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呉視点三国志:呂蒙の章⑤

219年:建安二十四年(けんあんにじゅうよねん)

関羽(かんう)の討死(うちじに)という知らせを聞き、呉(ご)の重臣(じゅうしん)たちはそれぞれの思いに沈んでおりました。

朱然(しゅぜん)は鎧(よろい)を脱ぎ、黙ったまま空(そら)を見上げておりました。

「たしかに大きな敵(てき)を倒しました。しかし、なにかが心(こころ)に引っかかって離れません」

潘璋(はんしょう)は口(くち)をきつく閉じ、黙って愛馬(あいば)のたてがみを撫でておりました。

「自分の手で斬ったのは関羽(かんう)でございます……それなのに、なんでこんなにも心(こころ)が冷たいのでしょうか」

呂範(りょはん)は政庁(せいちょう)の廊下(ろうか)に立ち、遠く荊州(けいしゅう)の方角(ほうがく)を見つめておりました。

「勝ったはずなのに、なぜこんなにも気持ちが重いのでしょうか……。しかし、これも国(くに)のための策(さく)であれば、私(わたし)の命(いのち)もその一部(いちぶ)として差し出すしかございません」

徐盛(じょせい)は、酒(さけ)を口(くち)にしてつぶやきました。

「あの方とは長い付き合いではございませんでしたが……関羽(かんう)はただの敵(てき)ではございませんでした。ああいう男(おとこ)を失うのは、惜(お)しいことでございます……」

そして──呂蒙(りょもう)はひとり、帳(ちょう)の中で目(め)を閉じておりました。

「勝利(しょうり)とは、こういうことか。忠義(ちゅうぎ)を尽くした人間(にんげん)を倒し、世(よ)の流れに従(したが)う。それが戦(いくさ)であるならば……」

視線(しせん)を下(さ)げ、目の前(まえ)の文書(ぶんしょ)に目(め)をやりました。それは、自分で書いた軍制改革(ぐんせいかいかく)の草案(そうあん)でございます。

「ですが、それでもなお……戦(いくさ)は、変(か)えていかなければならない」

陸遜(りくそん)はその夜(よる)、ひとり灯(あか)りの下(もと)で筆(ふで)を取っておりました。

「あれだけの人物(じんぶつ)を討(う)つことになろうとは……呉(ご)もまた、運命(うんめい)の渦(うず)に飲まれているのでしょうか」

小さくため息(いき)をつき、静(しず)かに紙(かみ)へと向かっておりました。

「義(ぎ)を貫(つらぬ)く者(もの)を斃(たお)しました。ならば、これからの私(わたし)たちは──その義(ぎ)を、自分自身(じぶんじしん)に問(と)われることになります」

誰(だれ)も表立(おもてだ)っては口(くち)にしませんでしたが、その日(ひ)、重臣(じゅうしん)たちの胸(むね)には、言葉(ことば)にできない重(おも)い感情(かんじょう)が宿(やど)っておりました。

呉(ご)はたしかに勝ちました。けれど、その勝利(しょうり)には、うっすらと血(ち)のにおいが漂(ただよ)い、どこか陰(かげ)を落としておりました。



219年:建安二十四年(けんあんにじゅうよねん)

 冬の風が、許都(きょと)の街を凍(こご)えさせていた。

その日、魏王(ぎおう)・曹操(そうそう)は、静(しず)かに一基(いっき)の棺(ひつぎ)の前に立っていた。

 棺(ひつぎ)の中に納(おさ)められていたのは――関羽(かんう)の首(くび)だった。

孫権(そんけん)から届けられた、あまりにも重(おも)い贈(おく)り物(もの)だった。

「まさか……この首(くび)を自分(じぶん)の目(め)で見る日(ひ)が来(く)るとはな」

 曹操(そうそう)は、低(ひく)い声(こえ)でつぶやいた。

その隣(となり)では、司馬懿(しばい)が慎重(しんちょう)な表情(ひょうじょう)で黙(だま)って立(た)っている。

「ご命令(めいれい)を。いかようにも処置(しょち)いたします」

「ふむ……焼(や)くも、晒(さら)すも、埋(う)めるも、すべて我(わ)が一存(いちぞん)か。まったく、孫仲謀(そんちゅうぼう)も細(こま)かい芸(げい)を見(み)せおる」

 曹操(そうそう)は鼻(はな)で笑(わら)った。

「見(み)せつけたかったのだろうな――『この関羽(かんう)を討(う)ったのは、自分(じぶん)ですぞ』と」

「ですが、その代(かわ)りに殿(との)を前面(ぜんめん)に立(た)たせるつもりでしょう」

「まったく、他人(たにん)の首(くび)で将棋(しょうぎ)を打(う)つとは……してやられたな」

 曹操(そうそう)はふたたび棺(ひつぎ)を見下(みお)ろした。

 関羽(かんう)の顔(かお)は不思議(ふしぎ)なほど安(やす)らかで、死(し)んでもなお威風(いふう)を放(はな)っていた。

「いいだろう。ならばこちらも、一局(いっきょく)打(う)ってやろうじゃないか」

 そう言(い)って、曹操(そうそう)は両手(りょうて)を合わせた。

「関雲長(かんうんちょう)よ……おまえの忠義(ちゅうぎ)、儂(わし)は忘(わす)れぬ。

 かつて千里(せんり)を越(こ)えて兄(あに)を追(お)ったその心(こころ)、敵(てき)ながら見事(みごと)だった」

 司馬懿(しばい)が、驚(おどろ)いたように眉(まゆ)を動(うご)かした。

「……敵将(てきしょう)に、手(て)を合わせるのですか?」

「敵(てき)だからこそ、だ。忠義(ちゅうぎ)を貫(つらぬ)いた者(もの)には、敬意(けいい)を払(はら)う。

 儂(わし)はそれが魏(ぎ)の器量(きりょう)だと思(おも)っている」

 やがて、曹操(そうそう)は関羽(かんう)の首(くび)を立派(りっぱ)な棺(ひつぎ)に納(おさ)めさせた。

そして、丁重(ていちょう)に埋葬(まいそう)するよう命(めい)じた。

「このことは、劉玄徳(りゅうげんとく)にも伝(つた)わるだろう。

喪(も)に服(ふく)すのなら、それもまたよい」

「孫権(そんけん)殿(どの)の思惑(おもわく)とは、逆(ぎゃく)になりますな」

 司馬懿(しばい)が口元(くちもと)をわずかにほころばせる。

「だからこそいい。蜀(しょく)の怒(いか)りが、魏(ぎ)ではなく呉(ご)に向(む)かえば、我(われ)の兵(へい)を動(うご)かす手間(てま)も省(はぶ)けよう」

「ふっ……流石(さすが)は孫仲謀(そんちゅうぼう)、策(さく)の上(うえ)に策(さく)を重(かさ)ねおる。

ならば、我々(われわれ)も応(こた)えてやろうではないか」

「殿(との)のご見識(けんしき)、まことに見事(みごと)でございます」

「いや……これは策(さく)ではない。ただ――戦(たたか)いで死(し)んだ者(もの)への礼儀(れいぎ)だ」

 その声(こえ)には、かすかな哀(かな)しみがにじんでいた。

 関羽(かんう)の威風(いふう)も、忠義(ちゅうぎ)も、曹操(そうそう)はたしかに認(みと)めていた。

たとえ、それが敵(てき)であっても――いや、敵(てき)だからこそ、だったのかもしれない。

 その日(ひ)、許都(きょと)の郊外(こうがい)に、ひっそりと一基(いっき)の塚(つか)が築(きず)かれた。

名(な)は刻(きざ)まれなかったが、そこには一人(ひとり)の武将(ぶしょう)の首(くび)が眠(ねむ)っていた。

 彼(かれ)の名(な)は、関羽(かんう)。

義(ぎ)と勇(ゆう)を貫(つらぬ)いた、不世出(ふせいしゅつ)の将(しょう)である。



219年:建安24年(けんあんにじゅうよねん)

 季節は初春(しょしゅん)。蜀(しょく)の都・成都(せいと)では、ほのかな桃(もも)の香りが漂っていました。しかし、王宮(おうきゅう)に届いた一通(いっつう)の知らせが、その芳香(ほうこう)を血(ち)の臭(にお)いに変えてしまいました。

――関羽(かんう)、死す。

 その言葉(ことば)が、まるで雷(かみなり)のように響き渡ったのです。

 玉座(ぎょくざ)の間(ま)。劉備(りゅうび)は文(ふみ)を読み終えると、口元(くちもと)を強く噛みしめました。紙(かみ)を握る手(て)が震え、力(ちから)が入って血(ち)が滲(にじ)むほどでした。

「……これは、悪い冗談(じょうだん)じゃないだろうな」

 静かに、しかし重(おも)く呟(つぶや)きました。その場(ば)にいた諸葛亮(しょかつりょう)、張飛(ちょうひ)、趙雲(ちょううん)ら重臣(ちょうしん)たちは、誰(だれ)一人(ひとり)として言葉を発することができませんでした。

 それを破ったのは、張飛(ちょうひ)でした。

「兄者(あにじゃ)が……兄者(あにじゃ)が、殺(ころ)されたのか!? 呉(ご)の連中(れんちゅう)、地獄(じごく)に叩(たた)き落としてやる!」

 張飛は床(ゆか)を拳(こぶし)で叩(たた)きつけ、歯(は)ぎしりをしました。その目(め)には、怒(いか)りの炎(ほのお)がすでに燃え上がっていました。

「関羽殿(かんうどの)は、呉(ご)に討(う)たれたのか……確(たし)かですか?」

 趙雲(ちょううん)が低(ひく)く問いかけました。諸葛亮(しょかつりょう)が文(ふみ)を受け取り、沈痛(ちんつう)な表情(ひょうじょう)でうなずきました。

「はい。潘璋(はんしょう)の部下(ぶか)、馬忠(ばちゅう)によって章郷(しょうきょう)にて捕(と)らえられ、処刑(しょけい)されたと記(しる)されています」

 劉備(りゅうび)は沈黙(ちんもく)したまま立ち上がり、ゆっくりと歩(あゆ)を進め、王座(おうざ)の背後(はいご)にある屏風(びょうぶ)の前(まえ)に立ちました。

「我(われ)が義弟(ぎてい)、雲長(うんちょう)。我(われ)と義(ぎ)を結び、死(し)をも恐れず、長年(ながねん)苦楽(くらく)を共にした……それほどの男(おとこ)が、捕(と)らえられ、斬(き)られたと?」

「兄上(あにうえ)……! いかなる策(さく)も不要(ふよう)です。今すぐ、兵(へい)を挙(あ)げましょう!」

 張飛は即座(そくざ)に叫(さけ)びました。声(こえ)が震(ふる)えていました。怒(いか)りとも、哀(あわ)れみともつかない感情(かんじょう)が混じっていました。

 それに対して、諸葛亮(しょかつりょう)が言いました。

「殿(との)、お気持ち(きもち)は痛(いた)いほどよくわかります。しかし……今、呉(ご)を攻(せ)めれば、蜀(しょく)の力(ちから)は尽(つ)き果(は)ててしまいます」

 その言葉(ことば)に、劉備(りゅうび)は振り返りました。目(め)には涙(なみだ)が浮かびましたが、その奥底(おくそこ)には黒(くろ)く沈んだ炎(ほのお)が燃えていました。

「孔明(こうめい)よ。そなたの言(い)う理(り)は、よくわかる。だが、理(り)ではなく、義(ぎ)で動かねばならない時(とき)もある」

 その一言(ひとこと)に、諸葛亮(しょかつりょう)は言葉を失いました。

「民(たみ)を守(まも)るのが我(われ)の道(みち)だと心得(こころえ)ておるが、義弟(ぎてい)の仇(あだ)を討(う)たない王(おう)を、誰(だれ)が信(しん)じるだろうか。呉(ご)は……我(われ)らに刃(やいば)を向けたのだ。赦(ゆる)すわけにはいかない」

 諸葛亮(しょかつりょう)は深く(ふかく)頭(あたま)を垂れました。

「……御意(ぎょい)にございます。ですが、どうか軍備(ぐんび)だけは万全(ばんぜん)に整(ととの)え、機(き)を見て動(うご)かしてくだされ」

 劉備(りゅうび)はうなずきました。

「よし。すぐに兵(へい)を集(あつ)めろ。馬(うま)を鍛(きた)え、矢(や)を削(けず)れ。天(てん)が許(ゆる)さなくても、この仇(あだ)は必ず返(かえ)す」

 その言葉(ことば)が、陣営(じんえい)全体(ぜんたい)に火(ひ)を灯(とも)しました。

 兵士(へいし)たちは怒(いか)りに燃え、槍(やり)を握(にぎ)る手(て)に力(ちから)を込めました。鉄(てつ)が鍛(きた)えられ、鎧(よろい)が整(ととの)えられます。太鼓(たいこ)が鳴(な)り、軍旗(ぐんき)が風(ふう)に舞(ま)いました。

 夷陵(いりょう)へ向けて、復讐(ふくしゅう)の軍(ぐん)が動き始めたのです。



219年:建安二十四年(けんあんにじゅうよねん)

 この時期、後漢(ごかん)王朝は実質的に崩壊し、魏(ぎ)、蜀(しょく)、呉(ご)の三国が覇権を争う「三国時代(さんごくじだい)」の真っ只中にありました。中国大陸(ちゅうごくだいりく)は戦乱(せんらん)と政治的(せいじてき)混乱(こんらん)に包まれていましたが、同時に英雄(えいゆう)たちが義(ぎ)や知恵(ちえ)を大切(たいせつ)にし、激動(げきどう)の時代を生き抜いたことが物語(ものがたり)からも伝わってきます。

 地理的(ちりてき)には、荊州(けいしゅう)は中国中南部(ちゅうなんぶ)に位置(いち)する戦略的(せんりゃくてき)な要衝(ようしょう)で、長江(ちょうこう)流域(りゅういき)の交通(こうつう)と軍事(ぐんじ)の中心地(ちゅうしんち)でもありました。この地域(ちいき)を巡る争い(あらそい)は、呉(ご)と蜀(しょく)の間(あいだ)で何度(なんど)も繰り返され、関羽(かんう)が魏(ぎ)に攻め込んだものの、呉(ご)に背後(はいご)を衝かれて敗北(はいぼく)したのも、この地の重要性(じゅうようせい)ゆえでした。章郷(しょうきょう)や臨沮(りんしょ)などは荊州(けいしゅう)の支地(しち)であり、交通(こうつう)の要所(ようしょ)でもあったため、戦場(せんじょう)となることが多かったのです。

 関羽(かんう)の敗死(はいし)により、蜀(しょく)の都(みやこ)・成都(せいと)は大きな衝撃(しょうげき)を受けました。成都(せいと)は現在(げんざい)の四川省(しせんしょう)にあり、温暖(おんだん)で湿潤(しつじゅん)な気候(きこう)のため農業(のうぎょう)に適(てき)しており、「天府(てんぷ)の国(くに)」と呼ばれるほど豊かな土地(とち)でした。三国志(さんごくし)の中(なか)では、諸葛亮(しょかつりょう)が灌漑(かんがい)事業(じぎょう)を行うなど、農業(のうぎょう)と内政(ないせい)の整備(せいび)が進められていたことがわかります。

 一方(いっぽう)、魏(ぎ)の都(みやこ)・許都(きょと)は、曹操(そうそう)が政治(せいじ)の中心(ちゅうしん)に据えた場所(ばしょ)で、名目上(めいもくじょう)は後漢(ごかん)の献帝(けんてい)を擁していた形式的(けいしきてき)な「正統政権(せいとうせいけん)」の都(みやこ)でもありました。ここには、優れた(すぐれた)文官(ぶんかん)たち、例えば司馬懿(しばい)などが集まり、政治(せいじ)や軍事(ぐんじ)の策(さく)が練られていました。

 この時代(じだい)、戦争(せんそう)が続く中(なか)でも儒教(じゅきょう)や礼儀(れいぎ)を重んじる価値観(かちかん)は根強く(ねづよく)存在(そんざい)していました。曹操(そうそう)が関羽(かんう)の首(くび)に対して敬意(けいい)を示した場面(ばめん)は、敵将(てきしょう)であっても忠義(ちゅうぎ)のある者(もの)には敬意(けいい)を払うという、当時(とうじ)の美徳(びとく)を反映(はんえい)しています。関羽(かんう)のように「忠(ちゅう)」「義(ぎ)」を貫く生き様(いきざま)は、武人(ぶじん)として最も高く(たかく)評価(ひょうか)されました。

 また、兵員(へいいん)の動員(どういん)や戦備(せんび)においては、馬(うま)の育成(いくせい)、矢(や)の製造(せいぞう)、甲冑(かっちゅう)の整備(せいび)といった軍事(ぐんじ)インフラの重要性(じゅうようせい)が強調(きょうちょう)されます。蜀(しょく)の劉備(りゅうび)が復讐軍(ふくしゅうぐん)を編成(へんせい)する場面(ばめん)からも、大規模(だいきぼ)な戦争(せんそう)には膨大(ぼうだい)な準備(じゅんび)が必要(ひつよう)であり、それを支える(ささえる)民衆(みんしゅう)の苦労(くろう)がどれほど大きかったかが伺えます。

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