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呉視点三国志:周瑜の章⑦

208年:建安(けんあん)十三年

 赤壁(せきへき)の戦いでの勝利から数ヶ月(すうかげつ)が過(す)ぎ、周瑜(しゅうゆ)は南郡太守(なんぐんたいしゅ)に任命(にんめい)された。その知らせが届(とど)いた日、周瑜(しゅうゆ)はひときわ静(しず)かな表情(ひょうじょう)でその書簡(しょかん)を読み、微(かす)かに笑(え)みを浮(う)かべた。

「南郡(なんぐん)か…。」

周瑜(しゅうゆ)は呟(つぶや)き、手元(てもと)の書簡(しょかん)を見つめながら言(い)った。

「荊州(けいしゅう)の支配権(しはいけん)を握(にぎ)るための第一歩(だいいっぽ)。だが、油断(ゆだん)はできぬな。」

 その言葉(ことば)に、側(そば)に控(ひか)えていた魯粛(ろしゅく)が静(しず)かに答(こた)える。

「確(たし)かに、周将軍(しゅうしょうぐん)。ですが、赤壁(せきへき)の戦いでの勝利(しょうり)は大(おお)きな証明(しょうめい)となりました。今、荊州(けいしゅう)の支配(しはい)は周将軍(しゅうしょうぐん)の手の内(てのうち)にあります。」

魯粛(ろしゅく)は穏(おだ)やかな口調(くちょう)で続(つづ)けた。

「だが、周囲(しゅうい)の勢力(せいりょく)はそれを黙(だま)って見過(みす)ごすだろうか?」

周瑜(しゅうゆ)は鋭(するど)い眼差(まなざ)しで魯粛(ろしゅく)を見つめた。

「曹操(そうそう)は未(いま)だにその力(ちから)を誇示(こじ)しているし、劉備(りゅうび)も動(うご)き出(だ)すだろう。」

「その点(てん)に関(かん)しては、私(わたし)も懸念(けねん)しています。」

魯粛(ろしゅく)は真剣(しんけん)な表情(ひょうじょう)を浮(う)かべ、周瑜(しゅうゆ)に向(む)かって言(い)った。

「ですが、今は一歩(いっぽ)ずつ進(すす)むしかありません。南郡(なんぐん)の支配(しはい)を確実(かくじつ)に固(かた)め、荊州(けいしゅう)の西側(にしがわ)を確保(かくほ)することが肝要(かんよう)です。」

「その通(とお)りだな。」

周瑜(しゅうゆ)は頷(うなず)き、視線(しせん)を遠(とお)くに向(む)けた。そこには荊州(けいしゅう)の広大(こうだい)な土地(とち)が広(ひろ)がっている。戦後(せんご)の荒(あ)れた地(ち)を、どうにかして平定(へいてい)しなければならないのだ。

「それにしても、南郡(なんぐん)の地でどのように権力(けんりょく)を掌握(しょうあく)するか、早急(そうきゅう)に策(さく)を練(ね)らなければ。」

周瑜(しゅうゆ)は立(た)ち上(あ)がり、手(て)をひらひらと振(ふ)ってみせた。

「まずは民(たみ)の信頼(しんらい)を得(え)るための施策(しさく)を考(かんが)え、次(つぎ)に軍(ぐん)の士気(しき)を高(たか)めなければならない。」

「軍(ぐん)の士気(しき)か…。」

魯粛(ろしゅく)は一瞬(いっしゅん)考(かんが)え込み、次(つぎ)に言(い)った。

「やはり、周将軍(しゅうしょうぐん)のような指導者(しどうしゃ)が前線(ぜんせん)に立(た)つのが一番(いちばん)です。」

「お前(まえ)の言(い)う通(とお)りだ。」

周瑜(しゅうゆ)は微笑(ほほえ)み、立(た)ち上(あ)がった。

「だが、私(わたし)はただの指導者(しどうしゃ)ではない。私(わたし)の手(て)で荊州(けいしゅう)の未来(みらい)を築(きず)くのだ。」

 その言葉(ことば)を終(お)えると、周瑜(しゅうゆ)はすぐさま行動(こうどう)を開始(かいし)した。彼(かれ)は南郡(なんぐん)へ赴(おもむ)き、地元(じもと)の豪族(ごうぞく)と連携(れんけい)を深(ふか)めながら、民心(みんしん)を掴(つか)むために数々(かずかず)の改革(かいかく)を実施(じっし)した。その一方(いっぽう)で、荊州(けいしゅう)の東側(ひがしがわ)の安定(あんてい)を最優先(さいゆうせん)し、劉備(りゅうび)との微妙(びみょう)な関係(かんけい)を保(たも)ちながらも、彼(かれ)の領地(りょうち)拡大(かくだい)に対(たい)して警戒(けいかい)を怠(おこた)らなかった。

 数ヶ月(すうかげつ)後(ご)、周瑜(しゅうゆ)は南郡(なんぐん)の支配(しはい)をほぼ完璧(かんぺき)に固(かた)め、荊州(けいしゅう)の地(ち)における権威(けんい)を確立(かくりつ)する。その成果(せいか)を示(しめ)すため、周瑜(しゅうゆ)は再(ふたた)び魯粛(ろしゅく)に向(む)かって言(い)った。

「荊州(けいしゅう)の支配(しはい)は思(おも)いの外(ほか)順調(じゅんちょう)に進(すす)んだ。だが、これで終(お)わりではない。これからは、更(さら)なる戦略(せんりゃく)が必要(ひつよう)だ。」

「もちろんです。」

魯粛(ろしゅく)は深(ふか)く頷(うなず)き、静(しず)かに周瑜(しゅうゆ)の顔(かお)を見つめた。

「これからが本番(ほんばん)です。周将軍(しゅうしょうぐん)の手腕(しゅわん)にかかっています。」

 周瑜(しゅうゆ)は微(かす)かに笑(え)みを浮(う)かべ、再(ふたた)びその広大(こうだい)な地(ち)を見つめた。その眼差(まなざ)しには、荊州(けいしゅう)を制(せい)するだけでなく、更(さら)なる高(たか)みを目指(めざ)す強(つよ)い意志(いし)が感(かん)じられた。



208年:建安(けんあん)十三年

――この年、天下は大きく動こうとしていた。

 中原を制した魏(ぎ)の曹操(そうそう)は、荊州(けいしゅう)へと軍を南進させ、南方制圧の大軍を整えていた。彼の視線の先には、長江(ちょうこう)の南、孫権(そんけん)の治める呉(ご)の地があった。

 それは単なる領土拡大ではない。荊州を押さえ、江南(こうなん)を手中にすれば、曹操は名実ともに天下の覇者となる。

 その動きに、孫権は鋭敏に応じた。若き君主として、父・孫堅(そんけん)や兄・孫策(そんさく)の遺志を継ぎ、揚州(ようしゅう)を盤石に固めつつあった彼は、すでに魏との決戦を終え、今後の戦略を練っていた。

 このような情勢の中、一人の使者が呉の地を訪れる。名は劉隠(りゅういん)。彼が携えていたのは、朝廷の名を借りた魏からの命令であった。

 朝廷(ちょうてい)から使者が訪れた。使者の名は劉隠(りゅういん)。その手に持つ令(れい)は、ただならぬ重みを感じさせるものだった。孫賁(そんほん)は使者を迎え入れ、重々しくその言葉を待った。

「孫賁(そんほん)殿、朝廷より命を受け参上いたしました。」

 劉隠(りゅういん)は低く頭を下げ、静かに口を開いた。

「この度、あなた様に征虜将軍(せいりょしょうぐん)の職を授けることとなりました。」

「征虜将軍?」

 孫賁(そんほん)はその言葉を噛みしめるように繰り返した。

「それは、名誉な職ですが…。」

「その通り。」劉隠(りゅういん)は頷き、続けた。

「また、豫章太守(よしょうたいしゅ)の職も、そのまま継続していただくことになります。」

 孫賁(そんほん)はしばらく沈黙した後、深く息をついた。

「私は豫章(よしょう)の地に根を下ろして、すでに十一年。私の務めがこれで終わるわけではないということですね。」

「はい。」劉隠(りゅういん)は力強く答えた。

「そして、この任命はあなた様が今後、さらなる功績を挙げるための一歩となるでしょう。」

 孫賁(そんほん)は顔を上げ、遠くを見つめた。その目には、次なる戦いの火花が見えるようだった。

「わかりました。この命を受け、私の職務を全うします。」

「感謝いたします。」

 劉隠(りゅういん)は再び頭を下げた。

 その後、孫賁(そんほん)は引き続き豫章太守としての職を続け、忠実にその任を果たした。彼の名声は、ますます高まり、周囲の人々からも尊敬を集めていた。

 しかし、時が過ぎ、孫賁(そんほん)はこの頃に、歴史の中に姿を消すこととなる。

 その晩、孫賁(そんほん)は一人、書斎にて筆を取っていた。彼の手元には、戦の計略や民のための政策が並んでいる。だが、どこか心の中に、静かな波紋が広がっていた。それは、長年の任務を続けてきた者にしか感じることのできない、終わりの予感だった。

「まさか、これが私の最後の役目だとは。」

 孫賁(そんほん)はしみじみと呟いた。

 その翌年、孫賁(そんほん)は病に倒れ、この世を去った。彼の死は、呉(ご)の陣営にとって大きな損失となり、その後、彼の名は長く語り継がれることとなった。

 孫賁(そんほん)の死は、呉にとって大きな痛手であった。彼は戦場を駆ける将軍ではなくとも、豫章の地を治める政治の柱であり、孫家の一門として重要な存在であった。

 だが、その空白を埋めるようにして、周瑜(しゅうゆ)、魯粛(ろしゅく)、さらには孫権(そんけん)自らが軍政を整え、次なる戦いに備えて動き出していった。



 209年:建安(けんあん)十四年

 南郡(なんぐん)の地、周瑜(しゅうゆ)率いる呉(ご)の軍勢がその武威を示していた。すでに曹操(そうそう)の部隊は後退を余儀なくされ、南郡(なんぐん)の支配権を巡る戦いは佳境(かきょう)を迎えていた。

「美周郎(びしゅうろう)、ついにあの曹仁(そうじん)の守る要塞に攻撃を仕掛けるか?」

 程普(ていふ)は、周瑜(しゅうゆ)の前に立ち、地図を指し示しながら尋ねた。

「そうです。程普(ていふ)どの。だが、急ぐことはありません。焦ることなく、確実に攻めます。」

 周瑜(しゅうゆ)は冷静に言った。その顔には、戦略家としての自信と冷徹さが滲(にじ)んでいた。

「しかし、美周郎(びしゅうろう)。曹仁(そうじん)の守る拠点は堅牢(けんろう)だぞ。今、進軍をかけるのはバクチがすぎるだろう」

 程普(ていふ)はその一歩踏み込んだ挑戦的な言葉に、周瑜(しゅうゆ)は少しだけ微笑んだ。

「一か八かです。程普(ていふ)殿。それをためらっていては前に進めませぬ」

 周瑜(しゅうゆ)は剣を握り、指揮官としての覚悟を示した。

 その間に、甘寧(かんねい)が別の任務に向かっていた。彼は、先鋒(せんぽう)として夷陵(いりょう)への夜襲を決行するのだ。周瑜(しゅうゆ)の計画を実行に移すため、彼は軍の先陣を切って出陣した。

「甘寧(かんねい)殿。今夜の作戦は貴殿(きでん)にかかっている。」

 周瑜(しゅうゆ)は甘寧(かんねい)に声をかけた。

「承知!」

 甘寧(かんねい)は自信満々に答え、その目には決意がみなぎっていた。

 夜の帳(とばり)が下り、甘寧(かんねい)はわずかな兵を引き連れて、曹仁(そうじん)の要塞へと接近していった。周囲の闇に溶け込み、静かな夜に響くのはただ、彼の足音のみ。

「目標、見えたか?」

 甘寧(かんねい)は低い声で仲間に尋ねる。

「見えます、甘将軍(かんしょうぐん)。」

 兵士が答えると、甘寧(かんねい)は無言で頷(うなず)き、攻撃の準備を整えた。

 その瞬間、彼の目が鋭く光った。

「今だ!」

 甘寧(かんねい)は声を上げ、兵士たちに合図を送る。わずかな兵力で、猛烈な勢いで要塞に襲いかかる。

 爆発的な勢いで進撃し、曹仁(そうじん)の守る要害(ようがい)が一瞬で崩れ落ちた。まさに奇襲の成功だった。

「やったか!」

 甘寧(かんねい)は息を切らしながらも勝利を確信し、口元に薄く笑みを浮かべた。

 一方、周瑜(しゅうゆ)はその攻撃の行方を見守りつつ、戦局の最前線で戦い続けていた。程普(ていふ)や周泰(しゅうたい)と共に、南郡(なんぐん)の攻略に注力している。

「美周郎(びしゅうろう)、甘寧(かんねい)を援護させてくれい。骨の髄(ずい)がウズウズする。」

 程普(ていふ)は剣を握りしめ、前方を見据えて言った。

「お気持ちはわかります。ですが、焦りは禁物です。」

 周瑜(しゅうゆ)は一歩踏み出し、周泰(しゅうたい)に目を向けた。

「周泰(しゅうたい)、お前はどう思う?」

「私は…。」

 周泰(しゅうたい)は肩を揺らし、傷だらけの体で答えた。

「もう少しだけ、持ちこたえられるはずです。」

「無理はするな。」

 周瑜(しゅうゆ)はその言葉に少しの驚きを隠せなかった。

「だが、我が軍の勇気は、今や誰にも負けはしない。」

 戦いは続き、最終的に曹仁(そうじん)は退却を余儀なくされた。その勝利は、呉(ご)の軍にとって大きな意味を持つものとなった。

 戦後、程普(ていふ)はさらなる戦功を重ね、裨将軍(びしょうぐん)・江夏太守(こうかたいしゅ)に任命された。そして、沙羡(さけん)に駐屯することとなった。

「沙羡(さけん)に駐屯するか…。年寄りには堪(こた)えるが、腕は鳴る。困ったものだ。」

 程普(ていふ)は微かにため息をつきながら、周瑜(しゅうゆ)に言った。

「この地で、のんびりさせてもらう。孫堅(そんけん)様が夢枕(ゆめまくら)に立ったら酒を酌(く)み交わす。俺が死んだら墓に酒をかけてくれ」

「構いませんが、徳謀(とくぼう)殿、敵が来たら前線に立つのはもうお控え下さい。」

 周瑜(しゅうゆ)は軽く笑いながら、程普(ていふ)に向かって手を振った。

 そして、南郡(なんぐん)の戦闘が終わると、甘寧(かんねい)はその功績によって名を轟(とどろ)かせることとなった。彼の大胆な奇襲は、軍全体に勇気を与え、呉(ご)の力を一層強固なものにした。



209年:建安(けんあん)十四年

 三国時代における「太守(たいしゅ)」という職務は、地域の最高責任者として、行政(ぎょうせい)、軍事(ぐんじ)、財政(ざいせい)など多岐(たき)にわたる職務を担当(たんとう)しました。太守の役割は、管轄(かんかつ)する地方を安定(あんてい)させ、地域の発展(はってん)を促進(そくしん)することです。具体的(ぐたいてき)な職務内容(しょくむないよう)を見てみましょう。

1. 太守の職務内容

 太守は、地域内での行政(ぎょうせい)を統括(とうかつ)し、税(ぜい)の徴収(ちょうしゅう)や民衆(みんしゅう)の管理(かんり)を行いました。また、軍事面(ぐんじめん)でも責任(せきにん)を持ち、地域の防衛(ぼうえい)を担当(たんとう)しました。三国時代(さんごくじだい)は戦乱(せんらん)の時期(じき)であり、太守は軍事力(ぐんじりょく)を指揮(しき)して敵(てき)の侵攻(しんこう)に備える必要(ひつよう)がありました。さらに、財政(ざいせい)管理(かんり)も重要(じゅうよう)で、税収(ぜいしゅう)の適切(てきせつ)な運用(うんよう)や資源(しげん)の分配(ぶんぱい)を行い、地域を安定(あんてい)させるための基盤(きばん)を整えました。

 現代(げんだい)で言えば、地方(ちほう)の知事(ちじ)に加えて、警察(けいさつ)や防衛(ぼうえい)までを一手(いって)に担う「県知事(けんちじ)と県警(けんけい)トップ」を兼ねたような役職(やくしょく)に相当(そうとう)します。

2. 将軍(しょうぐん)と太守(たいしゅ)の違い(ちがい)

 「将軍(しょうぐん)」と「太守(たいしゅ)」は異なる(ことなる)役職(やくしょく)です。将軍(しょうぐん)は軍事(ぐんじ)指導者(しどうしゃ)であり、戦場(せんじょう)での指揮(しき)を執る(とる)役職(やくしょく)です。将軍(しょうぐん)は主に戦争(せんそう)や戦闘(せんとう)の際(さい)に指揮官(しきかん)として活躍(かつやく)します。一方(いっぽう)、太守(たいしゅ)は地域(ちいき)の統治(とうち)を担当(たんとう)し、政治(せいじ)、軍事(ぐんじ)、財政(ざいせい)など幅広(はばひろ)い責任(せきにん)を負っています。太守(たいしゅ)は戦場(せんじょう)で指揮(しき)を執る(とる)こともありますが、主に地域(ちいき)の安定(あんてい)を守る(まもる)ために軍事力(ぐんじりょく)を配備(はいび)する役割(やくわり)が大きい(おおきい)です。簡単(かんたん)に言うと、将軍(しょうぐん)は戦争(せんそう)の指揮官(しきかん)、太守(たいしゅ)は地域(ちいき)の最高責任者(さいこうせきにんしゃ)と言えます。

 現代(げんだい)の将軍(しょうぐん)は、国軍(こくぐん)の作戦(さくせん)部隊(ぶたい)を統括(とうかつ)する「陸軍大将(りくぐんたいしょう)」や「統合(とうごう)司令官(しれいかん)」に相当(そうとう)し、太守(たいしゅ)はそれに対して「行政(ぎょうせい)長官(ちょうかん)+治安(ちあん)担当(たんとう)+防衛(ぼうえい)責任者(せきにんしゃ)」を兼ねる(かねる)地方(ちほう)長官(ちょうかん)のような存在(そんざい)です。

3. 太守の収入(しゅうにゅう)

 太守(たいしゅ)の収入(しゅうにゅう)は主にその管轄(かんかつ)地域(ちいき)から得(え)られる税収(ぜいしゅう)や資源(しげん)から来ていました。特に農業(のうぎょう)が中心(ちゅうしん)だった三国時代(さんごくじだい)では、農民(のうみん)から徴収(ちょうしゅう)する税金(ぜいきん)が主な収入源(しゅうにゅうげん)となり、収穫物(しゅうかくぶつ)に対して課(か)された税金(ぜいきん)が地域(ちいき)の財政(ざいせい)を支えました。また、重要(じゅうよう)な資源(しげん)や物品(ぶっぴん)(例えば、鉄(てつ)や塩(しお)など)を管理(かんり)し、それを市場(いちば)で販売(はんばい)することで、太守(たいしゅ)は追加的(ついかてき)な収入(しゅうにゅう)を得ていました。太守(たいしゅ)は上司(じょうし)である中央(ちゅうおう)政府(せいふ)や皇帝(こうてい)から任命(にんめい)され、その信任(しんにん)を得(え)ることで報酬(ほうしゅう)や支援(しえん)を受ける(うける)こともありました。

 現代(げんだい)においては、太守(たいしゅ)の収入(しゅうにゅう)形態(けいたい)は「公務員(こうむいん)としての給与(きゅうよ)」に近(ちか)く、税収(ぜいしゅう)に応じた地域(ちいき)運営(うんえい)予算(よさん)の中(なか)から報酬(ほうしゅう)が支払(しはら)われる知事(ちじ)職(しょく)や高級(こうきゅう)官僚(かんりょう)と類似(るいじ)しています。

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