呉視点三国志:魯粛の章③
214年:建安十九年
長江の水面が冬の陽に鈍くきらめいておりました。
魯粛は、陸口の陣営において書状を折りたたむと、息をつきました。劉備の益州併呑の報は、いよいよ南の地を震わせていたのです。
「――つまり、蜀を飲み込んだ上に、荊州までも返さんと?」
副官が声を低くして尋ねます。魯粛は眼差しを窓外へ向けました。薄曇の空の下、関羽の軍勢三万が益陽に布陣しているとの報を思い起こしていたのです。
魯粛、字は子敬。若くして周瑜に見出され、後継として軍政を預かりました。剛柔兼備の人物で、軍略だけでなく礼節にも通じた人柄です。彼は常に孫権と劉備との同盟を重視し、戦よりも和を選ぼうとする姿勢を貫いてまいりました。
「将軍、関羽が益陽に砦を築きました。渡河を図る様子もございます」
報告が届いたのは、その矢先でした。魯粛は軍議を招集しました。帳中に居並ぶ将たちの中、一人の男が不敵に笑います。
「夜陰に乗じて渡河? 関羽の手の内など、手に取るように見えますな」
そう言ったのは甘寧です。元は山賊まがいの経歴を持つ猛将ですが、忠義に篤く、策に長けることで知られております。
「俺に三百の兵を加え、なお五百を貸していただければ、渡河などさせません。いや、むしろ、関羽を捕えて差し上げましょう」
将たちは息を呑みました。魯粛は沈思黙考し、やがて言葉を発しました。
「……よろしい。甘寧、千の兵を預けます。ただし、手傷は浅く。無益な血は避けてください。」
その夜、甘寧は静かに川の対岸に伏兵を置きました。星明かりの下、精鋭の足音が水音に紛れて消えていきます。
そして関羽軍の斥候がその気配を知ったとき、将軍はそっと首を振りました。
「……甘寧か。あやつの気配があるならば、渡る価値なし」
関羽は渡河を諦め、陣を固めました。後にこの地は「関羽瀬」と呼ばれるようになります。
やがて、魯粛は益陽に進みました。関羽との直接会談の場を設けたのです。兵馬は百歩下げ、将軍のみ刀一振での会談と定めました。これは、互いの誠意と胆力を試すものでした。
関羽が現れたとき、帳中には重苦しい沈黙が流れておりました。二人は対座し、やがて魯粛が口を開きました。
「荊州は、劉備殿が故無く住まいを失った際、一時貸し与えた地です。今や益州を手にされた。にもかかわらず三郡を返されぬ理由は、いかなるものですかな?」
関羽は眉一つ動かさずに言います。
「地は、徳ある者が治むるもの。どこが誰の物と、どう定められましょうや」
その言葉に、魯粛の後ろに控える将の一人が声を荒げました。
「なんと無礼な! 法も礼もあったものでは――!」
しかし関羽は、冷ややかに目をやり、その将を無言で座から退けさせました。
魯粛は静かに、しかし毅然と立ち上がります。
「――義を飾り、情に走り、信を欠く。これが貴軍の道理であるならば、我らもまた然るべき道を取るまでです」
関羽は黙したまま、席を立ちました。その背に、魯粛の声が追いかけます。
「関将軍、曹操が漢中を得た今、劉備殿が守るべきは荊州か、それとも益州か――それを思い定めよ」
やがて、劉備は和解を申し入れました。三郡すべては戻らぬまでも、零陵は返還され、湘水を境にして、新たな協定を結ぶことになりました。
215年:建安二十年
夜の帳が降りた濡須口の軍営には、風の音とともに緊張が漂っていました。濡須口に築城された新しい要塞は、呉の防衛の要として重要な役割を果たすことになるはずでしたが、その陰で、ある不穏な動きが生まれつつありました。
凌統と甘寧――ふたりの将軍の間に、次第に亀裂が走り始めていたのです。
その日も、凌統は部隊を指揮しながら周囲を見守っていました。彼の鋭い眼差し(まなざし)が、懸命に築かれた防衛線をチェックしていると、急に後ろから声がかかりました。
「おい、凌統殿、少し話をしようじゃないか。」
振り向くと、そこには甘寧が立っていました。その表情には、これから言うことが決して好ましいものではないという予感が漂っています。
「甘寧、何か用か?」凌統は冷静に応じましたが、その声にはわずかな緊張感が込められていました。
甘寧は肩をすくめて、一歩前に進みました。
「お前の部隊、ちょっとやりすぎじゃないか? 俺の領地にまで手を出して、何か問題でもあったのか?」
凌統は眉をひそめました。
「それはお前の勘違いだ。俺はただ、ここを守るために兵を配置しているだけだ。」
「本当に?」甘寧は軽く笑ってみせましたが、その笑みにはどこか挑発的なものが隠れていました。
「それならいいが、お前のやり方では、俺の部隊が邪魔になる。俺だって、この地を守るために戦っているんだ。」
「お前も気をつけろ。俺たちがここで協力し合わなければ、外からの脅威に対抗できないぞ。」凌統は一歩前に進み、甘寧と真っ直ぐに向き合いました。
「言ってることは分かるが……俺のやり方は俺のやり方だ。」
甘寧は少し拳を握りしめ、じっと凌統を見つめました。
「お前がどう動こうと、俺の領地には手を出すな。俺の部隊を邪魔するな。」
二人の間には、一瞬の静寂が広がりました。周囲の兵士たちも、その空気を感じ取り、息を呑んで見守っています。
「分かった。」凌統は短く答えました。
「だが、覚えておけ。もしお前が俺に挑んできたなら、その結果をどう受け止めるか、よく考えておけ。」
甘寧は唇をかみしめ、しばらく沈黙を守りました。その後、突如として冷ややかな笑みを浮かべました。
「挑むだと? 俺はただ、戦うのみだ。お前がどう動こうと、俺は負けん。」
その言葉を残し、甘寧は振り向き、足早に去って行きました。
凌統はじっとその背中を見送りながら、思わず口の端を引き結びました。
「面倒なことになったな……。」
その後、彼らの間の微妙な亀裂は、戦場でも確実に現れ始めました。濡須口の防衛ライン(ぼうえいらいん)が厳しくなる中、凌統と甘寧の協力関係はますます崩れていき、双方の部隊は次第に衝突を避けられない状況へと向かっていったのです。
そして、その衝突はある日、ついに訪れました。
濡須口の周辺、敵の動きが活発になる中、凌統は自らの部隊を指揮し、迅速に敵の進行を食い止めようとしていました。しかし、その背後から不意に、甘寧の部隊が襲いかかってきました。
「何をしている!?」
凌統は驚きの声を上げました。
「お前が動く前に、俺が先に仕掛ける!」
甘寧の声が響き渡ります。
瞬時に、戦場は戦闘の渦に巻き込まれました。鋼鉄の衝突音、怒声、そして馬蹄が地面を震わせます。凌統は冷静に戦場を見渡し、すぐさま自軍に指示を出しました。
「右翼に配置! そして、敵の指揮官を狙え!」
その指示を受け、兵士たちは素早く動き、凌統の巧みな指揮のもと、甘寧の部隊を撃退し始めました。
「くそっ、こんな時に……!」
甘寧はその混乱の中で叫びましたが、すぐに冷静さを取り戻し、再び指揮を取ろうとしました。
戦場では、凌統と甘寧が意地と誇り(ほこり)をかけて戦い続けました。結局、戦闘は膠着状態に陥りましたが、双方の兵士たちはそれぞれの指導者に対して、疑念と不満を抱きつつも戦い抜きました。
その後、彼らの間で一時的な和解があったものの、あの激しい衝突は、二人の将軍の間にさらに深い溝を作ることとなったのです。
215年:建安二十年
濡須口の軍営は静まり返っていましたが、その空気の中に微かな緊張が漂っています。魯粛は一人、帳中に座り、眉間にしわを寄せていました。軍の状況は、戦の足音が近づく中で緊迫しており、しかしその不穏さは、内部から湧き上がっているものでした。
「またか……」魯粛は小さく呟きました。
凌統と甘寧の対立は、日に日に深刻さを増していたのです。濡須口での防衛を任された両将軍の間に、わずかな不和が生じたのは初めてではありません。それが今や、どうにも収拾がつかない状況にまで発展していました。
「子敬様、またお一人で考え事をしておられますか?」一人の部下、孫桓が帳の中に静かに足を踏み入れ、魯粛に声をかけました。
「うむ、少しばかり」魯粛は顔を上げ、孫桓に目を向けました。「だが、どうも事態が収まりそうにない」
孫桓は心配そうに顔をしかめました。
「凌統と甘寧の間に……?」
「その通りだ」魯粛は深いため息をつきました。
「濡須口の守備を担当しているはずの二人が、すっかり足並みを乱している。こうしていても、どちらかが暴走すれば、全軍に支障をきたす」
「ですが、どうにかならないのでしょうか?」
「そのために悩んでいるのだ」
魯粛はゆっくりと立ち上がり、窓の外を見ました。月光が微かに地面を照らし、静かな夜を作り出しています。「だが、もうすぐ外部の脅威も迫るというのに、このようなことで内部が揺れていては、話にならぬ」
孫桓は何も言えませんでした。魯粛は一度深く息を吸い、決意を固めたように振り返りました。
「行こう、少し話をしてみる」
数刻後、魯粛は濡須口の広間にて、凌統と甘寧をそれぞれ呼び寄せました。
「お前たち、いい加減にしろ」魯粛は、二人の将軍を見つめて言いました。その目には、どこか深い憂慮が含まれていました。
「私がどれだけ心を痛めているか、わかっているのか?」
凌統は口を開く前に少し考え込み、甘寧は意気揚々と答えました。「心配無用だ、子敬様。私はただ、あの無能な将軍に指揮を任せておくわけにはいかない。あいつのやり方が気に食わないだけだ」
「無能だと?」
凌統がすぐさま反応しました。「それはどういう意味だ?」
「お前が言うか?」
甘寧は嘲笑のような声を上げました。
「貴様だって大して変わらん」
魯粛は両者をじっと見つめ、深いため息をつきました。
「何を言っている、君たち? このような言い合いで勝負がつくとでも思っているのか?」
二人は一瞬言葉を失い、沈黙が広がりました。魯粛はその沈黙を破るように言いました。
「濡須口の防衛、そして将来の戦いを考えれば、今はお前たちが協力し合うことこそが最も重要だ。内部で争っている暇はない。外部からの脅威に備えろ」
「だが、あの男がいる限り、私は……!」
甘寧は再び声を荒げました。
「お前が戦うべき相手は、ここにはいない」
魯粛は冷徹に言いました。「お前の不満を言い合っている暇があれば、私の命令に従い、共同で任務を遂行しろ」
凌統も黙って耳を傾けていますが、目にはそれとなく反発の色が浮かんでいます。「私も甘寧の言うことに一理ある。だが、それでもここでの争いは無益だと感じている」
「ならば、さっさと立ち去れ」
甘寧は冷たく言い捨てました。「だが、言っとくが、俺はやるべきことをやる。後悔しないように」
「お前こそな」凌統は相手を睨みつけ、口をつぐみました。
その後、沈黙が流れる中で、魯粛はひとまずこの場を納めるために言葉を続けました。
「君たちが、無駄な争いを続けていれば、後でどれほど後悔するか分かっているのか? もし外部の敵が攻めてきた時、お前たちの間の溝がどれほど致命的なものになるか、考えたことがあるのか?」
凌統と甘寧はそれぞれ黙って、魯粛の言葉に耳を傾けました。お互いに憤りは感じていましたが、同時に、次の戦いでの協力の重要性を心の奥で認めていたのです。
「分かった」
甘寧が不承不承で言いました。
「だが、これは一時的なもんだ。心の中ではまだ、あの男に対して譲歩できん」
「それでいい」
魯粛は微かに頷きました。
「だが、今は協力するしかない。今後、どうしても我慢ならぬ時が来たら、その時は私が仲裁に入ろう」
こうして、凌統と甘寧の間にわずかながらも理解が生まれた瞬間でした。彼らの間にある対立は完全には解消されていませんでしたが、少なくとも戦いの前には、互いに協力する必要性を認識することができたのです。
215年:建安二十年
建安二十年(西暦215年)ごろ、孫呉の将軍・凌統と甘寧は深い確執を抱えていました。その発端は、凌統の父・凌操が戦死した一件にあります。凌操は赤壁の戦いの前哨戦で、劉表配下の黄祖軍と戦い、矢に当たって命を落としました。甘寧は当時、黄祖に仕えており、敵方の一員だったのです。
やがて甘寧は黄祖を見限り、孫権のもとへ帰順します。才能を惜しまれた彼は呉の将として重用されますが、それが凌統には耐え難い屈辱でした。父を討った軍の人間と、同じ陣営で戦うことなどできない——その憤りは甘寧本人に向けられ、凌統は甘寧を憎み、口もきかず、顔も見ようとしなかったと記録されています。
これに心を痛めた孫権は、両者を呼び寄せて「お前たち(おまえたち)は国の柱となる者だ。私情で国を損ねることがあってはならぬ」と諭します。しかし凌統の態度は変わらず、孫権はやむなく二人が顔を合わせぬよう軍務を分けました。甘寧は態度を和らげようとしたとも伝わりますが、凌統の怒りは収まることはありませんでした。
『三国志演義』でもこの因縁は描かれていますが、より劇的に演出され、凌統は甘寧を見るや怒りを爆発させ、「仇が味方となるとは、天が許しても我は許さぬ!」と罵倒する場面が挿入されています。孫権が間に入って両者を引き離すなど、個人の恨みと国の大義の狭間で揺れる人間模様が強調されています。
正史では不仲のまま、演義でも和解には至らず、それぞれの職務をまっとうするのみ。忠義と私情が交差する二人の関係は、孫呉の複雑な人間模様を象徴しています。




