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呉視点三国志:周瑜の章②

200年:建安五年けんあんごねん

 陽も西に傾き始めた頃、の館には、不思議な緊張感と、静かな熱気とが満ちておりました。

 若き君主、孫権そんけん様は、居間の卓にて書をひもとかれており、そのご尊顔そんがんにはわずかに疲労の色が浮かんでおりましたが、眼差しには一分の曇りもなく、むしろ鋭き光をたたえておられました。

 その御傍おんかたわらに控えていたのは、長年主に仕え、呉を支えてきた名臣――張昭ちょうしょう様と朱治しゅち様でございます。

 両名とも、主君の一挙一動いっきょいちどうを静かに見守っておられました。

 そのとき、ふすまがすぅ、と音もなく開かれ、一人の文士が、周瑜しゅうゆ様に導かれるようにして、館へとあゆを進めてまいりました。

「主君、ただいま御前ごぜんまいられたのは魯粛ろしゅく殿とのにございます。かねてより、その見識けんしき胆力たんりょく、並々ならぬものと存じておりましたゆえ、ぜひお引き合わせ申し上げたく」

 周瑜様の言葉に、孫権様は静かに書を閉じ、面を上げられました。

 魯粛殿はその場にて、慎み深くひざを折り、深々と頭を垂れます。

「初めまして、孫権様。周瑜殿のお取り計らいにより、このような栄えある謁見えっけんの機会をたまわりました。魯粛ろしゅくと申す者にございます」

「うむ、そなたがうわさ魯粛ろしゅく殿か。周瑜殿より、たびたび名を聞いておる。遠路、ようまいられた。気を張らず、楽にしてくれ」

 孫権様がやわらかく笑まれると、魯粛ろしゅくはそのご厚意こういを受け、用意よういされた席に静かに腰を下ろしました。

「……にしても、あの周瑜殿が、これほど強くされるとは。尋常じんじょうの才ではあるまいな」

 張昭様が小声で朱治様にささやかれます。

「む……確かに。あの周公瑾しゅうこうきん殿が、これほどの自信を見せられるのは、めずらしいことだ」

 朱治様もまた、口元を引き締めて、そっと応じられました。

「静かに。殿がお話になっておられる」

 そのようにささやき交わすうち、孫権様が改めて魯粛ろしゅくに向き直りました。

「さて魯粛ろしゅく殿。周瑜殿からは、そなた、天下の情勢じょうせいを見通し、胆力においても一目ひとめ置かれる御仁ごじんと聞く。この呉の今後をうらなうにあたり、忌憚きたんなきご意見いけんを賜りたい」

 その御言葉おことばに、魯粛ろしゅく殿はゆるりと顔を上げられました。

 そのまなこには、曇りなき熱意ねついが、静かに、しかし確かに宿っておりました。

「はっ。僭越せんえつながら申し上げます。現在の天下は、かん威信いしん地に落ち、曹操そうそう殿が中原ちゅうげん席巻せっけんしております。この勢いは止まることなく、やがてこの江南こうなんへも、そのきばを向けるは必定ひっていと存じます」

「曹操の動き、無論むろん注視ちゅうしせねばなりません。しかし、江南は長江ちょうこう天険てんけんに守られております。急ぎ騒ぐ必要ひつようはございますまい」

 張昭様が、穏やかにご意見を述べられました。

「私も、同意どういいたします。下手に動けば、我らの方が疲弊ひへいいたしましょう」

 朱治様もまた、静かにうなずかれます。

「いまは堅実けんじつ地盤じばんを整え、力をたくわえるのが肝要かんようかと」

 しかし、魯粛ろしゅくはそのご意見に頷かず、まっすぐに主君を見つめたまま、口を開かれました。

「お二方ふたりのご見解けんかい、もっともにございます。されど――」

 一拍いっぱく置かれたその声は、静かなるがゆえに、なお一層いっそうの重みをびておりました。

「……それでは手遅れとなりましょう。曹操がこの地をねらむよりも先に、我らが動かねばなりませぬ」

「ほう? では、どこを狙うべきと申すか」

 孫権様が興味深きょうみぶかげに、身を乗り出されました。

「――荊州けいしゅうにございます」

 魯粛殿は、はっきりと申されました。

「あの地は、長江をやくする要衝ようしょうにして、水軍すいぐんゆうする我らにとって、戦略せんりゃくのかなめ。今このときを逃さず、それを手に入れるべきと存じます」

 張昭様が眉をせられます。

「しかし、荊州には劉表りゅうひょう殿がおられます。武力ぶりょくによる侵攻しんこうは……」

「いえ、劉表殿はすでにい、やまいを抱えておられます。後継こうけいさだまらぬまま、荊州は、いずれ曹操の手に落ちましょう」

 魯粛殿の声は静かにして、揺るぎなきもの。

「ゆえに、我らが先に動き、荊州をおさえることで、曹操の南進なんしんを防ぐかべとなるのです。そしていずれは、天下を南北に分かち、我ら呉の名を、歴史にきざむことがかないましょう」

「……天下を、二分にぶんとは……」

 孫権様は腕を組まれ、しばし沈思黙考ちんしもっこうなさいました。

 やがて、目の奥に光が灯るように、はっきりとした声で仰せになりました。

「魯粛殿。そなたの言葉、まことに我が胸の奥深くにひびいた。周瑜殿の眼に、曇りなしと、今まさに確信かくしんしたぞ」

「はっ、過分かぶんなるお言葉、身にあまりまする」

「おまえには、これからの呉をになう力がある。しっかりと、この地をかためてくれ」

 孫権の言葉には、頼もしさと期待きたいが込められておりました。

「そのご信頼しんらいに、何卒なにとぞお応えいたします」

 魯粛ろしゅくは深く頭を垂れ、誓いを新たにされました。



200年:建安五年けんあんごねん

夕焼けが西の空を赤く染める頃、魯粛ろしゅくは急ぎ足で周瑜しゅうゆ幕舎ばくしゃを訪れました。

「周瑜様、ご報告がございます」

息を切らせながら、魯粛は深々と頭を下げました。

「おお、魯粛殿か。落ち着かれよ。孫権そんけん様との謁見えっけんはいかがでしたかな?」

周瑜は、穏やかな表情で魯粛を迎えました。

「はい、おかげさまで」

魯粛は顔を上げ、言葉に熱を帯びさせました。

「孫権様に対し、かねてより考えておりました『天下二分の計』をつぶさに申し上げました」

「ほう、それは興味深い。主君は何と?」

周瑜の視線しせんが、一層鋭さを増しました。

「最初は、家臣の方々から異論も出ましたが、最後は孫権様も深くうなずいてくださいました」

魯粛は、その時の様子をありありと語ります。

「殿は、『そなたの言葉は、わしの胸に深く響いた』と仰せになり、明日よりその知恵を貸してほしいと」

「なるほど、それは素晴らしい」

周瑜の口元に、満足げな笑みが浮かびました。

「やはり、魯粛殿の才覚は並々ならぬものよ。主君も、ついに天下へのこころざしを固められたか」

「ええ。私もそう感じました。孫権様は、内に秘めたる英気をお持ちです。今回の件で、それが一層明確になったように思います」

魯粛の言葉に、周瑜は深く頷きました。

「天下二分の計……北の曹操そうそうに対抗するには、我らが水軍の力が不可欠となりますな」

その言葉を聞き、魯粛は改めて長江ちょうこう水面みなもに思いをせました。広大で豊かなこの水域こそが、呉の命脈であり、未来を切り開く鍵となる。その重要性を、周瑜もまた再認識したのでしょう。

その夜から、周瑜は水軍の改革と強化に本格的に着手しました。彼は、長年の経験と卓越たくえつした戦略眼せんりゃくがんをもって、水軍の組織編制へんせいを見直し、新たな戦術や訓練方法を導入していきます。

「水軍のかなめは、何と言っても指揮官の才覚だ」

周瑜は、そうつぶやき、思案に暮れました。多くのしょうがいる中で、誰がこの重要な役割を担うにふさわしいのか。

数日後、周瑜は一人の武将を呼び寄せました。精悍せいかんな顔つきに、鋭い眼光を持つその男の名は、凌操りょうそう

「凌操よ」

周瑜は、おごそかな声で言いました。

「そなたの勇猛果敢ゆうもうかかんな働きは、かねてより認めるところである。そこで、そなたに水軍の指揮官をまかせたい」

凌操は、その言葉に驚きと喜びを隠せません。

「周瑜様、この凌操に、そのような大役が務まりますでしょうか!」

「案ずるな。そなたの持つ胆力たんりょくと、水戦すいせんの経験こそ、今の呉に必要なものだ。水軍を鍛え上げ、わが君のために、その力を存分に発揮してくれ」

周瑜の言葉には、揺るぎない信頼が込められていました。

「はっ!この命に代えても、ご期待に応えてみせます!」

凌操は、力強くこたえました。その瞳には、新たな任務への決意が燃え盛っていました。

こうして、魯粛の進言をきっかけに、呉の水軍は新たな時代を迎えようとしていました。周瑜の指揮のもと、凌操をはじめとする将兵たちは、来るべき天下をかけた戦いに備え、日夜訓練に励むのです。長江の流れは、彼らの熱い息吹を映し出し、静かに、しかし確実に、その力を蓄えていくのでした。



200年:建安五年けんあんごねん

 時は、建安五年――。

 長江ちょうこうのほとりに新たな君主が立たれたばかりの頃のことにございます。孫策そんさく様が凶刃きょうじんに倒れ、若き弟君おとうとぎみ孫権そんけん様が、重き旗印はたじるしを引き継がれたその矢先やさきのことにございました。

 その混乱こんらん只中ただなかにあって、一人の人物が静かにその名を知られぬまま、運命うんめいとびらの前に立っておりました。名を諸葛瑾しょかつきんと申します。のち重鎮ちょうちんとなられるそのほうは、当時とうじまだ、世間せけん耳目じもくに触れることなく、静かにさいを蓄えておられたのでございます。

 さて、この男の非凡ひぼんさを、誰よりも早く見抜かれたほうがおられました。孫権そんけん様の姉君あねぎみ御夫君おっとぎみ――弘咨こうし様でございます。

 弘咨こうし様は、諸葛瑾しょかつきんの言葉少なにして沈思黙考ちんしもっこう、しかも真心まごころをもってひとに接する姿すがたを、日々の交わりのなかでご覧になり、そのに映る人物像じんぶつぞうに、深い感銘かんめいを受けておられたのでございます。

 ある弘咨こうし様はついに、その御心おこころめた思いを、孫権そんけん様の御前ごぜんにてあきかされました。

主君しゅくん、ひとえにお願い申し上げます。諸葛瑾しょかつきんというおとこ、まことにただただものにあらず――」

 その語気ごきには、日頃ひごろ冷静れいせい弘咨こうし様にはめずらしいねつが込められておりました。

「ほう。そなたがそこまで言うとはな。どのようなおとこであるか、聞かせてみよ」

 孫権そんけん様は、御座ござより少し身を乗り出され、興味きょうみを示されました。

かれは、もの本質ほんしつを射抜くするどさを持ち、その言葉ことばには虚飾きょしょくがなく、誠実一途せいじついっと。しかも他者たしゃことをよく聴き、おのれ思慮しりょを深めることにけております。主君しゅくんにお仕えするに、これほどのさいはございませぬ」

 弘咨こうし様は一言一言ひとことひとことを選ぶように、諸葛瑾しょかつきん資質ししつを懇々(こんこん)と述べられました。

 その語りくちからは、私情しじょうを交えぬ、真に未来みらいを憂う(うれ)御心おこころが感じられました。

「ならば、会ってみるとしよう」

 孫権そんけん様は、静かにそうおこたえになり、諸葛瑾しょかつきんを召し出されることとなったのです。

 やがて、謁見えっけんに現れた諸葛瑾しょかつきんは、若き君主くんしゅまえに一歩もかず、落ち着いた声音こえおんといに答えられました。

 その語調ごちょう過不足かぶそくなく、またを尽くしたものであり、ただ理屈りくつを並べるに留まらぬ温かさがございました。

「……なるほど。弘咨こうしの言うこと、むなしからず、か」

 謁見えっけんを終えられた孫権そんけん様は、しばし思案しあんののち、満足まんぞくげにうなずかれました。

見事みごとおとこだ。我がもとに迎え入れたい」

 こうして、弘咨こうし様の慧眼けいがんと、孫権そんけん様の英断えいだんとにより、諸葛瑾しょかつきん臣下しんかとして、その歩みを始められたのでございます。

 のちに、孫権そんけん様が「諸葛子瑜しょかつ・しゆさくまつりごとみょうあり」と語られたという逸話いつわは、まさにこの出会い(であい)が起点きてんにございました。

 これは、まことが結びついたひとつの始まり――その物語ものがたりでございます。



203年:建安八年けんあんはちねん

 若き日の甘寧かんねいは、義侠心ぎきょうしんに厚い侠客きょうかくとしてその名をとどろかせておりました。やがて彼は、荊州けいしゅうおす劉表りゅうひょう傘下さんかに入るのです。しかし、劉表りゅうひょうは、甘寧かんねいが内に秘める卓越たくえつした軍才ぐんさいと、その大胆不敵だいたんふてき性格せいかく理解りかいすることができませんでした。

 当時の劉表りゅうひょう側近そっきんたちは、甘寧かんねいのような異質いしつ存在そんざい警戒けいかいしておりました。「殿との甘寧かんねいなるおとこ、いささか粗野そやに過ぎまする」。「ああいうものは、いつきばくかわかりませぬ」。「重用ちょうようするなど、もってのほかでございます」。彼らは口々にそう進言しんげんしたのです。そのため、甘寧かんねい劉表りゅうひょうの下で重要じゅうよう任務にんむを与えられることもなく、その才能さいのう十分じゅうぶん発揮はっきする機会きかいに恵まれませんでした。

 甘寧かんねいは、自らのさいが認められないことに深い不満ふまんいだき、鬱々(うつうつ)とした日々を送っておりました。よるになれば、ともせているものたちに向かって、彼はよくこうかたったといいます。「こんな狭苦せまくるしい場所ばしょくすぶっているなど、まるで鳥籠とりかごなかに閉じ込められたとりと同じだ」。その鋭い眼光がんこうは、常に遠いそら見据みすえておりました。「いつか必ず、この窮屈きゅうくつ場所ばしょからび出して、あの広大こうだい大空おおぞらを思う存分おもいぞんぶん羽搏はばたいてみせる」。

また、甘寧かんねいは、同じく黄祖こうそ配下はいかにあった蘇飛そひというおとこ親交しんこうがありました。蘇飛そひもまた、黄祖こうそにその才能さいのうを認められておりませんでした。「なあ、蘇飛そひ殿どの」。あるよるさけかわしながら、甘寧かんねいは重いくちひらきました。「われらは一体いったい、いつまでこんなところでくすぶっていなければならぬのか」。蘇飛そひ苦笑くしょうしながらこたえます。「甘寧かんねい殿どのあせるでない。真の英雄えいゆうは、ときつものよ」。しかし、甘寧かんねい納得なっとくがいきません。「ときつ、か。だが、このままでは、わしのさいび付いてしまうぞ!」。二人は互いの不遇ふぐうなげい、いつか必ずや機会きかいを得て、その秘めたる才能さいのう天下てんかしめすことを固く誓いちかいあったとされております。

 結局けっきょく甘寧かんねい劉表りゅうひょうもと見切みきりをつけ、あらたな主君しゅくん孫権そんけん配下はいかとなるみちえらびます。劉表りゅうひょうもとでの不遇ふぐう経験けいけんは、甘寧かんねいにとって大きな挫折ざせつでありましたが、そのくやしさが、のちの彼の目覚ましい飛躍ひやく原動力げんどうりょくになったとえるでしょう。長江ちょうこうの流れ(ながれ)のように、甘寧かんねい人生じんせいは、ここから大きくうごすのです。

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