↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
30/64

呉視点三国志:魯粛の章①

184年:中平(ちゅうへい)元年

 建安(けんあん)の世に先駆けること幾年、江東(こうとう)の地に一人の少年がおりました。名は魯粛(ろしゅく)。その父は早くに世を去り、彼は祖母の手ひとつで育てられたのです。

 魯粛(ろしゅく)の家は裕福な豪族でした。金もあれば田畑もあり、人手に困ることもない。しかし彼は、そうした生まれを少しも誇ることなく、困窮する民に惜しみなく財を施しました。

「お若いの、また米を十石(じゅっこく)も?」

「余っているものを惜しんだところで、何にもなりません。腹を空かせた人間の顔を見て、眠れるほど神経は太くありませんで」

 こうした彼のふるまいに、祖母は内心やきもきしていたものの、叱ることはありませんでした。むしろその志に、ひそかに涙していたのです。

 そして時は流れ、魯粛(ろしゅく)は成人しました。身の丈は高く、骨格は逞(たくま)しく、目はまっすぐに物を射抜く光を宿していました。彼は読書を好み、兵法書を耽読(たんどく)するかたわら、自ら剣を執り、騎射(きしゃ)を学びました。

「また私兵(しへい)を集めて山へ登ったとな?あの子は戦でも始めるつもりかのう」

「ほうっておけ。あれはな、魯家(ろけ)に生まれた気違(きちが)いじゃ」

 村の長老(ちょうろう)たちは眉をひそめ、首を横に振ります。しかし魯粛(ろしゅく)は気にも留めず、仲間と共に軍陣(ぐんじん)の訓練(くんれん)を繰り返していました。

「撃てぇい!敵(てき)が陣(じん)を崩す前に、こちらが先手(せんて)を取るのです!」

「しかし殿(との)、これは狩(か)りではございませんぞ」

「狩りでなければ戦(いくさ)の訓練でしょう?どうせなら、猪(いのしし)よりも人の意(い)を読む方が楽しいのです」

 彼は人心(じんしん)を読む力にも長けておりました。地方(ちほう)の名士(めいし)たちと親交(しんこう)を結び、徐々に世(よ)の有力者(ゆうりょくしゃ)たちの間にその名が知られるようになります。

 やがて、乱世(らんせい)の嵐(あらし)が本格的に吹き荒れる中で、魯粛(ろしゅく)は運命(うんめい)の人物――孫権(そんけん)と出会うことになるのです。その時、彼の中に育まれていた「士の節義(しのせつぎ)」と「乱世の大局観(らんせいのたいきょくかん)」が、歴史(れきし)の歯車(はぐるま)を大きく動かす鍵(かぎ)となることを、まだ誰も知らぬことでした。



194年:興平(こうへい)元年

 日差しの強い夏の朝、江東(こうとう)の大地にひとりの男が馬を駆(か)けていました。涼(すず)しげな顔立ち、文武(ぶんぶ)に秀でた若き官吏(かんり)――周瑜(しゅうゆ)です。当時、彼は会稽郡(かいけいぐん)・居巣県(きょそうけん)の県長(けんちょう)に任命(にんめい)されたばかりでした。

「ほう……これが魯家(ろけ)の館(やかた)か。聞きしに勝(まさ)る、立派な門構(もんがま)えですな」

 周瑜(しゅうゆ)は手綱(たづな)を引き、そびえ立つ屋敷(やしき)を見上げました。門の前で控(ひか)える家僕(かぼく)が、あわてて中(なか)へ駆(か)け込んでいきます。その報(ほう)せに、すぐさま現(あらわ)れたのが、魯粛(ろしゅく)――名家(めいけ)に生まれながら、私財(しざい)を投(な)げて民(たみ)を助(たす)ける異色(いしょく)の若者(わかもの)です。体躯(たいく)は堂々(どうどう)とし、眉目(びもく)も精悍(せいかん)、しかし物腰(ものごし)は驚(おどろ)くほど柔(やわ)らかでした。

「ようこそ、お越(こ)しくださいました。遠路(えんろ)はるばる、誠(まこと)に恐縮(きょうしゅく)でございます」

「いやいや、こちらこそ。名士(めいし)・魯粛殿(ろしゅくどの)にご挨拶(あいさつ)せねばと、赴(おもむ)いた次第(しだい)にございます」

 二人(ふたり)は軽(かる)く頭(あたま)を下(さ)げ合(あ)い、邸内(ていない)へと進(すす)みました。席(せき)に着(つ)いた周瑜(しゅうゆ)は、やや声(こえ)をひそめます。

「実は……不躾(ぶしつ)ながらお願いがございましてな。新(あたら)たな任(にん)に就(つ)いたはいいものの、配下(はいか)の者(もの)も資金(しきん)も、ことごとく心(こころ)もとないありさまで……」

「ふむ、それはお困(こま)りでしょうな」

「そこで、僭越(せんえつ)ながら資金(しきん)や兵糧(ひょうろう)の援助(えんじょ)をお願いできればと。いや、無理(むり)を承知(しょうち)の頼(たの)みです。今(いま)はただ、志(こころざし)を同(おな)じくする者(もの)にすがるより他(ほか)なく……」

 周瑜(しゅうゆ)の言葉(ことば)に、魯粛(ろしゅく)は少しもためらいを見(み)せませんでした。すっと立(た)ち上(あ)がると、庭先(にわさき)の倉庫(そうこ)を指(さ)し示(しめ)します。

「あの倉(くら)には、穀(こく)が満(み)ちております。あちらも同様(どうよう)。今(いま)すぐに、半分(はんぶん)……いや、一倉(ひとくら)すべて、お持(も)ちください」

「な、なんと……!」

 周瑜(しゅうゆ)は目(め)を見(み)開(ひら)きました。そこまで差(さ)し出(だ)す者(もの)が、他(ほか)にあろうか。礼儀(れいぎ)をわきまえつつも、その瞳(ひとみ)はたしかに燃(も)えていました。

「いずれ、時(とき)が来(き)ましょう。共(とも)に大業(たいぎょう)を成(な)す日(ひ)が。私は、周瑜殿(しゅうゆどの)の才(さい)を信(しん)じております」

「……ありがたい。魯粛殿(ろしゅくどの)、いや、これはもはや“盟友(めいゆう)”として感謝(かんしゃ)いたします」

 その日(ひ)を境(さかい)に、ふたりの友情(ゆうじょう)は確かなものとなりました。周瑜(しゅうゆ)は魯粛(ろしゅく)の度量(どりょう)と先見の明(せんけんのめい)を深く評価(ひょうか)し、魯粛(ろしゅく)は周瑜(しゅうゆ)の胆力(たんりょく)と理想(りそう)に心(こころ)を寄(よ)せたのです。

 後年(こうねん)、孫呉(そんご)の命運(めいうん)を背負(せお)う参謀(さんぼう)として、魯粛(ろしゅく)は周瑜(しゅうゆ)と肩(かた)を並(なら)べてゆくことになります。だがその始(はじ)まりは、じつに静かで、まっすぐな信頼(しんらい)の一手(いって)からでした。



200年:建安五年

 魯粛(ろしゅく)は、天に誓(ちか)った志(こころざし)を胸(むね)に秘(ひ)めながら、馬(うま)を駆(か)っていた。東城(とうじょう)の任(にん)を解(と)かれた今(いま)、向(む)かう先(さき)はただ一つ――居巣(きょそう)の周瑜(しゅうゆ)でございます。

 魯粛(ろしゅく)は、若(わか)き日(ひ)より名望(めいぼう)高(たか)く、施(ほどこ)しを惜(おし)まず、奇計(きけい)を好(この)む謀士(ぼうし)として知られておりました。袁術(えん・じゅつ)に請(こ)われ東城県長(とうじょうけんちょう)を拝命(はいめい)したものの、主(しゅ)の驕慢(きょうまん)と迷走(めいそう)に失望(しつぼう)し、ついに離反(りはん)を決意(けつい)したのでございます。

 このとき魯粛(ろしゅく)は、ただ己(おのれ)一人(ひとり)ではなく、一族郎党(いぞくろうとう)に加(くわ)え、若(わか)き遊侠(ゆうきょう)たちを率(ひき)いて移動(いどう)しておりました。まるで一つの小国(しょうこく)が動(うご)くかのような一行(いっこう)の陣容(じんよう)でございます。

「叔父上(おじうえ)、周公瑾(しゅう・こうきん)は本当に我(われ)らを受(う)け入(い)れてくださるでしょうか」

 甥(おい)の魯淑(ろしゅく)が不安(ふあん)げに問いかけます。

「ふふ、断(ことわ)られたらそのときは、私(わたし)が酒(さけ)の一樽(いちだる)でも担(かつ)いで踊(おど)ってみせるとしよう」

 魯粛(ろしゅく)は朗(ほが)らかに笑(わら)いました。その横顔(よこがお)には、曇(くも)りなき信念(しんねん)の光(ひかり)がございます。

 しかし、長江(ちょうこう)を渡(わた)ろうとしたそのとき――役人(やくにん)たちが行(ゆ)く手(て)を阻(はば)みました。

「この河(かわ)を渡(わた)るには、州(しゅう)の許可(きょか)が要(い)る。武装(ぶそう)して通(とお)るとは何事(なにごと)か!」

 役人(やくにん)の声(こえ)は硬(かた)く、剣(けん)に手(て)を添(そ)えておりました。魯粛(ろしゅく)は眉(まゆ)一つ動(うご)かさず、馬(うま)からゆるりと降(お)ります。

「お役人(やくにん)。私は魯粛(ろしゅく)と申(もう)す者(もの)です。今(いま)、漢(かん)の大乱(だいらん)に際(さい)し、ただ正(ただ)しき義(ぎ)を貫(つらぬ)こうとしております。戦(いくさ)を求(もと)めるのではなく、人(ひと)を救(すく)う道(みち)を選(えら)んだ者(もの)が、ここにおります」

「だが、武装(ぶそう)の集団(しゅうだん)など――」

「説得(せっとく)が通(つう)じぬなら、我(われ)が言葉(ことば)ではなく、我(われ)が刃(やいば)で証(あかし)を立(た)てよう」

 そう言(い)って魯粛(ろしゅく)は一歩(いっぽ)、前(まえ)に出(で)ます。背後(はいご)の若者(わかもの)たちは、彼(かれ)の一声(いっせい)に応(おう)じて剣(けん)を構(かま)えました。空気(くうき)が凍(こお)りついたようでございます。

 だが、役人(やくにん)の一人(ひとり)がつぶやきます。

「……この者(もの)、ただの郷士(きょうし)ではない」

 そして、誰(だれ)ともなく道(みち)を開(ひら)けました。魯粛(ろしゅく)は頷(うなず)くと、ゆっくりと渡船(とせん)に歩(あゆ)を進(すす)めました。

 こうして魯粛(ろしゅく)は、長江(ちょうこう)を強引(ごういん)に渡(わた)りきり、家族(かぞく)を曲阿(きょくあ)に落(お)ち着(つ)かせたのでございます。

「おぬしの志(こころざし)、風(ふう)に乗(の)って聞(き)こえてきたわ」

 迎(むか)えた周瑜(しゅうゆ)の第一声(だいいっせい)でございます。

「では、風(ふう)に帆(ほ)を張(は)るお方(かた)は、どちらでございますかな?」

 魯粛(ろしゅく)は笑(わら)いながら応(おう)じました。二人(ふたり)の間(あいだ)に、言葉(ことば)以上(いじょう)の信頼(しんらい)が走(はし)った瞬間(しゅんかん)でございます。

 その後(ご)、魯粛(ろしゅく)は孫策(そんさく)に目通り(めどおり)を果(は)たし、彼(かれ)からも非凡(ひぼん)の才(さい)を見(み)抜(ぬ)かれ、重(おも)く遇(あつか)されたのでございます。



200年:建安五年

 魯粛(ろしゅく)は、祖母(おばあさま)の死を迎えると、柩(ひつぎ)を守って静かに東城(とうじょう)へ戻りました。陽光(ようこう)が差し込むなか、魯家(ろけ)の屋敷には香(こう)の煙(けむり)が漂い、白衣(はくい)を纏(まと)った人々(ひとびと)が列(れつ)をなしていました。彼の顔(かお)は悲し(かな)しみに沈みながらも、どこか清らかでした。

「――おばあさま。あなたの教(おし)えは、胸(むね)の内(うち)にずっと生きています」

 そう呟(つぶや)いた魯粛の声(こえ)は、ひとしずくの涙(なみだ)に濡(ぬ)れていました。

 その折(おり)、彼のもとに一通(いっつう)の手紙(てがみ)が届きました。筆跡(ひっせき)は鮮やかで、主(しゅ)は劉曄(りゅう・よう)――若き才士(さいし)にして、魯粛の親友(しんゆう)でした。

「粛兄(しゅくけい)。巣湖(そうこ)に鄭宝(てい・ほう)という男(おとこ)が立て籠もっております。既(すで)に一万(いちまん)の兵(へい)を擁(よう)し、英傑(えいけつ)の風(ふう)を吹かせておりますぞ。一度(いちど)、会ってみるのも一興(いっきょう)かと――」

 魯粛は目(め)を細(ほそ)めて手紙を読み、静かに筆(ふで)を取りました。

「曄(よう)よ。あなたの慧眼(けいがん)に信(しん)を置きます。だが、鄭宝には何か胡乱(うろん)な気配(けはい)も感じます。まずは母(はは)を迎えに曲阿(きょくあ)に戻り、その後(あと)に考(かんが)えましょう」

 彼の判断(はんだん)は慎重(しんちょう)でした。しかし、事態(じたい)は思わぬ方向(ほうこう)に動いていたのです。

 既に孫策(そん・さく)は病(やまい)に倒れ、弟(おとうと)・孫権(そん・けん)が跡(あと)を継いでいました。そして、魯粛の母の身柄(みがら)は周瑜(しゅう・ゆ)によって呉(ご)に移(うつ)されていたのです。

 魯粛は驚(おどろ)き、すぐさま周瑜のもとに向かいました。

「周公瑾(しゅうこうきん)! これはいかなる処置(しょち)ですか?」

「粛殿(しゅくどの)、驚くのは無理(むり)もない。しかし、聞(き)いてくれ」

 周瑜は酒(さけ)を注ぎながら、穏やかに語り出しました。

「江南(こうなん)には天の運(うん)があります。孫仲謀(そん・ちゅうぼう)――孫権殿(そんけんどの)には王者(おうじゃ)の器(うつわ)がある。あなたのような人物(じんぶつ)が他(ほか)の地(ち)へ行くのは惜(お)しい。粛殿(しゅくどの)、お母上(おかあさま)は私が預(あず)かっています。どうか、呉に残り(のこり)、我らと天下(てんか)を目指していただきたい」

 魯粛は盃(さかずき)を手に取り、静かに見つめました。

「……ふむ。では、まず一つ、問(と)わせていただきましょう。孫仲謀は、天下の乱れを収める器量(きりょう)があると?」

「あるとも。粛殿(しゅくどの)、あなたが目を向ければ、その目が見抜(みぬ)くだろう」

「その言葉(ことば)、信じても?」

「信じよ。いや、信じたまえ。君(きみ)がもし、他(ほか)へ行けば、我が呉は確実(かくじつ)に逸材(いつざい)を失う」

 盃が静かに干(ほ)されました。魯粛はゆっくりと頷(うなず)きました。

「ならば、仕官(しかん)いたします。周公瑾(しゅうこうきん)、あなたの説得(せっとく)、見事(みごと)でしたな」

 その後(のち)、魯粛は改めて孫権(そんけん)に仕官し、軍政(ぐんせい)に関わることとなります。

 ちなみに――この騒動(そうどう)の裏(うら)で、劉曄(りゅう・よう)は独自(どくじ)に鄭宝(てい・ほう)の正体(しょうたい)を見抜いていました。

「粛兄(しゅくけい)の言(こと)うとおり。奴(やつ)は乱(みだれ)の因(いん)ですな」

 そう言って鄭宝を酒宴(しゅえん)に招(まね)き、酔ったところを一刀(いっとう)のもとに斬(き)り伏せたといいます。静かなる魯粛と、豪胆(ごうたん)なる劉曄(りゅうよう)――若き日の逸話(いつわ)は、江東(こうとう)の風とともに語り継がれていくのです。



200年:建安五年

 魯粛(ろしゅく)は、若き日の孫権(そんけん)にとって、稲妻(いなずま)のように鮮烈(せんれつ)な人物でございました。

 初めての謁見(えっけん)の場。荘厳(そうごん)な広間(ひろま)に、温厚(おんこう)な面持(おもも)ちの男(おとこ)が、背筋(せすじ)を伸ばして進み出ます。名は魯粛(ろしゅく)。かつての名家(めいけ)の子(こ)でありながら、戦乱(せんらん)で没落(ぼつらく)した家(いえ)を支えながら、慧眼(けいがん)と胆力(たんりょく)を併せ持つと評判(ひょうばん)の若者(わかもの)です。年は二十代半ば。身なりは質素(しっそ)ながら、眼光(がんこう)に曇(くも)りはなく、声音(こわね)もまた落ち着き払っていました。

 孫権(そんけん)は、その人(ひと)となりをひと目見て気に入りました。他の客(きゃく)が帰った後も彼だけを引き留め、やがて酒宴(しゅえん)となります。

「よい。皆(みな)は下がれ。――魯粛(ろしゅく)、そなたは、どう見ておる。天下(てんか)の行く末(ゆくすえ)を」

 杯(さかずき)を交わしながら、孫権(そんけん)が問います。その声(こえ)には、ただの若君(わかぎみ)以上(いじょう)のものがありました。重圧(じゅうあつ)のなかで鍛えられた、苦悩(くのう)と決意(けつい)の入り混じった声音(こわね)です。

「お答えいたします、将軍(しょうぐん)。漢(かん)を復興(ふっこう)すると申(もう)す者(もの)は多くございましょう。しかし、それはもはや、理想論(りそうろん)に過ぎませぬ。曹操(そうそう)殿(でん)は剛腕(ごうわん)。簡単(かんたん)に取り除けるような相手(あいて)ではございません」

「ふむ……続けよ」

「ならば将軍(しょうぐん)におかれては、江東(こうとう)を盤石(ばんじゃく)とし、天下(てんか)の変(へん)をじっくりと見極め(みきわめ)られるのが肝要(かんよう)かと。具体的(ぐたいてき)には、曹操(そうそう)殿(でん)が北方(ほっぽう)の憂(うれ)いにかかずらっておられるうちに、黄祖(こうそ)や劉表(りゅうひょう)を討ち(たおち)、長江(ちょうこう)を制するのです。その後(あと)にこそ、帝王(ていおう)の名乗り(なのり)がふさわしゅうございましょう」

 沈黙(ちんもく)。孫権(そんけん)はじっと杯(さかずき)を見つめ、ひと呼吸(ひといき)おいて言いました。

「……なるほど。理(り)には適(かな)っておるな。されど今は、わたしがまだ未熟(みじゅく)ゆえ、地方(ちほう)の安定(あんてい)に追われておる。漢室(かんしつ)をお救い(すくい)できればと願(ねが)うばかりで、そなたの申すような大業(たいぎょう)には、今は手(て)が届かぬ」

 その声音(こわね)に、虚勢(きょせい)はありませんでした。魯粛(ろしゅく)は深く頭(あたま)を下げました。

「将軍(しょうぐん)のお志(こころざし)、しかと承(うけたまわ)りました。ならば、今後(こんご)のために備(そな)えを怠りませぬよう、微力(びりょく)を尽くす所存(しょぞん)にございます」

 孫権(そんけん)は笑いました。

「良きかな。よき人材(じんざい)を得たわ!」

 その夜(よる)、ふたりは酌み交わしながら、星(ほし)の行方(ゆくえ)を語り合った(かたりあった)と申します。

 ところが、この魯粛(ろしゅく)の進言(しんげん)は、重臣(ちょうしん)の張昭(ちょうしょう)には受け入れられませんでした。張昭(ちょうしょう)は、かつて孫権(そんけん)の父(ちち)・孫策(そんさく)にも仕えた(つかえた)謹厳実直(きんげんじっちょく)な文官(ぶんかん)であり、儒家(じゅか)的(てき)な忠義(ちゅうぎ)を重んじる人物(じんぶつ)です。若輩者(じゃくはいもの)が「帝王(ていおう)」などと軽々(けいけい)しく口(くち)にすることが我慢(がまん)なりません。

「――非礼(ひれい)である!分(ぶん)をわきまえぬ若造(わかぞう)が、何(なに)を申(もう)すか!」

 何度(なんど)か魯粛(ろしゅく)を面前(めんぜん)で咎め(とがめ)、厳しく非難(ひなん)しました。しかし、孫権(そんけん)は意(い)に介しませんでした。むしろますます魯粛(ろしゅく)を重用(ちょうよう)し、その意見(いけん)を取り入れました。

「張公(ちょうこう)、そなたのお考え(おかんがえ)も尊(とうと)い。しかしわたしは、若者(わかもの)の胆識(たんしき)もまた、国(くに)を導く(みちびく)灯火(ともしび)と見ておるのだ」

 こうして魯粛(ろしゅく)は、孫権(そんけん)の傍近(そばちか)くに仕えることになります。その処遇(しょぐう)は厚(あつ)く、没落(ぼつらく)していた彼(かれ)の家(いえ)も、往年(おうねん)のような豊かな暮ら(くら)しに戻りました。年老いた(としおいた)母(はは)は、かつての資産家(しさんけ)時代(じだい)と変わらぬ静謐(せいひつ)な日々を送れたと伝えられております。

 もっとも、魯粛(ろしゅく)の進言(しんげん)のすべてが実現(じつげん)したわけではありません。曹操(そうそう)が北方(ほっぽう)に注力(ちゅうりょく)していた間(あいだ)に、黄祖(こうそ)・劉表(りゅうひょう)を討(う)つ――という目標(もくひょう)は、様々な事情(じじょう)で果たされませんでした。

 されど、この男(おとこ)の胆識(たんしき)は、後(のち)の赤壁(せきへき)において、大いなる火(ひ)を点(とも)すことになります。それはまた、別(べつ)の物語(ものがたり)でございます。



208年:建安(けんあん)十三年

 荊州(けいしゅう)の主、劉表(りゅうひょう)が病没し、天下は再び波立ち始めました。

 その報を聞いたのは、江東(こうとう)の都・呉(ご)においてでございました。魯粛(ろしゅく)――字(あざな)は子敬(しけい)。温厚にして沈着、先見の明に長けた智将です。孫権(そんけん)配下にあって、知略で一目置かれる人物でございます。

「将軍。いまこそ動く時と存じます」

 彼は静かに口を開きました。

「劉表殿(りゅうひょうどの)の死により、荊州は動揺しております。もし曹操(そうそう)殿(どの)が兵を起こせば、たちまち飲み込まれましょう。ならば、我らが先手を打って動向を探り、策を立てるべきにございます」

「なるほど。して、誰を行かせるか?」

 孫権が問うと、魯粛はきっぱりと頭を下げました。

「この魯粛(ろしゅく)、弔問(ちょうもん)の使者となりましょう」

 孫権は頷きました。人となりを知り、重く用いていたからでございます。

 魯粛は直ちに出立しました。進路を急ぎ、夏口(かこう)に着いたとき、既に曹操(そうそう)が大軍を率いて荊州征伐(けいしゅうせいばつ)に動いたことを知ります。彼は迷わず南郡(なんぐん)へと進路を変えました。

 そこで知ったのは、衝撃(しょうげき)の報せでした。

「劉琮(りゅうそう)……曹操殿(そうそうどの)に降った、だと?」

「そればかりか、劉備(りゅうび)殿(どの)が敗走(はいそう)され、江夏(こうか)を目指しておられると」

 魯粛はその報に、黙して頷きました。そして即断(そくだん)します。

「ならば、迎えに行く。今こそ、同盟(どうめい)を――」

 彼は馬にまたがり、風(ふう)の如く当陽(とうよう)へ向かいました。長坂(ちょうはん)の地にて、ついに劉備(りゅうび)と対面(たいめん)を果たします。

「おお、あなたが噂(うわさ)の魯粛殿(ろしゅくどの)か。風聞(ふうぶん)に違わぬ胆識(たんしき)」

 劉備(りゅうび)は驚きとともに迎えました。魯粛は丁重(ていちょう)に拝礼(はいれい)し、そして切り出します。

「いま、天下(てんか)の潮目(しおめ)が変わろうとしております。曹操殿(そうそうどの)の南下(なんか)を阻むには、我らの協力(きょうりょく)が不可欠(ふかけつ)にございます。孫将軍(そんしょうぐん)も、貴殿(きでん)との同盟(どうめい)を望んでおられます」

「それは、実にありがたい」

 さらに、諸葛亮(しょかつりょう)とも語らい、深き信頼(しんらい)を得ました。

「孫家(そんけ)の劉家(りゅうけ)が手を結ぶ……これぞ天(てん)の理(ことわり)」

 やがて劉備(りゅうび)が夏口(かこう)に着くと、魯粛は復命(ふくめい)のため孫権(そんけん)のもとへ戻ることとなりました。その際、劉備(りゅうび)は諸葛亮(しょかつりょう)を同行(どうこう)させ、孫権(そんけん)との折衝(せっしょう)に備えさせたのです。

 その頃、孫権(そんけん)の周囲(しゅういき)では、曹操(そうそう)に降伏(こうふく)すべきとの声(こえ)が高まっておりました。魯粛(ろしゅく)は黙して語らず、時機(じき)を待っておりました。

 ある日。孫権(そんけん)が厠(かわや)に立った隙(すき)を見て、魯粛(ろしゅく)はひそかに後(あと)を追いました。

「……子敬(しけい)。そなた、何を思っておる」

「将軍(しょうぐん)。曹操殿(そうそうどの)に降ること、それは私には生き延びる道(みち)でございましょう。しかし、将軍(しょうぐん)におかれては――おそらく、身の置き所(おきどころ)はないやもしれませぬ」

 孫権(そんけん)の目(め)が細められました。

「つまり、降伏(こうふく)には……利(り)がないと?」

「はい。将軍(しょうぐん)の威(い)と徳(とく)、曹操(そうそう)の傘(かさ)の下(もと)では、かえってかすんでしまいます。いまこそ、旗(はた)を掲げて自立(じりつ)の道(みち)を選ぶべきにございます」

 しばし沈黙(ちんもく)。やがて、孫権(そんけん)はぽつりと漏らしました。

「……実は、わたしも同じ考えであったのだ」

 魯粛(ろしゅく)は静かに頭(あたま)を下げました。孫権(そんけん)は微笑(ほほえみ)、言いました。

「そなた、まさに天(てん)が遣(つかわ)した使いよ」

 事(こと)ここに至り、孫権(そんけん)は決断(けつだん)いたします。魯粛(ろしゅく)の進言(しんげん)により、彼(かれ)は鄱陽(はよう)にいた周瑜(しゅうゆ)を召還(しょうかん)し、軍(ぐん)の指揮(しき)を任せます。魯粛(ろしゅく)は賛軍校尉(さんぐんこうい)に任じられ、軍(ぐん)を補佐(ほさ)する立場(たちば)となりました。

 やがて赤壁(せきへき)の戦(いくさ)。東南(とうなん)の風(ふう)に乗り、周瑜(しゅうゆ)の火攻めが曹操(そうそう)を焼き払います。夜(よる)を焦がす炎(ほのお)のなか、敵陣(てきじん)は混乱(こんらん)し、曹操(そうそう)は敗走(はいそう)しました。

 魯粛(ろしゅく)は誰(だれ)よりも早く、陣(いくさ)を立って帰還(きかん)いたします。

 孫権(そんけん)は、全軍(ぜんぐん)をもって彼(かれ)を出迎えました。魯粛(ろしゅく)が陣(じん)に入ろうとすると、孫権(そんけん)自ら立ち上がり、深々(ふかぶか)と敬礼(けいれい)いたしました。

「子敬(しけい)よ。もしわたしが、鞍(くら)を手(て)にして下馬(げば)し、そなたを出迎えたならば、それで充分(じゅうぶん)にそなたを顕彰(けんしょう)したことになろうか?」

 魯粛(ろしゅく)は、にやりと微笑(ほほえみ)、答えました。

「さすれば、次の戦(いくさ)でも必ずや、わたしが行くべきでございましょう」

 孫権(そんけん)は、大いに笑いながら頷(うなず)きました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。