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呉視点三国志:魯粛の章②

209年:建安14年

 赤壁せきへきの戦いが終結し、勝利の報が広がる中、孫権そんけん軍はまたたく間にその勢力を拡大しました。荊州けいしゅう南部――南郡なんぐん武陵ぶりょう長沙ちょうさ桂陽けいよう零陵れいりょう――その一帯が、曹操そうそうから奪われ、の勢力圏として確立されたのでございます。

 その頃、武陵の公安こうあんに駐屯していた劉備りゅうびは、孫権そんけんに対して一つのお願いをしました。

孫将軍そんしょうぐん、私に荊州けいしゅう南部のとくの任をたまわりたく存じます」

 劉備りゅうびは慎重に言葉を選びましたが、その眼差まなざしには確固たる決意が見て取れました。京城けいじょうを訪れた劉備りゅうびは、赤壁せきへきでの勝利を力にし、さらに力をつけようと考えていたのです。だが、孫権そんけんの周囲には簡単には受け入れられぬ空気が漂っておりました。

 周瑜しゅうゆ――大将軍だいしょうぐん。武勇にけ、また戦略家としても名高い彼は、かつての盟友めいゆうである劉備りゅうびを警戒しておりました。

劉備りゅうび荊州けいしゅうを手に入れれば、今後、我が安泰あんたいおびやかすことになろう。それを許すわけにはいかん」

 周瑜しゅうゆは、まゆをひそめながら言いました。その言葉に、呂範りょはん賛同さんどうの意を示します。

周将軍しゅうしょうぐんおおせの通りです。今は力をつけたばかりで、まだ慎重であるべき時です」

 二人の意見により、孫権そんけんはしばらく黙って考え込みました。しかし、その沈黙を破ったのは、魯粛ろしゅくでした。

将軍しょうぐん劉備殿りゅうびどのの提案にどうお考えでございましょうか?」

 魯粛ろしゅくは静かに問いました。彼は冷静に周囲の情勢を見つめ、何よりも最良の判断を孫権そんけんに求めていたのです。

「我らが手に入れた荊州けいしゅう南部。劉備殿りゅうびどのに与えることで、劉備りゅうびの力を我がに引き寄せることもできる。共に戦うことで、曹操そうそう脅威きょういをも打ち破る力を持つことができるでしょう」

 魯粛ろしゅくの言葉に、周瑜しゅうゆ呂範りょはんは一瞬黙り込みました。彼の冷静な分析に、無視できるほどの隙間すきまがなかったからです。

「だが、それでは劉備りゅうびが力をつけすぎる。彼が後に我らを裏切うらぎらぬとは限らん」

 周瑜しゅうゆの言葉に、魯粛ろしゅくは静かに答えました。

「確かに、裏切うらぎりの危険はあります。しかし、それは時が教えてくれることでしょう。我らの手中しゅちゅうに置き、共に戦えば、その忠義ちゅうぎを試すこともできましょう」

 周瑜しゅうゆは黙って魯粛ろしゅくを見つめ、やがてゆっくりと首を横に振りました。

「仕方ない。孫将軍そんしょうぐんが決めるべきだ」

 その時、孫権そんけんはしばらく黙って二人を見ました。彼のひとみの奥に、何かが揺れているのが見て取れます。

劉備りゅうび……か。あの者は義理堅ぎりがたく、義を重んじる男だ。だが、その義のために我らが国の未来を左右するわけにはいかん」

 彼は静かに言いました。続けて、少しだけ微笑ほほえみながら言いました。

「だが、あえて言うならば、今の時期に彼を失うことは、逆に我らにとっても無益むえきなことであろう。与えるべきか、いなか……」

 孫権そんけんはしばらく悩んだ後、決断を下しました。

劉備りゅうび荊州けいしゅう南部を任せる。だが、監視かんしの目はゆるめぬ」

 その決断に、周瑜しゅうゆ苦渋くじゅうの表情を浮かべましたが、すぐに表情を引き締めました。

「分かりました。しかし、将軍しょうぐん。あくまで目を光らせておかねばなりません。彼がどんな動きをするか、決して油断ゆだんしてはなりません」

「それについては、任せておこう」

 孫権そんけんはゆっくりと答え、魯粛ろしゅくに向かって一言。

子敬しけい、これで間違いないだろうな?」

 魯粛ろしゅくは一礼し、確信かくしんを込めて答えました。

「はい、将軍しょうぐん。今は劉備りゅうびを受け入れ、共に歩む時です」

 その後、劉備りゅうび荊州けいしゅう南部のとくの任が与えられました。孫権そんけんの意向に従い、劉備りゅうびの一員として更なる力をつけ、時を待つこととなったのでございます。



212年:建安17年

 夜風が江東こうとうの空をなでておりました。星ひとつない空に、火灯かとうがぽつり、ぽつりと揺れております。

 その灯りの下、ひとりの男が静かに文を綴っておりました。

 ――魯粛ろしゅくあざな子敬しけいと申します。

 彼の机の上には、戦略図、軍令、外交書簡が山のように積まれております。しかし、その表情はどこか穏やかでした。

 そこへ、ひとりの若武者が勢いよく帳中へ飛び込んでまいりました。

 「子敬しけい様! 今宵こよいも筆をお取りですか? お身体が心配です!」

 ――凌統りょう・とうあざな公績こうせきと申します。

 魯粛ろしゅくは軽く笑いました。

 「筆を持たねば剣を取ることになります。どちらか一方だけで済むなら、それにしたことはありません」

 「まったく……周瑜しゅうゆ様亡き今、我らの柱は子敬しけい様しかおられませぬのに」

 「それを言うなら、君もなかなかの柱ぶりではありませんか」

 「いえ、私ははりくらいで十分です。柱は……」

 「重くて折れるのが早い?」

 ふたりは笑いました。

 しかし、その笑みの裏には、重すぎる現実がありました。

 周瑜しゅうゆ――英傑にして、の双璧たる将。彼がこの世を去ったあと、空白となったその座を、誰が埋めるのか。誰もが息をひそめて見守る中、指名されたのは――魯粛ろしゅくでした。

 ある日、孫権そんけんの執務室での密談にて。

 「子敬しけい周瑜しゅうゆの後を継いでくれ。これより、奮威将軍ふんいしょうぐんに任ず。また、漢昌太守かんしょうたいしゅを兼務とし、荊州けいしゅう方面の防衛を一任されます。あわせて、周瑜しゅうゆ様の軍を引き継ぐのだ。軍全軍のべとなってほしい」

 「……私では、重すぎます」

 「それを言ったら、周瑜しゅうゆもかつては言った」

 「私は、彼のように剣を振るえません」

 「だが、おぬしは策を振るえる。剣が折れても、策は尽きぬ。それがの生き筋だ」

 しばしの沈黙の後、魯粛ろしゅくは深く頭を垂れました。

 「承知いたしました。周瑜しゅうゆ殿の遺志いしを、この身で継ぎましょう」

 そのときからです。魯粛ろしゅくは、戦場においても筆ではなく軍旗を振るようになりました。

 黄昏たそがれ、ある戦場で――。

 軍の前に現れたのは、曹操そうそう軍の別働隊。数においては三倍。退くか、死ぬか。兵たちがざわつく中、魯粛ろしゅくは平然と前へ進みました。

 「敵は多いが、戦意は低い。急襲を受けて混乱しておる。今こそ、気勢きせいを挙げよ!」

 旗を振り、馬を走らせました。風が巻き上がり、鼓音こいんが一斉に鳴り響きます。

 「左翼、迂回うかいせよ! 弓隊、谷に伏せ! 合図とともに火矢ひやを放て!」

 その指揮は、静かに、そして鋭く。

 敵軍が谷間に差し掛かったその瞬間――

 「今だ、火矢ひや、放て!」

 空を走った無数の矢が、炎となって敵の背を焦がしました。混乱におちいった敵は、右往左往するばかり。そこを突いて、騎兵隊が突撃します。

 「突けぇい!」

 嵐のような突撃でした。斬り結ぶ音、怒声どせい、地を駆ける馬蹄ばてい魯粛ろしゅくはその中央に立ち、敵の将を討ち取りました。

 勝利の後、兵たちが囲んで叫びます。

 「子敬しけい様万歳ばんざい! 文の将にして、武の才!」

 彼はただ微笑み、こう申しました。

 「私は万能ばんのうではありません。ただ、やるべきことをやったまで」

 ――筆を持ち、策をろうし、人をつなぎ、剣をる。

 それが、魯粛ろしゅく魯子敬ろ・しけいの生き様でございました。



212年:建安17年

 春の雨が、しとしとと秣陵ばくりょうの大地を濡らしておりました。

 張紘ちょうこうあざな子綱しこうと申します。彼は、ぶんに通じ、れいを知り、ときを読むものでございました。

 その日、孫権そんけん政庁せいちょうには、つめたい緊張きんちょうただよっておりました。張紘ちょうこう重大じゅうだい進言しんげんをするとのうわさが、あさから官吏かんりたちのあいだめぐっていたのです。

 張紘ちょうこうすすて、ひとれいいたしました。

 「殿との呉郡ごぐんたしかにふるく、ったではございます。しかし……この乱世らんせ、より戦略的せんりゃくてき拠点きょてん必要ひつようぞんじます」

 孫権そんけんまゆをひそめました。

 「張子綱ちょう・しこう貴殿きでんもうす“戦略的せんりゃくてき”とは、すなわち……?」

 「秣陵ばくりょうにございます。地勢ちせいよし。長江ちょうこうみなみせいし、外敵がいてきふせぎ、内政ないせいにもてきしております」

 「ふむ……ふるみやこはなれ、あたらしきるか。まるでへび脱皮だっぴするようなはなしだな」

 張紘ちょうこう微笑ほほえみました。

 「脱皮だっぴせねば、大蛇おおへびうごけぬともうします。殿とのには、さらなる大志たいしがおありでしょう。ここが、その第一歩だいいっぽぞんじます」

 そのに、孫権そんけんはしばしだまし、そしてうなずきました。

 「よかろう。張子綱ちょう・しこう、しかとこころちた。すぐに遷都せんとはじめるとしよう」

 遷都せんと迅速じんそくすすめられました。魯粛ろしゅくもこれにふか同意どういし、軍事的ぐんじてき支援しえんおしみなくおこないました。

 「張殿ちょうどの慧眼けいがんには、ただただ敬服けいふくするばかりです」と、魯粛ろしゅくはあるよるさけかわしながらかたりました。

 「いやいや、私はみちしめしただけです。みちひらくのは、殿との貴殿きでんです」と張紘ちょうこうかえしました。

 ふたりはさかずきを合わせ、そのさきひろがる“建業けんぎょう”という新天地しんてんち未来みらいしずかにおもえがいておりました。

 ――しかし。

 その志半こころざしばにして、張紘ちょうこうやまいました。あたらたなみやこ殿との家族かぞくむかえに途中とちゅう突然とつぜん高熱こうねつたおれたのです。

 孫権そんけんもとに、急報きゅうほうとどきました。

 「張子綱ちょう・しこうが、重篤じゅうとくにございます……」

 孫権そんけん椅子いすからがりました。

 「なんだと……張紘ちょうこうが……!」

 いそ使者ししゃはしらせ、見舞い(みまい)のしょをしたためました。けれど、いませんでした。

 享年きょうねん六十ろくじゅう――。

 張紘ちょうこう訃報ふほうとどいたとき、孫権そんけん人目ひとめをはばからずひざをつきました。

 「子綱しこうよ……おぬしのこころざしが、われをこのみちびいた。だが、おぬしだけがかえらぬとは……」

 そのよる建業けんぎょうそらにはしずかにほしがまたたきました。張紘ちょうこうえらんだこのを、まるでかれたましい見守みまもっているかのように。

 魯粛ろしゅくはひとり、墓前ぼぜんはな手向たむけました。

 「張子綱殿ちょう・しこうでん……貴殿きでんしたみちは、たしか未来みらいつづいております。われらはそのみちを、けっして見失みうしないませぬ」

 ――それが、ぶんきたおとこ張紘ちょうこう子綱しこう最期さいご物語ものがたりでございました。

〇遷都前の土地:秣陵ばくりょう

 秣陵ばくりょうは、現在の中国・南京なんきん市の中心部に位置しています。南京は、長江ちょうこう沿いにあり、戦略的に重要な場所でした。自然の要害を活かした地勢で、長江の水運と交易に便利な位置にあったため、経済的な繁栄も期待できる場所でした。しかし、政治的な動乱が続く中で、より防衛的な拠点が求められ、遷都を決断するに至りました。

〇遷都後の土地:建業けんぎょう

 建業けんぎょうは、現代の南京なんきん市の東部として知られる場所に遷都されたことになります。建業もまた長江ちょうこう沿いに位置しており、これによって長江を越えた外敵の侵入を防ぎやすくなりました。戦略的に重要な場所であり、内政にも適しているため、政権を安定させるための地として選ばれました。また、新しい土地での拠点作りは、戦乱の続く時代において必要不可欠な選択でした。



214年:建安けんあん十九年

 夜のとばりが降りる中、宮殿きゅうでん一角いっかくに、ひときわ静寂せいじゃくただよっておりました。魯粛ろしゅくは一人、帳中ちょうちゅう背筋せすじばして座り込んでいます。目の前には、長沙ちょうさ桂陽けつよう武陵ぶりょうと記された地図ちずひろがっています。今、彼のむねには重大じゅうだい決断けつだんくだされようとしていました。

その時、とびらが静かにひらき、侍従じじゅう姿すがたあらわしました。

子敬しけい様、劉備りゅうび殿とのが、またしても荊州けいしゅう返還へんかんについて難色なんしょくしめしております。」

魯粛は一度いちど、地図に視線しせんとしました。おもいきをついてから、ゆっくりとくちひらきます。

「そうか……。だが、これ以上いじょう膠着こうちゃく状態じょうたいはもはや呉のためにはならぬ。何としても、解決かいけつしなければならん。」

侍従が不安ふあんげに聞きかえしました。

「しかし、劉備殿は意地いじつよく、交渉こうしょう簡単かんたんではございません。どうか、お身体からだをお大事だいじになさってください。」

魯粛はちいさ微笑ほほえみ、侍従を落ちおちつかせました。

「身体を心配しんぱいしてくれるのはありがたいが、これがわれ使命しめいだ。外交がいこうにおいて、あらゆる可能性かのうせいこころみることこそが、しょうつとめであると心得こころえている。」

そうって、魯粛はがり、まどからえる夜空よぞら一瞥いちべつしました。

「そして、私の『単刀赴会たんとうふかい』が、つぎ一手いってとなるだろう。」

翌朝よくちょう、魯粛は、単刀たんとうびてうまり、劉備の陣営じんえいへと向かいました。道中どうちゅう、彼のこころ冷徹れいてつでありながらも、かつてないほどの緊張感きんちょうかんはらんでいました。単刀赴会――このとおり、彼は武器ぶきたずさえて劉備との交渉こうしょうのぞむことにけっめていたのです。

劉備の軍営ぐんえい到着とうちゃくすると、すぐになか案内あんないされました。魯粛は堂々(どうどう)とした態度たいどで、劉備と対面たいめんしました。

「劉備殿、今回は私、魯粛が単刀たんとうってまいりました。私は貴殿きでんにとってのともであり、呉の背負せおってきたものです。しかし、このままでは無駄むだ戦争せんそうつづき、双方そうほう損失そんしつます。それをけるためには、妥協だきょううしかない。」

劉備はまゆをひそめ、しばらく魯粛をつめました。しかし、彼のにはわずかながらの尊敬そんけいいろかんでいます。

「魯粛殿、おまえ忠義ちゅうぎと賢さ(けんさ)は十分じゅうぶんっておる。しかし、荊州を手放てばなすわけにはいかん。長年ながねん努力どりょくすえ土地とちだ。簡単かんたんにはかえせぬ。」

魯粛は静かにかたなを引きき、そのやいばつめました。

「わかっています。しかし、呉がにしたいのは、単なる土地だけではない。荊州の一部いちぶをいただくことで、貴殿との平和的へいわてき関係かんけいたもたれる。そして、との戦い(たたかい)にもそなえることができる。」

その言葉ことばに、劉備は少し考え込んでから、ふかいためいきをつきました。

「お前がそううのなら、仕方しかたがないかもしれぬ。長沙、桂陽、武陵の三郡さんぐんかえすことにしよう。しかし、それでも貴殿のとおり、魏に対する戦力せんりょく充実じゅうじつかせぬ。」

魯粛はその言葉ことばに、かるうなずきました。

「ご理解りかいいただけて感謝かんしゃいたします。私たちが協力きょうりょくえば、呉としょく強固きょうこ同盟どうめいとなり、ともに魏に立ち向かえるはずです。」

そのそのご交渉こうしょう無事ぶじ成立せいりつしました。劉備は魯粛の賢明けんめい外交がいこう手腕しゅわん感心かんしんし、荊州の一部いちぶを呉に返還へんかんすることを決定けっていしました。これにより、呉と蜀の関係かんけい一層いっそう強固きょうこなものとなり、あと歴史れきしうごかす大きないしずえとなったのです。

「これで、みちひらけたな」と魯粛はこころなかでつぶやきながら、静かに陣営じんえいあとにしました。

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