異世界と神の思惑
前回、創造神が、宇宙樹腐敗の原因の調査に乗り出した。
その後、創造神が取った行動とは!?
アイラが意識を取り戻したとき、最初に感じたのは背中を伝う冷たく湿った石の感触であった。
ゆっくりとまぶたを押し上げると、視界に飛び込んできたのは見慣れた王宮の天蓋ではなく、薄暗く陰気な地下牢の光景であった。
体を起こそうとしたアイラは、即座に自身の肉体に生じている異様な違和感を察知した。
視界の高さ、腕の細さ、指先の長さ、さらには流れる髪の質感に至るまで、本来の自分の姿かたちとは明らかに異なっていたのである。
「ふん、やっと目が覚めたようね、この卑しい泥棒猫の娘が」
冷え切った鉄格子の向こう側から、甲高い嘲笑交じりの声が響いた。
顔を上げると、そこには華美なドレスを身に纏い、見るからに性格の悪そうな少女が腕を組んで見下ろしていた。
少女の瞳には、底知れない悪意と見下すような優越感が満ち満ちていた。
「お父様がお優しいのをいいことに調子に乗るからよ。妾の産んだ薄汚い子供の分際で、私と同じ空気を吸えると思ったら大間違いなのよ」
少女は唾を吐き捨てるかのような勢いで罵詈雑言を並べ立てた。
「そこで精々、自分の身の程を思い知ることね。明日の処遇が決まるまで、その冷たい床で震えていなさい、エレーナ」
少女――メガーヌは言いたいことだけを一方的にまくし立てると、すっかり気が済んだのか、ドレスの裾を翻して地下牢の通路の奥へと立ち去っていった。
遠ざかる足音を聞きながら、アイラは静かに息を整えた。
罵倒の言葉から察するに、現在のこの身体はメガーヌの妹であり、妾の子供として忌み嫌われている「エレーナ」という少女のものであるらしかった。
アイラは床に腰を落ち着けると、精神を集中させて自身の精神世界へと意識を沈めた。
内なる世界へ足を踏み入れると、そこにはアイラの訪れを待っていた二つの懐かしい気配があった。
『アイラ、やっと来たわね!』
『ずっと起きて待っていたわよ。何か変なことになっているわね』
精神世界に常駐しているライラとレイラが、即座にアイラへと駆け寄ってきた。
そして、その二人の隣には、本来ここには存在するはずのないもう一人の人物が佇んでいた。
「リリア……? どうしてあなたが私の精神世界にいるの?」
アイラは驚きに目を見張った。
リリアはアイラの双子の妹であり、本来であれば現実世界に確固たる肉体を持っているはずの存在であった。
魔女の術式を用いれば精神世界への一時的な同調は不可能ではないものの、このような形で完全に同居するなど常識ではあり得ない事態であった。
「お姉様、私にも何が起きたのか分かりませんわ。気がついたら、お姉様の精神世界にいました」
リリアは困惑した表情で自身の透き通った手を握りしめた。
状況を把握するため四人で確認作業を行った結果、このエレーナの肉体を直接動かせる主導権は、依然としてアイラだけの特権であることが判明した。
一方で、精神世界に留まっているライラ、レイラ、リリアの三人は、アイラが生成する魔力分身へ意識を転移させることで外部へ干渉できることが確認された。
だが、それ以上に深刻で不可解な現象が、全員の精神に生じていた。
「……ねえ、みんな。目覚める前の世界の記憶や感情に、おかしな制限がかかっていないかしら?」
アイラの問いかけに、三人は顔を見合わせて一様に神妙な顔つきになった。
「ええ、私もよ。大切な仲間や家族の顔や名前は知識として覚えているのに、感情がすっぽりと抜け落ちているみたいだわ」
レイラが胸元を押さえながら眉をひそめた。
アイラ自身も、本来であれば心から愛してやまないはずの夫・ジュリアンに対する燃えるような恋情や愛情が極めて希薄になっており、彼と過ごした温かい思い出の数々に濃い霧がかかったように上手く思い出せなくなっていた。
リリアも同様に、最愛の婚約者であるエドワードへの感情や思い出が綺麗に薄れ、まるで他人の記録を読んでいるかのような無機質な状態に陥っていた。
愛や絆といった感情が強制的に制限され、何らかの意図によってこの世界のエレーナの肉体へと憑依させられたことは明白であった。
アイラは精神世界から意識を戻すと、エレーナの脳内に残された残留思念へと魔力を巡らせた。
大魔女としての魔術式は、肉体が変わっても何一つ失われることなく完全に機能していた。
記憶抽出の魔法によってエレーナの過去の記憶を読み取ると、この家系における冷遇や、メガーヌたちによる陰湿な虐待の記憶が次々と露わになった。
世界の理を超越し、肉体をすげ替え、記憶や感情にまで干渉できるような真似ができる存在など、アイラにはたった一人しか心当たりがなかった。
「……創造神の仕業ね。本当に碌なことをしない神様ね」
アイラは小さく呟き、やれやれと肩をすくめた。
神がどのような意図でこのような状況を作り出したのかは不明だが、嘆いていても何も始まらない。
まずは現在置かれている環境と世界の情勢を把握するため、徹底的な情報収集に専念するべきであった。
「よし、みんな。索敵と調査を開始するわよ」
アイラは両手を広げ、膨大な魔力を練り上げて術式を展開した。
術式から紡ぎ出されたのは、アイラの魔力で構成された完全自律型の魔力分身【ドッペル・アバター】であった。
アイラは目の前に四体の魔力分身を実体化させると、それぞれにアイラの複製意識、ライラの意識、レイラの意識、そしてリリアの意識を移入させた。
『よし、私は街の外を見てみるわ!』
『私は街に出てみるわ』
『ふふ、潜入調査ね。腕が鳴るわ』
『任せてください、お姉様』
四体の魔力分身たちは気配を完全に遮断し、冷たい鉄格子をすり抜けてそれぞれ四方へと飛び立っていった。
静まり返った薄暗い地下牢には、エレーナの肉体に宿るオリジナルのアイラだけが静かに残された。
アイラは青玉の瞳を冷徹に輝かせながら、反撃の時へ向けて静かに思考を巡らせるのであった。
四体の魔力分身を見送った後、冷え切った地下牢の静寂の中に残されたエレーナ――大魔女アイラは、静かに意識を集中させて索敵魔術を展開した。
薄暗い石壁を透過して広がる魔力の波長により、牢獄の周囲や階段の上層に至るまで、看守や見張りの気配が一切存在しないことを即座に確認した。
どうやら公爵家の人々は、暴力と威圧で完全に心をへし折ったエレーナが、この施錠された牢から自力で逃げ出せるはずなどないと高をくくっているようであった。
大魔女としての術式と魔力を完全に保っているエレーナにとって、物理的に閉ざされた鉄格子の鍵など存在しないも同然であった。
エレーナが指先を軽く払うと、触れることすらなく錠前の内部構造が魔力によって瞬時に組み替えられ、金属のこすれ合う小さな音とともにあっけなく解錠された。
音を立てずに鉄扉を押し開けて通路へと出たエレーナは、改めて周囲の光景を見回した。
薄暗く湿ったこのフロアには、エレーナが収容されていた牢屋のほかに人の気配はなく、投獄されているのは彼女一人だけであった。
通路の奥へ視線を向けると、石造りの壁の切れ目に、さらに下方へと続く細い螺旋階段がぽっかりと口を開けていた。
気配を完全に遮断したまま、エレーナは音もなくその階段を下っていった。
深く降りるにつれて空気はますます冷え込み、淀んだ重苦しい空気が漂う最下層のフロアへとたどり着いた。
そこは上のフロアよりもさらに狭く、頑丈な二重の鉄格子で覆われた牢屋がたった一つだけ設置されていた。
その牢の中央に、エレーナよりも年上と思われる一人の青年が力なく座り込み、両手両足を壁に打ち込まれた太い鎖によって繋がれていた。
エレーナは鍵の術式を解いて音もなく牢内へと足を踏み入れると、青年の傍らへと屈み込み、その頸部にそっと指先を当てた。
微弱ではあるものの確かな脈拍と呼吸があり、青年は衰弱しきってはいるものの、どうにか命を繋ぎ止めている状態であった。
青年の顔立ちには育ちの良さを思わせる気品が残されており、身に纏っている衣服もボロボロに引き裂かれてはいるが、元は極めて上質な仕立てのものであった。
およそ凶悪な犯罪者や粗野な罪人には見えないその佇まいと、この公爵家が持つ陰湿で独善的な性格を鑑みるに、公にはできない重要人物を秘密裏に拉致・監禁して隠していると見るのが自然であった。
現時点でこの地下牢から引き出せる情報はこれ以上ないと判断したエレーナは、青年に触れた痕跡を残すことなく、静かに元の牢屋へと引き返した。
再び鉄格子の扉を閉ざして元の鍵の状態へと戻すと、エレーナは床に腰を下ろし、夜の訪れを静かに待った。
やがて夜の帳が完全に下りた頃、外部へ潜入調査に向かわせていた四体の魔力分身たちが、鉄格子をすり抜けて次々と地下牢へと帰還した。
エレーナは実体化していた分身たちを解除し、精神世界に留まるライラ、レイラ、リリアと意識を統合させて持ち帰られた情報を整理した。
四人が共有した調査結果の中で最も衝撃的であったのは、この世界がアイラたちの暮らしていた元の世界とは完全に異なる別次元であるという事実であった。
街の外の霊脈を探り、さらにはかつての世界で隣接していた天界や魔女世界への接続を試みたものの、それらの高次元空間そのものが影も形も存在しなかったのである。
世界の物理法則や魔力分布の構造そのものが、根本から作り直されていた。
それでもなお、アイラが持ち込んだ大魔女としての魔術体系が何一つ狂うことなくそのまま機能しているという事実は、この世界を創造したのがあの迷惑極まりない創造神シン本人であることの動かぬ証拠であった。
当然ながら、大陸地図のどこを探してもヴァリエール王国の名は存在せず、愛する夫や大切な家族、仲間たちの痕跡すらも、この世界には一切見当たらなかった。
本来であれば激しい動揺や絶望に叩き落とされてもおかしくない異常事態であったが、神によって感情にかけられた制限のおかげで、不安感も不快感も完全に削ぎ落とされていた。
心が乱れることなく、ただ客観的な事実として受け止められること自体は、現在の過酷な状況において唯一の救いと言えた。
精神世界において、四人はこれからの行動方針について綿密な検討を重ねた。
「……まず最優先事項ですが、この牢獄と屋敷からの脱出ですわね」
精神世界の中から、リリアが神妙な面持ちで口を開いた。
『そうね、この公爵家に長居する理由はこれっぽっちもないわ』
レイラも腕を組みながら強く頷いた。
エレーナの脳裏に残された記憶を紐解く限り、エレーナ本人と、その生みの親であるエステルの扱いは筆舌に尽くしがたいほど悲惨なものであった。
下級貴族の令嬢が上位貴族の屋敷へと奉公に上がる行為自体は、貴族社会において決して珍しいことではない。
しかし、手を出して孕ませた妾を冷遇し、産まれた実の娘を正妻や長女の慰み者として虐待させ、果ては地下牢へと放り込むような男の器など、当主としても人間としても完全に底が知れていた。
そのような無能な当主が牛耳る屋敷に留まり続け、いずれ巻き起こるであろう失政や派閥争いのとばっちりを受けるなど、御免被るにも程があった。
まずは母親のエステルを確実に保護し、二人揃ってこの忌まわしい公爵家から完全に抜け出すことが最善手であった。
そのためには、当主の意識を魔女の術式で操り、エレーナとエステルの二人を公爵家から正式に追放――体裁のよい厄介払いとして屋敷から放逐させるのが最も手っ取り早い手段であった。
さらにエレーナは、昼間に最下層の牢獄で確認した青年の存在を脳裏に浮かべた。
街の噂やエレーナの記憶にある貴族勢力の関係図を照合した結果、あの青年は現公爵家と真っ向から敵対している名門公爵家の嫡男である可能性が極めて濃厚であった。
「ついでに、あの奥の牢屋に囚われている青年も一緒に逃がしてあげましょう」
エレーナは冷徹な光を青玉の瞳に灯しながら、小さく呟いた。
敵対派閥の最重要人物が脱走したとなれば、この公爵家には破滅的な混乱と手痛い報復が降り注ぐことになるはずであった。
それは、アイラの魂が憑依したことによって消滅してしまった本物のエレーナに対する、ささやかではあるが、手向けとなる弔いだった。
方針を固めたエレーナは、静かに立ち上がると魔力を足元へと収束させた。
「それじゃあ、まずは当主様に最初のお仕事をお願いしに行きましょうか」
エレーナは気配を完全に霧散させると、深夜の静寂に包まれた当主の執務室へと、一瞬の転移で姿を消した。
深夜の静寂に支配された公爵邸の最上階、重厚な調度品で飾られた当主執務室に、エレーナ――大魔女アイラは音もなく転移を果たした。
机上の書類を片付け終えた父親、ランドベル・アーギュスト公爵がちょうど背後を振り返ったその瞬間に合わせ、エレーナはその正面に姿を現した。
突如として虚空から現れた人影に、ランドベルは目を丸く見開いて息を呑んだが、それが地下牢へ放り込んだはずの娘であると認識するや否や、すぐに傲慢な嘲笑を浮かべて冷静さを取り戻した。
「貴様、どうやって牢から抜け出したのかは知らんが……妾腹の出来損ないが、私の部屋へ無断で足を踏み入れるなど万死に値するぞ」
ランドベルの瞳には、暴力と威圧で支配してきた娘に対する侮蔑と、自分に逆らうはずなど毛頭ないという絶対的な過信が満ちていた。
だが、その歪んだ思惑とは裏腹に、エレーナの冷徹な瞳と視線が交錯した瞬間、ランドベルの意識は急速に深い微睡みの底へと引きずり込まれていった。
エレーナは術式を静かに展開し、ランドベルの脳内へ精神操作の魔導パスを接続すると同時に、部屋の隅に控えていた専属の家令にも同様の魔術を流し込んだ。
抵抗する間すら与えられず、主従二人の瞳から生気が失われ、完全な術式の支配下へと置かれた。
エレーナは感情の起伏を一切見せない無機質な声で、直立不動の家令へ命じた。
「屋敷の離れへ向かい、エステルを誰にも気づかれぬよう速やかにこの執務室へ連れてきなさい」
「畏まりました、お嬢様」
家令は機械的な所作で一礼すると、音もなく執務室を辞していった。
続いてエレーナは、虚ろな眼差しで立ち尽くすランドベルへ冷ややかに視線を向けた。
「ランドベル・アーギュスト公爵、今すぐ公爵家の家系図と公式な名簿から、エレーナとエステルの存在を完全に抹消しなさい。私たちの血統的痕跡をすべて破棄し、最初から存在しなかった者として公爵家から正式に放逐する手続きを完了させるのです」
「……承知、いたしました……」
ランドベルは操り人形のように机へと向かい、当主の署名と公爵家の公印が刻まれた除籍文書を淀みなく作成し始めた。
さらにエレーナは、抜け目なく次なる指示を与えた。
「手切れ金として、王都から遠く離れた静かな村にある土地と屋敷を購入し、その名義をエステルへと完全に譲渡しなさい。また、私たちが一生涯不自由なく暮らせるだけの多額の金貨を用意し、無記名の魔導金庫に納めて引き渡すのです」
ランドベルの手によって、資産の譲渡証書と莫大な金貨が納められたコンパクトな魔導金庫が淡々と机上へ揃えられていった。
間もなくして家令が戻り、薄汚れた粗末な衣を纏ったエステルを執務室へと迎え入れた。
突然の呼び出しに怯えていたエステルであったが、無事なエレーナの姿と、当主が虚ろな目で書類を差し出す異様な光景を前にして、驚きに言葉を失っていた。
「お母様、もう何も心配いりません。この家から完全に自由になる手続きはすべて終わりました」
エレーナは短く告げると、エステルと金庫、そして譲渡書類を纏めて安全な外部の空間へと一時的に転移・退避させた。
これで、公爵家から脱出するための現実的な段取りは完璧に完了した。
次なる目的を果たすため、エレーナは気配を完全に遮断したまま、再び地下牢の最下層へと姿を現した。
二重の鉄格子をすり抜け、太い鎖で壁に繋がれた青年の前へと静かに歩み寄る。
人違いという初歩的な誤りを避けるため、エレーナは青年の額に指先を触れ、記憶抽出の魔術で意識の表層を素早く読み取った。
流れ込んできた記憶の断片から、彼が間違いなくアーギュスト公爵家の宿敵である名門、ダニエル・ロイマスクエル小公爵本人であることを確認した。
「間違いありませんね」
確認を終えたエレーナは、衰弱しきった青年の全身へ高位の治癒魔術を浸透させた。
魔術の光が巡るにつれて青年の傷口は瞬く間に塞がり、消耗しきっていた体力と生体機能は正常な状態へと完全に回復していった。
エレーナが指を鳴らすと、手足を拘束していた分厚い鉄の鎖が内側から砕け散り、金属片となって床へ落ちた。
やがて荒かった呼吸が整い、ダニエルがゆっくりとまぶたを押し上げて意識を取り戻した。
「……う、ここは……? 君は一体……」
困惑の声を漏らすダニエルに対し、エレーナは幻惑の魔術で自身の容姿と声の輪郭を曖昧にぼかしながら告げた。
「ロイマスクエル公爵家からの秘密裏の依頼を受け、貴方を救出に参りました。詳しい事情の説明は後回しです、ここから脱出します」
ダニエルが状況を飲み込む間もなく、エレーナは彼の手を取り、空間転移の魔術を発動させた。
牢獄の重苦しい空気は一瞬で霧散し、二人が降り立ったのは、深夜の月明かりに照らされたロイマスクエル公爵邸の正門から目と鼻の先にある路地裏であった。
見慣れた生家の豪壮な佇まいを目にしたダニエルは、信じられない面持ちで目を見張った。
「本当に、屋敷の前まで……! 礼を言わせてくれ、君は一体どこの――」
ダニエルが振り返ったときには、背後にいたはずの少女の姿は夜風とともに完全に掻き消えていた。
残されたのは、突如として無傷で生還した小公爵と、正体不明の強力な支援者が救出したという動かぬ事実だけであった。
敵対派閥の最重要人物を不法に監禁していたアーギュスト公爵家には、遠からずロイマスクエル家からの苛烈極まる報復と政治的破滅が降り注ぐことになるはずであった。
すべての布石を打ち終えたエレーナは、待たせていたエステルと合流し、夜のうちに王都を離れて購入させた静かな村へと移り住んだ。
そこは豊かな森と清らかな水に恵まれた、貴族社会の権力争いとは無縁の長閑な小村であった。
公爵家を放逐された二人の元令嬢は、こうして平穏な村人としての新しい人生を歩み始めた。
二人は村の一角に小さな薬屋を構え、日々の生活を営み始めた。
大魔女としての膨大な知識からすれば児戯に等しいものであったが、エレーナが調合する薬草茶や傷薬は驚くほどの効能を示し、村人たちから深く重宝された。
店先に立ち上る煎じた薬草の温かな湯気の中、母のエステルは穏やかな笑顔を絶やすことなく客を迎え、娘と過ごすささやかで温かな時間を心から慈しんでいた。
しかし、かつて公爵家で長年にわたり受けた冷遇と心労の代償は重く、エステルの身体は年を追うごとに確実に衰弱していった。
数年の月日が穏やかに流れたある冬の夜、エステルは静かに病床に伏した。
エレーナは、エステルの病を治すことはしなかった。
死後、アイラたちが居た世界のように、天国で本物のエレーナが待っていることを確信していたからであった。
エステルと一緒に過ごした数年の中で、アイラたちはこの世界の霊的構造を精査し、天国の存在を確認することができていた。
天界は無かったが、地獄は存在した。
しかし、地獄には悪魔は存在せず、ただ魂が洗浄されて現世へ送り出される機械的な場所だった。
そして、天国には本物のエレーナの魂が安らかに待っていたのである。
だからこそ、アイラは命の巡りを自然の理に委ねた。
ただ、この心優しい母親に一片の苦痛も味わわせまいと、穏やかな鎮痛の魔導だけは絶え間なく紡ぎ続けていた。
「エレーナ……私の優しい娘……」
かすれゆく声でエステルはエレーナの手を握りしめ、愛おしそうに微笑んだ。
エステルは、目の前にいる存在がかつて怯え震えていた本物の娘とは異なり、別の何者かが宿っていることにとうに感づいていたようであった。
それでも彼女は一度としてその疑念を口にすることはなく、最期の瞬間まで、本当の愛娘に対するものと何ら変わらぬ無償の愛情を注ぎ続けてくれたのであった。
「お母様、どうか安らかに。天国の本当のエレーナと仲良くね」
エステルの細い指先から力が抜け、静かに息を引き取ったとき、エレーナの瞳から一筋の透明な雫が零れ落ちた。
感情に課せられた神の制限を突き抜けて零れたその涙は、この世界でエレーナとして生きた数年間の証であった。
村の小高い丘にエステルを手厚く埋葬し、素朴な墓標の前で祈りを捧げた後、エレーナはゆっくりと立ち上がった。
冷涼な風に淡い亜麻色の髪を揺らすその双眸から、それまでの村娘としての穏やかさが完全に消え失せる。
そこに宿るのは、数万の軍勢をも一人で灰燼に帰す大魔女アイラの鋭利な光――世界の理すらねじ伏せる絶対的な威光であった。
本物のエレーナとエステルの無念、そして最期まで注がれた無償の愛に対する対価を考えれば、アーギュスト公爵家など物理的に粉微塵に破壊したとしてもお釣りがくるほどであった。
「……さて。お母様のお見送りも無事に終わったことだし、そろそろ始めましょうか」
エレーナが静かに意識を集中させると、内なる精神世界が波紋のように広がり、同居する三つの魂が待ち望んでいたように声を弾ませた。
『ふふ、やっと本格的に動けるのね。数年間もおとなしく薬草を煎じていたから、退屈で体が鈍りそうだったわ』
精神世界の中で、かつて世界最強と謳われた大魔女レイラが獰猛な笑みを浮かべて腕を鳴らした。
『エステルさんを最後まで苦痛なく天国へ送り届けることができたのは、本当によかったわ。アイラ、まずは何から手を付けるつもりなの?』
オリジナルであるライラもまた、穏やかな声の中に確固たる覚悟を滲ませて問いかけてきた。
『お姉様、あの忌まわしいアーギュスト公爵家が数年間でどうなったのか、そして私たちがこの世界へ放り込まれた理由を探る必要がありますわね』
妹のリリアが神妙な面持ちで理知的な分析を述べ、四人の視線が精神世界の中央で交錯した。
「ええ、みんなの言う通りよ。まずは情報収集、あのクソ公爵家の動向と、この世界の現状を確かめに行きましょう」
エレーナは薄い唇を釣り上げ、不敵な笑みを浮かべた。
肉体はこの数年間で十代半ばの瑞々しい少女へと成長していたが、その内に秘められた魔力回路はアイラの手によって完璧に再構築され、かつての大魔女としての全盛期と何一つ遜色ない領域にまで達していた。
エレーナは墓標の前で両手を胸の前に掲げ、淀みない詠唱とともに高度な魔術式を展開した。
空間が淡い黄金色の光に包まれ、四体の完全自律型魔力分身【ドッペル・アバター】が虚空から実体化して現れた。
エレーナは自身の複製意識、そして精神世界に留まるライラ、レイラ、リリアの魂をそれぞれの分身へと滑り込ませた。
四体の分身は実体と精神の同期を完了させると、エレーナと寸分違わぬ冷徹な眼差しで互いに頷き合った。
『よし、私は王都の歓楽街と裏社会の情報ギルドを片っ端から洗ってくるわ!』
『私は王城と貴族街の公文書館に忍び込んで、この世界の歴史と政治情勢を頭に叩き込んでくるわね』
『私はロイマスクエル公爵家の動向と、数年前に助けたダニエル小公爵の周辺を調査して参りますわ、お姉様』
『それじゃあ私の複製は、街全体の魔力流と、神の痕跡がないか空間の歪みを調査するわ。みんな、日暮れまでに一度情報を持ち寄りましょう』
四体の魔力分身は一瞬にして姿を光学的に消滅させ、気配と魔力を極限まで遮断したまま、王都へ向けて矢のような速度で飛翔していった。
後に残されたエレーナの本体は、数年間暮らした小さな木造の薬屋へと静かに歩を進めた。
店内に入ると、丁寧に乾燥させた薬草の香りが優しく鼻腔をくすぐった。
お世話になった村人たちに迷惑がかからぬよう、エレーナは店内に残されていた高品質な薬や軟膏を木箱にまとめ、村長宛ての短い置き手紙を机の上に添えた。
さらに、村全体を魔獣や盗賊の襲撃から永続的に守護するため、屋敷を中心として不可視の強力な結界術式を地面深くに刻み込んだ。
これだけの防壁を敷いておけば、並大抵の軍勢や高位の魔獣であっても村の敷地に指一本触れることすら叶わないはずであった。
「お母様が愛したこの村を荒らさせるわけにはいきませんからね」
エレーナは満足げに頷くと、質素な旅装へと着替えを済ませ、精神世界の仲間たちが持ち帰る報告を待つために椅子へ腰掛けた。
数時間が経過し、西の空が茜色から深い濃紺へと染まり始めた頃、王都へ潜入させていた四体の分身たちが次々と空間をすり抜けて帰還した。
分身たちを速やかに体内へと再吸収し、それぞれの記憶と視覚情報を本体へと統合したエレーナは、あまりの急展開と滑稽な結末に思わず小さく吹き出した。
『ちょっとアイラ、聞いて驚きなさいよ! あのアーギュスト公爵家、私たちが予想していた以上に胸糞悪い茶番を演じていたわよ!』
精神世界の中で、ライラが呆れ果てたように声を荒らげた。
『ええ、本当に哀れで浅ましい道化たちだわ。あいつらの面の皮の厚さには吐き気がするわね』
レイラも腕を組み、冷え切った殺気を瞳に宿しながら王都で収集した情報をエレーナの意識へ展開した。
四年前、エレーナが地下牢から救出したダニエル・ロイマスクエル小公爵は、自分を救った少女を探し求めていた。
しかし、その救出劇の手柄を横取りした厚顔無恥な女が存在した。
エレーナを地下牢で見下し嘲笑していた、アーギュスト公爵家の傲慢な長女メガーヌであった。
母親は異なるものの、メガーヌの顔立ちは妹であるエレーナと驚くほど瓜二つであった。
その容姿の酷似こそが、メガーヌがかつてエレーナを激しく憎悪し虐待していた元凶でもあったのだが、彼女はその顔を悪用したのである。
メガーヌはダニエルの前に現れ、「私が命懸けで貴方をお助けしました。けれど、その際の強烈な魔力の反動で、当時の詳細な記憶を失ってしまったのです」と、記憶喪失を装って嘘を吐き通したのだ。
命の恩人だと信じ込まされたダニエルはメガーヌに深く感謝し、二人の婚約が正式に成立してしまっていた。
『当主のランドベルも、その嘘に悪乗りしたようですわね。娘をロイマスクエル家に嫁がせ、相手の強大な権力と財産を手中に収めようと企んでいますの』
リリアが侮蔑を込めた冷やかな声で告げた。
しかし、悪人の浅知恵がそう簡単に上手くいくはずもなかった。
ロイマスクエル公爵家という巨大な権力の中枢に、成り上がりのアーギュスト家が食い込むことを激しく嫌悪する敵対勢力や親族派閥が王都には多数存在していた。
その結果、王都の裏社会では、ダニエルとメガーヌの結婚式当日に花嫁を暗殺するという具体的な計画が極秘裏に進行していたのである。
『そしてね、アイラ。ここからが一番傑作で胸糞悪いところよ』
ライラが嘲笑を浮かべて続けた。
自分に暗殺の魔の手が迫っていることを察知したメガーヌとランドベルは、恐怖に震え上がった。
そこで二人が思い出したのが、数年前に記憶操作によって厄介払いとして追放したはずの、メガーヌと瓜二つの顔を持つエレーナの存在であった。
「なるほどね。あの浅ましい親子、エレーナを呼び戻して結婚式の身代わり花嫁に仕立て上げ、暗殺者に身代わりとして殺させようと画策しているのね」
エレーナは冷たく呟いた。
自分たちは安全な場所に隠れて暗殺をやり過ごし、エレーナが殺された後にメガーヌが本物の花嫁として何食わぬ顔でダニエルの元へ戻れば、ロイマスクエル公爵家の妻の座を無傷で手に入れられるという算段であった。
現在、アーギュスト公爵家の放った捜索隊が、エレーナの行方を血眼になって追っている最中であった。
『信じられないほどのクズね! 手柄を奪った挙句、今度は身代わりにして殺そうだなんて!』
精神世界でライラが怒りを露わにした。
『ふふ、最高じゃない。向こうから喧嘩を売りに来てくれたんだもの、徹底的に叩き潰してあげましょうよ』
レイラが獰猛な笑みを浮かべ、指をポキリと鳴らした。
『お姉様、あの者たちを生かしておく理由は微塵もありませんわ。本物のエレーナへの落とし前も兼ねて、一族もろとも破滅させるべきです』
リリアも静かな殺意を込めて賛同した。
「ええ、みんなの言う通りよ。勝手に自滅するのを待つより、私たちの手で根こそぎ叩き潰した方がずっと気が晴れるわ」
エレーナの唇が残忍な弧を描いた。
さらに、アイラの複製意識が持ち帰った報告により、王都の地下深くに創造神シンの神聖魔術の痕跡と、怪しげな「託宣の聖女」を掲げる新興教団が暗躍していることも判明していた。
神が何故アイラたちをこの世界に送ったのか知るためにも、いずれ王都の中心へ乗り込む必要があった。
「公爵家の捜索隊が、ちょうどこの村の近くまで嗅ぎつけてきているわね。……ふふ、ちょうどいいわ。あいつらの身代わり計画に、乗っかってあげましょう」
あえて公爵家の手の者に捕まったふりをして連行され、結婚式の晴れ舞台に身代わり花嫁として堂々と登壇する。
そして、すべての貴族が集まるその豪壮な舞台の上で、嘘つきの姉と強欲な父親の化けの皮を剥ぎ、アーギュスト公爵家をこの世から永遠に消滅させてやるのだ。
「行きましょう。愚か者たちに、本物の大魔女の恐怖を教えてあげる時間よ」
エレーナは冷ややかに微笑み、村の入り口へと迫る追手たちを迎え撃つべく、静かに立ち上がった。
村の境界へと続く街道の並木陰から、金属鎧の擦れ合う耳障りな物音とともに、数名の武装した男たちが姿を現した。
彼らが胸元に掲げているのは、見覚えのあるアーギュスト公爵家の双剣と茨の紋章であった。
先頭に立つ隊長格の男は、質素な旅装を纏って佇むエレーナの姿を捉えるや否や、醜悪な優越感を浮かべて下卑た笑みを漏らした。
「おいおい、こんな僻地の寒村まで逃げ延びていたとはな。探す手間をかけさせやがって、この出来損ないが」
男は腰の剣帯を鳴らしながら無遠慮に歩み寄り、エレーナの顔立ちを露骨に品定めするように見下ろした。
「だが運がいいぞ、エレーナ様よ。公爵閣下が直々にお前の帰還をお望みだ。大人しく我々に同行してもらおうか」
男たちの瞳には、かつて公爵邸で虐げられていた無力な少女に対する侮蔑と、逆らうことなどできまいという絶対的な侮りが滲み出ていた。
エレーナは青玉の瞳を怯えたように細め、細い肩を大袈裟に震わせてみせた。
「お、お父様が私を……? 私はただ、母と静かに暮らしていただけで……」
か細く震えるその声と仕草は、過酷な運命に翻弄される哀れな村娘そのものであった。
しかし、その肉体の深奥に広がる精神世界の中では、全く異なる光景が繰り広げられていた。
『ぷっ……くすくす、ちょっとアイラ、迫真の演技じゃない! まるで悲劇のヒロインね!』
精神世界の中で、ライラがお腹を抱えて愉快そうに転げ回った。
『ちっ、相変わらず胸糞の悪い面相の雑魚どもだわ。あの隊長の首を今すぐへし折ってやりたいところだけど、大舞台のためなら我慢するしかないわね』
レイラが舌打ちをしつつも、獲物を狙う肉食獣のように瞳をギラつかせた。
『お姉様、見事な擬態ですわ。あの者たちは微塵も疑っておりません。王都までの護衛としてタダで使って差し上げましょう』
リリアが冷徹に状況を分析し、四人の意識は完璧な連携を保っていた。
アイラは怯える少女の仮面を被りながら、自身の胸中に渦巻く神への思索を静かに巡らせていた。
世界の理を自在に書き換え、魂を別次元の肉体へ定着させるほどの力を持つ創造神シンが、単なる悪戯や気まぐれでこのような大掛かりな仕掛けを施すはずがなかった。
自分たち大魔女の圧倒的な力、そして感情の制限――それら全ては、この世界で何らかの重大な危機に対処させるための必然的な布石である可能性が極めて高かった。
王都の地下に色濃く残る神聖魔術の痕跡と新興教団の暗躍、そしてこの身代わり劇も、神が用意した大きな盤面の一部なのかもしれなかった。
(まあ、神の真意がどうあれ、目の前の道化たちを叩き潰すことに変わりはないけれどね)
アイラは内心で冷ややかに呟き、わざとらしく怯えながら捜索隊の用意した馬車へと乗り込んだ。
「手荒な真似をしなくて助かったぜ。行くぞ、王都へ急げ!」
隊長の号令とともに馬車は猛烈な速度で発進し、エレーナの生まれ故郷であり、母エステルが眠る村を後にした。
数日間の強行軍を経て、馬車は厳重な警備が敷かれた王都の貴族街へと滑り込み、アーギュスト公爵邸の裏門をくぐった。
馬車から引きずり降ろされたエレーナが案内されたのは、かつて閉じ込められていた陰気な地下牢ではなく、贅沢な調度品で飾られた豪壮な客室であった。
部屋の扉が乱暴に開け放たれ、豪奢なシルクのドレスを身に纏った美しい少女が、取り巻きの侍女を引き連れて堂々と入室してきた。
アーギュスト公爵家の長女、メガーヌであった。
その顔立ちは、鏡を見ているのではないかと錯覚するほどエレーナと酷似していたが、纏う空気は強欲と傲慢に満ち満ちていた。
メガーヌは扇子で口元を覆い、まるで汚物を見るかのような冷淡な眼差しでエレーナを睥睨した。
「ふん、数年間野に放たれていたから、すっかり泥臭い田舎娘に成り下がったかと思えば……相変わらず虫唾が走るほど私とそっくりな顔ね」
メガーヌの背後から、威圧的な足取りで当主ランドベル・アーギュスト公爵も部屋へと姿を現した。
ランドベルは腕を組み、冷酷無比な声でエレーナへと言い渡した。
「エレーナ、お前を呼び戻したのは他でもない。数日後に執り行われるロイマスクエル公爵家との婚礼の儀において、メガーヌの身代わりとして祭壇に立ってもらうためだ」
「身代わり、ですか……? 私が、メガーヌ姉様の……?」
エレーナが怯えたように瞳を揺らすと、メガーヌが勝ち誇ったような高笑いを上げた。
「ええ、そうよ! 本来なら私のような高貴な存在が受けるべき祝福の舞台に、妾腹のあなたが立てるのよ。身に余る光栄だと涙を流して感謝なさいな」
ランドベルは冷淡に言葉を続けた。
「結婚式当日まで数日の猶予がある。お前が公爵令嬢として祭壇に立った際、歩き方や仕草一つで怪しまれては計画が台無しだ。今日から式当日まで、専属の教育係に貴族の立ち居振る舞いと所作を叩き込ませる。死に物狂いで頭に叩き込め」
ランドベルはそう吐き捨てると、部屋の周囲に私兵を配置し、エレーナを軟禁状態に置いた。
それから二日間、エレーナは形式ばかりの厳しいマナー教育を受けさせられた。
無論、王宮魔導師として洗練された宮廷作法を熟知しているアイラにとって、貴族の所作など赤子の手をひねるより容易いものであったが、わざと不慣れでぎこちない田舎娘を演じ、監視の目を欺き続けた。
そして軟禁生活の三日目の午後、息抜きの散策という名目で邸内の中庭を歩くことを許されたエレーナは、薔薇が咲き誇る小道の向こうから歩いてくる一人の青年の姿を捉えた。
凛々しい顔立ちと高貴な佇まい、そして見覚えのある濃紺の双眸――四年前、地下牢から救い出して屋敷の前まで送り届けたダニエル・ロイマスクエル小公爵その人であった。
ダニエルは今日、婚約の最終確認と顔合わせのため、初めてアーギュスト公爵邸を公式に訪問していたのである。
書面や使者を介したやり取りばかりが続いていたため、ダニエルがメガーヌと直接顔を合わせるのは本日が初めての機会であった。
供回りから少し離れ、庭園の小道を進んでいたダニエルは、前方から歩いてくるエレーナの姿を見るや否や、雷に打たれたように足を止めた。
その顔立ちは、噂に聞く婚約者メガーヌそのものであったが、纏っている質素な衣服と、冷涼で澄み渡るような気配は、公爵令嬢のそれとは明らかに異なっていた。
すれ違いざま、エレーナは青玉の瞳に微かな悪戯っぽい光を宿し、ダニエルにしか聞こえない極めて小さな声で囁いた。
「あれから無事に帰れたみたいね。あそこまで送ったのだから当然だけど」
ダニエルの息が喉の奥で詰まった。
「き、君は……!?」
ダニエルが驚愕の声を上げて振り返ったときには、エレーナは監視の侍女に急かされるようにして、静かに薔薇の生垣の奥へと姿を消していた。
(あそこまで送った、だと……!? まさか、あの夜に私を地下牢から救い出し、屋敷の前まで転移させてくれた少女なのか……!?)
ダニエルの胸に激しい動揺と疑問の嵐が吹き荒れた。
その直後、ダニエルは案内された豪華な応接室において、正式に婚約者であるメガーヌ・アーギュストと初対面を果たした。
豪奢なシルクのドレスで着飾り、扇子を揺らしながら微笑みかけてくるメガーヌの顔立ちは、先ほど中庭ですれ違った少女と驚くほど瓜二つであった。
しかし、醸し出される空気はまるで別物であった。
メガーヌの眼差しには、隠しきれない浅ましい計算高さと強欲な野心がギラギラと渦巻いていた。
ダニエルは胸中の疑念を押し殺し、穏やかな口調を装って問いかけた。
「メガーヌ嬢、四年前に私をあの暗い地下牢から救い出してくれた日のことを、今でも鮮明に覚えています。あの時の貴女の勇気には、どれほど感謝しても足りません」
するとメガーヌは、あらかじめ用意していたかのように儚げな笑みを浮かべ、わざとらしく胸元を押さえて首を横に振った。
「まあ、ダニエル様……。大変心苦しいのですが、あの救出劇の際、身に余る強大な魔力を無理に行使してしまいましたせいで、当時の記憶をすべて失ってしまっておりますの。どこで貴方様をお助けし、どうやって送り届けたのかすら、何一つ思い出せませんのよ」
メガーヌの白々しい言い草を耳にした瞬間、ダニエルの背筋に冷たい戦慄が走った。
(嘘だ……! この女は、何もかも嘘を吐いている!)
先ほど中庭ですれ違った少女は、はっきりと口にしていた。
『あそこまで送ったのだから当然』だと。
救出された場所も、送り届けた事実も、あの少女は完璧に記憶していた。
目の前で記憶喪失を装って澄ましているメガーヌとは、あまりにも決定的な矛盾が生じていた。
さらにダニエルの脳裏に、ランドベル公爵から極秘裏に持ちかけられていた「結婚式の防犯計画」が鮮やかに蘇った。
ロイマスクエル家の敵対勢力が結婚式で花嫁の命を狙っているという情報を口実に、ランドベルは「当日は姿の似た影武者を分厚いヴェールで覆って祭壇に立たせ、暗殺者をおびき出して一網打尽にする」という作戦を提案していたのだ。
全ての点と線が、ダニエルの頭の中で戦慄とともに一つに繋がった。
(そうか……! 私を命懸けで救ってくれた本物の恩人は、あの庭園にいた少女だ! メガーヌはその手柄を横取りしただけでなく、結婚式で恩人の少女を身代わりの生贄として祭壇に立たせ、暗殺者に殺させようとしているのか……!)
真実を悟ったダニエルは、湧き上がる激しい怒りと嫌悪感を完璧な貴族の微笑みの下に隠し、拳を強く握りしめた。
一方その夜、エレーナの私室では、大魔女たちによる最終準備が着々と進められていた。
部屋の施錠など、空間魔術を極めたアイラにとっては薄紙一枚の隔たりにもならなかった。
エレーナは不可視の小型偵察球を邸内へ放ち、ランドベルが他家を陥れるために交わした裏取引の密約書、メガーヌがダニエルを騙すために画策した証拠、そして暗殺計画を黙認して身代わりを始末しようとする書状の数々を、完璧な魔術写本として手元へ収集し終えていた。
『ふふふ、昼間のダニエルの顔、見た!? 完全にメガーヌの嘘を見抜いていたわね!』
精神世界の中で、ライラが愉快そうに笑い転げた。
『あいつが真実に気づいたところで、私たちのやることは変わらないわ。式場に乗り込んでくる暗殺者も、あのクズ親子も、まとめて地獄へ叩き落としてやるだけよ』
レイラが妖艶な笑みを浮かべ、獰猛に指を鳴らした。
『神聖魔術の妨害結界も完全に解析済みですわ。明日の式場は、文字通り私どもの独壇場となります』
リリアが理知的な笑みを湛えて告げた。
エレーナは静かにベッドへ横たわり、決戦の夜を静かにやり過ごした。
そして迎えた結婚式当日。
純白の豪壮なウェディングドレスを着せられ、幾重にも重なるシルクのヴェールで顔を完全に覆われたエレーナは、公爵邸の車寄せへと案内された。
そこへ現れた本物のメガーヌは、すでに移動用の地味な外套を羽織り、エレーナの姿を見て嘲笑を浮かべた。
「ふふ、よく似合っているわよ、身代わりの生贄さん。せいぜい私の代わりに、華々しく散ってちょうだい」
メガーヌはそう吐き捨てると、護衛に守られながら裏手の隠し部屋へと逃げ込んでいった。
エレーナが乗り込むよう指示されたのは、王室御用達の豪壮な儀礼用馬車であった。
この馬車には、ランドベル公爵による極めて悪辣な罠が仕組まれていた。
新郎新婦が揃って馬車で大聖堂へ向かうという名目を掲げ、敵対派閥の小公爵であるダニエルを同乗させることで、街道に潜む暗殺者たちに確実にエレーナを狙わせ、馬車ごと始末させようという算段であった。
エレーナが馬車に乗り込むと、対面の席にはすでに正装を纏ったダニエルが静かに腰掛けていた。
扉が閉ざされ、馬車が動き出すと同時に、ダニエルは周囲への警戒を払いながら身を乗り出し、切迫した声で語りかけてきた。
「……ヴェールを上げた失礼を許してほしい。君に、命に関わる重大な真実を伝えなければならないんだ」
ダニエルは真剣そのものの瞳で、エレーナの瞳をまっすぐに見つめた。
「この結婚式は、君を身代わりにして殺すための罠だ。アーギュスト公爵とメガーヌは、私を狙う暗殺者をおびき寄せる生贄として君を祭壇に立たせようとしている。そして……四年前、私をあの地下牢から命懸けで救い出してくれた本物の恩人は、メガーヌではなく君だろう?」
エレーナはヴェールの隙間から小さく吹き出し、淡い笑みを浮かべた。
「気づくのが早くて助かったわ、ダニエル様。でも、私の心配なら一切無用よ」
エレーナは澄み切った声で、事も無げに告げた。
「あのみっともない親子が何を企んでいるかも、街道や大聖堂にどんな暗殺者が待ち構えているかも、最初から全て把握しているわ。あんな雑魚の暗殺者たち程度、私の指先一つで灰にできるくらいの実力はあるのよ」
エレーナの全身から一瞬だけ漏れ出た、世界の理をねじ伏せる圧倒的な魔力の波動に、ダニエルは息を呑んで硬直した。
精神世界の中でも、三人の大魔女たちが愉快そうに声を弾ませていた。
『ふふん、小公爵様、驚いて固まっちゃったわね!』
『私たちのアイラをそこらの軟弱な令嬢と一緒にされては困るわ』
『でも、恩人を守ろうとするその気概だけは、見直して差し上げてもよろしくてよ』
ダニエルはエレーナが放つ人知を超えた神威に圧倒されながらも、拳を強く握りしめた。
(信じられないほどの力だ……。だが、どれほど強大な力を持っていようと、二度までも理不尽な悪意に晒されている恩人を、私が守らずに誰が守るというのだ)
ダニエルの瞳には、決して揺らぐことのない確固たる覚悟が宿っていた。
ダニエルは深々と息を吐き出すと、低く鋭い声でエレーナに持ちかけた。
「君の実力は理解した。だが、私にもロイマスクエル公爵家の跡継ぎとしての意地がある。アーギュスト公爵家を単に失脚させるだけでは生温い。恩人を騙り、君を生贄に捧げようとしたあの邪悪な者たちに、二度と這い上がれないほどの凄惨な滅びを与えたい。……私と手を組み、奴らを完膚なきまでに破滅させないか?」
単なる救出された令息ではない、誇りと牙を持つ一角の貴族としての覚悟に、エレーナの唇が冷酷な三日月を描いた。
「いいわね。乗ったわ、ダニエル様――最高の破滅劇に仕立て上げましょう」
エレーナは懐から、完璧に複製された魔術写本の束を取り出し、ダニエルの前に滑らせた。
「ここにはランドベルが他家を罠に嵌めた裏取引の証拠、メガーヌが貴方を騙すために画策した記録、そして今回の暗殺計画の手配書まで全て揃っているわ。貴方の政治力と兵力、そして私の魔術を合わせれば、奴らの一族郎党をこの世から跡形もなく消し去ることができるわね」
二人は走る馬車の中で、公爵親子の逃げ場を完全に塞ぎ、文字通り地獄の底へと突き落とすための冷徹かつ凄惨な破滅計画を綿密に練り上げていった。
やがて馬車は大聖堂の前へと滑り込み、厳かな停車音を響かせた。
「さあ、行きましょう。悪辣な道化たちに、身の程を教えてあげる時間よ」
エレーナは再びシルクのヴェールを下ろし、静かに馬車を降り立った。
ダニエルがその隣に寄り添い、二人は堂々たる足取りで大聖堂の巨大な扉の前へと立った。
重々しい音を立てて左右へと扉が開け放たれた。
堂内には、国王をはじめとする王族、名門貴族、そして各国の使節団が所狭しと参列し、息を呑んで新郎新婦の登場を見守っていた。
会衆の最前列には、娘をロイマスクエル家に売り渡し、邪魔な娘を暗殺者に消させようと目論むランドベル公爵が、すべてが思惑通りに進んでいると信じ込み、傲慢な笑みを浮かべて座っていた。
万雷の拍手と荘厳なパイプオルガンの調べが響き渡る中、真実を知る新郎と、すべてを灰燼に帰す大魔女――二人の復讐者は、アーギュスト公爵家に凄惨な終焉を告げる足音を響かせながら、白銀のバージンロードを一歩ずつ踏みしめて進むのであった。
荘厳なパイプオルガンの音色が天井高く響き渡る中、エレーナとダニエルは歩調を合わせて進み、豪壮な大聖堂の祭壇の前へと到達した。
祭壇の上に立つ司教が厳かに聖書を開き、国中の名門貴族と各国の使節団が息を呑んで二人を見つめる中、誓いの儀式が始まろうとしていた。
会衆席の最前列では、当主ランドベル・アーギュスト公爵が腕を組み、冷酷な嘲笑を口元に浮かべていた。
(ふん、哀れな身代わりめ。お前が暗殺者に心臓を穿たれた瞬間、我がアーギュスト公爵家の完全なる勝利が決まるのだ)
ランドベルの脳内では、エレーナが血の海に沈み、安全な別室で待機させているメガーヌが悲劇のヒロインとして再登場する青写真が完璧に描かれていた。
司教が厳かに口を開き、新郎新婦へ誓いの言葉を問いかけようとしたその瞬間、教会の高いステンドグラスが一斉に轟音を立てて粉々に砕け散った。
「死ね、ロイマスクエルの小公爵! そして忌まわしき花嫁よ!」
天窓から黒装束を纏った十数名の凶悪な暗殺者たちが、毒を塗られた抜き身の刃を煌めかせながら、祭壇の二人へ向けて一斉に急降下してきた。
堂内は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵図と化し、貴族たちの悲鳴が響き渡った。
ランドベルは内心で快哉を叫び、エレーナが無惨に切り刻まれる瞬間を今か今かと待ち構えた。
しかし、その歪んだ歓喜が成就することはなかった。
ヴェールの奥で、エレーナの薄い唇が冷ややかに三日月を描いた。
「身の程を知りなさい、羽虫ども」
エレーナが手袋を嵌めた白く細い指先を、虚空へ向けて軽く鳴らした。
不可視の絶対空間歪曲魔術が、大聖堂の壇上全域へと瞬時に展開された。
急降下していた十数名の暗殺者たちは、エレーナの頭上数メートルの空間で突如として見えない万力に捕らえられたかのように完全静止した。
彼らが握りしめていた鋼鉄の短剣やクロスボウの矢は、魔力の奔流に触れた瞬間に分子レベルで分解され、ただの鉄の粉末となって虚空へサラサラと霧散していった。
「が、あ……!? な、身体が……動かぬ……!?」
「ば、化け物……!?」
暗殺者たちは四肢を不可視の鎖でねじり上げられ、骨を軋ませる異音とともに、祭壇の床へ向けて次々と無様に叩きつけられた。
指先一つ動かしただけで凶悪な暗殺集団を無力化したエレーナの神業を前に、大聖堂内のすべての人間が息を呑み、静まり返った。
その静寂を破るように、大聖堂の重厚な正門が凄まじい轟音とともに蹴破られた。
青銀の鎧に身を包み、鋭い長槍と抜刀した剣を構えたロイマスクエル公爵家の精鋭近衛騎士団が、怒涛の勢いで聖堂内へと雪崩れ込んできたのである。
騎士団長が大聖堂の中央で剣を天へと掲げ、雷鳴のような怒号を響かせた。
「神聖なる婚礼の場を血で汚そうとした大逆の徒を包囲せよ! これより、アーギュスト公爵家による国家反逆および要人暗殺未遂の罪状を白日の下に晒す!」
完全武装の騎士たちが瞬く間に会衆席を取り囲み、床に転がる暗殺者たちを次々と魔導手錠で拘束していった。
あまりの急展開に、最前列で座っていたランドベルは血相を変えて立ち上がった。
「な、何を血迷ったことを申すか、ロイマスクエルの騎士どもめ! 婚礼の儀を冒涜する気か! 警備の不手際を棚に上げて、我が家に何を言いがかりをつけるつもりだ!」
ランドベルの怒鳴り声に対し、祭壇の上に立つダニエルがゆっくりと前へ進み出た。
ダニエルは冷酷極まりない眼差しでランドベルを見下ろし、堂内全体へと届く凛とした声を張り上げた。
「言いがかりだと? どの口がそれを言うのだ、ランドベル・アーギュスト公爵!」
ダニエルが合図を送ると、後方の扉からロイマスクエルの騎士たちに両腕を拘束された一人の少女が、惨めに引きずり出されてきた。
着飾った外套を泥で汚し、髪を振り乱して泣き喚いているのは、別室で暗殺の完了を待っていたはずの本物のメガーヌであった。
「お、お父様……! 助けて、この無礼者たちが私を……!」
「メ、メガーヌ……!? 貴様ら、我が娘に何たる狼藉を!」
取り乱すランドベルを他所に、ダニエルは懐から一束の分厚い羊皮紙を取り出し、参列者たちに見せつけるように高く掲げた。
「参列された国王陛下、ならびに諸侯の皆様にお聞きいただきたい! ここに、アーギュスト公爵家が裏社会の暗殺ギルドと交わした本日の暗殺計画の密約書、他家を罠に嵌めて陥れた裏帳簿、そして国家への反逆を証明する動かぬ証拠の数々が存在する!」
ダニエルが掲げた告発状を躊躇いなく宙へと放つと、その瞬間にエレーナがヴェールの下で微かに指先を払った。
紡がれた不可視の風魔術が幾重もの複製を生み出し、白銀の花吹雪となって大聖堂の空間を美しく舞い散った。
紙片の一枚一枚が、まるで意思を持つかのように参列した諸侯や国王の手元へと正確に舞い降りた。
書類に目を通した貴族たちから、次々と激しい怒りと驚愕のどよめきが沸き起こった。
ダニエルは容赦のない追及の言葉を突きつけた。
「アーギュスト公爵とメガーヌは、自らに向けられた暗殺の魔の手から逃れるため、数年前に家から放逐した実の娘エレーナを呼び戻し、瓜二つの容姿を利用して身代わりの花嫁として祭壇に立たせたのだ! 敵対派閥の跡継ぎである私ごと暗殺者に殺させ、厄介払いとロイマスクエル家の乗っ取りを同時に成し遂げようと企んでな!」
堂内の貴族たちから、凄まじい非難と軽蔑の視線が一斉にランドベルとメガーヌへと突き刺さった。
さらにダニエルは、震え上がるメガーヌを冷徹に指差した。
「さらにメガーヌ、貴様にはもう一つ許し難い罪がある! 四年前、私が地下牢に不法監禁されていた際、命懸けで私を救い出し、屋敷の前まで送り届けてくれた本物の恩人は――記憶喪失を装って手柄を横取りした貴様などではない!」
ダニエルがエレーナへと視線を向けると、エレーナはゆっくりと自らの手で幾重にも重なるシルクのヴェールを跳ね上げた。
現れたのは、息を呑むほどに美しい青玉の瞳を輝かせ、気品と圧倒的な魔力を漂わせる本物の恩人――エレーナの素顔であった。
「な……ば、馬鹿な……!? なぜ貴様が……!?」
腰を抜かして床へ崩れ落ちたランドベルが、恐怖に震えながら呻いた。
メガーヌもまた、かつて虐げ見下していた異母妹の圧倒的な神々しさを前に、言葉を失ってカタカタと歯の根を鳴らしていた。
精神世界の中では、大魔女たちが楽しげに声を響かせていた。
『あはははっ! 見た、あの親子の顔! まるで肥溜めに顔を突っ込んだような色をしているわよ!』
ライラが腹を抱えて大爆笑した。
『ふん、本当ならこの聖堂ごと奴らの肉片を消し炭に変えてやりたいところだけどね』
レイラが腕を組み、冷え切った笑みを浮かべた。
『ですがお姉様、大魔法で命を奪ってあげるなど、この者たちには慈悲が過ぎますわ』
リリアが冷徹な声音で理知的に告げた。
『あのような傲慢な豚たちにとって最も恐ろしいのは、死ぬことではありません。これまで誇ってきた地位も、名誉も、贅沢な財産も全て奪われ、かつて見下していた平民以下の泥水に這いつくばりながら、惨めに生き長らえることこそが最大の地獄です』
精神世界の妹の進言に、アイラは内心で深く同意した。
(そうね。一瞬で殺して楽にしてあげる義理なんて、微塵もないわ)
アイラは当初予定していた物理的な殲滅を取りやめ、この浅ましい親子を生かしたまま、地獄のどん底へと突き落とす復讐へと切り替えた。
エレーナは静かに歩みを進め、床に這いつくばるランドベルとメガーヌの前に立った。
エレーナの全身から放たれる人知を超えた大魔女の重圧に、公爵親子は呼吸すら許されず、床へ額を擦り付けた。
「メガーヌ姉様、私を身代わりの生贄として殺そうとした気分はいかが? 妾腹の泥棒猫の娘だと見下していた相手に、すべてを暴かれた感想を聞かせてほしいものね」
「ひ、ひぃぃっ……! ゆ、許して、エレーナ……! 悪かったわ、私が悪かったから……!」
涙と鼻水で化粧をぐちゃぐちゃに崩したメガーヌが、醜く哀願の声を上げた。
だが、その哀れな命乞いを遮るように、来賓席の最前列に座っていた国王が、舞い降りた証拠書類を握りしめながら重々しく立ち上がった。
「静粛にせよ!」
威厳に満ちた国王の怒号が、大聖堂の隅々まで轟き渡った。
国王は手元の書類を鋭い眼光で検分しながら、床に這いつくばるランドベルを見下ろした。
「アーギュスト公爵、貴様の弁明を聞く余地など一切ない。国家反逆、暗殺の教唆、他家への謀略、そして王室をも欺こうとした数々の大罪……断じて許し難い!」
国王は冷厳な宣告を言い渡した。
「直ちにランドベル、ならびにメガーヌから貴族籍を剥奪し、平民へと落とす! 計画に加担した者どもも含め、首謀者らは全員、北方極寒の鉱山において終身の強制労働刑に処すものとする!」
「そ、そんな……! 平民落ち……終身労働刑など……! お、お許しを、国王陛下ァァッ!」
ランドベルは絶望の叫び声を上げながら、騎士たちによって乱暴に床を引きずられていった。
「嫌よ、嫌ァァッ! 私が高貴な公爵令嬢なのよ! 鉱山で泥水すするなんて絶対に嫌ァァッ!」
メガーヌもまた、かつてエレーナへ浴びせていた罵詈雑言をそのまま自らへの呪詛として浴びせられながら、惨めな悲鳴とともに連行されていった。
二度と這い上がることのできない絶対的な破滅と、死ぬよりも過酷な終身労働の宣告。
アーギュスト公爵親子の面々は命を奪われることすら許されず、地位も名誉も全てを失い、惨めな罪人として一生を消費する運命へと叩き落とされたのであった。
だが、国王の裁断はそれだけで終わらなかった。
国王は手元の書類に視線を落とし、厳格な面持ちのまま静かに口を開いた。
「……して、この告発文書に添付された家系図と過去の除籍記録を見るに、祭壇に立つエレーナは妾腹の生まれとはいえ、間違いなくアーギュスト公爵家の正統な血を引く娘であるな」
国王の言葉に、大聖堂内の貴族たちがざわめき立った。
国王は祭壇の上のエレーナをまっすぐに見据え、威厳ある声を響かせた。
「エレーナは悪辣な陰謀を見事に打ち破り、ロイマスクエル家のみならず王国全体の混乱を未然に防ぐ大功を立てた。罪深き前当主と長女の廃嫡に伴い、アーギュスト公爵家の正当なる継承権は血統上、次女たるエレーナに帰属するものと認める! 後日、王宮において正式にエレーナへの公爵位継承の儀を執り行うものとする!」
国王の予想だにしない宣言に、エレーナは思わず青玉の瞳を丸く見開いた。
さらに国王は、隣に立つダニエルへと視線を向けた。
「そして、大罪人メガーヌとダニエル卿との婚礼は、当然ながら王命をもって完全に白紙撤回、破棄とする! その上で――四年前の恩義を結び、悪逆を挫いて国家に安寧をもたらした真の英雄たる二人、新公爵エレーナとロイマスクエル小公爵ダニエルの婚姻を、朕の名において正式に承認・許可する!」
「なっ……!?」
ダニエルが息を呑み、驚愕のあまり顔を紅潮させて絶句した。
大聖堂内は一瞬の静寂の後、国王の粋な計らいに対する割れんばかりの拍手喝采と祝福の歓声に包まれた。
しかし、その熱狂の渦の中心で、当事者の二人は完全に硬直していた。
ダニエルは狼狽しながら、隣に立つエレーナを恐縮と動揺が入り混じった眼差しで見つめた。
(ま、待ってくれ……! 恩人を救い、悪人を裁くために手を組んだはずが……私とエレーナ様が、本当に結婚することになるのか……!?)
精神世界の中では、三人の大魔女たちが大パニックに陥っていた。
『えええええっ!? ちょっと待ちなさいよ、結婚!? なんでアイラが結婚させられる流れになってるのよ!?』
『はあ!? なんでそんなことになるのよ!? あの王様正気なの!?』
『落ち着いてくださいライラお姉様、レイラお姉様。ですがアイラお姉様、これは完全に計算外の事態ですわ……公爵家の全財産と地位が手に入ったのは好都合ですが、まさか結婚まで王命で外堀を埋められるとは……どういたしますか?』
リリアは慌てふためく二人を目の当たりにして、逆に落ち着きを取り戻し、状況を分析していた。
アイラ自身も、冷徹な微笑みの裏で今後の身の振り方を模索していた。
(ちょっと……公爵家を潰して自由になり、王都の地下や神の謎をのんびり探るつもりだったのに、公爵当主の座を押し付けられた上に結婚ですって……?)
しかし、国王の決定に沸き返る大聖堂の貴族たち、そして隣で耳まで真っ赤にして固まっているダニエルを前に、今ここで大魔法をぶっ放して逃げ出すわけにもいかなかった。
エレーナは引きつりそうになる頬の筋肉を必死に抑え込み、完璧な貴族令嬢の笑みを貼り付けた。
「……謹んで、国王陛下の思し召しをお受けいたしますわ」
大聖堂に再び響き渡るパイプオルガンの調べと、止ない万雷の拍手。
当初の計画からあまりにも大きく外れ、公爵家の継承と政略結婚という巨大な枷を嵌められたエレーナは、隣のダニエルと気まずい視線を交わしながら、心の中で盛大にため息を吐き出すのであった。
国王から下された予想外すぎる王命に、大聖堂が割れんばかりの歓声と祝福の拍手に包まれる中、当事者であるエレーナとダニエルは壇上で静かに視線を交わし合っていた。
公爵位の継承については、この世界で動き回る上で権力は無いより有った方が何かと都合が良いため、アイラたちにとっても願ってもない棚ぼたであった。
しかしながら、ダニエルとの結婚に関しては正直なところ遠慮したいというのが本音であった。
とはいえ、神によって感情が制限されている現在の状態では、激昂して即座に王命を跳ね除けるほどの強い反発心や焦燥感が湧き上がってこないのもまた事実であった。
(……どうしたものかしらね)
アイラが内心で静かに思案していると、隣に立つダニエルが周囲に聞こえないよう、微かに口元だけを動かして落ち着いた声音で囁きかけてきた。
「エレーナ様、国王陛下の思し召しは国家的な儀礼と体面も兼ねたものです。今ここで無用な混乱を起こすのは得策ではありません。まずは一旦、それぞれの屋敷へ引き揚げ、状況を冷静に整理した上で今後の身の振り方を相談いたしましょう」
ダニエルの迅速かつ極めて現実的な提案に、エレーナは涼やかな笑みを浮かべて頷いた。
「ええ、それが最善ですわね。小公爵様の冷静なご判断に感謝いたしますわ」
この若さでこれほど大舞台の空気に流されず、的確な判断を下せるあたり、ダニエルは実にできる男であった。
二人は申し分のない貴族の礼儀をもって国王や参列者たちへの挨拶を済ませると、大聖堂を後にしてそれぞれの馬車へと乗り込んだ。
こうして前当主とその長女が北方の鉱山へと連行され、名実ともに新しいアーギュスト公爵家の主人となったエレーナが公爵邸へと帰還した。
馬車を降りて屋敷の豪壮な玄関ホールへ足を踏み入れると、そこには見覚えのない数名の男女が整然と直立してエレーナを出迎えた。
彼らは王宮の紋章が刻まれた豪奢な衣服を身に纏った、王宮直属の有能な文官と武官たちであった。
先頭に立つ初老の文官が一歩前に進み出て、恭しく一礼を捧げた。
「エレーナ公爵閣下、我らは国王陛下の命により派遣された補佐官でございます。急な爵位の継承により、領地経営や邸内統治に混乱が生じぬよう、当面の間閣下の手足となって実務を代行・補佐いたします」
前当主を失脚させた直後で右も左も分からない新当主の負担を考慮し、即座に有能な実務部隊を送り込んでくるあたり、国王もまた恐ろしく手回しの早いできる男であった。
(……この国の男たちは、前当主のような救いようのない無能と、恐ろしく察しのいい有能な男の二極化が進んでいるのかしらね)
エレーナは内心でやれやれと苦笑しつつ、派遣された官吏たちの手腕を遠慮なく利用することにした。
続いてエレーナは、ホールに集められた公爵邸の使用人たちと対面した。
前当主とメガーヌの失脚に怯え、処罰を恐れて震え上がっていた使用人たちの中から、エレーナに対して忠誠を誓うと名乗り出た者たちについて、エレーナは解雇することなくそのまま屋敷に残す決定を下した。
もちろん、過去に虐待を傍観していた彼らを端から信用したわけでは決してなかった。
魔術で常に監視の目を光らせておき、もしも再び裏切りの気配を見せたならば、その瞬間に最高の形で切り捨ててやればよいだけの話であった。
全員を一度に総入れ替えするのも余計な労力がかかる上に、全員が全員悪意に染まっているわけではないため、実務の継続を優先した冷徹な判断であった。
文官たちへ領地の精査を命じ、武官たちに邸内の警備体制の再編を指示し終えた頃には、西の空が深い夕闇へと沈みかけていた。
公爵執務室の豪奢な革張り椅子に腰を下ろし、ようやく一息ついたエレーナの元へ、ノックの音とともに家令が静かに姿を現した。
「失礼いたします、閣下。至急、閣下にお目通りを願いたいという来客がお見えになっております」
「来客? このような時間にアポなしで訪れる無礼者は誰かしら」
エレーナが青玉の瞳を細めて家令を観察すると、彼の瞳の奥に微かな魔力の揺らぎが生じており、精神を何者かによって緩やかに誘導されていることが見て取れた。
家令はどこか夢見心地のような表情のまま、訪問者の名を口にした。
「……シンと名乗る、白髪の青年紳士でございます」
その名を聞いた瞬間、エレーナの内に宿る大魔女たちの意識が一斉に跳ね上がった。
『ちょっと! シンって、あの創造神シンじゃないの!?』
精神世界の中で、ライラが身を乗り出して叫んだ。
『ふん、やっと顔を出しに来たわけね』
レイラが獰猛な笑みを浮かべた。
『お姉様、あの神が自ら姿を現したということは、私たちがこの世界へ送り込まれた真相が語られるはずですわ』
リリアが理知的に状況を分析し、アイラもまた深く頷いた。
「……ええ。応接室へ通しなさい。誰にも邪魔をさせぬよう、周囲の警備を下げておくように」
エレーナが命じると、家令は一礼して静かに部屋を出て行った。
エレーナは冷徹な面持ちで執務室を後にし、一階の最奥にある豪壮な応接室へと足を踏み入れた。
部屋の中央にある革張りのソファには、見覚えのある浮世離れした美貌を持つ白髪の青年――創造神シンが、我が物顔で足を組み、優雅に紅茶を味わっていた。
エレーナが入室し、周囲に音と気配を完全に遮断する大魔導結界を展開すると、シンは悪戯っぽく口元を緩めてティーカップをソーサーへと戻した。
「やあ、久しぶりだね、アイラ。……おっと、今はエレーナ公爵閣下と呼ぶべきかな? なかなか派手な結婚式のぶち壊し劇だったじゃないか。陰から楽しく見物させてもらったよ」
「軽口を叩きに来たなら、今すぐその首をへし折って差し上げますけれど?」
エレーナは冷え切った笑みを浮かべながら対面のソファへと腰を下ろし、足を組んで神を睥睨した。
「久しぶりの挨拶やこの世界の感想なんて無駄話はこれくらいにして、本題に入りましょう。どうして私たちをこの世界へ放り込んだのか、神の口から直接聞かせてもらおうじゃないの」
シンの表情から先ほどまでの軽薄な笑みがすっと消え失せ、その黄金色の双眸に神としての深遠な光が宿った。
シンは組んだ指を膝の上に置き、静かに語り始めた。
「……単刀直入に言おう。以前話した幹の世界と枝の世界、そして高接ぎを行った根本原因である、あの腐り始めた幹に関する話の続きだ」
エレーナは黙ってシンの言葉に耳を傾けた。
「君たちに理解しやすいように、神が創造する世界の概念を教えるね。実は、宇宙樹の内側は、果てしなく広大な図書館になっているんだ。そして、そこにある無数の本の一冊一冊が、それぞれ一つの世界を表している」
シンは虚空へ指先を滑らせ、淡い光の幻影を描き出した。
「本を開くと、そのページの中には無数の泡が内包されている。その泡の一つ一つが、君たちの知る幹の世界であり、そこから分岐した枝の世界たちだ。本が棚に置かれている時、中の世界は宇宙樹を構成する要素の一つ一つとして割り当てられ、宇宙樹全体の成長と共に成長していくんだよ」
エレーナは整然と展開される世界の理の構造を、驚異的な理解力で即座に脳内へ構築していった。
シンは重々しい溜息を一つ吐き出し、光の幻影を黒く濁らせた。
「そして調査の結果、アイラたちが元いた世界の本が異常をきたし、腐り始めた原因が判明した。……その腐敗の元凶こそが、他ならぬ君たち自身だったんだよ」
精神世界の中で、三人の大魔女たちが息を呑んだ。
「私たちが、世界を腐らせた原因……?」
エレーナが低く問い返すと、シンは静かに首肯した。
「君たちの魂は、滅びた世界そのもの、宇宙樹がまるごと詰め込まれていたのは知っているね? その結果、君の魂は単なる一個の生命体の枠組みを遥かに超越しているんだ。強大すぎる特異点となった君の魂の重圧に耐えきれず、元いた世界の本そのものが歪み、内側から腐敗を起こし始めていたのさ」
「だから、私たちをあの世界から引き剥がしたというわけね」
「ああ。世界崩壊を止めるための緊急避難、応急処置として君たちを別の世界へ移すしかなかった。ただその際、想定外の事態が起きてね。何故かリリアの魂とアイラの魂が、魂の根源レベルで激しく融合を始めていたんだ。引き離すこともできず、仕方がないからリリアも一緒に一つの魂として現在の肉体に放り込んだ。それが、今の君たちの状態だよ」
精神世界でリリアが自身の透き通った掌を見つめ、納得したように息を漏らした。
エレーナは青玉の瞳を細め、さらに確信へと踏み込んだ。
「……私たちの感情が希薄になっているのも、貴方の細工かしら?」
シンの問いに対する答えは、意外なものであった。
「いや、それは僕が意図的に制限したわけじゃない。ここ千年で、君たちの神としての格が上がってしまったことと、この世界を移動したことに起因している必然的な生理現象だよ」
「神格の上昇?」
「そうさ。基本的に神という上位次元の存在と、生み出された世界の内側に生きる住人とでは、抱く感情の波長が違いすぎるんだ。高次元へ至れば至るほど、個々の事象に対する執着や感情は希薄になっていくものなんだよ。まあ、世界の中へどっぷり浸かっていれば、いずれ徐々に波長が合っていき、感情も戻ってくるけれどね」
シンはそこで一度言葉を切り、真剣な眼差しでエレーナを見据えた。
「感情の話に脱線したけれど、問題はここからだ。アイラの魂そのものである宇宙樹を内包した魂は日々、神格化が進んでいる。だからこそ――この生み出された世界の中に、長時間留まり続けることができないんだ」
「留まれない、ですって?」
「ああ。今のままだと、君がこの世界に滞在できる限界時間は、およそ千年だ。千年を過ぎれば、世界の耐久限界を超えて再び宇宙樹を腐敗させかねない。だから千年の期限が来たら、君は再び違う世界へと移動しなければならないんだよ」
千年の猶予、そして世界を渡り歩く宿命。
途方もないスケールの宣告に対し、エレーナは眉一つ動かさず、冷徹にその事実を受け止めた。
「そして、その千年という時間の中で、君には本格的に神として成長してもらわなければならない。中途半端な神格のままでは、移動する先々の世界で宇宙樹を腐敗させる原因になってしまうからね」
シンは立ち上がると、ニヤリと不敵で凶悪な笑みを浮かべた。
「というわけでだ。僕と、そして後から合流する滅びた世界の神のオースンとで、アイラたちへ向けた特別プログラムを用意した。あ、ちなみに王都の地下で怪しげな教団が聖女を担いで蠢いているけれど、あれも君たちの神格を高めるための絶好の実地課題として用意しておいたから、存分に楽しんでね」
(……王都調査で見かけたあの教団、やっぱりこの駄神が絡んでいたのね)
「特別プログラム……? それに課題ですって……?」
エレーナが怪訝そうに眉をひそめた瞬間、応接室の虚空が激しく歪み、常人なら圧死しかねないほどの濃密な神気が満ちた。
しかし、神格に目覚めつつあるアイラたちにとっては、肌を撫でるそよ風ほどの違和感しか残さなかった。
シンは満面の笑みを浮かべ、高らかに宣言した。
「題して――『大魔女たちの神格活性化ブートキャンプ』の開講だ! みっちり鍛え上げて、一人前の立派な神にしてあげるから覚悟してね!」
精神世界の中で、三人の大魔女たちの絶叫と罵詈雑言が一斉に木霊した。
『ブートキャンプね。やってやろうじゃないの!』
『そうよ! 千年も待たずに今すぐそのニヤケ面を驚愕の顔に変えてあげるわ!』
『お姉様、頑張りましょう!』
新公爵としての優雅な隠遁生活や謎の究明どころか、突如として二柱の神による地獄のブートキャンプへ放り込まれることとなったエレーナは、痛む頭を片手で押さえながら、これからの波乱万丈な日々に深く長いため息を吐き出すのであった。
遂に、アイラたちが神に至る物語が始まります。
果たして、作者は、書き終われるのか!?
それでは、次話でお会いしましょう!




