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呉視点三国志:呂蒙の章③

219年(建安二十四年(けんあんにじゅうよねん))

その頃、関羽(かんう)将軍は荊州(けいしゅう)を守りつつ、北の樊城(はんじょう)で魏(ぎ)の曹仁(そうじん)を激しく攻めておりました。華容(かよう)の風はすでに涼しく、長江(ちょうこう)の水は、軍馬の嘶きとともに揺れ動いていました。

 一方、東呉(とうご)の都・建業(けんぎょう)では、孫権(そんけん)殿が長い沈黙の後、臣下たちを前にして重々しく口を開かれました。

「……樊城(はんじょう)で関羽が攻めておる。ならば、こちらも動かねばならぬ時であろう」

 老将・張昭(ちょうしょう)が顎を撫でながら進言いたします。

「戦を避けるには、縁組(えんぐみ)を用いるのが得策かと。いっそ、殿のご嫡男・孫登(そんとう)様と、関羽のご息女との縁談をおまとめになっては」

 沈思黙考していた孫権殿は、ゆっくりと頷かれました。

「ふむ。関羽との同盟を磐石にできるならば、それも良い。では、適任の使者を選ばねばなるまいな」

 かくして、呉の使者が荊州へと急ぎました。孫登様の婚儀を申し込み、両家の結びつきを固める――それは、剣よりも深く、戦よりも巧みな策でございました。

 ところが、その返答は、あまりにも想定外、いや、想定外どころか常識外れでございました。

 関羽は使者の言葉を最後まで聞かず、杯を放り、厳しい眼差しで睨みつけました。

「……犬の子(いぬのこ)と縁を結べとな? 馬鹿も休み休み申せ!」

「か、関羽将軍……お言葉が……」

「黙れ! わしの娘が、どうして呉の犬っころに嫁がねばならんのか!」

 使者は蒼白になり、額に冷や汗を滲ませながらその場を辞しました。

 それから数日後、孫権殿のもとへ、荊州からの文が届きました。使者が震える手で書き記した、あの一節――「犬の子に嫁がせるつもりは毛頭ない」と。

 文を読み終えた孫権殿は、しばし無言のまま座っておられました。

 その沈黙を破ったのは、張紘(ちょうこう)殿でございます。

「殿、お心をお静めください。関羽殿はああ見えて……いえ、やはり無礼でございますな」

 孫権殿は静かに盃を掲げ、それをゆっくりと机へ置かれました。

「……なるほど。蜀(しょく)には、礼という文字は無いと見える」

 周囲が緊張に包まれる中、陸遜(りくそん)殿が一歩前へ出られました。

「この縁談は、戦を避けるための橋でした。しかし橋が燃やされてしまった今――進むしかございません」

 孫権殿の眼光が、まるで刃のごとく鋭くなりました。

「ならばよい。橋が燃えたなら、舟で渡ればよい。だがその舟の櫓(ろ)は、呂蒙(りょもう)に任せるといたそう」

 その一言に、部屋の空気が変わりました。戦の決意が、その場に満ちてゆきます。

 のちに呂蒙が策を巡らし、関羽を討つ大戦が始まるのは、もはや必然の流れでございました。

 あの一言――「犬の子」――それは一人の娘の縁談をめぐる言葉ではなく、両国の運命を大きく変える火種でございました。



219年、建安二十四年(けんあんにじゅうよねん)。

その年、呉(ご)の将・呂蒙(りょもう)は荊州(けいしゅう)の関羽(かんう)を討つべく、密かに策を巡らせておりました。呂蒙は、病を理由にその身を引いたふりをしておりましたが、その裏で戦の準備を着々と進めておりました。

その夜、呂蒙の邸宅では、かすかな灯りが夜を照らしておりました。帳の中で、呂蒙と陸遜(りくそん)が静かに対話を交わしておりました。

「……陸遜(りくそん)、よく来てくれたな。」呂蒙は静かな声で挨拶をする。

「病人の家にしては、随分と緊張感がございますな。」陸遜は茶碗を手にして、冗談交じりに呂蒙の様子を指摘する。

「芝居にも礼儀がある。病人が茶を入れたら、せめてそれらしく咳き込まねばな。」呂蒙はあえて咳をひとつし、うっすらと笑みを浮かべた。

「失礼しました。演技が板についておられますな。」陸遜もまた笑う。

だが、その表情はすぐに真剣なものに変わっておりました。彼は呂蒙の計画に賛同し、その内容について慎重に語っておりました。

「関羽(かんう)は現在、魏の曹仁(そうじん)に対して樊城(はんじょう)を攻め立てており、呉(ご)を侮っている。」陸遜の言葉に、呂蒙は鋭い眼差しを向け、うなずく。

「侮っているどころか、もはや背を向けている。」呂蒙の言葉には、深い決意が込められていた。

「病を理由に今、引いているのは私だが、荊州の守りはお前に任せる。」呂蒙は地図を広げ、重要な地点に赤い印をつけながら言った。

「私にはまだ名も力も足りません。」陸遜は懸念を示すが、呂蒙はそれをすぐに払拭する。

「その隙を突くのだ。俺とお前の名前はまだ薄い。だからこそ、敵は警戒しない。だが、それが我々の強みだ。」呂蒙は指で地図をなぞりながら、さらなる計略を明かす。

「関羽の隙に、呉の刃を突き立てる。」陸遜はその言葉に鋭く反応し、口を引き結んだ。

呂蒙は静かに頷く。「そうだ。だが、決して周瑜(しゅうゆ)殿のようにはいかない。だが、あの人が守った呉を無様にされるわけにはいかない。」

その後、呂蒙と陸遜は数日間、密かに戦策を練り直しておりました。陸遜は、「未熟な若造」の役を演じることで、関羽を油断させることに成功いたしました。

そして、ついにその瞬間が訪れました。呂蒙の指導のもと、呉の軍は長江を越えて進軍を開始いたしました。夜の闇に紛れて突如として動き出し、戦の火蓋が切られました。

矢が飛び交い、剣が光を裂く中、呉の軍は火矢で倉庫を焼き、混乱の中で関羽の兵たちを打ち破りました。

こうして、関羽の敗走が決まりました。この戦の勝利は、呂蒙と陸遜が共に練り上げた戦略と、その誠実な友情によって得られたものでございました。



219年:建安二十四年(けんあんにじゅうよねん)

空を覆う雲が重く垂れこめ、漢水(かんすい)は音を立てて増水していました。時は建安二十四年。劉備(りゅうび)が漢中(かんちゅう)を制したその年、前将軍・関羽(かんう)は、ついに長年の念願であった北伐(ほくばつ)に踏み出しました。

「――水は、味方してくれるか」

関羽は髭(ひげ)を撫でながら、濁流(だくりゅう)のうねりを見下ろしました。

「……あいつら、足元(あしもと)を掬(すく)われるとは思うまい」

樊城(はんじょう)は目前(もくぜん)。守るは曹操(そうそう)の腹心・曹仁(そうじん)。しかしその背後では、宛(えん)にて民(たみ)が反乱を起こし、陸渾(りくこん)では孫狼(そんろう)が蜂起(ほうき)。関羽の威(い)は、荊州(けいしゅう)を越えて揺るぎつつありました。

魏(ぎ)の都・許(きょ)では、参謀たちが顔色を失っていました。

「七軍(しちぐん)を派遣(はけん)したのですぞ! 于禁(うきん)が敗れるはずが……」

「関羽など、ただの蛮勇(ばんゆう)と侮(あなど)っていた我らの負けですな」

曹操は静かに杯(さかずき)を置き、言いました。

「……関羽を討てなければ、中原(ちゅうげん)は夢と散る。もはや、孫権(そんけん)と結ぶしかない」

この一言が、関羽の運命を大きく変えることになります。

話を戻しましょう。漢水の大氾濫(だいはんらん)がすべてを変えました。

増水により、于禁の陣(じん)は崩壊。騎(き)も歩(あゆみ)も、泥(どろ)と流れに沈んでいきました。

関羽はその隙(すき)を逃しませんでした。

「船(ふね)を出せ! 火をくべろ! 今だ――突撃(とつげき)!」

矢(や)の如く進む船団(せんだん)が、漢水を裂いて進みます。

火矢(ひや)が雨(あめ)を割って舞い上がり、敵陣(てきじん)を焼き尽くしました。

「わしが関羽ぞ! この刃(やいば)、呑(の)める者(もの)なら呑んでみよ!」

関羽の大刀(だいとう)が、馬上(ばじょう)で閃(ひらめ)きます。光のごとく舞い、盾(たて)も兜(かぶと)も意味(いみ)をなさぬまま、敵を打ち倒していきました。

「于禁軍(うきんぐん)、崩れます!」

「龐徳(ほうとく)将軍(しょうぐん)が応戦(おうせん)を……!」

しかし、龐徳もまた、関羽の剛(たけ)に屈しました。

「武(ぶ)には武で応えるが……貴様(きさま)の刃は、重すぎる!」

そう吐き捨てる間もなく、龐徳は地に伏しました。

「見たか、世よ。義(ぎ)は我にある!」

関羽は叫びました。樊城を囲み、中原の将を討ち取り、魏軍を屈服させたこの戦果(せんか)は、世の耳目を集めました。

そして――その威(い)は、あまりに大きすぎました。

関羽の陣中(じんちゅう)。幕舎(まくしゃ)では、将たちが戦勝(せんしょう)の酒(さけ)を酌み交わしていました。

「これで曹操も震えておろう。次は許都(きょと)へなだれ込むか」

「いえ、まずは補給線(ほきゅうせん)の整備(せいび)を――」

「要らぬ。敵の息(いき)が止まっているうちに、胸(むね)を蹴破(けは)るが早道(はやみち)よ」

関羽の一喝(いっかつ)に、幕僚たちは言葉を飲み込みました。

ただ一人、老将(ろうしょう)がそっと呟きました。

「……されど、虎(とら)は死に際(しにぎわ)が一番危(あぶ)ないございます」

「ふん、虎? 我が刃は虎をも穿(うが)つ」

それは、誇りか。慢心(まんしん)か。

その答えを、時(とき)はまだ告げておりませんでした。



219年:建安二十四年(けんあんにじゅうよねん)

当時の荊州(けいしゅう)は、三国時代において非常に重要な地域でした。荊州は、現在の湖北省(ほくべいしょう)や湖南省(こなんしょう)にまたがる広大な地域で、長江(ちょうこう)や洞庭湖(どうていこ)を含む水運(すいうん)が発展していたため、軍事(ぐんじ)、商業(しょうぎょう)、交通(こうつう)の要所(ようしょ)としての戦略的(せんりゃくてき)価値(かち)を持っていました。特に、長江の流れを利用して南北(なんぼく)の交通(こうつう)が容易(ようい)だったため、経済的(けいざいてき)にも繁栄(はんえい)しており、重要(じゅうよう)な物資(ぶっし)の集積地(しゅうせきち)でもありました。

荊州は、東呉(とうご)と西蜀(せいしょく)にとって非常に重要(じゅうよう)な地域(ちいき)であり、両者(りょうしゃ)はこれを巡(めぐ)って激しい争い(あらそい)を繰り広げていました。そのため、荊州を支配(しはい)することは、三国時代(さんごくじだい)における覇権(はけん)を握るための重要(じゅうよう)な一手(いって)となりました。

樊城(はんじょう)が三国志(さんごくし)の争覇戦(そうはせん)において重要(じゅうよう)な要地(ようち)となったのは、地理的(ちりてき)に非常に戦略的(せんりゃくてき)な位置(いち)にあったからです。樊城は荊州の中心(ちゅうしん)に位置(いち)し、長江(ちょうこう)と襄陽(じょうよう)をつなぐ重要(じゅうよう)な通路(つうろ)にあり、周辺(しゅうへん)には広大(こうだい)な土地(とち)と豊かな資源(しげん)が広がっていました。このため、樊城は防衛線(ぼうえいせん)としても、軍の行動(こうどう)を指揮(しき)する拠点(きょてん)としても重要(じゅうよう)な役割(やくわり)を果たしていたのです。また、樊城は地勢的(ちせいてき)に防衛(ぼうえい)に適しており、周囲(しゅうい)に山(やま)や河川(かせん)が多く、攻め手(せめて)にとっては非常に困難(こんなん)な場所(ばしょ)でもありました。

関羽(かんう)が樊城で水計(すいけい)を使った理由(りゆう)は、彼(かれ)が樊城を包囲(ほうい)していた曹操(そうそう)の軍(ぐん)に対して、長江(ちょうこう)を利用(りよう)した巧妙(こうみょう)な戦術(せんじゅつ)を取ったからです。水計(すいけい)とは、川(かわ)や湖(みずうみ)を利用(りよう)して敵軍(てきぐん)を困らせる策略(さくりゃく)で、通常(つうじょう)は水流(すいりゅう)を利用して堤防(ていぼう)を壊す、または水を引き込んで敵陣(てきじん)を水浸し(みずびたし)にする方法(ほうほう)です。関羽は、樊城の包囲戦(ほういせん)において、敵軍(てきぐん)の動きを制限(せいげん)し、彼らに不利(ふり)な状況(じょうきょう)を強いるために水計を使いました。

具体的(ぐたいてき)には、関羽は樊城周辺(はんじょうしゅうへん)の河川(かせん)を巧みに操(あやつ)り、曹操の軍(ぐん)に水害(すいがい)を引き起こさせることで、相手(あいて)の補給線(ほきゅうせん)や戦力(せんりょく)を分断(ぶんだん)し、逆(ぎゃく)に彼(かれ)の軍(ぐん)に有利(ゆうり)な状況を作り上げました。この戦法(せんぽう)は、関羽の卓越(たくえつ)した軍事戦術(ぐんじせんじゅつ)を示しており、また、彼が水運(すいうん)に長けていた地域(ちいき)での戦闘(せんとう)において非常に効果的(こうかてき)であったと言えます。水計(すいけい)によって曹操軍(そうそうぐん)の補給路(ほきゅうろ)や後方支援(こうほうしえん)が遮断(しゃだん)され、関羽の軍(ぐん)はその隙間(すきま)を突(つ)いて有利(ゆうり)な状況を作り出しました。

このように、樊城は地理的(ちりてき)に戦略的(せんりゃくてき)な要地(ようち)であり、関羽はその利点(りてん)を最大限(さいだいげん)に活用(かつよう)するために水計を駆使(くし)したのです。この戦術(せんじゅつ)は彼の優れた軍略(ぐんりゃく)と自然(しぜん)を利用(りよう)した戦い方(たたかいかた)を象徴(しょうちょう)するものです。

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