↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
24/64

呉視点三国志:周瑜の章③

203年頃:建安(けんあん)八年

長江(ちょうこう)の風が、水面(みなも)に静かな波紋(はもん)を刻んでおりました。

その岸辺(きしべ)に佇(たたず)む一人の青年(せいねん)。まだ年若(としわか)く、だがその眼(め)には深い思索(しさく)の光が宿っておりました。

名を陸遜(りくそん)。字(あざな)は伯言(はくげん)。

名門(めいもん)・陸氏(りくし)の出(い)であり、代々の学問(がくもん)と礼法(れいほう)を身(み)につけた、いわゆる江東(こうとう)の「良家(りょうけ)の子弟(してい)」にございます。

けれど、この青年(せいねん)には、書(しょ)を読むだけでは満たされぬ渇(かわ)きがありました。

それは兵(へい)の運用(うんよう)、戦(いくさ)の采配(さいはい)。知略(ちりゃく)をもって乱世(らんせい)を導く“軍略(ぐんりゃく)”への渇望(かつぼう)でございます。

その才(さい)を、いち早く見抜いたのが、呉(ご)の都督(ととく)・周瑜(しゅうゆ)でした。

ある日、周瑜(しゅうゆ)は幕舎(ばくしゃ)で文(ぶん)を読みながら、ふと筆(ふで)を止めました。

「……ふむ、海昏(かいこん)の陸伯言(りくはくげん)。なかなか面白い。」

彼(かれ)の隣(となり)で酒(さけ)を注(そそ)いでいた部下(ぶか)が、顔(かお)を上(あ)げます。

「殿(との)、その者(もの)はいかなる人物(じんぶつ)で?」

「学(がく)を修めて剣(けん)を学び、言葉(ことば)少なく、姿勢(しせい)正しき青年(せいねん)だ。だが、目(め)の奥(おく)には剣(けん)よりも鋭い光(ひかり)がある。」

「剣(けん)より鋭い目(め)……されば、戦場(せんじょう)での剣(けん)にもなりましょうな。」

周瑜(しゅうゆ)は、唇(くちびる)の端(はし)を吊(つ)り上(あ)げて笑(わら)いました。

「そうだ。育てがいのある鋼(はがね)だよ。——呼(よ)べ。話(はな)をしてみたい。」

そして、数日後(すうじつご)——。

陽光(ようこう)の差(さ)し込む庭(にわ)に、一人の青年(せいねん)が丁寧(ていねい)に頭(あたま)を下(さ)げました。

「このたびは、お招きいただき光栄(こうえい)に存じます。陸遜(りくそん)、拙(つたな)き身(み)ながらご挨拶(あいさつ)に参上(さんじょう)いたしました。」

姿勢(しせい)正しく、しかし緊張(きんちょう)の面持(おもも)ち。周瑜(しゅうゆ)はそれを見(み)て、軽(かる)く頷(うなず)きました。

「よい挨拶(あいさつ)だ。だが、この呉(ご)では頭(あたま)を下(さ)げるより、剣(けん)を振(ふ)るう方(ほう)が役(やく)に立つぞ。」

陸遜(りくそん)が戸惑(とまど)いを浮(う)かべると、周瑜(しゅうゆ)は軽(かる)やかに笑(わら)います。

「冗談(じょうだん)だ。だがな、陸遜(りくそん)——おぬしは書(しょ)を読み、礼(れい)を学(まな)び、世(よ)の筋(すじ)を知(し)っている。あとは戦(いくさ)を知(し)れば、完璧(かんぺき)だ。」

「戦(いくさ)……ですか?」

「ああ。策(さく)は紙(かみ)に描(えが)くだけでは絵空事(えそらごと)だ。火(ひ)の粉(こ)が飛(と)ぶ中(なか)でこそ、知略(ちりゃく)は本物(ほんもの)になる。」

そう言(い)って周瑜(しゅうゆ)は、庭(にわ)の石机(いしづくえ)に図(ず)を広(ひろ)げました。戦(いくさ)の布陣図(ふじんず)です。

「見(み)よ。これはかつて呂蒙(りょもう)と訓練(くんれん)した江夏(こうか)攻略(こうりゃく)の布陣(ふじん)。敵(てき)の動きをどう読む?」

陸遜(りくそん)は図(ず)に目(め)を落(お)とし、黙(だま)して考(かんが)えました。そして、ゆっくりと口(くち)を開(ひら)きます。

「敵(てき)はここ——北(きた)の高地(こうち)を確保(かくほ)するでしょう。川(かわ)を背(せ)にしては不利(ふり)と見(み)て。」

「おお!」

周瑜(しゅうゆ)の眉(まゆ)が上(あ)がりました。

「続けてみよ。」

「では、我(わ)が方(ほう)は兵(へい)の一部(いちぶ)を陽動(ようどう)として南(みなみ)へ送り、本隊(ほんたい)は夜(よる)にこの丘(おか)を越(こ)え、後方(こうほう)から挟撃(きょうげき)を……」

言葉(ことば)が終(お)わらぬうちに、周瑜(しゅうゆ)は手(て)を打(う)ちました。

「見事(みごと)だ! 地形(ちけい)を読み、敵(てき)の心理(しんり)を掴(つか)んでいる。やはり、ただの学徒(がくと)ではないな。」

陸遜(りくそん)は、ほんの僅か(わずか)に頬(ほお)を紅(あか)くしました。

「身(み)に余(あま)るお言葉(ことば)にございます。ですが、戦場(せんじょう)を知らぬ若輩(わかばい)ゆえ……ご指導(しどう)いただければ幸い(さいわい)です。」

周瑜(しゅうゆ)は微笑(びしょう)しながら立(た)ち上(あ)がります。

「ならば、共(とも)にゆこう。おぬしに戦(いくさ)の光(ひかり)と影(かげ)、そのすべてを見(み)せてやる。」

こうして、陸遜(りくそん)は周瑜(しゅうゆ)の薫陶(くんとう)を受けることとなりました。

その後(そのご)、陸遜(りくそん)は孫権(そんけん)に召(め)されて仕官(しかん)します。

海昌屯田都尉(かいしょうとんでんとい)、定威校尉(ていいこうい)などを歴任(れきにん)し、民政(みんせい)と軍政(ぐんせい)の両面(りょうめん)において才(さい)を発揮(はっき)しました。

筆(ふで)と剣(けん)。礼(れい)と軍略(ぐんりゃく)。

そのすべてを併(あわ)せ持(も)つ、若き知将(ちしょう)・陸遜(りくそん)。

彼(かれ)の物語(ものがたり)は、今(いま)まさに始(はじ)まったばかりでございます。



203年頃:建安(けんあん)八年

 初夏の風が水面を叩き、夏口(かこう)の城砦に戦の火が上がりました。孫権(そんけん)は父・孫堅(そんけん)や兄・孫策(そんさく)の仇、黄祖(こうそ)を討つため、大軍を率いて江夏(こうか)へと進軍いたしました。

 その先鋒に立ったのが、凌操(りょうそう)でございます。猛将として名高く、若き孫権に忠義を尽くすその姿は、兵たちの士気を大いに鼓舞いたしました。

「黄祖め、ようやくこの手で仇を討てる日が来たか。奴の首はこの槍で貫いてくれましょうぞ!」

 凌操(りょうそう)は笑みを浮かべ、長槍を手に船首へと立ちました。強風にたなびく旗のもと、孫呉(ごんご)の舟師が怒涛のごとく夏口(かこう)を目指して突き進んでゆきます。

 その一方、黄祖(こうそ)軍の側でも、ただならぬ気配を察した者がございました。

「ふむ……あれが噂の孫家(そんけ)の船団か。なるほど、数も勢いもなかなかのものだ」

 水辺に立つ男の名は甘寧(かんねい)。その眼光は鋭く、腰に佩(は)いた弓は使い込まれて銀色の光を放っておりました。

「俺が出ねば、奴らの先鋒は止まるまい。凌操(りょうそう)――お前の名、耳にはしておるぞ。ここで討ち取って、名を挙げるとしようか」

 川が二軍の間を隔てる中、ついに両軍は激突いたしました。鼓が打ち鳴らされ、矢が空を覆います。水軍の戦いは混沌とし、波間に幾百の小舟がぶつかり合うさまは、まさに地獄絵図でございます。

 その混戦の中、両軍の視線をさらうように、凌操(りょうそう)の船が敵の陣形へ切り込みました。

「我が槍を見よ! 孫家(そんけ)の怒り、思い知れい!」

 吶喊(とっかん)とともに凌操(りょうそう)の長槍が敵兵を薙ぎ払います。次々と舟を乗り越えて進む姿は、猛虎(もうこ)のごとき迫力でございました。

 だが、その時――。

「ほう。ずいぶん元気の良い奴が来たな。ちと冷やしてやるか!」

 甘寧(かんねい)が漕ぎ寄せた小舟の上から、矢をつがえました。その動きは無駄がなく、まるで風そのものでございます。

「甘寧(かんねい)か――この凌操(りょうそう)が相手してくれるわ!」

 船が交錯する刹那(せつな)、二人は目を合わせました。まさしく、天が選んだような一騎打ちでございました。

 凌操(りょうそう)の槍がうねり、甘寧(かんねい)の弓が風を裂きます。

 刹那(せつな)の交錯――!

 甘寧(かんねい)は素早く身を低くし、舟の縁を蹴って宙に舞いました。そして、凌操(りょうそう)の隙を見逃さず、弦を引き絞ります。

「討たせてもらうぞ、孫家(そんけ)の将よ!」

 鋭い矢が放たれました。まるで雷(いかづち)のような一撃が、凌操(りょうそう)の胸を貫きます。

「ぐっ……!」

 血が舞い、槍が手を離れました。凌操(りょうそう)の身体がゆらりと揺れ、次の瞬間、舟の上に崩れ落ちました。

 周囲が静まり返りました。孫呉(ごんご)の兵たちの口からは、驚きと怒りが漏れます。

「将軍が……凌操(りょうそう)将軍が討たれた……!」

 しかし甘寧(かんねい)は、その場で勝ち誇ることなく、矢を収めてひとり呟きました。

「凌操(りょうそう)よ……見事な武勇(ぶゆう)だった。貴様を討てたこと、俺の誇りだ」

 戦いは続きましたが、凌操(りょうそう)の死は孫呉(ごんご)に大きな衝撃を与えました。その勇猛なる戦死は、後に語り継がれることとなるのでございます。



207年:建安(けんあん)十二年

長江(ちょうこう)は、今日も青く、力強く流れています。その雄大な水面を切り裂くように、数百艘(すうひゃくそう)の軍船が並びます。甲板の上では、水軍の兵たちが声を張り上げ、懸命に訓練に打ち込んでいます。櫂(かい)を操る腕は引き締まり、漕ぎ出すたびに水面が白くはじけました。

その中心に立つのは、周瑜(しゅうゆ)・字(あざな)は公瑾(こうきん)――若き都督(とどく)にして、稀代(きだい)の軍略家です。音楽と詩を愛する風雅(ふうが)な将でありながら、その軍才は比類(ひるい)なきものがあります。孫策(そんさく)亡き後は、孫権(そんけん)に最も信頼される参謀(さんぼう)として、呉(ご)を支え続けています。

その周瑜が、鋭い眼差しで戦船の一つに視線を走らせました。

「……おや、また周泰(しゅうたい)が、槍(やり)を振るっておりますな。まるで槍で水を割ろうとしているような勢いです」

そう呟(つぶや)いたのは、古参(こさん)の都督・程普(ていふ)です。齢(よわい)五十を越えた歴戦(れきせん)の勇将(ゆうしょう)で、剛毅(ごうき)な人柄と実直(じっちょく)な気性(きしょう)で知られています。孫堅(そんけん)時代から仕え、数多(あまた)の戦をくぐり抜けた武将(ぶしょう)です。

周瑜は笑みを浮かべながら応じました。

「周泰は元・水賊(すいぞく)の頭領(とうりょう)。戦場ではいつも先頭に立ち、傷(きず)を厭(いと)わず敵陣(てきじん)を斬り崩す。あの気迫(けはく)こそ、軍の士気(しき)を支える柱(はしら)にございます」

「ふむ……だが、あれでは敵より先に櫂を折ってしまいそうですな。武勇(ぶゆう)に任せて突っ走るだけでは、勝てぬ戦もある」

程普は太い腕を組み直し、もう一隻(いっせき)の軍船へと視線を移しました。そこには蒋欽(しょうきん)の姿がありました。

「蒋欽もまた元・水賊。だがあやつは冷静(れいせい)沈着(ちんちゃく)。まるで水面下(すいめんか)を泳ぐ魚(うお)のように、動きが読めませぬな」

「お褒めにあずかり光栄(こうえい)です、程普殿(ていふどの)」

いつの間にか背後にいた蒋欽が、にやりと口元をゆるめました。彼は周泰とは対照的に、理知的(りちてき)で緻密(ちみつ)な将です。戦況(せんきょう)を見極める目と、部下(ぶか)を束ねる手腕(しゅわん)は、まさに水軍に不可欠(ふかけつ)な存在(そんざい)でした。

「……して、若き都督殿。これほどまでに兵(へい)を追い込んで、彼らが倒れでもしたらどうなさるおつもりで?」

程普の問いに、周瑜は真顔(まがお)で応じました。

「強き者だけを求めているのではありません。戦いとは一瞬(いっしゅん)の判断(はんだん)で命運(めいうん)が決まります。疲れた体(からだ)でも、動かねばならぬ時がある。だからこそ、鍛(きた)えるのです」

蒋欽は腕を組みながら、やや口を尖(とが)らせました。

「とはいえ、都督。張り詰めすぎれば弦(つる)は切れますぞ。兵には休息(きゅうそく)も必要(ひつよう)かと」

「ふむ、それならば程普殿(ていふどの)が真っ先に休んでくだされば、兵たちも安心して弛(ゆる)むでしょうな」

「それはならぬ。ワシが怠けると。あの世で孫堅様(そんけんさま)に怒られるからな。あのお方の一喝(いっかつ)は冥府(めいふ)からでも届く」

その場にいた将たちが思わず笑いをこぼしました。鋭い稽古(けいこ)の空気に、わずかながら和(なご)みが生まれました。

そこへ、槍を担(かつ)いだまま汗だくの周泰(しゅうたい)が現れます。

「都督(とどく)。もう一戦(いっせん)、申しつけくだされ。まだまだ身体(からだ)が火照(ほて)っておりまする!」

「火照るのはいいが、甲板(かんぱん)が燃えぬようにしていただきたいものですな」

蒋欽(しょうきん)がさらりと返すと、周泰は豪快(ごうかい)に笑い飛ばしました。

「蒋欽殿(しょうきんどの)。水の中で戦って火が出るようなら、そなたの策(さく)が甘い証(あかし)じゃな!」

「ほう、それは一理(いちり)ある……が、船(ふね)を壊(こわ)すのはやめていただきたい」

周瑜(しゅうゆ)はそのやりとりに微笑(びしょう)しながら、ふと遠くの水面に目をやりました。風(かぜ)が変わり、空気(くうき)が少し重(おも)く感じられました。

「……戦が近いようです。兵たちの目が、剣(けん)より鋭くなってきました」

「曹操(そうそう)が動くのでしょうな」

程普(ていふ)は静かに言いました。曹操は中原(ちゅうげん)の覇者(はしゃ)にして、いまや荊州(けいしゅう)に迫る勢(いきお)い。やがて必ず、呉に触れる嵐(あらし)となるでしょう。

「備えあれば憂(うれ)いなし。都督(とどく)、わしら古株(ふるかぶ)もまだまだ、若い者には負けませぬぞ」

「それは頼(たの)もしい限りです。では、皆様(みなさま)。次は夜戦(やせん)の訓練(くんれん)とまいりましょうか」

「おいおい、夜戦(やせん)とは聞いておらぬぞ!」

程普(ていふ)の抗議(こうぎ)にも耳を貸さず、周瑜(しゅうゆ)は風を切るように歩き出しました。その背(せ)には、熱(ねつ)と知略(ちりゃく)が混ざり合う若き覇気(はき)が、燃えるように宿っていました。

長江(ちょうこう)の水面は、次第に夕陽(ゆうひ)に赤く染まりつつあります。そこに集うは、英傑(えいけつ)たち。彼らの刃(やいば)が、やがて歴史(れきし)を変えてゆくことを、この時まだ誰(だれ)も知らなかったのです。



207年:建安十二年(けんあんじゅうにねん)

 夜の帳(とばり)が都督府(ととくふ)に静かに降りてまいりますと、風の音すら遠く、まるで時が止まったかのようでした。

 奥庭(おくにわ)の片隅で、小喬(しょうきょう)はひとり、草花(そうか)に囲まれながら月を仰いでおりました。白くやわらかな月光(げっこう)が、その面差(おもてざ)しをさらに静謐(せいひつ)に照らし出しています。

 そっと揺れるのは、彼女の胸の内(むねのうち)か、それとも露(つゆ)をはらんだ葉先(はさき)か——。

「……今日も、お会いできないのですね」

 誰に語るでもなく、小喬(しょうきょう)は呟(つぶや)きました。声は風に乗って、白梅(しらうめ)の枝(えだ)をかすかに揺らします。

 二人の間には、長男の周循(しゅうじゅん)、次男の周胤(しゅういん)が生まれていました。しかし、それで小喬(しょうきょう)の寂しさは癒えるものではありません。

「水軍(すいぐん)が強くなるのは、喜ばしゅうございます。でも、ほんの少しだけ……ほんの、少しだけでございますよ? わたくしは、寂しゅうございます」

 彼女の目に浮かぶのは、夫(おっと)の顔(かお)。いつから、並んで夕餉(ゆうげ)を囲めていないのでしょう。口には出さずとも、夜ごと募るのは、ただ一つの想いです。

 そんな折(おり)、庭(にわ)に足音(あしおと)が響きました。控えめながらも、どこか威厳(いげん)を湛(たた)えた足取(あしど)り。振り向けば、そこに立っていたのは、やはり——。

「小喬(しょうきょう)。遅くなった」

 周瑜(しゅうゆ)です。兜(かぶと)も甲冑(かっちゅう)も脱ぎ捨てた姿で、ようやく帰ってまいりました。

「あなた様(さま)……お疲れではありませんか?」

 小喬(しょうきょう)は立ち上がり、その顔(かお)を心配(しんぱい)そうに見つめました。夫婦(ふうふ)の間(あいだ)に横たわる静けさ(しずけさ)を破ったのは、まるで月に溶け込むような、彼女の優しい声(こえ)でした。

「訓練(くんれん)は、順調(じゅんちょう)なのでございますか?」

「ああ、順調(じゅんちょう)どころか、大いに手応(てごた)えを感じておる。周泰(しゅうたい)も蒋欽(しょうきん)も、目覚ましい働き(はたらき)を見せておるぞ」

 そう語る周瑜(しゅうゆ)の顔(かお)には、誇りと喜びが滲んでいました。その眼差(まなざ)しは、遠く戦(いくさ)の先(さき)を見据えているかのようです。

「それは、良(よ)うございますね。ええ、分かっております……」

 小喬(しょうきょう)は笑顔(えがお)を浮かべようとしましたが、頬(ほお)がわずかに膨らんでしまいます。

「けれど、たまには……わたくしとも、少しだけお話(はなし)をしてくださっても、よろしいのではございませんか?」

「……しておるつもりなのだがな」

 周瑜(しゅうゆ)はわざとらしく首(くび)をかしげて見せました。

「まさか、今こうして語らっておるのも、夢(ゆめ)だと申される?」

「夢(ゆめ)なら、ずいぶん歩いて来(き)られましたこと。汗(あせ)も、塵(ちり)も、まるで現(うつつ)でございます」

「それは失礼(しつれい)。夢(ゆめ)でも、夫(おっと)として清潔(せいけつ)でありたかった」

 言いながら、周瑜(しゅうゆ)は小喬(しょうきょう)の手(て)をそっと握(にぎ)りました。指先(ゆびさき)に触れるそのぬくもりが、ようやく夜(よる)の静寂(しじま)を破ってゆきます。

「……すまない、小喬(しょうきょう)」

 彼の声音(こわね)は、戦場(いくさば)で放つ号令(ごうれい)とはまるで別物(べつもの)でした。静かで、優しく、しかし強い意志(いし)が込められています。

「大業(たいぎょう)を成し遂げ、天下(てんか)を平らげた暁(あかつき)には、必ず共(とも)に、穏やかな(おだやかな)日々(ひび)を過ごそう。それまで、ほんの少しだけ、待(ま)っていてほしい」

「はい……」

 小喬(しょうきょう)はそっと頷(うなず)きました。その手(て)を握り返(かえ)し、顔(かお)を寄せます。言葉以上(ことばいじょう)に、触れ合う(ふれあう)ことで伝わるものがありました。

 月(つき)は変わらず、ただ静かに庭(にわ)を照らしています。その光(ひかり)の中(なか)で、二人(ふたり)の影(かげ)はぴたりと重(かさ)なり、やがて風(ふう)に溶けていきました。



207年:建安(けんあん)十二年

 この頃の中国(ちゅうごく)北部(ほくぶ)と南部(なんぶ)の違いは、食生活(しょくせいかつ)、戦い方(たたかいかた)、生活様式(せいかつようしき)の各側面(かくそくめん)で顕著(けんちょ)でした。これらの地域(ちいき)は、気候(きこう)、地理(ちり)、そして社会的(しゃかいてき)背景(はいけい)が異なり、それぞれの文化(ぶんか)や戦術(せんじゅつ)に大きな影響(えいきょう)を与(あた)えました。

◯食生活(しょくせいかつ)

 北部(魏(ぎ))は、寒冷(かんれい)で乾燥(かんそう)した気候(きこう)のため、主に小麦(こむぎ)や米(こめ)を基盤(きばん)にした食生活(しょくせいかつ)が一般的(いっぱんてき)でした。小麦粉(こむぎこ)を使(つか)った麺(めん)や粥(かゆ)、餅(もち)などが主流(しゅりゅう)で、肉類(にくるい)は豚肉(ぶたにく)、牛肉(ぎゅうにく)、羊肉(ようにく)が多(おお)く食(た)べられました。また、大豆(だいず)や野菜(やさい)が栽培(さいばい)され、保存食(ほぞんしょく)として干し肉(ほしにく)や漬物(つけもの)もよく使(つか)われました。農業(のうぎょう)が発展(はってん)し、栽培技術(さいばいぎじゅつ)が進(すす)んだことから、食文化(しょくぶんか)も多様(たよう)であり、発展(はってん)した都市(とし)では商業的(しょうぎょうてき)な食文化(しょくぶんか)が栄(さか)えていました。

 一方(いっぽう)、南部(呉(ご)・蜀(しょく))は、温暖(おんだん)で湿潤(しつじゅん)な気候(きこう)により米(こめ)が中心(ちゅうしん)の食生活(しょくせいかつ)が広(ひろ)まりました。特(とく)に米(こめ)の栽培(さいばい)が盛(さか)んで、白米(はくまい)や粳米(うるちまい)が一般的(いっぱんてき)でした。南部(なんぶ)では川(かわ)や湖(みずうみ)が多(おお)く、魚介類(ぎょかいるい)や貝(かい)が豊富(ほうふ)に取(と)れ、これらが料理(りょうり)に頻繁(ひんぱん)に使(つか)われました。また、南部(なんぶ)特有(とくゆう)の香辛料(こうしんりょう)や薬草(やくそう)が料理(りょうり)に使(つか)われ、味わい深(あじわいぶか)い料理(りょうり)が多(おお)かったと考(かんが)えられます。漁業(ぎょぎょう)が発展(はってん)し、食文化(しょくぶんか)の中心(ちゅうしん)に魚介類(ぎょかいるい)が据(す)えられていたことが特徴(とくちょう)です。

◯戦い方(たたかいかた)

 北部(ほくぶ)では、平坦(へいたん)な地形(ちけい)が広(ひろ)がっており、大規模(だいきぼ)な戦闘(せんとう)が得意(とくい)でした。特(とく)に魏(ぎ)は、集団(しゅうだん)戦闘(せんとう)を得意(とくい)とし、重装備(じゅうそうび)の歩兵(ほへい)や騎兵(きへい)を使(つか)った突撃戦(とつげきせん)が主流(しゅりゅう)でした。兵士(へいし)たちは武器(ぶき)や鎧(よろい)を重視(じゅうし)し、組織的(そしきてき)な軍事訓練(ぐんじくんれん)が行(おこな)われていました。補給線(ほきゅうせん)の確立(かくりつ)や鉄道(てつどう)、馬車(ばしゃ)などの物流(ぶつりゅう)の整備(せいび)も重要(じゅうよう)な戦術(せんじゅつ)の一環(いっかん)として活用(かつよう)されました。戦闘(せんとう)では、正面(しょうめん)からのぶつかり合いが多(おお)く、戦場(せんじょう)において兵力(へいりょく)の優位性(ゆういせい)が勝敗(しょうはい)を左右(さゆう)しました。

 南部(なんぶ)では、山地(さんち)や川(かわ)が多(おお)く、戦闘方法(せんとうほうほう)が異(こと)なりました。呉(ご)は、水軍(すいぐん)を活(い)かした戦術(せんじゅつ)を得意(とくい)とし、赤壁(せきへき)の戦い(たたかい)などで見(み)られるように、船(ふね)を使(つか)った戦闘(せんとう)が中心(ちゅうしん)でした。特(とく)に川(かわ)や湖(みずうみ)の多(おお)い環境(かんきょう)では、水上戦(すいじょうせん)が主流(しゅりゅう)となり、地形(ちけい)を活(い)かした戦術(せんじゅつ)が勝利(しょうり)の鍵(かぎ)となりました。また、蜀(しょく)は山岳地帯(さんがくちたい)を活(い)用(よう)した戦い方(たたかいかた)が特徴(とくちょう)で、防衛戦(ぼうえいせん)や伏兵戦術(ふくへいせんじゅつ)を得意(とくい)としました。北部(ほくぶ)に比(くら)べて、騎兵(きへい)の使用(しよう)は控えめで、歩兵戦(ほへいせん)が多(おお)かったといえるでしょう。

◯生活様式(せいかつようしき)

 北部(ほくぶ)では、漢族(かんぞく)の伝統的(でんとうてき)な生活様式(せいかつようしき)が色濃(いろこ)く残(のこ)り、都市部(としぶ)には高度(こうど)な建築技術(けんちくぎじゅつ)が発展(はってん)しました。魏(ぎ)の都(みやこ)である許昌(きょしょう)や洛陽(らくよう)では、政治(せいじ)と文化(ぶんか)の中心(ちゅうしん)として、広大(こうだい)な都市(とし)と共(とも)に商業(しょうぎょう)や工業(こうぎょう)も発展(はってん)していました。寒冷(かんれい)な気候(きこう)に適応(てきおう)するため、衣服(いふく)は重ね着(かさねぎ)が多(おお)く、冬季(とうき)には毛皮(けがわ)などで防寒(ぼうかん)が必要(ひつよう)でした。社会(しゃかい)は儒教(じゅきょう)や法家(ほうけ)の影響(えいきょう)を受(う)け、規律(きりつ)が重(おも)んじられる家庭(かてい)や家族構造(かぞくこうぞう)が強調(きょうちょう)されていました。

 南部(なんぶ)では、温暖(おんだん)で湿潤(しつじゅん)な気候(きこう)に対応(たいおう)した生活様式(せいかつようしき)が広(ひろ)まりました。特(とく)に呉(ご)では江南(こうなん)地方(ちほう)の影響(えいきょう)を受(う)け、木造(もくぞう)の家屋(かおく)や広(ひろ)い庭(にわ)が特徴(とくちょう)です。湿気(しっけ)が多(おお)いため、衣服(いふく)は軽装(けいそう)が主流(しゅりゅう)で、涼(すず)しさを重視(じゅうし)したデザインが多(おお)く見(み)られました。蜀(しょく)では山岳地帯(さんがくちたい)に住(す)む人々の生活様式(せいかつようしき)は質素(しっそ)で、農業(のうぎょう)や自給自足的(じきゅうじそくてき)な生活(せいかつ)が営(いとな)まれていました。また、南部(なんぶ)では水田(すいでん)が多(おお)く、米作りが主要(しゅよう)な産業(さんぎょう)でした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。