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呉視点三国志:呂蒙の章④

219年:建安二十四年(けんあんにじゅうよねん)

 洛陽(らくよう)の空は灰色に沈み、殿内(でんない)は重々しい沈黙(ちんもく)に包まれていました。

 文官(ぶんかん)や武将(ぶしょう)が一堂(いちどう)に集まっていましたが、誰もが下を向き、口を開こうとはしません。ついに、その沈黙を破ったのは、曹操(そうそう)自身(じしん)でした。

「……許(きょ)を捨てるべきか」

 一同(いちどう)の視線(しせん)が、一斉(いっせい)に上がりました。

「都(みやこ)を、ですか……!」

 老臣(ろうしん)が震える声(こえ)を漏らしました。

「関羽(かんう)の威(い)がここまでとは……もはや洛陽(らくよう)にまで手(て)を伸ばされかねません」

 そう言ったのは蔣済(しょうせい)でした。若きがゆえの冷静さを持つ文官であり、隣(となり)には知略(ちりゃく)の誉(ほま)れ高き司馬懿(しばい)が控えていました。

「殿(との)様(さま)、関羽は確かに強敵(きょうてき)です。されど、強きがゆえに――隙(すき)もまた深い」

 司馬懿(しばい)が、薄く笑いました。

「おや、先生(せんせい)。あのお髭(ひげ)の殿に、隙など見えましたかな?」

「ええ、ありますとも。背中(せなか)、です」

「背中?」

「彼(かれ)は北(きた)を睨(にら)みすぎて、南(みなみ)が見えておりません」

 蔣済(しょうせい)がすかさず言葉(ことば)を継(つ)ぎました。

「荊州(けいしゅう)は蜀(しょく)と呉(ご)の境界(きょうかい)。関羽の兵(へい)は北に出(で)て、背後(はいご)は手薄(てうす)。孫権(そんけん)は、そこを狙(ねら)っております」

「ふむ、孫権……奴(やつ)もまた、気に病んでおろうな。関羽がこのまま魏(ぎ)を屈(くつ)せしめれば、いずれは呉も呑(の)まれよう」

「であれば、同盟(どうめい)を」

 司馬懿(しばい)が言い切るより早く、曹操(そうそう)は頷(うなず)きました。

「よかろう。虎(とら)を倒すには――もう一頭の虎に噛(か)ませるしかあるまい」

 その夜(よる)、ひとつの密命(みつめい)が風(ふう)に乗って南(みなみ)へと飛びました。

 ――呉(ご)の都(みやこ)・建業(けんぎょう)。

 孫権(そんけん)の館(やかた)には、魏(ぎ)からの使者(ししゃ)が静かに通されていました。

「……なるほど。で、我(われ)らがその『虎』の尻(しり)を叩(たた)け、と」

 孫権(そんけん)は涼しげに茶(ちゃ)を啜(すす)り、使者(ししゃ)をじっと見(み)やりました。

「関羽(かんう)は義将(ぎしょう)、忠義(ちゅうぎ)に生きる男(おとこ)よ。それを背後(はいご)から突(つ)けとは、さて、我(われ)の名(な)が泣(な)くなあ」

 そう口(くち)にしながらも、指先(ゆびさき)は机(つくえ)をゆっくりと叩(たた)いています。

「だが、泣かすのは関羽(かんう)か。我が呉(ご)か。ふむ、どちらが大事(だいじ)かな?」

 沈黙(ちんもく)の中(なか)で、使者(ししゃ)が文(ふみ)を差し出(だ)します。

「これは、曹公(そうこう)直筆(ちょくひつ)の密書(みっしょ)です」

 孫権(そんけん)は紙(かみ)を手(て)に取(と)ると、ちらと笑(え)みを浮(う)かべました。

「魏(ぎ)と呉(ご)。敵(てき)の敵は、味方(みかた)――いや、共犯者(きょうはんしゃ)か」

「ご決断(けつだん)を」

「いいだろう。関羽(かんう)の背(せなか)に、牙(きば)を立てよう。だが……」

 孫権(そんけん)はゆっくり立(た)ち上がり、背後(はいご)の地図(ちず)に目(め)を落(お)としました。

「牙(きば)を研(と)ぐのは、こちらの仕事(しごと)だ。呂蒙(りょもう)を呼(よ)べ」

 その頃(ころ)、関羽(かんう)は樊城(はんじょう)を見下(みおろ)していました。

 空(そら)は快晴(かいせい)。風(かぜ)は北(きた)より吹(ふ)いていました。

「時(とき)は来た。天(てん)が我(われ)に味方(みかた)する」

 ただ一つ、彼(かれ)の背(せなか)に迫(せま)る風(ふう)だけが、妙(みょう)に温(ぬる)かったのです。



219年:建安二十四年(けんあんにじゅうよねん)

「――これは、何だ?」

関羽(かんう)の目の前に差し出された書状。それは、呉(ご)の使者が携えてきた、呂蒙(りょもう)の「病気のため陸遜(りくそん)に任せる」という通知でした。だが、関羽の眼差しはすぐに鋭く変わります。表面には冷徹な微笑(びしょう)を浮かべながらも、内心では不安の芽が膨らんでいたのです。

「病……だと?呂蒙が、わたしの前から退く?どうして?」

関羽は口の中で呟きました。彼の心の中には疑念(ぎねん)が渦巻いていますが、それを表に出すことなく、冷徹に使者を見据えました。

「面倒なことは放っておけ、我々の道を行け」

関羽の声は冷たく響きます。彼の態度に、使者は無言で退きました。だが、関羽はその後ろ姿を見つめながら、心の中で呂蒙の策略(さくりゃく)を見抜いていました。「これは罠(わな)だ」と、彼の鋭い感覚が告げていたのです。

一方、呉の軍営(ぐんえい)では、呂蒙の指揮(しき)する下で、作戦の準備(じゅんび)が進んでいました。夜の帳(とばり)が降りた頃、陸遜が呂蒙の元を訪れました。二人は、昼間に交わした言葉が真実(しんじつ)であることを、改めて確認していました。

「本当に、やるのですか?」

陸遜は呂蒙を見つめました。その表情は厳しく、心中に迷いの色はありません。

「もちろんだ、陸伯言(りくはくげん)。関羽を討つことが我々の未来(みらい)を決める――呉の勝利を決定づける戦(いくさ)だ」

呂蒙の眼差しは、決して揺るがないものだった。冷徹でありながら、同時にその深い眼差しに“覚悟(かくご)”が感じられました。彼の内心では、決して迷いなどなかったのです。

だが、陸遜はその言葉に思案(しあん)していました。彼の頭の中には、呂蒙があえて病を装ってまで仕掛けた謀略(ぼうりゃく)の裏に潜むリスク(りすく)が浮かんでいたからです。

「それにしても、敵は油断(ゆだん)しきっている。関羽がこんなに甘く見ているとは、少々驚きました」

陸遜が呂蒙に言いました。

「関羽の誇り高き(ほこりたかき)性格(せいかく)が、まさに我々にとっては最大の隙(すき)となった。過信(かしん)は、将(しょう)にとって最も致命的(ちめいてき)なものだ。今、この瞬間も、彼は我々の前に膨れ上がった虚栄(きょえい)を見せつけている。愚かしいことだが、あれを突けば――必ず勝利する」

呂蒙は冷徹な瞳(ひとみ)で答えました。彼の心には、疑念の余地(よち)はありませんでした。

夜の帳が降り、呉軍は荊州(けいしゅう)へと迫(せま)りました。霧(きり)が立ち込め、川面(かわも)にはその霧が薄く滲(にじ)んでいきます。呂蒙は馬に跨(またが)り、兵を指揮(しき)して進軍(しんぐん)します。全軍が静かに、しかし確実に動き出していました。

呂蒙はその目を鋭く光らせ、進軍のペースを緩めることなく前進しました。兵たちもその緊張感(きんちょうかん)に巻き込まれ、足音(あしおと)をひそめながら進みます。全てが緻密(ちみつ)に計算された動き――目指すは関羽の守る荊州。

「出陣(しゅつじん)です。今こそ――!」

呂蒙の声が軍中に響き渡り、命令(めいれい)が下されると、兵たちは一斉に動き出しました。

その時、関羽は――

「何だ、これは!?」

関羽は、敵の襲撃に気づくのが遅れました。呂蒙の巧妙(こうみょう)な策略、そして虚偽(きょぎ)の降伏(こうふ)計略にまんまと引き込まれていたのです。瞬く間に城内に呉軍が押し寄せ、関羽はその現実(げんじつ)を目の当たりにしました。

「――呂蒙め、巧妙な!」

関羽は悔しげに呟きましたが、もう遅い。逃げる場所もなく、兵の動きは既に絶妙(ぜつみょう)でした。朱然(しゅぜん)が先陣(せんじん)を切り、関羽の兵を挟(はさ)み撃ちにし、韓当(かんとう)と徐盛(じょせい)は他の兵を巧みに制圧(せいあつ)します。

その混乱(こんらん)の中で、呂蒙は関羽に向けて歩み寄りました。

「これが、貴公(きこう)の守る荊州軍の実力(じつりょく)か?」

呂蒙は冷たく問いかけました。

関羽は一瞬、呂蒙を睨(にら)みつけたものの、すぐに何も言わずに黙り込んでいました。その顔に、怒り(いかり)とともに、いまだ誇り高き心が燃えているのが感じられました。

「引くぞ。我らの負けだ。脱出(だっしゅつ)する」

だが、彼の声は次第に小さく、弱々しくなっていきました。



219年:建安二十四年(けんあんにじゅうよねん)

 章郷(しょうきょう)の山道は、晩秋の霧に包まれていました。しんと静まり返った森の奥で、呉の武将・馬忠(ばちゅう)は目を光らせていました。

「……来るぞ。音を立てるな」

 その声に、配下の兵たちは息を潜めます。足音ひとつすら吸い込むような霧の中、木々の間に一陣の気配が走りました。

 黒馬に跨る武将の影。長い髯(ひげ)を風になびかせ、関羽(かんう)が麦城(ばっきょう)からの脱出を試みていたのです。傍らには、息子の関平(かんぺい)と都督(とどく)・趙累(ちょうるい)の姿がありました。

「父上、前方の谷は……様子が変です」

 関平が囁(ささや)いた瞬間、森が裂けました。

「放てっ!」

 馬忠の声が響き、矢が一斉に放たれました。関羽は即座に馬首を返します。だが、すでに四方は包囲されていました。

「呉軍(ごぐん)か……!」

 関羽の眉が吊り上がりました。馬を駆け、矛(ほこ)を振るい、霧を切り裂くように敵陣を突き崩します。その姿はまさに修羅(しゅら)のごとし。

「この関雲長(かんうんちょう)、誰か止めてみよ!」

 その咆哮(ほうこう)に怯まず、馬忠は自ら剣を抜いて進み出ました。

「止めるとも、虎(とら)を仕留めるはこの時ぞ!」

 激突の一瞬、剣が閃き(ひらめき)、馬が嘶き(いななき)ます。だが、疲労と飢え(うえ)で弱った関羽の軍は次第に力を失い、ついには馬忠軍に捕らえられました。

「……降らぬ。たとえ命尽きようと、義に背くことはできん」

 関羽はそう言って背筋を伸ばしました。傍らの関平と趙累もまた、同じ覚悟の眼(まなこ)をしていました。



219年:建安二十四年(けんあんにじゅうよねん)

 数日後、呉の都・建業(けんぎょう)では、重苦しい空気が流れていました。

「──で、関羽(かんう)をどうするつもりですか、殿?」

 軍師・呂蒙(りょもう)が、杯(さかずき)を置いて静かに問いました。

 孫権(そんけん)は黙したまま、地図を見つめていました。

「使者を通じて降伏を勧めたが……この関羽、首を縦に振らぬ」

「まあ、あの傲慢(ごうまん)さも筋金入りですからな」

 呂蒙が肩をすくめました。

「だが、義を重んじる男だ。劉備(りゅうび)の義弟として、我らには決して心を開かぬでしょう」

「ふむ……。配下に加えるのは無理というわけか。後々、蜀(しょく)との火種にもなりかねぬ」

 孫権はため息まじりに言いました。しばしの沈黙ののち、重く口を開きます。

「……斬る。都に災いをもたらすならば、誅(ちゅう)するしかない」

 こうして、関羽、関平(かんぺい)、趙累(ちょうるい)は斬首されました。三人の顔には、最期まで恐れも迷いもありませんでした。



219年:建安二十四年(けんあんにじゅうよねん)

 当時、関羽(かんう)は荊州(けいしゅう)の樊城(はんじょう)を攻め、魏(ぎ)の将である曹仁(そうじん)を包囲し、于禁(うきん)を降伏させ、龐徳(ほうとく)を斬るという大戦果を挙げていました。この時期の関羽は、まさに全盛期にあり、蜀漢(しょくかん)軍の中核として北伐(ほくばつ)の夢を実現しようとしていたのです。

 関羽の家族構成について、史料(しりょう)に記載(きさい)は少ないですが、最も知られるのは養子(ようし)の関平(かんぺい)です。関平は関羽の義子(ぎし)で、もとは関定(かんてい)の子(こ)とされますが、関羽に養われ、実子(じっし)のように扱われていました。関羽の戦いには常に同行(どうこう)し、最期(さいご)の戦(たたかい)まで従い(したがい)、共に捕らえられて処刑(しょけい)されました。また、関羽には関興(かんこう)という実子がいましたが、219年当時はまだ若年(じゃくねん)で、戦場(せんじょう)には出ていなかったようです。関羽の娘(むすめ)については記録が少なく、名(な)は不詳(ふしょう)ですが、『三國志演義(さんごくしえんぎ)』では関銀屏(かんぎんぺい)という名で登場し、武勇(ぶゆう)に優れた女性(じょせい)として描かれています。

 関羽は死の直前(ちょくぜん)まで、荊州の確保(かくほ)とその地(ち)を基点(きてん)にした北伐を目指していました。彼は武威(ぶい)によって敵(てき)を屈服(くっぷく)させ、劉備(りゅうび)の天下(てんか)統一(とういつ)を支える柱(はしら)であるという自負(じふ)を持っていました。樊城の攻略(こうりゃく)と同時に魏の南部(なんぶ)を脅かし、まさにその威勢(いせい)は頂点(ちょうてん)に達していたのです。しかしその反面(はんめん)、関羽は呉(ご)との関係(かんけい)を軽視(けいし)し、同盟(どうめい)をないがしろにしていました。孫権(そんけん)の求婚(きゅうこん)を拒否(きょひ)し、侮る(あなどる)言葉(ことば)を投げかけたことは、呉の反感(はんかん)を買うこととなります。

 その機(き)を逃さず、呉の呂蒙(りょもう)は関羽の背後(はいご)を突く奇策(きさく)を実行(じっこう)しました。まず、呂蒙は自ら病(やまい)を装って戦線(せんせん)から退き(しりぞき)、代わって若く温和(おんわ)な陸遜(りくそん)を前面(ぜんめん)に出すことで、関羽の警戒(けいかい)を解き(とき)ました。関羽が油断(ゆだん)した隙(すき)に、呂蒙は兵(へい)を白衣(はくい)に変装(へんそう)させて長江(ちょうこう)を渡り(わたり)、荊州を急襲(きゅうしゅう)する「白衣渡江(はくいとこう)」の奇策を成功させました。

 さらに呂蒙は関羽の補給路(ほきゅうろ)と連絡網(れんらくもう)を断ち(たち)、彼の軍を孤立無援(こりつむえん)に追い込みました。魏とも密約(みつやく)を結び(むすび)、関羽を挟み撃ち(はさみうち)にする体制(たいせい)を整えたことで、戦局(せんきょく)は一気に逆転(ぎゃくてん)しました。関羽は孤軍奮闘(こぐんふんとう)の末(すえ)、逃亡(とうぼう)を図る(はかる)も捕らえられ、ついに処刑されるに至ります。

 このように呂蒙が関羽を打ち負かすことができたのは、正面(しょうめん)からの力(ちから)によるものではなく、冷静(れいせい)な戦略(せんりゃく)と偽装(ぎそう)、情報戦(じょうほうせん)、補給遮断(ほきゅうしゃだん)といった高度(こうど)な軍略(ぐんりゃく)によるものでした。そして、関羽の過信(かしん)と油断が、それを許したとも言えるのです。

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