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呉視点三国志:魯粛の章⑤

216年:建安二十一年けんあん・にじゅういちねん

 長沙ちょうさぐんではふたたび不穏ふおん空気くうきただよいはじめていました。安成あんせいけん県長けんちょうつとめていた呉碭ごとう、そして中郎将ちゅうろうしょう袁龍えんりゅうが、なんと荊州けいしゅうまもっていた関羽かんうひそかにつうじ、ふたたへいげたのです。ふたりはゆう醴陵れいりょう拠点きょてんとし、堂々(どうどう)たる反乱はんらんはたひるがえしました。

 この知らせをいた孫権そんけんは、すぐさま魯粛ろしゅくめいくだしました。

ゆうて。おまえにしかまかせられぬ」

 魯粛ろしゅく広陵こうりょう出身しゅっしんわかいころから周瑜しゅうゆしたしく、その才能さいのうはやくからられていました。いまでは孫呉そんご外交がいこう一手いってにない、劉備りゅうびとの同盟どうめい維持いじのために奔走ほんそうする、おだやかで誠実せいじつ智将ちしょうです。

 その魯粛ろしゅくは、なにわずに一礼いちれいしました。やや細身ほそみ身体からだくれない甲冑かっちゅうをまとい、うまにまたがると、そのにはしずかな決意けついひかりともっていました。

「……ってまいります」

 ちょうどそのころ、呂岱りょたいにも醴陵れいりょうへの出兵しゅっぺい命令めいれいていました。呂岱りょたい南方なんぽう平定へいていおおくの功績こうせきげた、冷静沈着れいせい・ちんちゃく戦巧者せんこうしゃです。

 ふたつのぐんは、ほぼ同時どうじ出陣しゅつじんしました。

 魯粛ろしゅくぐんは、はげしいいきおいでゆう城門じょうもんたたきました。そらき、太鼓たいこおと天地てんちふるわせました。

せ! もんやぶれ!」

 へい猛然もうぜん突撃とつげきします。魯粛ろしゅく自身じしん前線ぜんせんち、采配さいはいるいながらこえげました。

「このみだものに、容赦ようしゃはいらぬ!」

 しかし、ゆう守備しゅび意外いがいにももろく、呉碭ごとうたたかわずして脱出だっしゅつはかりました。魯粛ろしゅくはすかさず追撃ついげきめいじます。

 一方いっぽうそのころ醴陵れいりょうでは呂岱りょたい着実ちゃくじつ包囲網ほういもうちぢめていました。

袁龍えんりゅうめ、たねばならぬ」

 ついにへい城門じょうもんやぶり、はげしい白兵戦はくへいせん突入とつにゅうします。けむりこうに、袁龍えんりゅう姿すがたえました。

「くっ……がすなっ!」

 呂岱りょたい副将ふくしょうり、たった一太刀ひとたち袁龍えんりゅうせました。袁龍えんりゅうに。これによって反乱軍はんらんぐん総崩そうくずれとなり、醴陵れいりょう平定へいていされました。

──そののちのことです。いくさわったあと安成あんせい城門じょうもんにて、魯粛ろしゅく呂岱りょたいかおわせました。

「お見事みごとでしたな、魯子敬ろ・しけい

「いやいや、そちらこそ。袁龍えんりゅうは、手強てごわ相手あいてだったでしょうに」

「……しかし、またしても関羽かんううらいといていたとなると、こまったものですな」

 魯粛ろしゅくすこしだけほそめていました。

同盟どうめいというものは、ときに、こちらが我慢がまんするものです。いまはまだ、曹操そうそう退しりぞけるときではありませんから」

 呂岱りょたいちいさく苦笑くしょうしました。

「またあなたのとくが、火種ひだねみずにしてくださることでしょうな」

 かぜが、はる気配けはいふくんでいていました。魯粛ろしゅく馬上ばじょうから、とおくの山並やまなみをしずかにつめていました。

「されど、しても、はいのこるのです。……それでも、わたしがやらねばなりませんな」



217けんあんにじゅうにねん:建安二十二年

 西にしへとかたむはじめたある午後ごご建業けんぎょうまちは、まるで湖面こめんのようにおだやかでした。城内じょうないひびふでおとかみをめくるおと、そしてときおりだれかが小声こごえ──ここは軍営ぐんえいであると同時どうじに、学問がくもんでもあります。

 そのしずけさの中心ちゅうしんにいるのは、呂蒙りょもうでした。

 かつてはただけた猛将もうしょうとしてられていたおとこ。しかしいま、そのひたいにはあせこそにじむものの、けんではなくふでにぎり、兵書へいしょふけっておりました。

「……孫子そんし兵法へいほう、ここにいたってようやくちるな。てきり、おのれれば……」

 呂蒙りょもうは、ふでめてふと天井てんじょうあおぎました。わかおのれ脳裏のうりよみがえります。無骨ぶこつで、直情的ちょくじょうてきで、戦場せんじょうではほまたかくとも、せきすわれば言葉ことばまり、文官ぶんかん見下みくだされる日々(ひび)。

 ──いや、もうちがう。

 かれ自分じぶんわったことを、だれよりも自分じぶんっていました。

 そのとき、門前もんぜんひび馬蹄ばていおと足軽あしがるあわててみます。

呂将軍りょしょうぐん魯粛ろしゅく殿どのがおえです!」

 呂蒙りょもうはゆっくりとふでき、ころもととのえながらみをかべました。

「ふむ。まんして、られたか……」

 数刻すうこくまえ魯粛ろしゅく旅装りょそうくこともせず、建業けんぎょううまけていました。かれかおにはよろこびと、そして一抹いちまつおどろきがかんでいました。

「まさか、あの呂子明りょしめいが……勉学べんがくはげんでいるといて、最初さいしょなにかの冗談じょうだんかとおもったが……」

 そしていま二人ふたりかいってしていました。

子明しめいひさしいな。」

子敬しけい殿、ようこそ。遠路えんろわざわざ、これはまた……。」

「いや、こちらこそ興味きょうみおさえきれんかった。おまえ兵書へいしょんでいるといてな。」

 魯粛ろしゅくたくうえならべられた書物しょもつ見渡みわたしました。『孫子そんし』『六韜りくとう』『司馬法しばほう』──呂蒙りょもういま愛読あいどくしている名著めいちょばかりです。

「これは……まるで文官ぶんかん書斎しょさいだな。」

文官ぶんかんならってみただけです。いえ、むしろ戦場せんじょうものこそ、これらをまなばねばならぬとづいたのです。」

「なるほど……ついに、おまえも『ぶんってみちびく』をさとったか。」

 魯粛ろしゅくはその言葉ことばに、しばしうなずいたのち、さかずきりました。

じつえば、最初さいしょいたときはしんじられなかった。あの剛腕ごうわん呂蒙りょもうが、しょしたしむとはな。」

「ええ、自分じぶんでもそうおもいましたよ。」呂蒙りょもう苦笑くしょうしました。「だが、ばかりでは限界げんかいがあるとづいたのです。けんとどかぬところに、知恵ちえとどくのですね。」

「まさしく。」魯粛ろしゅくさかずきかたむけながら、呂蒙りょもうをまっすぐにつめました。「おまえを『とら』とものおおい。だが私は、いまからは『智虎ちこ』とびたくなる。」

「それは……めすぎです。」

めすぎではない。むしろ、当然とうぜん賛辞さんじだ。」

 二人ふたり会話かいわは、まるで剣戟けんげき応酬おうしゅうのように軽快けいかいで、そしてどこか楽し(たの)げでした。

 その魯粛ろしゅく兵法へいほうについて呂蒙りょもうふかかたいました。ぐん運用うんよう兵站へいたん計画けいかくてき心理しんり手法しゅほう──かつての呂蒙りょもうからは想像そうぞうもつかぬほど、かれ言葉ことばにはがあり、確信かくしんがありました。

子敬しけい、こんなはなしをしていると、まるで孔明こうめい殿どのはなしているようだと、かつてわれました。」

「それはおおいに結構けっこう。だが……孔明こうめいわたうなら、もうひとつ、さけせきでもてねばならんな。」

「それは無理むりです。かれってもろんするどくなるときますので。」

「ははは、たしかにそうだ。」

 二人ふたり大笑おおわらいしながらさかずきわしました。

 ──それから数年後すうねんご呂蒙りょもう実際じっさいにその知略ちりゃくもちいて、天下てんかおどろかせる作戦さくせんげることとなります。

 それが、有名ゆうめいな「白衣渡江はくいとこう」です。

 荊州けいしゅうをめぐるあらそいが再燃さいねんしたとき、孫権そんけんはついに決断けつだんくだしました。

呂蒙りょもう総指揮そうしきとせよ。」

 へい白衣はくいまとい、まるで商人しょうにんのようによそおいながらこうわたりました。警戒けいかいおこたっていた関羽かんう配下はいかは、それにづくこともなく、呂蒙りょもう軍勢ぐんぜいあざやかに荊州けいしゅう要所ようしょ制圧せいあつしたのです。

 たたかわずしてつ──それはまさしく兵法へいほう真髄しんずいでした。

 そのほうみやことどくと、魯粛ろしゅくしずかにわらいました。

「やはり、子明しめいはただの猛将もうしょうではなかった。文武ぶんぶねるとは、ああいうおとこのことをうのだな。」

 そしててんかって一礼いちれいしました。

 ──「まなびをおこたらず、こころざしみがくべし」。そのおしえを、呂蒙りょもうをもって証明しょうめいしました。

 かつてはふで不慣ふなれだったが、いまでは天下てんかうごかす筆陣ひつじん指揮しきし、戦場せんじょうではてきうらをかき、書斎しょさいでは戦局せんきょくせいする。

 そのにあるのは、ただの知識ちしきではありません。努力どりょく執念しゅうねん、そして──あきらめぬこころでした。

 そして、それを見抜みぬいたものがいたことも、またこの物語ものがたり価値かちたかめています。

しょうたらんとするものよ、子明しめいよ。ぶんまなばずして、いくさてるとおもうなかれ。」

 これは、呂蒙りょもうというおとこが「」のしょうとなった、その第一歩だいいっぽ物語ものがたりです。



217年:建安二十二年けんあん・にじゅうにねん

秋風あきかぜが冷たく吹き抜ける建安二十二年けんあん・にじゅうにねんよるみやこ建業けんぎょうは静けさに包まれておりました。

その一室いっしつにて、魯粛ろしゅく病床びょうしょうしていました。やせ細ったからだには薄布うすぬのがかけられ、ひたいにはあせにじんでおります。まどそとでは、かぜ紅葉こうよう季節きせつわりをげていました。

枕元まくらもとには孫権そんけんひかえておりました。その表情ひょうじょうには、普段ふだん威厳いげんかげひそめ、ただ一人ひとりともいのちが尽きかけている現実げんじつまえに、どうしようもない無力むりょくさがにじんでおりました。

殿との……」

かすれたこえで、魯粛ろしゅく孫権そんけんびました。

「ここにおるぞ、しゅく。おまえ殿とのは、最後さいごまでそばをはなれぬ」

孫権そんけんは、ぐっとくちびるみしめました。かれは、魯粛ろしゅくせたつつみ込むようににぎっております。

未来みらいを、たのもうします。呂蒙りょもうを……もちいてくだされ」

魯粛ろしゅくは、未練みれんではなく、確信かくしんちておりました。みずからがそだて、しんじた後継こうけいたくすことで、すでにかれこころにはまよいはなかったのです。

呂蒙りょもうか……ふふ、おまえもずいぶんうたものだな。あの猛虎もうこむかしは読み書き(よみかき)すら苦手にがてであったものを」

「……あやつはわりました。ひとまなべば、かならわれるのです」

魯粛ろしゅくは、かすかに微笑ほほえみました。すでに意識いしきとおのきかけていましたが、それでも言葉ことばははっきりしておりました。

殿とのわたしねがったのは、いくさよりもやわ……よりもまことであります。劉備りゅうび殿とのとのめいは、どうか……」

その言葉ことばつづきは、ついにかたられることはありませんでした。魯粛ろしゅくは静かにじました。まるで、季節きせつの移ろ(うつ)いに合わせて一葉いちようちるように、静謐せいひつ最期さいごでした。

そのしょうたちはみななみだにくれました。孫権そんけん喪服そうふくつつみ、みずか哭礼こくれいおこないました。重臣ちょうしんであっても、それを主君しゅくんおこなうことはまれでした。しかし孫権そんけんは、かれを単なる部下ぶかとはおもっていなかったのです。

しゅく……もし、おまえがいなければ、われはこのかたちせておらぬ」

葬儀そうぎは、粛然しゅくぜんたる空気くうきつつまれておこなわれました。みちくすように人々(ひとびと)があつまりました。なかには、かつて敵対てきたいしていたもの姿すがたすらられました。

そのほうとおしょくにもとどきました。成都せいとにていた諸葛亮しょかつ・りょうは、しばし沈黙ちんもくしたあとだまって喪服そうふくそでとおしました。

しゅく殿とのかれたか……われ盟友めいゆうしいことをした」

諸葛亮しょかつ・りょうひとりごちました。そのこえには、かすかな哀悼あいとうひびきがありました。かつて赤壁せきへきあととも曹操そうそうあらがった日の記憶きおくが、むね去来きょらいしておりました。

やがてときながれ、孫権そんけん皇帝こうてい即位そくいしたさい群臣ぐんしん祝辞しゅくじべました。酒宴しゅえんせきにて、だれかがたずねました。

主公しゅこう今日きょうのこの栄誉えいよは、どなたのちからによるものとおおもいになりますか?」

孫権そんけんさかずきかたむけたあと、静かにかたりました。

周瑜しゅうゆあってのであった。だが、しゅくなかりせば、われ足元あしもともろく、とおからずくずれておったであろう」

一同いちどうが静まりかえりました。その言葉ことばが、魯粛ろしゅく真価しんかかたっていたのです。

その魯粛ろしゅく推挙すいきょした呂蒙りょもう実際じっさい後任こうにんとなり、知略ちりゃく胆力たんりょく荊州けいしゅうせいしました。しかしそれは、魯粛ろしゅくをもって外交路線がいこうろせんを大きく転換てんかんしたことを意味いみしておりました。

魯粛ろしゅくきていたならば、きっとながれることのないみちえらんだでしょう。しかし、歴史れきしうごき、時代じだいわりました。

呂蒙りょもう荊州けいしゅう奪還だっかんしたそのよる、密かにほこらおとずれたおとこ一人ひとりおりました。

それは呂蒙りょもう自身じしんでした。

魯粛ろしゅく殿との……今さらびるつもりはありません。ただ、貴殿きでんのぞんだみちではなかったと、わたしおもっております」

呂蒙りょもうは静かにさけそそぎました。それは戦勝せんしょうさけではなく、悔い(くい)と誓い(ちかい)のさかずきでありました。

「ですが、まもみちは、いまはこれしかなかったのです。どうか、あのなかで見届けていてください」

かぜが、らしました。そのおとは、まるでとおくでわら魯粛ろしゅくこえのようにもおもえました。

ひとわる。まなべばわれる……そうおっしゃったのは、あなたでしたね」

呂蒙りょもう酒盃しゅはいかえし、静かにあたまげました。

魯粛ろしゅくのこした言葉ことばと想い(おもい)は、ときえてなお、人々(ひとびと)のむねき続けていたのです。



217年:建安二十二年

建安二十二年けんあんにじゅうにねん、秋風が長江ちょうこうを渡る頃、の重臣・魯粛ろしゅくが病に倒れ、静かに息を引き取りました。その年、彼はまだ四十六歳でした。

葬儀の日、建業けんぎょうの都には悲しみが満ちていました。白装束の列が長く続き、街の喧騒けんそうは止み、空も泣いているかのように曇っておりました。

孫権そんけんは、魯粛の死を深く悼み、黒の喪服そうふくをまとって自ら哭礼こくれいを行いました。葬儀の場には、呉の諸将しょしょう文官ぶんかんたちが一堂に会し、その顔には哀悼あいとうの色が滲んでいました。

呂蒙りょもうは、祭壇さいだんの前で長くだました後、小さく息をつきました。

「……あの方がいなければ、私は未だにやりのことしか知らぬ愚将ぐしょうのままでした」

その声に、近くにいた甘寧かんねいが目を伏せながら苦笑にがわらしました。

「おいおい、愚将などと言うな。お前ほど『本を読む猛将もうしょう』なんぞ見たことがない」

「ですが、魯粛殿ろしゅくでんの教えは、私の人生を変えてくれたのです」

呂蒙は目を赤くしながら言いました。甘寧もまた、深くうなずきます。

「俺もさ……あの人がいたから、血気けっきだけじゃなくて、うつわも磨こうと思ったんだ」

そのかたわらで徐盛じょせいが手を合わせ、黙祷もくとうささげておりました。その姿は、彼がまだ若き日、魯粛から幾度いくど叱咤しったされた日のことを思い出しているようでした。

「“忠義ちゅうぎけんより重し”、あの方の口癖くちぐせでしたな……」

朱然しゅぜんがぼそりとつぶやきました。彼もまた、かつては若く血の気の多いしょうでした。しかし、魯粛の静かな言葉と、ぶれぬ信念しんねんに幾度も救われてきたのです。

葬儀の途中とちゅう、孫権が静かに立ち上がりました。彼の目は赤くうるおみ、声はふるえていました。

魯粛ろしゅく。お前は、周瑜しゅうゆこころざしを継ぎ、呉のはしらとして我らを導いてくれた。劉備りゅうびとのめいを守り、我が国のいしずえを築いた。そなたがいなければ、我はこの地に立ってはおらぬ」

その言葉に、場は静まり返りました。皆、声を上げることもなく、ただただ涙を流すばかりでした。

その後、諸葛瑾しょかつきんが静かに進み出て、ふみ朗読ろうどくしました。それはしょく諸葛亮しょかつりょうから届いた弔文ちょうぶんでした。

「──魯子敬ろしけいの義に感じ、同盟どうめいを守りしその志、いまや天にのぼる。、衣を裂き、哀悼を示す」

文が終わると、再び沈黙ちんもくが落ちました。

祭壇の前、呂蒙がそっとひざまずきました。

「……先生、貴方あなたの志は、私が継ぎます。今度は、私がこの呉を導くのです」

そのひとみには、悲しみと決意けついが宿っておりました。葬儀は終わりを迎えましたが、魯粛が残した教えと志は、呉の将たちの胸に生き続けることとなりました。

彼の死は、大きな喪失そうしつでした。しかし、その精神せいしんは、確かに次代じだいへと継がれていたのです。

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