように熱い……」
呂蒙はうわ言のように呟きました。額には冷や汗、歯を食いしばる姿。
彼は、かつて関羽を討った時よりも、今、自分の体と戦っていました。
「医者を!名医を呼んでくれ!」
孫権は怒りを込めて命じました。
「呂蒙は私の右腕だ!一刻も早く回復させろ!」
都や辺境から、腕の立つ医者たちが次々(つぎつぎ)に呼び寄せられましたが、どんな薬も、どんな治療法も、全く効きませんでした。
「呂蒙殿……どうか、無事な回復を…旅立つには早すぎます…」
ある夜、陸遜が呂蒙の枕元に座っていました。
呂蒙は目を開き、かすかに笑いました。
「陸遜……来たか……」
「はい。呂蒙殿、私です」
「……あの戦、見事だったな……お前の策も冴えていた……」
「呂蒙殿の布石があってこそ。私は……その後を引き継いだだけです」
「いや……お前にはもっと高い場所に行ってほしい……」
「……呂蒙殿……」
「私の手が届かないところに……周瑜殿や魯粛殿の夢の続きを……頼むぞ……」
そう言って呂蒙は手を伸ばそうとしましたが、その手はふるえ、力なく沈んでいきました。
その後、呂蒙は何度も意識を失い、目を覚ましてはうわ言を繰り返しました。
「関羽……まだ、ここに……いるのか……?」
「いや……違う……もう、終わったのだな……」
その表情は、苦しみと安堵が入り混じったものでした。
孫権は何度も呂蒙の見舞いに訪れ、悲しげに語りかけました。
「……お前がいなくなれば、呉の柱が一本、無くなることになる……」
けれど、その言葉も昏睡状態の呂蒙には届きませんでした。
そして――
ある静かな夜明け(よあけ)、呂蒙は静かに息を引き取りました。
戦の鬼神とも言われた男が、病に蝕まれながらも誇り高く命を終えたその姿に、多くの者が涙を流しました。
その死は呉にとってあまりにも大きな喪失でした。
しかし、呂蒙の遺志は、確かに若き将たちに受け継がれていくこととなります。
西暦220年:建安二十五年
その日、建業の空は重く曇っていました。
呉王・孫権は、政務の合間に文を受け取りました。差出人は陸遜。封を切ったその瞬間、彼の手がぴくりと震えました。
「……嘘だろう。呂蒙が、死んだだと?」
その場にいた近臣たちは、言葉を失いました。
孫権は唇をかみ、手紙を握りしめたまま立ち尽くします。
「なぜだ……まだ、そなたには成すべきことが残っていたはずだろうが!」
玉座の間に、怒声と悲嘆が響き渡りました。
「……泣く王など、見たくはないが……今ばかりは、致し方ないな」
後ろで控えていた朱然が小声でつぶやきました。
「呂蒙殿は、ただの武人ではなかった。あれは、呉の柱だったのだ」
涙をこらえながらも、孫権はすぐに命を下しました。
「国を挙げて、呂蒙の葬儀を行え。名に恥じない、壮麗な葬儀をだ」
喪旗が掲げられ、鼓が三たび鳴らされました。
呉の地を、重々しい弔いの行列が進みます。
大路には白布が敷かれ、香が焚かれ、棺は金糸で縁取られた黒漆の輿に載せられていました。
供物は山のように積まれ、文武百官が頭を垂れました。
「見事な武将でした……あの方がいてくださったから、我々(われわれ)も心強く戦えた」
沈痛な面持ち(おももち)でそう語ったのは、呉の重臣・張承でした。
「俺たちを叱る声も、もう聞けんのか……」
部下の一人がつぶやき、涙をぬぐいました。
陸遜は、棺の前に立ち尽くしていました。
彼は、師のように慕った呂蒙の遺影に語りかけました。
「ご覧ください。荊州を取り、関羽を破ったあの日のように、皆があなたを誇りに思っております」
隣にいた朱然が、そっと肘で小突きました。
「……珍しいな。お前が泣くとは」
「風が目に染みただけです」
「ふむ、それにしては風の方向と違う気がするが?」
そんなやりとりの背後で、民衆が葬列に並び、ひたすらに頭を下げていました。
「呂将軍には、米を施していただいたことがある」
「病の母に薬を届けてくださった方だ。あれは人の上に立つ者だった」
兵士たちもまた、喪服をまとい、整列していました。
彼らの顔には誇り(ほこり)と悲しみ(かなしみ)が入り混じっていました。
「呂将軍がいなければ、俺たちは今ここにいない」
「生きて帰れたのは、あの人の采配あってのことだ」
そして葬儀の場、孫権は自ら呂蒙の棺の前に立ちました。
深く一礼し、静かに言葉を紡ぎました。
「呂蒙よ。そなたは、我が国の守り刀であった。
知略に秀で、忠義を尽くし、何より民を思う将であった。
その功、計り知れず。そなたを失った今、我が心は空虚である」
言葉を終えると、孫権はしばし棺に手を置き、黙して涙を流しました。
その夜――
呉の城下では、篝火が灯され、民たちが家々に香を焚きました。
子らが静かに語ります。
「あれが呂蒙将軍のお通りなんだね」
「うん……ぼくも、あんな大人になりたいな」
風が吹き抜け、白布が揺れます。
その布越し(ぬのごし)に、呂蒙の武勇と慈愛の姿が、まるで生きているかのように浮かび上がって見えました。
西暦220年:建安二十五年
後漢末期から三国時代にかけての中国では、儒教の教えに基づいた「冠婚葬祭」の礼が、士大夫階級や知識人たちのあいだで重んじられていました。とくに政治が乱れ、戦乱が続く時代であったからこそ、「礼を守る」ことは、家や一族の格式を保ち、社会的信頼を得る手段として重要視されたのです。
まず「冠」、すなわち元服について。これは男子が大人になる儀式で、通常は15歳から20歳のあいだに行われました。儀式では、家族の長や師が新たな名を与え、成人の証として冠を戴かせます。たとえば関羽は「雲長」、諸葛亮は「孔明」といった字を持っており、これが社会での正式な呼称として用いられました。
次に「婚」、すなわち結婚です。当時の婚姻は基本的に親同士の取り決めによるもので、恋愛結婚はほとんど例外でした。結婚には「六礼」と呼ばれる段階があり、納采・問名・納吉・納徴・請期・親迎という順を踏みます。簡単に言えば、縁談の申し入れから正式な婚約、日取り(ひどり)の決定、そして新婦の迎え入れまでが儀礼的に行われたのです。婚礼では、花嫁は赤い衣をまとい、髪を高く結い上げ、髪飾り(かみかざり)や飾帯で飾られました。
「葬」、つまり葬儀もまた厳格な形式を持っていました。死者の身分や家格に応じて、棺や墓の規模、喪に服す期間が定められました。特に孝を重んじる儒教においては、親が亡くなった子は三年の喪を守り、その間は婚礼を避け、酒肉を断ち、官職を辞して身を慎みました。曹操が関羽の首を立派な棺に納めて手を合わせた場面も、こうした「敵にも礼を尽くす(てきにもれいをつくす)」という礼儀の観念を色濃く示しています。
最後に「祭」、すなわち祖先をまつる儀礼です。家の祖先を祀る(まつる)ことは、家族の結束を保ち、運命を良くするために欠かせないものでした。特に正月や清明節には、家の祠や墓に香を焚き、酒や食事を供えて拝礼するのが通例でした。皇族や士族においては、郷里や陵墓にて国家規模の大祭が行われることもありました。
このように、建安年間の人々(ひとびと)にとって冠婚葬祭は単なる儀式ではなく、「礼」をもって生きる者の証でした。乱世であればあるほど、そうした礼を守ることが、人としての矜持であり、また国や家の秩序を保つ基盤でもあったのです。




