呉視点三国志:呂蒙の章②
190年代後半~210年代ごろ
かわいた風が、呂蒙のほおをなでていきました。
「なあ、呂蒙。おまえ、漢字って読めるのか?」
となりを歩いていた兵士が、からかうように言いました。
「読むヒマがあったら、剣をふるうさ。おれはそうやって生きてきた」
呂蒙は笑いもせずに言いました。でも、その声には、少しだけくやしさがにじんでいました。
「ふん、そうかもな。でもな、戦場だけで強くても、上には行けねえぞ」
その兵士の言葉は、まちがっていませんでした。
呂蒙はまずしい家に生まれ、字をならうチャンスなんてありませんでした。たよれるのは、腕っぷしと勇気だけ。姉の夫・鄧当にしたがい、戦いの毎日を送っていたのです。
ある日、戦場のすみにて、呂蒙は血まみれになった鄧当の体をかかえていました。
「おい、しっかりしてくれ!まだ死ぬなよ!」
「呂蒙……おまえには力がある……でも、それだけじゃ……だめなんだ……」
「なに言ってんだよ!」
「……文字を、学べ……知恵を持て……それが……未来をつくる……」
そう言いのこして、鄧当は息をひきとりました。
その後、呂蒙は、学者として有名な張昭に会わされました。きびしい人で知られていましたが、呂蒙の顔を見ると、にやりと笑いました。
「おお、うわさに聞くつわものか。で、字は読めるのかね?」
「すみません、まだよくは……」
「ふむ。できなくて当たり前だ。だが、大事なのは――やる気があるかどうかだ」
この出会いが、呂蒙の人生を変えました。
孫策のもとで初陣をかざった呂蒙は、戦場で大活躍しました。
剣をかまえるまもなく、敵はなぎたおされます。あらしのようにかけぬけて、やをはらい、やりをかわし、敵の将軍の首をうちとりました。
やがて孫策が亡くなり、その弟・孫権があとをつぎました。呂蒙は新しい主君に仕えることになります。
ある夜、孫権はしずかに呂蒙をよびました。
「子明、おまえに聞く。戦だけで、国はおさまると思うか?」
「いいえ、思いません。でも、戦わなければ、国を守れません」
「では、戦いに勝ち、国をおさめるには、なにが必要だと思う?」
呂蒙はこたえに詰まりました。すると孫権は、つくえの上に一冊の本を置きました。
「これを読め。いや、読めるようになれ。それが、おまえに望むことだ」
「……わかりました」
その日から、呂蒙は兵法だけでなく、歴史書や儒学など、たくさんの本を読むようになりました。
昼は剣を、夜は筆をにぎる生活。
まわりの人たちも、やがて呂蒙の知と力の両方をみとめるようになっていきました。
ある晩、むかしの仲間が笑いました。
「おい呂蒙、おまえが本を読むだって?あの呂蒙が!」
「そんなにおかしいか?」
「いや、おもしろい。でもな、戦場で頭ばっかり使うなよ?おまえは“剣の呂蒙”なんだからな」
「フッ。だったら見せてやる。“知の呂蒙”の力もな」
夜空に、ふたりの笑い声がひびきました。
こうして、武と知の両方をそなえた将軍、呂蒙が生まれたのです。
210年から215年ごろ。
陽が西の空へ沈みかける頃、呉の都・建業の城門は、夕日で金色に染まっていました。
戦から帰ったばかりの将軍・呂蒙(字〈あざな〉は子明〈しめい〉)は、甲冑を脱ぐ暇もなく、主君・孫権に呼び出されていました。
「おお、子明。ご苦労だったな。腕は、どうやら相変わらず立つようだな」
「お褒めいただき、光栄にございます。しかし、これでまた肩の筋が一本、消えてしまいました」
呂蒙は、肩を軽く回しながら冗談っぽく返しました。
「それは困る。お前の肩は三国一の宝だ。――だが、今度は腕ではなく、頭を使う番だぞ」
「……またそのお話でございますか?」
「“また”ではない、“何度でも”だ。子明、お前ほどの武の才がある者が、もし学びを身につけたらどうなるか……想像してみろ」
「はっ。想像するよりも、槍の穂先を研ぐ方が私には向いておりますが」
呂蒙は笑ってそう言いましたが、孫権は真顔で、机から一冊の書物を差し出しました。
「これは『春秋左氏伝』だ。読んでみろ」
「……殿、これでは文字が、虫の行列にしか見えませぬ」
「ならば、虫と友になるのだ。知恵は剣より鋭く、盾よりも固い。――それを持たぬまま老いていくつもりか?」
その静かなひと言に、呂蒙はぐっと言葉を詰まらせました。そして深く頭を下げました。
「心得ました。昼は剣を、夜は筆を持ちましょう」
こうして、呂蒙の“第二の修行”が始まりました。昼間は軍の指揮をとり、夜には明りの下で本を読み、筆を走らせます。汗で濡れた軍服には、墨のしみが重なっていきました。
「……“合従連衡”……これは一体、どういう術でございましょうか」
ある晩、書物を抱えて頭をかかえていた呂蒙のもとに、友人の将軍・甘寧がふらりと現れました。
「おう、“書物の呂蒙”様。戦場にまで本を持っていくつもりか?」
「そのうち、敵に矢文を撃つときは、論語を書いてやろうと思っております」
「はは、ならば俺は、酒の銘柄を書いて送り返してやろう」
ふたりは声をあげて笑いましたが、呂蒙の目は真剣でした。
――やがて、呂蒙はかつての「学のない将」から、「学び舎に通う賢者」へと変わっていきました。
ある日、文官の張昭が驚きとともに言いました。
「いやはや、“呉下の阿蒙”が、今や堂々(どうどう)たる論客ですな」
すると呂蒙は、にこりと笑って言いました。
「もはや“阿蒙”にあらず――と、申し上げてよろしいでしょうか」
その場にいた者たちは、一様に感心し、深くうなずきました。
――こうして、「呉下の阿蒙にあらず」という言葉が、生まれたのです。
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補足:ことわざ「呉下の阿蒙にあらず」の意味
「呉下の阿蒙にあらず」とは、
「昔の自分とは違う。学び、成長して新たな人物になった」
という意味のことわざです。
もともとは、呂蒙が若い頃「学びのない武人」と見られていたことから、「呉の下(しも=田舎)の阿蒙=学のない者」とあだ名されていたのですが、孫権の勧めで猛勉強し、見事に知識人としても認められるようになりました。
この話をもとにしたのが、「呉下の阿蒙にあらず」という言葉なのです。
215年(建安二十年)
その夜、呂蒙さんの家で、何人かの武将たちが集まって、ちょっとした宴会がひらかれていました。ずっと続いている戦いの緊張をやわらげるために、親しい仲間たちを招いた、気楽な集まりでした。
庭では風鈴がチリンチリンと鳴り、灯籠のやわらかな光が池の水面にゆれていました。お酒も進み、みんなの笑い声が夜の空気に広がっていきました。
でも、その中で一人だけ、重い雰囲気をまとっている人がいました。凌統です。その若い武将は、ずっと無表情で、お酒の入った杯を静かに口に運んでいました。
彼が見ていたのは、にこにこしながら盃をかたむけている甘寧の姿でした。
「……酒の味も、血の味も、区別がつかなくなってきたようだ」
凌統さんが低い声でつぶやきました。声は落ち着いていましたが、その言葉の裏には、父親の凌操さんを殺された強い恨みがこもっていたのです。
それは、建安八年、黄祖との戦いのとき、甘寧さんによって父親を失った日からずっと、心の奥で燃えつづけている炎のような気持ちでした。
やがて宴会も盛り上がってきたころ、呂蒙が立ち上がって、皆にあいさつをしました。
「みなさん、今日は私の家に来てくれて、本当にありがとうございます。ささやかですが、こうして語り合い、呉の武将としての誇りを確かめ合う夜にできれば、これほど嬉しいことはありません」
みんなが笑顔になって、場の空気も和らぎました。
そのとき、凌統が突然立ち上がりました。 「それでは、私から一つ、舞をお見せいたします」
彼の手には、すでに剣が握られていました。みんな、その剣がただの飾りではないと気づきました。
――これは、遊びではない。
剣はふわっと舞うように振られ、空気を切っていきます。でもその動きは、少しずつ甘寧のほうへ近づいていきました。
「これは……舞というには、ちょっと物騒ですな」
甘寧は笑いながらも、目に鋭い光を宿し、手は剣へ伸びていました。立ち上がれば、もう宴会は修羅場になってしまうでしょう。
「やれやれ……これは困りましたね。私の庭が戦場になるのは、ちょっと風情がありませんな」
呂蒙がゆったりと笑いながら立ち上がりました。手には自然と剣が握られ、まさかと思う間に、自分も舞いを始めたのです。
その舞は、水の流れのようにしなやかで、けれど力強く、剣の一振り一振りが、空気を優しく切っていきました。
不思議なことに、凌統の動きが止まりました。甘寧も、剣から手を離しました。
呂蒙は舞いながら、にこりと笑って言いました。
「凌統殿、父君を失ったつらい気持ち、痛いほどわかります。でも、ここは私の家です。戦いをするには、天井がちょっと低いですな」
その言葉に、空気が少しやわらぎ、甘寧も静かに言いました。
「私も、剣を振るわない夜のほうが好きなのだがな。最近は、血よりも酒のほうが口に合う歳になったようだ」
凌統さんは、剣を下ろして、大きく息を吐きました。
「呂蒙、貴殿の舞に見とれてしまいました。私の怒りも、どこかへ飛んでいったようです」
呂蒙さんは首をかしげて、にこりと笑いました。
「それは良かった。次は、怒りの舞ではなく、楽し(たの)い舞を見せてください」
そして、またみんなで盃を交わし、楽しい音楽も戻ってきました。
でも、その夜に呂蒙の家で舞われた剣の舞は、ただの遊びではありませんでした。剣と剣がぶつかりそうになった一瞬、その裏にあった心の動きは、誰にも見逃せないほど、強く熱いものでした。
この夜が、戦いの始まりのしるしだったのか、それとも、心の中の試練だったのか――それは、まだ誰にもわかりませんでした。
215年(建安二十年)
――この年、三国時代の有力者たちの邸宅は、単なる住居にとどまらず、権力を象徴する重要な場所でした。豪華な邸宅は、その主人の威信を示す場所であり、政治的な意味を持つことが多かったのです。広大な敷地に立つ建物は、庭を囲むように配置され、正殿や東廂、西廂などの主要な建物が左右対称に並びます。正面には大きな門があり、屋根は瓦で葺かれ、壁は漆喰や煉瓦で作られていました。豪華な彩色が施され、庭には池や奇岩、梅や竹が植えられ、自然と人工が調和した美しい景観が広がっていました。
これらの邸宅で開かれる宴会は、ただの食事や飲み会ではありませんでした。宴会は、軍功を称える祝賀会や文人たちを迎えるための歓待の場、または政敵との懐柔を目的とすることもあり、その場で重要な会話や取引が交わされることも多かったのです。食事は豚や羊、鶏などを使った煮込み料理が中心で、果物や薬膳風の料理も出されました。酒は濁酒などの米や麦から作られたものが主流で、香を焚いて席を清める風習もありました。
宴会の雰囲気を一層高めるために、音楽は楽府という専用の演奏集団によって奏でられました。その中で特に注目されたのが、剣舞という舞踊でした。剣舞は、舞姫や武人が両手に剣を持って音楽に合わせて舞うもので、ただの舞踏ではなく、武技の一部として行われました。剣を振り回したり、斬ったり、突いたり、受けたりする戦技の型を舞に取り入れ、戦の技術と芸術が一体となったものだったのです。舞いながらも武器を使って戦技を披露し、その美しさと力強さを見せることで、観客に強烈な印象を与えました。
剣舞は宴会の華として重んじられ、時にはその最中に密かに政治的な意図が込められた密談が交わされることもありました。例えば、曹操の時代には、ある剣舞の最中に暗殺計画が進められていたというエピソードもあります。このように、宴会は単なる楽しみの場ではなく、政治的な駆け引きや軍事戦略が動く舞台でもあったのです。
この時代の宴会や邸宅は、単に豪華なだけでなく、政治、戦術、文化が融合した複雑で深遠な場所であり、その背後には多くの人間ドラマや権力闘争が存在していたのです。




