↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
35/64

呉視点三国志:呂蒙の章①

193年頃:初平(しょへい)四年

陽光(ようこう)が眩(まぶ)しく地面(じめん)を照(て)らす、盛夏(せいか)の昼下がりのことでした。

鄧当(とうとう)の軍(ぐん)が山越(さんえつ)討伐(とうばつ)に赴(おもむ)くという話(はなし)が、呉(ご)の港(こう)に流(なが)れていました。

鄧当(とうとう)は孫策(そんさく)の麾下(きか)の猛将(もうしょう)で、剛毅(ごうき)にして実直(じっちょく)な人物(じんぶつ)です。呂蒙(りょもう)――当時(とうじ)十五歳(じゅうごさい)の少年(しょうねん)は、その鄧当の隊(たい)に、なんとこっそり忍(しの)び込みました。彼(かれ)は鄧当の姉(あね)の子(こ)、すなわち甥(おい)にあたります。

若き呂蒙は、目(め)を輝(かがや)かせながら隊列(たいれつ)の隅(すみ)で歩(ある)いていました。兵(へい)たちは不思議(ふしぎ)そうな顔(かお)で彼を見(み)ますが、少年の目には恐(おそ)れの色(いろ)はありません。

やがて鄧当がそれに気づきました。

「……貴様(きさま)、呂蒙(りょもう)か!」

険(けわ)しい声(こえ)が飛(と)びました。鄧当は馬(うま)から降(お)りると、呂蒙の襟首(えりくび)を掴(つか)みます。

「なぜ黙(だま)ってついて来た! 戦場(せんじょう)は子どもの来るところではないぞ!」

「俺(おれ)はもう子どもじゃありません。見(み)ててください、やれることはあるはずです!」

「黙れ! 母上(ははうえ)がどれほど心配(しんぱい)なさるか……」

「その母(はは)のために、やるんです!」

呂蒙の言葉に、鄧当は一瞬(いっしゅん)、目(め)を見開(みひら)きました。

「……何(なに)を言(い)うか」

「家(いえ)が貧(まず)しいのは知(し)ってます。学(まな)びもなければ地位(ちい)もない。でも、命(いのち)を懸(か)けて功績(こうせき)を立(た)てれば、変(か)えられるんです! 俺は、今ここで名(な)を上(あ)げます!」

その目(め)は真剣(しんけん)でした。嘘(うそ)も虚勢(きょせい)もありませんでした。鄧当は少年の顔(かお)をじっと見(み)つめた後、深(ふか)く嘆息(たんそく)しました。

「……勝手(かって)にしろ。ただし、死(し)ぬな。無事(ぶじ)に戻(もど)ってこい」

「はい!」

それから間もなく、鄧当は呂蒙を連(つ)れて家(いえ)に帰(かえ)りました。報告(ほうこく)を受けた呂蒙の母は烈火(れっか)のごとく怒(おこ)りました。

「何(なに)を考(かんが)えているのです、あの子(こ)は! 殺(ころ)されに行(い)くつもりですか!」

涙(なみだ)交じりの声(こえ)でした。しかし、呂蒙はきちんと目(め)を合わせて言(い)いました。

「母上(ははうえ)、俺(おれ)は変(か)わりたいんです。何(なに)もしなければ、貧(まず)しさからも、この運命(うんめい)からも逃(に)れられない」

母(はは)は唇(くちびる)を噛(か)みました。

「……お前(まえ)の気持(きもち)は、よくわかります。でも……」

「お願いです、何(なに)も言(い)わないで。俺(おれ)が戦場(せんじょう)で倒(たお)れても、それが俺(おれ)の望(のぞ)んだ道(みち)です」

しばし沈黙(ちんもく)がありました。母(はは)は拳(こぶし)を握(にぎ)りしめ、震(ふる)える声(こえ)で答(こた)えました。

「……馬鹿(ばか)な子(こ)です。でも、行(い)きなさい。せめて……名(な)を汚(けが)さぬように」

呂蒙は深(ふか)く頭(あたま)を下(さ)げました。

その日(ひ)を境(さかい)に、少年(しょうねん)は戦いの道(みち)に足(あし)を踏(ふ)み入れます。彼(かれ)は文(ぶん)を知らず、最初(さいしょ)はただの無骨(ぶこつ)な武人(ぶじん)でした。しかし、やがて孫権(そんけん)に仕(つか)えてからは、勉学(べんがく)に励(はげ)み、将(しょう)としてだけでなく、智将(ちしょう)としての道(みち)をも歩(あゆ)んでいくのです。

――その最初(さいしょ)の一歩(いっぽ)は、母(はは)の涙(なみだ)と共(とも)にありました。



196年~199年:建安(けんあん)元年~四年

呂蒙(りょもう)は、貧しさの中で育ちました。早くから志(こころざし)を抱き、剣(けん)を手にして荒(あら)くれ者(もの)たちの中で過ごしてきた男です。ある日、姉婿(あねむこ)である鄧当(とうとう)の幕下(ばっか)に仕えていた役人が、若い呂蒙をあからさまに見下しました。

「子どもは引っ込んでおれ。兵法(へいほう)とは、髭(ひげ)の数ほどの経験(けいけん)がものを言うんだ」

その言葉に、呂蒙の眉(まゆ)がぴくりと動きます。

「では、その髭の数に見合うほどの才覚(さいかく)を、今ここで見せていただきましょうか」

役人が嘲(あざけ)る間(ま)もなく、鋭(するど)い閃光(せんこう)が走りました。呂蒙の剣が一閃(いっせん)し、役人は叫ぶ間もなく地に伏(ふ)しました。

血の気(け)が引く幕舎(ばくしゃ)の中。呂蒙は躊躇(ちゅうちょ)いなく剣を納(おさ)め、静かにその場を去ります。すぐに同郷(どうきょう)の知人(ちじん)を頼り、身を隠(かく)しました。逃亡生活(とうぼうせいかつ)の最中(さいちゅう)でも、彼の眼(め)には一点(いってん)の曇(くも)りもありませんでした。

やがて呂蒙は、校尉(こうい)・袁雄(えんゆう)を通じて自首(じしゅ)します。この一件(いっけん)はすぐに孫策(そんさく)の耳(みみ)に入ります。孫策は江東(こうとう)の虎(とら)と呼ばれる豪胆(ごうたん)な男(おとこ)ですが、人物(じんぶつ)を見抜く慧眼(けいがん)にも優れていました。

「ふむ……己(おのれ)の誇り(ほこり)を貫(つらぬ)いた若者(わかもの)か。面白い」

呂蒙は孫策に召(め)されます。少年(しょうねん)のような面(おもて)をしているが、戦場(せんじょう)の血風(けっぷう)をまとったような眼差し(まなざし)。孫策はその場で笑(わら)い声(ごえ)をあげました。

「いいぞ呂蒙、うちに来い。貴様(きさま)のような若狼(わかおおかみ)には、鎖(くさり)より剣(けん)の方が似合う!」

呂蒙は孫策の側近(そっきん)に抜擢(ばってき)されます。以後(いご)、彼の星(ほし)は昇るばかりでした。

数年後、鄧当が戦(いくさ)で命を落(お)とすと、彼の軍(いくさ)は宙に浮(う)きました。重臣(ちょうしん)・張昭(ちょうしょう)が口を開(ひら)きます。

「あの軍をまとめられる者(もの)が一人(ひとり)おります。呂蒙(りょもう)です」

「ふむ。年(とし)は若(わか)いが、大任(たいにん)に耐(た)えようか」

「若いからこそ、柔(やわ)らかい。鍛(きた)えれば鋼(はがね)にもなるかと」

こうして呂蒙は鄧当の後継(こうけい)として別部司馬(べつぶしば)に任(まか)されました。彼の指揮(しき)のもと、軍は秩序(ちつじょ)を取り戻し、山越(さんえつ)の地にその名(な)を知らしめていきます。

「呂蒙様(りょもうさま)、あのとき斬(き)った男(おとこ)の名(な)を覚(おぼ)えておいでですか」

ある夜、古参(こさん)の兵(へい)が酒(さけ)の席で問(と)います。呂蒙は杯(さかずき)を口に運びながら、ゆるりと笑(わら)いました。

「名(な)は知らぬが、誇りを踏(ふ)みにじられた日(ひ)だ。名乗(なの)らせるほどの価値(かち)はなかったのだろうな」

呂蒙――若き日(ひ)より剣(けん)で道(みち)を切(き)り拓(ひら)き、やがて文武(ぶんぶ)を兼(かね)て国(くに)を支(ささ)える将軍(しょうぐん)となる男(おとこ)。その道(みち)の第一歩(だいいっぽ)は、血(ち)と誇り(ほこり)の上(うえ)に築(きず)かれていたのです。



190年代後半から200年代初頭

呂蒙(りょもう)、字(あざな)は子明(しめい)。まだ十代の終わり、刀(かたな)を携(たずさ)え、無言で進む若き兵士(へいし)の瞳(ひとみ)には、決意(けつい)の炎(ほのお)が宿(やど)っていました。

夜風(よかぜ)が吹(ふ)き抜ける呉(ご)の町(まち)の片隅(かたすみ)。ひとつの家(いえ)から、怒声(どせい)が響(ひび)いておりました。

「また戦場(せんじょう)に行(い)ったですって!?」

呂蒙(りょもう)が戸口(とぐち)をくぐった瞬間(しゅんかん)、母(はは)は腰(こし)に手(て)を当(あ)てて立(た)っておりました。目(め)には涙(なみだ)。怒(いか)りと心配(しんぱい)がないまぜになったまなざし(まなざし)です。

「母上(ははうえ)……話(はな)せば長(なが)くなりますが……」

「話(はな)さなくてよろしい!また義兄(ぎけい)の軍(いくさ)に紛(まぎ)れて山賊(さんぞく)討伐(とうばつ)?お前(まえ)、命(いのち)が惜(おし)しくないのか!」

呂蒙(りょもう)は黙(だま)って頭(あたま)を下(さ)げました。足袋(たび)にはまだ泥(どろ)がこびりついており、袖(そで)には血(ち)の跡(あと)が残(のこ)っております。

「母上(ははうえ)……虎穴(こけつ)に入(い)らずんば、虎子(こじ)を得(え)ず――でございます」

母(はは)の眉(まゆ)がぴくりと動(うご)きました。

「は?」

「虎(とら)が住(す)む穴(あな)に入(い)らなければ、虎(とら)の子(こ)は得(え)られませぬ。命(いのち)を惜(おし)んでいては、名(な)も誉(ほま)れも掴(つか)めぬのです」

「……子(こ)が親(おや)より先(さき)に死(し)ぬことほど、親不孝(おやふこう)なことはありません!」

母(はは)は叫(さけ)びながらも、その声(こえ)に震(ふる)えが混(まじ)っておりました。

「わたくしは、ただ命知らず(いのちしらず)の武者(ぶしゃ)を目指(めざ)しているのではございません。呉(ご)のため、民(たみ)のため、力(ちから)を持(も)つ者(もの)になりたいのです」

「力(ちから)など、欲(ほっ)しがってどうするのです。そんなもの、心(こころ)を曇(くも)らせる毒(どく)ですよ」

呂蒙(りょもう)はしばし黙(だま)り込み、やがて静(しず)かに答(こた)えました。

「毒(どく)にも、薬(くすり)にもなるのが力(ちから)というものでしょう。ならば、わたくしは薬(くすり)になりたい。民(たみ)を護(まも)るために」

母(はは)は息(いき)を呑(の)みました。その瞳(ひとみ)の奥(おく)に、ほんのわずかな誇(ほこ)らしさが混(まじ)ったようにも見(み)えました。

「……無事(ぶじ)で帰(かえ)る約束(やくそく)だけは、しなさい」

「はい。何(なに)があっても、必ず(かならず)」

その夜(よる)、月明かり(つきあかり)の下(した)で、若き呂蒙(りょもう)は母(はは)の手(て)から湯(ゆ)を受け、静(しず)かに鎧(よろい)を脱(ぬ)ぎました。まだ身体(からだ)には少年(しょうねん)の線(せん)が残(のこ)っております。しかし、その瞳(ひとみ)には、すでに一国(いっこく)の未来(みらい)を見据(みす)える光(ひかり)が宿(やど)っておりました。

それから数年(すうねん)。呂蒙(りょもう)の名(な)は、徐々(じょじょ)に将(しょう)たちの間(あいだ)で囁(ささや)かれるようになります。

「……あの若僧(わかぞう)、また手柄(てがら)を立(た)てたそうです」

「虎穴(こけつ)に飛(と)び込むのが癖(くせ)のようだな」

誰(だれ)かがそう呟(つぶや)いたとき、周瑜(しゅうゆ)は筆(ふで)を止(と)めて笑(わら)いました。

「むしろ、虎(とら)を穴(あな)の外(そと)に誘(さそ)い出(だ)して仕留(しと)める策士(さくし)になるかもしれませんよ。あの男(おとこ)は」

やがて、その言葉(ことば)は現実(げんじつ)となり、関羽(かんう)すら欺(あざむ)く軍略(ぐんりゃく)を描(えが)く“知(ち)の将軍(しょうぐん)”へと、少年(しょうねん)は成長(せいちょう)してゆくのでございました。



200年代初頭

呂蒙(りょもう)の出身地である豫州(よしゅう)汝南郡(じょなんぐん)富陂県(ふはいけん)は、現在の中国・安徽省阜陽市阜南県(ふなんけん)にあたります。この地域は後漢末(こうかんまつ)から三国時代(さんごくじだい)にかけて、政治(せいじ)や軍事(ぐんじ)の要衝(ようしょう)として知られていました。中原(ちゅうげん)に近接(きんせつ)し、南方(なんぽう)の江東(こうとう)とも接(せっ)する交通(こうつう)の結節点(けっせつてん)であったことから、商業(しょうぎょう)と文化(ぶんか)がともに栄(さか)えていたのです。

富陂(ふはい)を含む汝南郡一帯(いった)は平野(へいや)が広(ひろ)がり、水利(すいり)にも恵(めぐ)まれていたため、農業(のうぎょう)が非常(ひじょう)に盛(さか)んでした。特に小麦(こむぎ)や大豆(だいず)、粟(あわ)などの穀物(こくもつ)の生産(せいさん)が中心(ちゅうしん)で、これらを活(い)かした家庭料理(かていりょうり)も多(おお)く生(う)まれました。地元(じもと)の名物料理(めいぶつりょうり)としては、小麦を用(もち)いた餅(もち)や饅頭(まんじゅう)、大豆から作(つく)られる豆腐料理(とうふりょうり)などが庶民(しょみん)の味(あじ)として親(した)しまれていました。また、豚肉(ぶたにく)や鶏肉(とりにく)を用(もち)いた素朴(そぼく)な煮込み料理(にこみりょうり)も多(おお)く、地元(じもと)の豊(ゆた)かな農産物(のうさんぶつ)と組(く)み合(あ)わさった滋味深(しみぶか)い味(あじ)わいが特徴(とくちょう)です。

このような土地柄(とちがら)は、優(すぐ)れた人材(じんざい)を多(おお)く輩出(はいしゅつ)する素地(そじ)ともなりました。汝南郡(じょなんぐん)は後漢(こうかん)から三国時代(さんごくじだい)にかけて、数(かず)多(おお)くの名士(めいし)を生(う)んでいます。後漢の名臣(めいしん)・袁安(えんあん)はその代表(だいひょう)で、仁政(じんせい)をもって知られ、後(のち)に三公(さんこう)にまで昇進(しょうしん)しました。その子孫(しそん)である袁紹(えんしょう)・袁術(えんじゅつ)は、後漢末期(こうかんまっき)の群雄(ぐんゆう)として名(な)を馳(は)せています。さらに三国時代(さんごくじだい)には、呉(ご)の名将(めいしょう)・呂蒙(りょもう)がこの地(ち)から登場(とうじょう)します。

呂蒙(りょもう)は寒門(かんもん)の出(で)ながら武勇(ぶゆう)に秀(ひい)で、若(わか)くして戦功(せんこう)を重(かさ)ねた人物(じんぶつ)です。その後(あと)、学問(がくもん)にも励(はげ)み、「呉下(ごか)の阿蒙(あもう)に非(あら)ず」と讃(ほ)められる知将(ちしょう)へと成長(せいちょう)しました。彼(かれ)のような人物(じんぶつ)が育(はぐく)まれた背景(はいけい)には、富陂(ふはい)の地(ち)の風土(ふうど)と気風(きふう)が深(ふか)く関(かか)わっていたと考(かんが)えられます。

このように、豫州汝南郡富陂県(よしゅうじょなんぐんふはいけん)は、農業(のうぎょう)と文化(ぶんか)の豊(ゆた)かな土地(とち)であり、多(おお)くの歴史的人物(れきしてきじんぶつ)を育(はぐく)んだ名郷(めいきょう)として、三国志(さんごくし)の舞台(ぶたい)の一角(いっかく)を担(にな)っていたのです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。