呉視点三国志:周瑜の章①
189年:中平6年
廬江郡舒県の空は青く澄み、春風が家々の瓦をなでておりました。
その日、人々の間でひときわ話題になっていたのは、一人の少年でした。
「見たか?あの美貌、あの気品!まさしく“美周郎”よ」
「しかも頭も切れるとか……天が二物も三物も与えたとは、ね」
その名は――周瑜。
彼は、江東の名族・周家の嫡男として生を受けました。家系は代々、尚書令や太尉といった国家の重職を担い、朝廷でも一目置かれる存在でした。
周瑜の高祖父は尚書令。従祖父と従父は太尉。いずれも国の命運を左右するほどの官職にあった人物です。このような環境に育った彼は、幼いころから儒教の経典をそらんじ、礼楽を正しく備えた少年として知られていました。
ある春の昼下がり。学舎の一角で、若き周瑜は書を閉じ、空を仰ぎました。
「――つまらぬ。知識だけでは、世は動かぬな」
隣に座っていた同輩が苦笑します。
「周郎、また大げさなことを……。そんなことを言うのは、お前くらいだ」
「学問は確かに大切だ。だが、それだけでは世の乱れを正せぬ。剣と策、両方あってこそ」
そう言って、周瑜は立ち上がりました。その背筋はすらりと伸び、長身の体格に柔らかな絹衣がよく映えていました。
その容貌は、眉は剣のごとく、目は星のごとく輝いていました。華やかな中にも静けさを湛え、そこに居るだけで人目を惹きつける――まさしく「美周郎」の異名に相応しい風格です。
その夜。邸宅に戻った周瑜は、祖父と囲碁を打ちながら語りました。
「祖父上、わたくし、このまま朝廷で官を目指すのは、些か肌に合わぬように思います」
老翁は一手を置き、周瑜を見つめます。
「ほう。それはまた、どうしてかね?」
「今の都は、権門が腐り、民は嘆いております。礼儀と法の力だけでは、あの乱れを治すには遠い。私は、もっと広い場で人を導きたいのです」
老翁は黙って頷きました。その瞳には、誇らしさと一抹の寂しさが交錯していました。
「お前は……誰よりも、周の名を大きくするだろうな」
こののち、周瑜は江南へと下り、やがて孫策と運命的な出会いを果たします。
それは、ただの名門の御曹司にとどまらぬ――歴史を動かす英雄「周瑜」の目覚めの序章だったのです。
189年:中平6年
周瑜が幼少期を過ごした廬江郡舒県「現在の安徽省合肥市舒城県」は、長江と淮河に挟まれた戦略的な要地であり、交通・軍事・文化のいずれにも重要な位置を占めていました。温暖な気候と肥沃な土地に恵まれ、米や麦、豆類の二毛作が行われ、漁業や林業も盛んで、物資の流通も活発でした。
この地域は中原文化と呉越文化の交差点にあたり、住民は農耕を基盤としながらも武勇を重んじる、質実剛健な気風を持っていました。郷土を大切にし、家族の絆を重んじる風土が根づいていたため、周瑜のような名家の子弟にとっては、礼節と誇りを身につけるのに適した環境だったといえます。
また、舒県周辺では儒教教育が広がりつつあり、名族の家々では五経や史書を教える私塾が存在しました。周瑜もその中で教養を深め、優れた弁舌と礼儀作法を早くから身につけていたと考えられます。一方で、江南特有の風雅な風習もあり、祭礼や宴では笛や太鼓にあわせて民謡が歌われ、舞が舞われるなど、芸能や音楽も人々に親しまれていました。
こうした文化的な土壌に育まれた周瑜は、堂々たる体躯と整った容貌から「美周郎」と呼ばれ、その名は郷里のみならず広く知られるようになります。自然の美しさと人情の厚さ、学問と武芸が共存する舒県の風土こそが、彼の気品と胆力を育んだのでしょう。
200年:建安五年
白布を垂らした幔幕が、無風の空間に微かに揺れておりました。香炉から立ちのぼる煙が静かに天へと昇り、ひとすじの道のように空へ続いております。
堂の中央には、黒漆塗りの棺が静かに置かれておりました。
棺の中には、すでに冷たくなった孫策の遺体――かつて「小覇王」と呼ばれた若き雄将が、整えられた装束のまま、静かに眠っております。享年二十六。あまりにも早すぎる死でございました。
祭壇の前に並ぶのは、孫家に仕えてきた文武の重臣たち――張昭、周瑜、張紘、程普、黄蓋。誰ひとり言葉を発する者はなく、ただ黙してその若き主君の死を悼んでおります。
喪服に身を包んだ孫権は、棺の前に膝をつき、動こうとはしませんでした。
「兄上……なぜ……なぜ、我らを置いて逝ってしまわれたのですか……」
震える声。張り裂けそうな悲しみを押し殺すように、唇を噛みしめております。
その背に、張昭が静かに近づきました。
「……殿下。策殿は、生前こう仰せでございました。『もし我に何かあれば、仲謀を補け、江東を守ってほしい』と」
孫権は顔を上げました。涙に濡れたその瞳に、強さと決意の片鱗が浮かび始めております。
「……兄上が……我に……国を託されたのですね……」
周囲の者たちは皆、頭を垂れておりました。孫策の遺言は、生前に交わされたものであり、その全てを語ることはできぬとしても、確かに遺志は残されていたのです。
その傍らには、周瑜が立っておりました。彼は棺に歩み寄り、手を合わせ、静かに語りかけました。
「……伯符。そなたが見た夢、中原への道……今はまだ霞んで見えぬが、必ずや我らが成し遂げてみせよう。お前の志、決して死なせはせぬ……」
周瑜の声は、震えておりました。沈黙が訪れ、祭壇の香の煙がまた一筋、静かに天を目指しました。
列席する者たちは皆、口を閉ざしたまま涙を拭い、下を向いております。
その中には、孫尚香の姿もございました。兄の死を受け入れきれぬまま、ただまっすぐに棺を見つめております。
「……兄上……どうして……我を置いていってしまったのですか……」
傍には、大喬が静かに佇んでおりました。声を出すことも、涙を流すこともなく、ただ無言で夫の棺を見守っております。
「お方様……」と、妹の小喬がそっと肩に手を置きましたが、大喬はただ静かに首を振りました。
哀しみは、言葉では尽くせぬものでございました。
やがて、張紘が声を上げました。
「時は来たり。殿下――この孫家の柱を受け継ぐべきは、もはやあなただけにございます。江東の民、将兵、そして我らは、皆、殿下の下に集うべき時と心得ております」
孫権は目を閉じ、長く深く息を吐きました。
「……兄上。弱き我を、なぜこの地に残されたのですか……」
しかし、次の瞬間、彼はまっすぐに顔を上げ、しっかりとした声で言いました。
「皆の者。……我が兄の志を継ぎ、この江東を守り抜く。いかなる苦難があろうとも、後には退かぬ」
その言葉に、列席の将たちは皆、頭を垂れて応えました。
張昭、張紘、周瑜、そして老将程普・黄蓋――誰もがその瞬間、孫策の死を「終わり」とはせず、「始まり」として受け止めたのでございます。
その夜、葬列は松明に照らされて、静かに江のほとりへと向かいました。
孫策の魂は、香の煙とともに風に乗り、やがて東南の空へと消えていきました。
そして――後に言われる「孫呉」という大国の、真の礎がここに築かれたのでございます。
200年:建安五年
柴桑の館は、深い静寂に包まれておりました。風ひとつなく、庭の竹林さえ息を潜めるようです。
孫策様――若き覇王が世を去ってより、まだ幾許も経たぬというのに、時だけが無慈悲に流れておりました。
主の不在を最も痛感させる場所――かつて孫策様が日々を過ごされた私室にて、若き新主、孫権様は、重臣たちを招集なさっておりました。
室内には、未だ香の残り香が漂っております。それはまるで、英傑の魂がそこに留まっているかのような気配でございました。
集まったのは、張昭、張紘、程普、黄蓋、孫賁、韓当、そして周瑜――いずれも孫家を古くから支えてきた名臣でございます。
彼らの眼差しは厳しくも温かく、その胸にはそれぞれに深い悲しみを宿しておりました。
孫権様は、皆を見回すと、ゆっくりと口を開きました。
「……皆、よくぞ来てくれた。兄上が旅立たれてから、私は……この胸の整理がつかぬままだ。だが……それは、皆も同じであろうな」
誰もが静かに頷きました。沈黙が、重く張り詰めております。
「だが……いつまでも嘆いていては、兄上に顔向けができぬ。兄上が築き上げたこの江東を、今度は我らが守る番である。私は……その責を負う覚悟を決めた」
その言葉に、空気が僅かに揺らぎました。
沈黙を破ったのは、張昭殿――孫策様の代より政務を担ってきた智将にございます。
「若様。その御覚悟、しかと承りました。亡き御兄君の御志を継ぎ、この老骨、命尽きるまでお支えいたします」
張昭殿の声音には、深い敬意と不動の決意が宿っておりました。
すぐさま程普殿――勇将にして忠義一徹の老将が、前へ進み出ました。
「殿。戦場に生き、戦場に死ぬのが我らの定めにございます。この老兵、最後の血の一滴までも、殿のために使い尽くしてご覧に入れましょう」
その後ろで、黄蓋殿が重々しく頷き、拳をぐっと握り締めました。
「ふっ……老いぼれとは申せ、まだまだ老兵のしぶとさ、捨てたものではありませぬぞ。いざという時は、わしが一番槍を務めてご覧にいれまする!」
孫賁殿――孫策様の従兄にして、飄々(ひょうひょう)とした将は、冗談めかした口調で言いました。
「殿。何なりとお申し付けください。無理難題でも、孫家の血が通っておりますゆえ、根性だけはございますぞ。……ただし、責任は張昭殿に押し付けさせていただくやも」
その一言に、張昭殿は軽く咳払いをされました。
「余計な押し付けはご遠慮願いたいものですな。そのような案件は張紘殿に願います」
「そんな…ご無体な」
場に一瞬、薄氷を割るような笑いが広がりました。
それは、重苦しさをわずかに和らげる、確かな結束の証でございました。
韓当殿――無骨ながら忠誠篤い将は、静かに一歩進み出ると、鋭い眼差しで申し上げました。
「殿。命の使いどころを、今ここに得ました。この命、殿の御命令ひとつにて……ただちに差し出しましょう。それこそが、我が忠義にございます」
その凛とした声に、孫権様は重ねて深く頷かれました。
「……皆の言葉、しかと聞いた。感謝する」
そして、視線はただ一人――周瑜殿へと向けられました。
彼こそ、孫策様の無二の親友にして、比類なき才知と胆力を備えた名将にございます。
「公瑾……兄上は、常にそなたを信じておられた。私もまた、そうである。そなたの知略、胆力、何よりも……この江東への深き愛情。我が国の柱とならねばならぬのは、そなたなのだ」
その言葉を真正面から受け止め、周瑜殿はしばし沈黙ののち、静かに頭を下げました。
「……若様。亡き孫策様の御恩、未だ我が心に深く刻まれております。そして、江東の未来を守る責任もまた。周瑜、命を賭して、殿をお支えいたします」
「ふむ。よい返答だ」
孫権様は、わずかに笑みを浮かべられました。その笑みの奥には、青年らしい迷いと、しかしそれを打ち砕こうとする覚悟の炎が、確かに灯っておりました。
「……張昭殿をはじめ、皆の頼もしき言葉を聞き、私は確信を得た。我らが心を一つにすれば、この難局――乗り越えられぬはずがない」
そして、まっすぐに一同を見据え、力強く言い切られました。
「これより先、幾多の困難が待ち受けていよう。だが、兄上がこの地に蒔いた希望の種を、大樹へと育てるために……皆で共に歩もうではないか!」
「はっ!」
一同の声は、館の天井を震わせました。
その声はまるで、孫策様の魂にも届くかのような、誓いの響きでございました。
この瞬間より、重臣たちは心をひとつにし、新たな主――孫権様を支えることを誓ったのです。
そして周瑜殿にとってそれは、単なる忠義ではございません。亡き友が遺した志を、若き獅子に託す――それが彼にとって、何よりも大切な使命となったのでございます。




