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呉視点三国志:孫策の章⑩

199年:建安(けんあん)四年

 江東(こうとう)の地は、若き覇者・孫策(そんさく)によって着実に掌握されていました。彼の視線の先には、さらなる南方の平定がありました。

 しかし、その行く手を阻む二つの影がありました。廬江(ろこう)の太守・劉勲(りゅうくん)。そして、江夏(こうか)の太守・黄祖(こうそ)。

 静かな夜。孫策(そんさく)は、従兄弟である孫賁(そんほん)に向かって、低い声で語りかけました。

「劉勲(りゅうくん)を討たねば、豫章(よしょう)は安定せぬ。黄祖(こうそ)もまた、いずれは片付けるべき敵だ」。

その瞳には、すでに次の戦の炎が宿っていました。

 孫賁(そんほん)は、寡黙な男でした。しかし、その胸には熱い忠義と、研(と)ぎ澄まされた武勇が秘められていました。

孫堅(そんけん)の時代より、幾多の戦場を駆け抜けてきた歴戦の勇士です。

「孫賁(そんほん)。劉勲(りゅうくん)は、ただ力で押し切れる相手ではない。背後には、根強い地方豪族たちが控えている」。

孫策(そんさく)は、深く頷(うなず)きながら続けました。

「兵を分け、四方から包囲し、一気に叩き潰(つぶ)す」。

 孫賁(そんほん)は、短い言葉で応じました。

「はっ。殿の御意のままに」。

そして、即座に陣へと戻り、兵を率いて戦場へと向かいました。

 孫策軍(そんさくぐん)の勢いは、まさに破竹(はちく)の如(ごと)し。黄祖(こうそ)の軍勢は次々と打ち破られ、劉勲(りゅうくん)もまた、本拠地を捨てて敗走しました。

廬江(ろこう)、そして江夏(こうか)。江南(こうなん)の要衝は、瞬(またた)く間に孫策(そんさく)の掌中に落ちたのです。

 勝利の凱旋(がいせん)から間もない頃――孫策(そんさく)のもとに、意外な知らせが届きました。

「劉繇(りゅうよう)が、病(やまい)で亡くなったと?」

 かつて激しく刃(やいば)を交えた宿敵の急死。その知らせは、豫章(よしょう)の地に大きな混乱を引き起こしていました。

「今こそ、豫章(よしょう)を制する絶好の機会だ」。

 孫策(そんさく)は、戦功著しい孫賁(そんほん)を見据え、堂々たる声で命じました。

「孫賁(そんほん)、そなたを豫章太守(よしょうたいしゅ)に任じる!」

 孫賁(そんほん)は、深々と頭を下げ、その任の重さを噛み締めました。

「身に余る光栄にございます。豫章(よしょう)の安定のため、この命を懸けて尽力いたします」。

 その時、もう一人の男が進み出ました。孫賁(そんほん)の弟、孫輔(そんほ)です。

「兄上。私の兵を南昌(なんしょう)に駐屯させれば、豫章(よしょう)の平定はより確実なものとなりましょう」。

 孫策(そんさく)は、従兄弟たちの進言に耳を傾け、的確な指示を与えました。

「うむ。孫賁(そんほん)には南進の便宜を図(はか)らせよう。周瑜(しゅうゆ)にも命じ、援軍を待機させる。孫輔(そんほ)、お前は南の守りを固めよ」。

 それぞれの能力を見抜き、適材適所に配置する。孫策(そんさく)の采配には、一点の淀(よど)みもありませんでした。

 一方、別の戦線――会稽(かいけい)では、静かに、しかし着実に策が練られていました。孫策(そんさく)は、太守・王朗(おうろう)が守る堅固な固陵(こりょう)を攻略しようとしていましたが、ここで、一人の家臣が口を開きました。孫策(そんさく)の叔父にあたる、孫静(そんせい)です。

「殿。固陵(こりょう)は、容易には落ちませぬ。されど、南の査瀆(さとく)を制すれば、敵の補給路と連絡を断つことができます」。

「査瀆(さとく)、か……」。

 孫策(そんさく)は、しばし思案しました。

「確かに、そこを抑えれば、王朗(おうろう)の動きは封じられる。よし、まずは南から攻める!」。

 熟慮の末、孫策(そんさく)は即座に決断を下し、孫静(そんせい)の献策(けんさく)に従って軍を動かしました。

 そして――孫策軍(そんさくぐん)は、電光石火(でんこうせっか)の如く査瀆(さとく)を攻略。その報せは、固陵(こりょう)に籠(こ)もる王朗(おうろう)の軍に衝撃を与えました。

補給を断たれ、孤立無援となった王朗(おうろう)の防衛線は、脆(もろ)くも崩れ去ったのです。

 勢いに乗る孫策軍(そんさくぐん)は、そのまま固陵(こりょう)へと進撃。激しい攻防の末、ついにこの難攻不落の要塞を陥落させ、会稽(かいけい)の地の全てを、その支配下に収めることに成功しました。

「殿。王朗(おうろう)は教養(きょうよう)のある人物です。彼を許しましょう。配下に加える事で、他の知識人も仲間にしやすくなるでしょう」

孫策(そんさく)は、張昭(ちょうしょう)の進言(しんげん)を受け、王朗(おうろう)を赦(ゆる)しました。

「そなたの才(さい)、我(われ)が国(くに)にて活(い)かしてみせよ。」

孫策(そんさく)の言葉(ことば)に、王朗(おうろう)は深(ふか)く頭(あたま)を垂(た)れました。彼(かれ)の赦免(しゃめん)は、知識人(ちしきじん)や文官(ぶんかん)が呉(ご)に集(あつ)う契機(けいき)となり、文化(ぶんか)と政(まつりごと)の礎(いしずえ)を築(きず)くことになります。

 この一連の戦いにおいて、孫家(そんけ)の一門――孫賁(そんほん)、孫輔(そんほ)、そして孫静(そんせい)は、それぞれが重要な役割を担い、その才能を遺憾なく発揮しました。

彼らは、単なる血縁という繋がりだけでなく、有能な武将としての実力を、その戦場で証明してみせたのです。

 月明かりの下、孫策(そんさく)は静かに燃える焚き火を見つめながら、ぽつりと呟(つぶや)きました。

「孫家(そんけ)は、一族がそれぞれの力を尽くせば、いかなる強敵であろうとも、決して恐れるに足りぬ」。

 若き覇者のその言葉には、未来への揺(ゆ)るぎない覚悟が、静かに、しかし確かに宿っていました。

「たとえ、この身が朽(く)ち果てようとも、我が志は決して絶えることはないだろう……」。

 その言葉は、まるで夜空に瞬(またた)く星のように、力強く、そしてどこまでも広がっていくようでした。



199年:建安(けんあん)四年

 江東(こうとう)の地にて、太史慈(たいしじ)は孫策(そんさく)の配下としてその名を馳せておりました。彼の鋭い眼差しは、常に前方を見据え、数多の戦場でその勇名を響かせてきました。豫章郡(よしょうぐん)に駐屯し、日々の任務に邁進していた彼のもとに、また一つの試練が訪れようとしていました。

 その頃、荊州(けいしゅう)の領主・劉表(りゅうひょう)は、その支配力を確固たるものにしており、数多の武将が彼のもとに仕えていました。その一人が劉磐(りゅうばん)であり、彼は度々豫章郡(よしょうぐん)に兵を進め、孫策軍にとって脅威となっていました。

 ある日、豫章郡(よしょうぐん)の朝、太史慈(たいしじ)のもとに緊急の知らせが届きました。

「太史慈公(たいしじこう)、劉磐(りゅうばん)が数千の兵を率いて、また攻め寄せてきたとのことです!」

 太史慈(たいしじ)は一瞬、その瞳に冷徹(れいてつ)な光を宿し、ゆっくりと語り始めました。

「よし、来るなら迎え撃とう。だが、焦るな。こちらには地の利がある。それを生かすのだ」。

 彼の冷静な態度に、周囲の者たちは一瞬驚きました。数千の兵が攻め寄せるというのに、太史慈(たいしじ)は一切の焦りを見せなかったのです。

 その夜、戦(いくさ)の準備が整い、太史慈(たいしじ)は兵を率いて陣(じん)を整えました。少数の兵であるにもかかわらず、太史慈(たいしじ)の目には揺るぎない自信が漲(みなぎ)っていました。戦の場へと向かう彼の足取りは重くなく、むしろその一歩一歩に確かな意思が込められていました。

――そして、戦場(いくさば)。

 劉磐の軍が猛然(もうぜん)と攻め寄せてきたその時、太史慈(たいしじ)は冷静に指示を飛ばしました。

「まずは左翼(さよく)からの圧力(あつりょく)をかける。右からは伏兵(ふくへい)を。敵が進軍(しんぐん)し始めたら、後ろから一気に挟み撃(はさみう)ちにするのだ!」

 太史慈の弓(ゆみ)が鳴り響くと、空気(くうき)を裂く矢(や)の音が響き渡ります。敵兵の数は桁違(けたちが)いだったが、太史慈(たいしじ)は冷静に的(まと)を狙い、その弓を放った。矢はすさまじい速さで飛び、最前線(さいぜんせん)の敵兵を次々と貫(つらぬ)いていきました。敵兵の中で、矢に射抜(いぬ)かれた者が次々と倒れこみ、その数は増えていきます。

「お前たち、何をしている! 前へ進め!」

 劉磐は焦りを隠せず、部下(ぶか)に叱責(しっせき)の声を飛ばしました。しかし、太史慈の巧妙(こうみょう)な策略(さくりゃく)と弓の腕前(うでまえ)は、相手の動きを封じ込めていきます。彼の指揮(しき)する兵たちは、まるで有機的(ゆうきてき)に連携(れんけい)し、互い(たがい)に補完(ほかん)し合うかのように見えました。

「これが太史慈の戦術(せんじゅつ)か!」

と劉磐は悔(くや)しそうに叫びながら、さらに兵を進めましたが、太史慈の罠(わな)は確実に彼らを追い詰めていました。

 太史慈は弓矢(ゆみや)だけでなく、その戦術でも優れていました。敵が動きづらくなるように、地形(ちけい)を巧みに利用(りよう)して伏兵を配置(はいち)し、敵の行動範囲(こうどうはんい)を狭めていったのです。数百(すうひゃく)の兵でありながら、彼は数千の兵を持つ劉磐の軍を一歩一歩後退(こうたい)させていきました。

 戦いの中、太史慈は何度も何度も矢を放ち、敵軍(てきぐん)を引き裂いていきました。彼の冷徹な眼差し(まなざし)は、一瞬たりとも戦況(せんきょう)から目を離しませんでした。その弓は鋭く、正確(せいかく)に命中(めいちゅう)し、敵兵の士気(しき)はどんどんと低下(ていか)していきました。

 ついには、劉磐の軍は総崩(そうくず)れとなり、退却(たいきゃく)を始めました。その様子(ようす)を見届けた太史慈は、戦の終息(しゅうそく)を迎えたことを確信(かくしん)し、ようやく口を開きました。

「撤退(てったい)する者を追う必要(ひつよう)はない。無駄に命(いのち)を散らす必要はない」

 部下たちは太史慈の冷徹な指示に従い、戦場の整理を始めました。数百の兵で数千の敵を撃退(げきたい)したこの戦いは、太史慈の名を再び広めることとなりました。劉磐は、この敗北(はいぼく)によって侵攻(しんこう)を断念(だんねん)し、以後(いご)、豫章郡への攻撃は行われることはなかったと言われています。

 この戦の後、孫策(そんさく)は太史慈に対し、深い信頼(しんらい)を寄せるようになりました。

「太史慈、貴殿(きでん)のような将(しょう)は我が軍(わがぐん)にとって欠かせぬ存在(そんざい)だ」

 その言葉を耳にした太史慈は、冷静に一礼(いちれい)しながらも、心の中では誇(ほこ)りを感じていたことでしょう。彼の武勇(ぶゆう)は、戦場で証明(しょうめい)され、名実(めいじつ)ともに孫策の軍の柱(はしら)となったのでした。



199年:建安(けんあん)四年

 建安年間(けんあんねんだい)のこと、江東(こうとう)を支配していた孫策(そんさく)は、勢力を着実に拡大し、周囲の大国にとって脅威となりつつありました。一方、中原(ちゅうげん)の曹操(そうそう)は、孫策の台頭(だいとう)に警戒(けいかい)しつつも、あえて懐柔策(かいじゅうさく)を講じようと試みました。その手段(しゅだん)の一つが、孫策の従兄(いとこ)にあたる孫賁(そんほん)の娘(むすめ)と、曹操の息子(むすこ)・曹彰(そうしょう)の婚姻(こんいん)でした。

「伯符(はくふ)殿(どの)、この話、どう思う?」

孫賁(そんほん)は、静かな夜(よる)の帳(とばり)の中で、孫策(そんさく)に向かって尋ねました。彼の声(こえ)は冷静(れいせい)そのものであり、常に理性(りせい)を保っている人物(じんぶつ)であることが分かります。

 孫策(そんさく)は少し黙った後(あと)、にやりと笑みを浮かべながら答えました。

「曹操(そうそう)のやり方、相変わらず巧妙(こうみょう)だな。だが、この婚姻(こんいん)で表面(ひょうめん)上の平和(へいわ)は築けても、我々と曹操(そうそう)の間(あいだ)には根本的(こんぽんてき)な違(ちが)いがある。いずれ、戦(いくさ)の火花(ひばな)は再び散るだろう」。

「それでも、今(いま)は仕方(しかた)ない。和平(へいわ)の名(な)のもとに、少しでも時間(じかん)を稼ぐべきだ」と孫賁(そんほん)は続けました。「私たちの行く先(ゆくさき)に戦(いくさ)が待っているなら、今(いま)はそれを耐え忍(しの)ぶ時(とき)だ」

「ふむ。」

孫策(そんさく)は少し黙って考え込むと、やがて軽く肩(かた)をすくめました。

「曹操(そうそう)の息子(むすこ)、曹彰(そうしょう)が相手(あいて)なら、戦(たたか)うのも少しは面白(おもしろ)いかもしれん。あの若者(わかもの)、なかなかの武勇(ぶゆう)の持ち主(もちぬし)らしいからな」

孫賁(そんほん)は、冷静(れいせい)に

「彼(かれ)は父(ちち)に似(に)て、武勇(ぶゆう)に優(すぐ)れた人物(じんぶつ)だ。だが、それが何(なん)になる?」

と、言葉(ことば)を続けました。

「我々(われわれ)にとって最も大切(たいせつ)なのは、今(いま)の戦争(せんそう)にどう臨(のぞ)むかということだ」。

 孫策(そんさく)はしばらく無言(むごん)で彼(かれ)を見つめ、その後(あと)、ゆっくりと答えました。

「ならば、婚姻(こんいん)は表向(おもてむ)きの問題(もんだい)にすぎない。内部(ないぶ)の状況(じょうきょう)を見極めて、隙(すき)を突いて動く(うごく)。それだけだ」。

 こうして、孫賁(そんほん)の娘(むすめ)と曹彰(そうしょう)の婚姻(こんいん)は成立(せいりつ)しました。両家(りょうけ)の間(あいだ)に姻戚関係(いんせきかんけい)が結ばれ、表向(おもてむ)きには平和的(へいわてき)な関係(かんけい)が築かれました。しかし、孫策(そんさく)やその弟(おとうと)である孫権(そんけん)が着実(ちゃくじつ)に勢力(せいりょく)を拡大(かくだい)するにつれて、曹操(そうそう)との対立(たいりつ)は避けられず、再び戦火(せんか)が巻き起こるのは時間(じかん)の問題(もんだい)でした。

「結婚式(けっこんしき)、どうだった?」

ある日(ひ)、孫権(そんけん)が軽い口調(くちょう)で兄(あに)の孫策(そんさく)に尋ねました。

孫策(そんさく)はその質問(しつもん)に少し驚(おどろ)いた様子(ようす)を見せたが、すぐに笑(わら)って言(い)った。

「式(しき)など、形式的(けいしきてき)なものだな。だが、曹操(そうそう)のあの男(おとこ)、策(さく)を練(ね)ることは得意(とくい)だ。あれで、しばらくは動(うご)きを止めておくつもりだろう」。

「でも、兄上(あにうえ)、本当(ほんとう)のところはどう思う?」孫権(そんけん)は少し真剣(しんけん)な表情(ひょうじょう)を浮かべた。

「どう思うも何も、この婚姻(こんいん)で本当(ほんとう)の意味(いみ)での和解(わかい)はあり得(え)ない。曹操(そうそう)も分かっているはずだ。だが、今(いま)は戦(いくさ)の時(とき)ではない。少なくとも、平和的(へいわてき)に見せかけるのは得策(とくさく)だろう」

と孫策(そんさく)は答(こた)えた。

その言葉(ことば)を聞(き)いた孫権(そんけん)は少し考(かんが)え、そして少し呟(つぶや)いた。

「和平(へいわ)を演(えん)じるのはいいが、曹操(そうそう)がこちらを試(ため)す時(とき)が来(く)るだろう。それが、孫家(そんけ)の本当(ほんとう)の戦(たたか)いになる」

「その通(とお)りだ、弟(おとうと)よ」

と孫策(そんさく)はうなずきながら答(こた)えました。

 曹彰(そうしょう)は、曹操(そうそう)の息子(むすこ)の中(なか)でもその武勇(ぶゆう)を高く評価(ひょうか)され、「黄鬚(こうしゅう)の兒(こ)」と呼ばれるほどでした。彼の勇猛さ(ゆうもうさ)は父(ちち)・曹操(そうそう)の期待(きたい)を一身(いっしん)に背負(せお)い、将来(しょうらい)を嘱望(しょくぼう)されていました。だが、この婚姻(こんいん)が、両家(りょうけ)の真(しん)の和睦(わぼく)を築く(きずく)ことはなかったのです。

 数年(すうねん)後(ご)、孫策(そんさく)が再び中原(ちゅうげん)に対して軍(いくさ)を動かす(うごかす)ことを決意(けつい)したとき、曹操(そうそう)との対立(たいりつ)は避けられませんでした。どれだけ表向き(おもてむき)に平和的(へいわてき)に見せかけていても、戦(いくさ)は避けられない宿命(しゅくめい)だったのです。



200年:建安五年

 官渡(かんと)の地に、重く澱(よど)んだ戦雲が垂れ込めておりました。

 後漢王朝(こうかんおうちょう)の権威(けんい)は地に落ち、中原(ちゅうげん)の覇者(はしゃ)を賭けて二人の巨頭(きょとう)――曹操(そうそう)と袁紹(えんしょう)が激突(げきとつ)しました。袁紹(えんしょう)は冀州(きしゅう)、青州(せいしゅう)、幽州(ゆうしゅう)など広大(こうだい)な領土(りょうど)を支配(しはい)し、数十万(すうじゅうまん)の兵(へい)を擁(よう)しておりました。対する曹操(そうそう)は、兵力(へいりょく)で劣(おと)りながらも、献帝(けんてい)を擁(よう)して正統性(せいとうせい)を掲(かか)げ、巧(たく)みな戦略(せんりゃく)と鉄壁(てっぺき)の指揮(しき)でこの難局(なんきょく)に挑(いど)みました。

 曹操(そうそう)の本陣(ほんじん)において、一人の将(しょう)が、朱(しゅ)の鎧(よろい)を陽(ひ)に光(ひか)らせ、静かに馬上(ばじょう)で前(まえ)を見据(みす)えておりました。関羽(かんう)――字(あざな)は雲長(うんちょう)。もとは劉備(りゅうび)に仕(つか)えた忠義(ちゅうぎ)の士(し)で、兄弟(きょうだい)の契(ちぎ)りを交(かわ)した張飛(ちょうひ)とともに幾多(いくた)の戦(いくさ)を潜(くぐ)り抜けた豪傑(ごうけつ)です。今は恩義(おんぎ)によって一時(いちじ)、曹操(そうそう)に仕(つか)えておりました。

「敵将(てきしょう)、顔良(がんりょう)――突撃(とつげき)の機(き)を窺(うかが)っておりまする」

 伝令(でんれい)の声(こえ)が響(ひび)くや、関羽(かんう)は唇(くちびる)の端(はし)をわずかに吊(つ)り上(あ)げました。

「ならば、こちらから出向(でむ)いて礼(れい)を尽(つ)くすとしよう」

 言(い)うが早(はや)いか、関羽(かんう)は赤兎(せきと)の背(せな)に身(み)を委(ゆだ)ね、一閃(いっせん)のごとく敵陣(てきじん)に駆(か)け出(だ)しました。

 ――疾風(しっぷう)。地(ち)を鳴(な)らす蹄音(ていおん)。前方(ぜんぽう)には、堂々たる体躯(たいく)の顔良(がんりょう)が矛(ほこ)を構(かま)えて立(た)っていました。

「貴様(きさま)が関羽(かんう)か。曹操(そうそう)の犬(いぬ)となり果(は)てて、恥(はじ)ずかしくはないのか!」

「名(な)を遺(のこ)す者(もの)は時(とき)に、道(みち)を捨(す)てずとも身(み)を屈(くつ)する」

 関羽(かんう)が応(こた)えた刹那(せつな)――

 刃(やいば)閃(ひら)く! 顔良(がんりょう)が矛(ほこ)を繰(く)り出(だ)すも、関羽(かんう)の青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)がそれを弾(はじ)き、一太刀(ひとたち)で顔良(がんりょう)の首(くび)を討(う)ち取(と)りました。その場(ば)に居(い)合わせた袁軍(えんぐん)は騒然(そうぜん)とし、士気(しき)は大きく揺(ゆ)らぎました。

 一方(いっぽう)、袁紹(えんしょう)の本営(ほんえい)では、二人(ふたり)の男(おとこ)が火照(ほて)るような空気(くうき)の中(なか)、言(い)い争(あらそ)っていました。

「兄貴(あにき)! 雲長(うんちょう)兄貴(あにき)が顔良(がんりょう)を斬(き)っちまったぞ!どうするんだ」

 血(ち)の気(け)の多(おお)い武将(ぶしょう)、張飛(ちょうひ)が声(こえ)を荒(あら)げます。

 隣(となり)には、静かに盃(さかずき)を手(て)にする劉備(りゅうび)の姿(すがた)がありました。中山靖王(ちゅうざんせいおう)の末裔(まつえい)とされ、義(ぎ)と仁(じん)を重んじる人物(じんぶつ)です。今は袁紹(えんしょう)の元(もと)に身(み)を寄(よ)せておりました。

「張飛(ちょうひ)、落ち着け、今(いま)は機(き)を待(ま)つべきだ。機会(きかい)を図(はか)って雲長(うんちょう)と連絡(れんらく)を取(と)る。」

「そうだな。仕方(しかた)ねえ。だが劉兄ィ、曹操(そうそう)の奴(やつ)、やけに動(うご)きが鈍(にぶ)い。何(なに)か企(たくら)んでやがるな」

 張飛(ちょうひ)が吐き捨てるように言(い)うと、劉備(りゅうび)は静かに頷(うなず)きました。

「曹操(そうそう)は、兵(へい)の少(すくな)さを知恵(ちえ)で補(おぎな)う男(おとこ)だ。――不意(ふい)を突(つ)くつもりだろう」

 果たしてその予測(よそく)は的中(てきちゅう)します。曹操(そうそう)は「袁紹軍(えんしょうぐん)の兵糧食(ひょうりょうしょく)を焼(や)き払(はら)う」という奇策(きさく)を用(もち)いて袁軍(えんぐん)の糧道(りょうどう)を断(た)ち、虚(きょ)を突(つ)いて敵陣(てきじん)を炎(ほのお)に包(つつ)みました。これにより、袁軍(えんぐん)は大混乱(だいこんらん)に陥(おちい)り、潰走(かいそう)しました。

 戦(いくさ)の終(おわ)り、勝者(しょうしゃ)は曹操(そうそう)。中原(ちゅうげん)の覇権(はけん)は大きく傾(かたむ)き、劉備(りゅうび)と関羽(かんう)は、再(ふたたび)運命(うんめい)に導(みちび)かれるように離(はな)れ離(ばな)れとなるのです。

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