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呉視点三国志:魯粛の章⑤

216年:建安二十一年(けんあん・にじゅういちねん)

 長沙(ちょうさ)郡(ぐん)ではふたたび不穏(ふおん)な空気(くうき)が漂(ただよ)いはじめていました。安成(あんせい)県(けん)の県長(けんちょう)を務(つと)めていた呉碭(ごとう)、そして中郎将(ちゅうろうしょう)の袁龍(えんりゅう)が、なんと荊州(けいしゅう)を守(まも)っていた関羽(かんう)と密(ひそ)かに通(つう)じ、再(ふたた)び兵(へい)を挙(あ)げたのです。ふたりは攸(ゆう)と醴陵(れいりょう)を拠点(きょてん)とし、堂々(どうどう)たる反乱(はんらん)の旗(はた)を翻(ひるがえ)しました。

 この知らせを聞(き)いた孫権(そんけん)は、すぐさま魯粛(ろしゅく)へ命(めい)を下(くだ)しました。

「攸(ゆう)を討(う)て。お前(まえ)にしか任(まか)せられぬ」

 魯粛(ろしゅく)は広陵(こうりょう)の出身(しゅっしん)。若(わか)いころから周瑜(しゅうゆ)と親(した)しく、その才能(さいのう)は早(はや)くから知(し)られていました。今(いま)では孫呉(そんご)の外交(がいこう)を一手(いって)に担(にな)い、劉備(りゅうび)との同盟(どうめい)維持(いじ)のために奔走(ほんそう)する、穏(おだ)やかで誠実(せいじつ)な智将(ちしょう)です。

 その魯粛(ろしゅく)は、何(なに)も言(い)わずに一礼(いちれい)しました。やや細身(ほそみ)の身体(からだ)に紅(くれない)の甲冑(かっちゅう)をまとい、馬(うま)にまたがると、その目(め)には静(しず)かな決意(けつい)の光(ひかり)が灯(とも)っていました。

「……行(い)って参(まい)ります」

 ちょうどそのころ、呂岱(りょたい)にも醴陵(れいりょう)への出兵(しゅっぺい)命令(めいれい)が出(で)ていました。呂岱(りょたい)は南方(なんぽう)の平定(へいてい)で多(おお)くの功績(こうせき)を挙(あ)げた、冷静沈着(れいせい・ちんちゃく)な戦巧者(せんこうしゃ)です。

 二(ふた)つの軍(ぐん)は、ほぼ同時(どうじ)に出陣(しゅつじん)しました。

 魯粛(ろしゅく)の軍(ぐん)は、激(はげ)しい勢(いきお)いで攸(ゆう)の城門(じょうもん)を叩(たた)きました。矢(や)が空(そら)を裂(さ)き、太鼓(たいこ)の音(おと)が天地(てんち)を震(ふる)わせました。

「押(お)せ! 門(もん)を破(やぶ)れ!」

 呉(ご)の兵(へい)が猛然(もうぜん)と突撃(とつげき)します。魯粛(ろしゅく)自身(じしん)も前線(ぜんせん)に立(た)ち、采配(さいはい)を振(ふ)るいながら声(こえ)を上(あ)げました。

「この地(ち)を乱(みだ)す者(もの)に、容赦(ようしゃ)はいらぬ!」

 しかし、攸(ゆう)の守備(しゅび)は意外(いがい)にも脆(もろ)く、呉碭(ごとう)は戦(たたか)わずして脱出(だっしゅつ)を図(はか)りました。魯粛(ろしゅく)はすかさず追撃(ついげき)を命(めい)じます。

 一方(いっぽう)その頃(ころ)、醴陵(れいりょう)では呂岱(りょたい)が着実(ちゃくじつ)に包囲網(ほういもう)を縮(ちぢ)めていました。

「袁龍(えんりゅう)め、討(う)たねばならぬ」

 ついに兵(へい)が城門(じょうもん)を破(やぶ)り、激(はげ)しい白兵戦(はくへいせん)に突入(とつにゅう)します。煙(けむり)の向(む)こうに、袁龍(えんりゅう)の姿(すがた)が見(み)えました。

「くっ……逃(に)がすなっ!」

 呂岱(りょたい)の副将(ふくしょう)が駆(か)け寄(よ)り、たった一太刀(ひとたち)で袁龍(えんりゅう)を斬(き)り伏(ふ)せました。袁龍(えんりゅう)、討(う)ち死(じ)に。これによって反乱軍(はんらんぐん)は総崩(そうくず)れとなり、醴陵(れいりょう)も平定(へいてい)されました。

──その後(のち)のことです。戦(いくさ)が終(お)わった後(あと)、安成(あんせい)の城門(じょうもん)にて、魯粛(ろしゅく)と呂岱(りょたい)は顔(かお)を合(あ)わせました。

「お見事(みごと)でしたな、魯子敬(ろ・しけい)」

「いやいや、そちらこそ。袁龍(えんりゅう)は、手強(てごわ)い相手(あいて)だったでしょうに」

「……しかし、またしても関羽(かんう)が裏(うら)で糸(いと)を引(ひ)いていたとなると、困(こま)ったものですな」

 魯粛(ろしゅく)は少(すこ)しだけ目(め)を細(ほそ)めて言(い)いました。

「同盟(どうめい)というものは、時(とき)に、こちらが我慢(がまん)するものです。いまはまだ、曹操(そうそう)を退(しりぞ)ける時(とき)ではありませんから」

 呂岱(りょたい)は小(ちい)さく苦笑(くしょう)しました。

「またあなたの徳(とく)が、火種(ひだね)を水(みず)にしてくださることでしょうな」

 風(かぜ)が、春(はる)の気配(けはい)を含(ふく)んで吹(ふ)いていました。魯粛(ろしゅく)は馬上(ばじょう)から、遠(とお)くの山並(やまな)みを静(しず)かに見(み)つめて言(い)いました。

「されど、火(ひ)を消(け)しても、灰(はい)は残(のこ)るのです。……それでも、私(わたし)がやらねばなりませんな」



217年(けんあんにじゅうにねん):建安二十二年

 陽(ひ)が西(にし)へと傾(かたむ)き始(はじ)めたある午後(ごご)、建業(けんぎょう)の街(まち)は、まるで湖面(こめん)のように穏(おだ)やかでした。城内(じょうない)に響(ひび)く筆(ふで)の音(おと)、紙(かみ)をめくる音(おと)、そしてときおり誰(だれ)かが小声(こごえ)で詠(よ)む詩(し)──ここは軍営(ぐんえい)であると同時(どうじ)に、学問(がくもん)の府(ふ)でもあります。

 その静(しず)けさの中心(ちゅうしん)にいるのは、呂蒙(りょもう)でした。

 かつてはただ武(ぶ)に長(た)けた猛将(もうしょう)として知(し)られていた男(おとこ)。しかし今(いま)、その額(ひたい)には汗(あせ)こそにじむものの、剣(けん)ではなく筆(ふで)を握(にぎ)り、兵書(へいしょ)を読(よ)み耽(ふけ)っておりました。

「……孫子(そんし)の兵法(へいほう)、ここに至(いた)ってようやく腑(ふ)に落(お)ちるな。敵(てき)を知(し)り、己(おのれ)を知(し)れば……」

 呂蒙(りょもう)は、筆(ふで)を止(と)めてふと天井(てんじょう)を仰(あお)ぎました。若(わか)き日(ひ)の己(おのれ)が脳裏(のうり)に蘇(よみがえ)ります。無骨(ぶこつ)で、直情的(ちょくじょうてき)で、戦場(せんじょう)では誉(ほま)れ高(たか)くとも、席(せき)に座(すわ)れば言葉(ことば)が詰(つ)まり、文官(ぶんかん)に見下(みくだ)される日々(ひび)。

 ──いや、もう違(ちが)う。

 彼(かれ)は自分(じぶん)が変(か)わったことを、誰(だれ)よりも自分(じぶん)が知(し)っていました。

 そのとき、門前(もんぜん)に響(ひび)く馬蹄(ばてい)の音(おと)。足軽(あしがる)が慌(あわ)てて駆(か)け込(こ)みます。

「呂将軍(りょしょうぐん)、魯粛(ろしゅく)殿(どの)がお見(み)えです!」

 呂蒙(りょもう)はゆっくりと筆(ふで)を置(お)き、衣(ころも)を整(ととの)えながら笑(え)みを浮(う)かべました。

「ふむ。満(まん)を持(じ)して、来(こ)られたか……」

 数刻(すうこく)前(まえ)、魯粛(ろしゅく)は旅装(りょそう)を解(と)くこともせず、建業(けんぎょう)へ馬(うま)を駆(か)けていました。彼(かれ)の顔(かお)には喜(よろこ)びと、そして一抹(いちまつ)の驚(おどろ)きが浮(う)かんでいました。

「まさか、あの呂子明(りょしめい)が……勉学(べんがく)に励(はげ)んでいると聞(き)いて、最初(さいしょ)は何(なに)かの冗談(じょうだん)かと思(おも)ったが……」

 そして今(いま)、二人(ふたり)は向(む)かい合(あ)って座(ざ)していました。

「子明(しめい)、久(ひさ)しいな。」

「子敬(しけい)殿、ようこそ。遠路(えんろ)わざわざ、これはまた……。」

「いや、こちらこそ興味(きょうみ)が抑(おさ)えきれんかった。お前(まえ)が兵書(へいしょ)を読(よ)んでいると聞(き)いてな。」

 魯粛(ろしゅく)は卓(たく)の上(うえ)に並(なら)べられた書物(しょもつ)を見渡(みわた)しました。『孫子(そんし)』『六韜(りくとう)』『司馬法(しばほう)』──呂蒙(りょもう)が今(いま)、愛読(あいどく)している名著(めいちょ)ばかりです。

「これは……まるで文官(ぶんかん)の書斎(しょさい)だな。」

「文官(ぶんかん)に倣(なら)ってみただけです。いえ、むしろ戦場(せんじょう)に立(た)つ者(もの)こそ、これらを学(まな)ばねばならぬと気(き)づいたのです。」

「なるほど……ついに、お前(まえ)も『文(ぶん)を以(も)って武(ぶ)を導(みちび)く』を悟(さと)ったか。」

 魯粛(ろしゅく)はその言葉(ことば)に、しばし頷(うなず)いたのち、杯(さかずき)を手(て)に取(と)りました。

「実(じつ)を言(い)えば、最初(さいしょ)に聞(き)いたときは信(しん)じられなかった。あの剛腕(ごうわん)呂蒙(りょもう)が、書(しょ)に親(した)しむとはな。」

「ええ、自分(じぶん)でもそう思(おも)いましたよ。」呂蒙(りょもう)は苦笑(くしょう)しました。「だが、武(ぶ)ばかりでは限界(げんかい)があると気(き)づいたのです。剣(けん)が届(とど)かぬところに、知恵(ちえ)は届(とど)くのですね。」

「まさしく。」魯粛(ろしゅく)は杯(さかずき)を傾(かたむ)けながら、呂蒙(りょもう)をまっすぐに見(み)つめました。「お前(まえ)を『呉(ご)の虎(とら)』と呼(よ)ぶ者(もの)は多(おお)い。だが私は、今(いま)からは『智虎(ちこ)』と呼(よ)びたくなる。」

「それは……褒(ほ)めすぎです。」

「褒(ほ)めすぎではない。むしろ、当然(とうぜん)の賛辞(さんじ)だ。」

 二人(ふたり)の会話(かいわ)は、まるで剣戟(けんげき)の応酬(おうしゅう)のように軽快(けいかい)で、そしてどこか楽し(たの)げでした。

 その後(ご)、魯粛(ろしゅく)は兵法(へいほう)について呂蒙(りょもう)と深(ふか)く語(かた)り合(あ)いました。軍(ぐん)の運用(うんよう)、兵站(へいたん)の計画(けいかく)、敵(てき)の心理(しんり)を突(つ)く手法(しゅほう)──かつての呂蒙(りょもう)からは想像(そうぞう)もつかぬほど、彼(かれ)の言葉(ことば)には理(り)があり、確信(かくしん)がありました。

「子敬(しけい)、こんな話(はなし)をしていると、まるで孔明(こうめい)殿(どの)と話(はな)しているようだと、かつて言(い)われました。」

「それは大(おお)いに結構(けっこう)。だが……孔明(こうめい)と渡(わた)り合(あ)うなら、もうひとつ、酒(さけ)の席(せき)でも勝(か)てねばならんな。」

「それは無理(むり)です。彼(かれ)は酔(よ)っても論(ろん)が鋭(するど)くなると聞(き)きますので。」

「ははは、確(たし)かにそうだ。」

 二人(ふたり)は大笑(おおわら)いしながら杯(さかずき)を交(か)わしました。

 ──それから数年後(すうねんご)、呂蒙(りょもう)は実際(じっさい)にその知略(ちりゃく)を用(もち)いて、天下(てんか)を驚(おどろ)かせる作戦(さくせん)を成(な)し遂(と)げることとなります。

 それが、有名(ゆうめい)な「白衣渡江(はくいとこう)」です。

 荊州(けいしゅう)をめぐる争(あらそ)いが再燃(さいねん)したとき、孫権(そんけん)はついに決断(けつだん)を下(くだ)しました。

「呂蒙(りょもう)を総指揮(そうしき)とせよ。」

 兵(へい)は白衣(はくい)を纏(まと)い、まるで商人(しょうにん)のように装(よそお)いながら江(こう)を渡(わた)りました。警戒(けいかい)を怠(おこた)っていた関羽(かんう)の配下(はいか)は、それに気(き)づくこともなく、呂蒙(りょもう)の軍勢(ぐんぜい)は鮮(あざ)やかに荊州(けいしゅう)の要所(ようしょ)を制圧(せいあつ)したのです。

 戦(たたか)わずして勝(か)つ──それはまさしく兵法(へいほう)の真髄(しんずい)でした。

 その報(ほう)が都(みやこ)に届(とど)くと、魯粛(ろしゅく)は静(しず)かに笑(わら)いました。

「やはり、子明(しめい)はただの猛将(もうしょう)ではなかった。文武(ぶんぶ)を兼(か)ねるとは、ああいう男(おとこ)のことを言(い)うのだな。」

 そして天(てん)に向(む)かって一礼(いちれい)しました。

 ──「学(まな)びを怠(おこた)らず、志(こころざし)を磨(みが)くべし」。その教(おし)えを、呂蒙(りょもう)は身(み)をもって証明(しょうめい)しました。

 かつては筆(ふで)に不慣(ふな)れだった手(て)が、今(いま)では天下(てんか)を動(うご)かす筆陣(ひつじん)を指揮(しき)し、戦場(せんじょう)では敵(てき)の裏(うら)をかき、書斎(しょさい)では戦局(せんきょく)を制(せい)する。

 その背(せ)にあるのは、ただの知識(ちしき)ではありません。努力(どりょく)、執念(しゅうねん)、そして──諦(あきら)めぬ心(こころ)でした。

 そして、それを見抜(みぬ)いた者(もの)がいたことも、またこの物語(ものがたり)の価値(かち)を高(たか)めています。

「世(よ)に将(しょう)たらんとする者(もの)よ、子明(しめい)を見(み)よ。文(ぶん)を学(まな)ばずして、戦(いくさ)に勝(か)てると思(おも)うなかれ。」

 これは、呂蒙(りょもう)という男(おとこ)が「知(ち)」の将(しょう)となった、その第一歩(だいいっぽ)の物語(ものがたり)です。



217年:建安二十二年(けんあん・にじゅうにねん)

秋風(あきかぜ)が冷たく吹き抜ける建安二十二年(けんあん・にじゅうにねん)の夜(よる)、呉(ご)の都(みやこ)・建業(けんぎょう)は静けさに包まれておりました。

その一室(いっしつ)にて、魯粛(ろしゅく)は病床(びょうしょう)に伏(ふ)していました。やせ細った体(からだ)には薄布(うすぬの)がかけられ、額(ひたい)には汗(あせ)が滲(にじ)んでおります。窓(まど)の外(そと)では、風(かぜ)に舞(ま)う紅葉(こうよう)が季節(きせつ)の終(お)わりを告(つ)げていました。

枕元(まくらもと)には孫権(そんけん)が控(ひか)えておりました。その表情(ひょうじょう)には、普段(ふだん)の威厳(いげん)は影(かげ)を潜(ひそ)め、ただ一人(ひとり)の友(とも)の命(いのち)の灯(ひ)が尽きかけている現実(げんじつ)を前(まえ)に、どうしようもない無力(むりょく)さがにじんでおりました。

「殿(との)……」

かすれた声(こえ)で、魯粛(ろしゅく)が孫権(そんけん)を呼(よ)びました。

「ここにおるぞ、粛(しゅく)。お前(まえ)の殿(との)は、最後(さいご)までそばを離(はな)れぬ」

孫権(そんけん)は、ぐっと唇(くちびる)を噛(か)みしめました。彼(かれ)の手(て)は、魯粛(ろしゅく)の痩(や)せた手(て)を包(つつ)み込むように握(にぎ)っております。

「呉(ご)の未来(みらい)を、頼(たの)み申(もう)します。呂蒙(りょもう)を……用(もち)いてくだされ」

魯粛(ろしゅく)の目(め)は、未練(みれん)ではなく、確信(かくしん)に満(み)ちておりました。自(みずか)らが育(そだ)て、信(しん)じた後継(こうけい)に託(たく)すことで、すでに彼(かれ)の心(こころ)には迷(まよ)いはなかったのです。

「呂蒙(りょもう)か……ふふ、お前(まえ)もずいぶん買(か)うたものだな。あの猛虎(もうこ)、昔(むかし)は読み書き(よみかき)すら苦手(にがて)であったものを」

「……あやつは変(か)わりました。人(ひと)は学(まな)べば、必(かなら)ず変(か)われるのです」

魯粛(ろしゅく)は、かすかに微笑(ほほえ)みました。すでに意識(いしき)は遠(とお)のきかけていましたが、それでも言葉(ことば)ははっきりしておりました。

「殿(との)、私(わたし)が願(ねが)ったのは、戦(いくさ)よりも和(やわ)……血(ち)よりも誠(まこと)であります。劉備(りゅうび)殿(との)との盟(めい)は、どうか……」

その言葉(ことば)の続(つづ)きは、ついに語(かた)られることはありませんでした。魯粛(ろしゅく)は静かに目(め)を閉(と)じました。まるで、季節(きせつ)の移ろ(うつ)いに合わせて一葉(いちよう)が落(お)ちるように、静謐(せいひつ)な最期(さいご)でした。

その日(ひ)、呉(ご)の将(しょう)たちはみな涙(なみだ)にくれました。孫権(そんけん)は喪服(そうふく)に身(み)を包(つつ)み、自(みずか)ら哭礼(こくれい)を行(おこな)いました。重臣(ちょうしん)であっても、それを主君(しゅくん)が行(おこな)うことは稀(まれ)でした。しかし孫権(そんけん)は、彼(かれ)を単なる部下(ぶか)とは思(おも)っていなかったのです。

「粛(しゅく)……もし、お前(まえ)がいなければ、我(われ)が呉(ご)はこの形(かたち)を成(な)せておらぬ」

葬儀(そうぎ)は、粛然(しゅくぜん)たる空気(くうき)に包(つつ)まれて行(おこな)われました。道(みち)を埋(う)め尽(つ)くすように人々(ひとびと)が集(あつ)まりました。中(なか)には、かつて敵対(てきたい)していた者(もの)の姿(すがた)すら見(み)られました。

その報(ほう)は遠(とお)く蜀(しょく)にも届(とど)きました。成都(せいと)にて聞(き)いた諸葛亮(しょかつ・りょう)は、しばし沈黙(ちんもく)した後(あと)、黙(だま)って喪服(そうふく)に袖(そで)を通(とお)しました。

「粛(しゅく)殿(との)が逝(い)かれたか……我(われ)が盟友(めいゆう)、惜(お)しいことをした」

諸葛亮(しょかつ・りょう)は独(ひと)りごちました。その声(こえ)には、かすかな哀悼(あいとう)の響(ひび)きがありました。かつて赤壁(せきへき)の後(あと)、共(とも)に曹操(そうそう)に抗(あらが)った日の記憶(きおく)が、胸(むね)に去来(きょらい)しておりました。

やがて時(とき)が流(なが)れ、孫権(そんけん)が皇帝(こうてい)に即位(そくい)した際(さい)、群臣(ぐんしん)は祝辞(しゅくじ)を述(の)べました。酒宴(しゅえん)の席(せき)にて、誰(だれ)かが尋(たず)ねました。

「主公(しゅこう)、今日(きょう)のこの栄誉(えいよ)は、どなたの力(ちから)によるものとお思(おも)いになりますか?」

孫権(そんけん)は杯(さかずき)を傾(かたむ)けた後(あと)、静かに語(かた)りました。

「周瑜(しゅうゆ)あっての呉(ご)であった。だが、粛(しゅく)なかりせば、我(われ)が足元(あしもと)は脆(もろ)く、遠(とお)からず崩(くず)れておったであろう」

一同(いちどう)が静まりかえりました。その言葉(ことば)が、魯粛(ろしゅく)の真価(しんか)を語(かた)っていたのです。

その後(ご)、魯粛(ろしゅく)の推挙(すいきょ)した呂蒙(りょもう)は実際(じっさい)に後任(こうにん)となり、知略(ちりゃく)と胆力(たんりょく)で荊州(けいしゅう)を制(せい)しました。しかしそれは、魯粛(ろしゅく)の死(し)をもって呉(ご)が外交路線(がいこうろせん)を大きく転換(てんかん)したことを意味(いみ)しておりました。

魯粛(ろしゅく)が生(い)きていたならば、きっと血(ち)が流(なが)れることのない道(みち)を選(えら)んだでしょう。しかし、歴史(れきし)は動(うご)き、時代(じだい)は変(か)わりました。

呂蒙(りょもう)が荊州(けいしゅう)を奪還(だっかん)したその夜(よる)、密かに祠(ほこら)を訪(おとず)れた男(おとこ)が一人(ひとり)おりました。

それは呂蒙(りょもう)自身(じしん)でした。

「魯粛(ろしゅく)殿(との)……今さら詫(わ)びるつもりはありません。ただ、貴殿(きでん)が望(のぞ)んだ道(みち)ではなかったと、私(わたし)も思(おも)っております」

呂蒙(りょもう)は静かに酒(さけ)を注(そそ)ぎました。それは戦勝(せんしょう)の酒(さけ)ではなく、悔い(くい)と誓い(ちかい)の杯(さかずき)でありました。

「ですが、呉(ご)を護(まも)る道(みち)は、いまはこれしかなかったのです。どうか、あの世(よ)の中(なか)で見届けていてください」

風(かぜ)が、木(き)の葉(は)を揺(ゆ)らしました。その音(おと)は、まるで遠(とお)くで笑(わら)う魯粛(ろしゅく)の声(こえ)のようにも思(おも)えました。

「人(ひと)は変(か)わる。学(まな)べば変(か)われる……そう仰(おっしゃ)ったのは、あなたでしたね」

呂蒙(りょもう)は酒盃(しゅはい)を地(ち)に返(かえ)し、静かに頭(あたま)を下(さ)げました。

魯粛(ろしゅく)が残(のこ)した言葉(ことば)と想い(おもい)は、時(とき)を超(こ)えてなお、人々(ひとびと)の胸(むね)に生(い)き続けていたのです。



217年:建安二十二年

建安二十二年(けんあんにじゅうにねん)、秋風が長江(ちょうこう)を渡る頃、呉(ご)の重臣・魯粛(ろしゅく)が病に倒れ、静かに息を引き取りました。その年、彼はまだ四十六歳でした。

葬儀の日、建業(けんぎょう)の都には悲しみが満ちていました。白装束の列が長く続き、街の喧騒(けんそう)は止み、空も泣いているかのように曇っておりました。

孫権(そんけん)は、魯粛の死を深く悼み、黒の喪服(そうふく)をまとって自ら哭礼(こくれい)を行いました。葬儀の場には、呉の諸将(しょしょう)や文官(ぶんかん)たちが一堂に会し、その顔には哀悼(あいとう)の色が滲んでいました。

呂蒙(りょもう)は、祭壇(さいだん)の前で長く黙(だま)した後、小さく息をつきました。

「……あの方がいなければ、私は未だに槍(やり)のことしか知らぬ愚将(ぐしょう)のままでした」

その声に、近くにいた甘寧(かんねい)が目を伏せながら苦笑(にがわら)しました。

「おいおい、愚将などと言うな。お前ほど『本を読む猛将(もうしょう)』なんぞ見たことがない」

「ですが、魯粛殿(ろしゅくでん)の教えは、私の人生を変えてくれたのです」

呂蒙は目を赤くしながら言いました。甘寧もまた、深く頷(うなず)きます。

「俺もさ……あの人がいたから、血気(けっき)だけじゃなくて、器(うつわ)も磨こうと思ったんだ」

その傍(かたわ)らで徐盛(じょせい)が手を合わせ、黙祷(もくとう)を捧(ささ)げておりました。その姿は、彼がまだ若き日、魯粛から幾度(いくど)も叱咤(しった)された日のことを思い出しているようでした。

「“忠義(ちゅうぎ)は剣(けん)より重し”、あの方の口癖(くちぐせ)でしたな……」

朱然(しゅぜん)がぼそりと呟(つぶや)きました。彼もまた、かつては若く血の気の多い将(しょう)でした。しかし、魯粛の静かな言葉と、ぶれぬ信念(しんねん)に幾度も救われてきたのです。

葬儀の途中(とちゅう)、孫権が静かに立ち上がりました。彼の目は赤く潤(うるお)み、声は震(ふる)えていました。

「魯粛(ろしゅく)。お前は、周瑜(しゅうゆ)の志(こころざし)を継ぎ、呉の柱(はしら)として我らを導いてくれた。劉備(りゅうび)との盟(めい)を守り、我が国の礎(いしずえ)を築いた。そなたがいなければ、我はこの地に立ってはおらぬ」

その言葉に、場は静まり返りました。皆、声を上げることもなく、ただただ涙を流すばかりでした。

その後、諸葛瑾(しょかつきん)が静かに進み出て、文(ふみ)を朗読(ろうどく)しました。それは蜀(しょく)の諸葛亮(しょかつりょう)から届いた弔文(ちょうぶん)でした。

「──魯子敬(ろしけい)の義に感じ、同盟(どうめい)を守りしその志、いまや天に登(のぼ)る。余(よ)、衣を裂き、哀悼を示す」

文が終わると、再び沈黙(ちんもく)が落ちました。

祭壇の前、呂蒙がそっとひざまずきました。

「……先生、貴方(あなた)の志は、私が継ぎます。今度は、私がこの呉を導くのです」

その瞳(ひとみ)には、悲しみと決意(けつい)が宿っておりました。葬儀は終わりを迎えましたが、魯粛が残した教えと志は、呉の将たちの胸に生き続けることとなりました。

彼の死は、大きな喪失(そうしつ)でした。しかし、その精神(せいしん)は、確かに次代(じだい)へと継がれていたのです。

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