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呉視点三国志:呂蒙の章①

193年頃:初平しょへい四年

陽光ようこうまぶしく地面じめんらす、盛夏せいかの昼下がりのことでした。

鄧当とうとうぐん山越さんえつ討伐とうばつおもむくというはなしが、こうながれていました。

鄧当とうとう孫策そんさく麾下きか猛将もうしょうで、剛毅ごうきにして実直じっちょく人物じんぶつです。呂蒙りょもう――当時とうじ十五歳じゅうごさい少年しょうねんは、その鄧当のたいに、なんとこっそりしのび込みました。かれは鄧当のあね、すなわちおいにあたります。

若き呂蒙は、かがやかせながら隊列たいれつすみあるいていました。へいたちは不思議ふしぎそうなかおで彼をますが、少年の目にはおそれのいろはありません。

やがて鄧当がそれに気づきました。

「……貴様きさま呂蒙りょもうか!」

けわしいこえびました。鄧当はうまからりると、呂蒙の襟首えりくびつかみます。

「なぜだまってついて来た! 戦場せんじょうは子どもの来るところではないぞ!」

おれはもう子どもじゃありません。ててください、やれることはあるはずです!」

「黙れ! 母上ははうえがどれほど心配しんぱいなさるか……」

「そのははのために、やるんです!」

呂蒙の言葉に、鄧当は一瞬いっしゅん見開みひらきました。

「……なにうか」

いえまずしいのはってます。まなびもなければ地位ちいもない。でも、いのちけて功績こうせきてれば、えられるんです! 俺は、今ここでげます!」

その真剣しんけんでした。うそ虚勢きょせいもありませんでした。鄧当は少年のかおをじっとつめた後、ふか嘆息たんそくしました。

「……勝手かってにしろ。ただし、ぬな。無事ぶじもどってこい」

「はい!」

それから間もなく、鄧当は呂蒙をれていえかえりました。報告ほうこくを受けた呂蒙の母は烈火れっかのごとくおこりました。

なにかんがえているのです、あのは! ころされにくつもりですか!」

なみだ交じりのこえでした。しかし、呂蒙はきちんとを合わせていました。

母上ははうえおれわりたいんです。なにもしなければ、まずしさからも、この運命うんめいからもれられない」

ははくちびるみました。

「……おまえ気持きもちは、よくわかります。でも……」

「お願いです、なにわないで。おれ戦場せんじょうたおれても、それがおれのぞんだみちです」

しばし沈黙ちんもくがありました。ははこぶしにぎりしめ、ふるえるこえこたえました。

「……馬鹿ばかです。でも、きなさい。せめて……けがさぬように」

呂蒙はふかあたまげました。

そのさかいに、少年しょうねんは戦いのみちあしみ入れます。かれぶんを知らず、最初さいしょはただの無骨ぶこつ武人ぶじんでした。しかし、やがて孫権そんけんつかえてからは、勉学べんがくはげみ、しょうとしてだけでなく、智将ちしょうとしてのみちをもあゆんでいくのです。

――その最初さいしょ一歩いっぽは、ははなみだともにありました。



196年~199年:建安けんあん元年~四年

呂蒙りょもうは、貧しさの中で育ちました。早くからこころざしを抱き、けんを手にしてあらくれものたちの中で過ごしてきた男です。ある日、姉婿あねむこである鄧当とうとう幕下ばっかに仕えていた役人が、若い呂蒙をあからさまに見下しました。

「子どもは引っ込んでおれ。兵法へいほうとは、ひげの数ほどの経験けいけんがものを言うんだ」

その言葉に、呂蒙のまゆがぴくりと動きます。

「では、その髭の数に見合うほどの才覚さいかくを、今ここで見せていただきましょうか」

役人があざけもなく、するど閃光せんこうが走りました。呂蒙の剣が一閃いっせんし、役人は叫ぶ間もなく地にしました。

血のが引く幕舎ばくしゃの中。呂蒙は躊躇ちゅうちょいなく剣をおさめ、静かにその場を去ります。すぐに同郷どうきょう知人ちじんを頼り、身をかくしました。逃亡生活とうぼうせいかつ最中さいちゅうでも、彼のには一点いってんくもりもありませんでした。

やがて呂蒙は、校尉こうい袁雄えんゆうを通じて自首じしゅします。この一件いっけんはすぐに孫策そんさくみみに入ります。孫策は江東こうとうとらと呼ばれる豪胆ごうたんおとこですが、人物じんぶつを見抜く慧眼けいがんにも優れていました。

「ふむ……おのれの誇り(ほこり)をつらぬいた若者わかものか。面白い」

呂蒙は孫策にされます。少年しょうねんのようなおもてをしているが、戦場せんじょう血風けっぷうをまとったような眼差し(まなざし)。孫策はその場でわらごえをあげました。

「いいぞ呂蒙、うちに来い。貴様きさまのような若狼わかおおかみには、くさりよりけんの方が似合う!」

呂蒙は孫策の側近そっきん抜擢ばってきされます。以後いご、彼のほしは昇るばかりでした。

数年後、鄧当がいくさで命をとすと、彼のいくさは宙にきました。重臣ちょうしん張昭ちょうしょうが口をひらきます。

「あの軍をまとめられるもの一人ひとりおります。呂蒙りょもうです」

「ふむ。としわかいが、大任たいにんえようか」

「若いからこそ、やわらかい。きたえればはがねにもなるかと」

こうして呂蒙は鄧当の後継こうけいとして別部司馬べつぶしばまかされました。彼の指揮しきのもと、軍は秩序ちつじょを取り戻し、山越さんえつの地にそのを知らしめていきます。

呂蒙様りょもうさま、あのときったおとこおぼえておいでですか」

ある夜、古参こさんへいさけの席でいます。呂蒙はさかずきを口に運びながら、ゆるりとわらいました。

は知らぬが、誇りをみにじられただ。名乗なのらせるほどの価値かちはなかったのだろうな」

呂蒙――若きよりけんみちひらき、やがて文武ぶんぶかねくにささえる将軍しょうぐんとなるおとこ。そのみち第一歩だいいっぽは、と誇り(ほこり)のうえきずかれていたのです。



190年代後半から200年代初頭

呂蒙りょもうあざな子明しめい。まだ十代の終わり、かたなたずさえ、無言で進む若き兵士へいしひとみには、決意けついほのお宿やどっていました。

夜風よかぜき抜けるまち片隅かたすみ。ひとつのいえから、怒声どせいひびいておりました。

「また戦場せんじょうったですって!?」

呂蒙りょもう戸口とぐちをくぐった瞬間しゅんかんははこしててっておりました。にはなみだいかりと心配しんぱいがないまぜになったまなざし(まなざし)です。

母上ははうえ……はなせばながくなりますが……」

はなさなくてよろしい!また義兄ぎけいいくさまぎれて山賊さんぞく討伐とうばつ?おまえいのちおししくないのか!」

呂蒙りょもうだまってあたまげました。足袋たびにはまだどろがこびりついており、そでにはあとのこっております。

母上ははうえ……虎穴こけつらずんば、虎子こじず――でございます」

ははまゆがぴくりとうごきました。

「は?」

とらあならなければ、とらられませぬ。いのちおしんでいては、ほまれもつかめぬのです」

「……おやよりさきぬことほど、親不孝おやふこうなことはありません!」

ははさけびながらも、そのこえふるえがまじっておりました。

「わたくしは、ただ命知らず(いのちしらず)の武者ぶしゃ目指めざしているのではございません。のため、たみのため、ちからものになりたいのです」

ちからなど、ほっしがってどうするのです。そんなもの、こころくもらせるどくですよ」

呂蒙りょもうはしばしだまり込み、やがてしずかにこたえました。

どくにも、くすりにもなるのがちからというものでしょう。ならば、わたくしはくすりになりたい。たみまもるために」

ははいきみました。そのひとみおくに、ほんのわずかなほこらしさがまじったようにもえました。

「……無事ぶじかえ約束やくそくだけは、しなさい」

「はい。なにがあっても、必ず(かならず)」

そのよる、月明かり(つきあかり)のしたで、若き呂蒙りょもうははからを受け、しずかによろいぎました。まだ身体からだには少年しょうねんせんのこっております。しかし、そのひとみには、すでに一国いっこく未来みらい見据みすえるひかり宿やどっておりました。

それから数年すうねん呂蒙りょもうは、徐々(じょじょ)にしょうたちのあいだささやかれるようになります。

「……あの若僧わかぞう、また手柄てがらてたそうです」

虎穴こけつび込むのがくせのようだな」

だれかがそうつぶやいたとき、周瑜しゅうゆふでめてわらいました。

「むしろ、とらあなそとさそして仕留しとめる策士さくしになるかもしれませんよ。あのおとこは」

やがて、その言葉ことば現実げんじつとなり、関羽かんうすらあざむ軍略ぐんりゃくえがく“将軍しょうぐん”へと、少年しょうねん成長せいちょうしてゆくのでございました。



200年代初頭

呂蒙りょもうの出身地である豫州よしゅう汝南郡じょなんぐん富陂県ふはいけんは、現在の中国・安徽省阜陽市阜南県ふなんけんにあたります。この地域は後漢末こうかんまつから三国時代さんごくじだいにかけて、政治せいじ軍事ぐんじ要衝ようしょうとして知られていました。中原ちゅうげん近接きんせつし、南方なんぽう江東こうとうともせっする交通こうつう結節点けっせつてんであったことから、商業しょうぎょう文化ぶんかがともにさかえていたのです。

富陂ふはいを含む汝南郡一帯いった平野へいやひろがり、水利すいりにもめぐまれていたため、農業のうぎょう非常ひじょうさかんでした。特に小麦こむぎ大豆だいずあわなどの穀物こくもつ生産せいさん中心ちゅうしんで、これらをかした家庭料理かていりょうりおおまれました。地元じもと名物料理めいぶつりょうりとしては、小麦をもちいたもち饅頭まんじゅう、大豆からつくられる豆腐料理とうふりょうりなどが庶民しょみんあじとしてしたしまれていました。また、豚肉ぶたにく鶏肉とりにくもちいた素朴そぼくな煮込み料理にこみりょうりおおく、地元じもとゆたかな農産物のうさんぶつわさった滋味深しみぶかあじわいが特徴とくちょうです。

このような土地柄とちがらは、すぐれた人材じんざいおお輩出はいしゅつする素地そじともなりました。汝南郡じょなんぐん後漢こうかんから三国時代さんごくじだいにかけて、かずおおくの名士めいしんでいます。後漢の名臣めいしん袁安えんあんはその代表だいひょうで、仁政じんせいをもって知られ、のち三公さんこうにまで昇進しょうしんしました。その子孫しそんである袁紹えんしょう袁術えんじゅつは、後漢末期こうかんまっき群雄ぐんゆうとしてせています。さらに三国時代さんごくじだいには、名将めいしょう呂蒙りょもうがこのから登場とうじょうします。

呂蒙りょもう寒門かんもんながら武勇ぶゆうひいで、わかくして戦功せんこうかさねた人物じんぶつです。そのあと学問がくもんにもはげみ、「呉下ごか阿蒙あもうあらず」とめられる知将ちしょうへと成長せいちょうしました。かれのような人物じんぶつはぐくまれた背景はいけいには、富陂ふはい風土ふうど気風きふうふかかかわっていたとかんがえられます。

このように、豫州汝南郡富陂県よしゅうじょなんぐんふはいけんは、農業のうぎょう文化ぶんかゆたかな土地とちであり、おおくの歴史的人物れきしてきじんぶつはぐくんだ名郷めいきょうとして、三国志さんごくし舞台ぶたい一角いっかくになっていたのです。

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