極小神力の出所と波長調整
白髪の神シンが嵐のように去った翌朝、エレーナは公爵邸の広大な私室で、差し込む清々しい朝日とともに目を覚ました。
薄い麻の寝台から身を起こしたエレーナは、専属となった侍女に着替えを手伝わせると、早朝から執務室へと向かった。
国王から派遣された補佐官たちは極めて優秀であり、机の上には前当主ランドベルが杜撰に放置していた領地運営の帳簿や、周辺貴族との貸借関係を整理した書類が整然と積まれていた。
エレーナは明晰な頭脳をフル回転させ、王宮の文官たちと的確な指示を交わしながら、僅か数日で領内の財政基盤を立て直し、領民への減税や不正官吏の罷免を淀みなく完了させた。
公爵としての執務を冷徹かつ完璧にこなす傍ら、夜には精神世界へ沈み、ライラ、レイラ、リリアと共に極小神力を知覚するための瞑想を重ねていた。
婚礼の騒動から十日後、王宮からの正式な使者が公爵邸を訪れ、エレーナの公爵位継承式が執り行われる運びとなった。
豪壮な白銀の馬車に揺られ、エレーナは王都の中央にそびえ立つ王宮の正門をくぐった。
身に纏うのは、公爵家の正統な当主にのみ許された、深い濃紺のビロードに金糸の刺繍が施された豪奢な礼装マントと、端正なドレスであった。
王宮の巨大な謁見の間には、国中の高位貴族、王族、そして近衛騎士団が居並び、静まり返った空気の中で新当主の入場を待ちわびていた。
重厚な扉が開かれ、エレーナが中央の絨毯を踏みしめて凛然と歩み出ると、周囲の貴族たちから息を呑む気配が漏れた。
かつて地下牢に追いやられていた妾腹の娘とは思えぬ、絶対的な威厳と冷涼な気品が、その佇まいから放たれていた。
玉座の前へと進み出たエレーナは、流麗な所作で片膝を突き、深々と頭を垂れた。
玉座に座る国王が立ち上がり、手にした白銀の王剣をエレーナの両肩へと厳かに触れさせた。
「これまでの過酷なる境遇に耐え、国家を揺るがす大逆を挫いたエレーナ・アーギュスト。その功績と正統なる血統を讃え、ここにアーギュスト公爵位の正式な継承を認め、王国公爵としてのすべての権限と領地を汝に下賜する」
「謹んで、国王陛下の思し召しをお受けいたします。アーギュスト公爵家の誇りに懸け、王国の安寧と繁栄に尽力することを誓約いたします」
エレーナの凛とした声が天井高く響き渡り、大広間は万雷の拍手と貴族たちの感嘆の声に包まれた。
こうして、名実ともに王国屈指の権勢を誇る大公爵となったエレーナであったが、儀式が終わった直後、国王の側近から密やかな耳打ちを受けた。
「エレーナ公爵閣下、国王陛下が奥の私室にて、ロイマスクエル小公爵を交えて極秘の会談を所望されております」
エレーナは青玉の瞳を微かに細め、静かに頷いて案内された王宮奥深くの小会議室へと足を運んだ。
防音の魔術結界が張り巡らされたその私室には、すでに正装を解いた国王と、引き締まった表情のダニエル・ロイマスクエルが待機していた。
エレーナが入室して一礼すると、国王は手元の椅子を勧めながら、フッと笑みを漏らした。
「形式張った儀礼はここまでだ、エレーナ公爵。……さて、婚礼の場で朕が口走ったダニエルとの『婚姻』について、腹を割って話そうではないか」
国王の言葉に、ダニエルが静かに口火を切った。
「エレーナ様、大聖堂での突然の王命により、貴女に多大な困惑を与えてしまったことを深くお詫び申し上げます。ですが、私としてもあの場を収めるために王命を甘受せざるを得ませんでした」
ダニエルは誠実そのものの眼差しでエレーナを見据えた。
エレーナは小さく首を横に振り、静かな笑みを浮かべて返答した。
「ダニエル様の機転には感謝しておりますわ。ただ、私たち二人の婚姻には、感情以前に極めて深刻な貴族社会の構造的課題が横たわっております」
「構造的課題、か。申してみよ」
国王が興味深そうに身を乗り出した。
エレーナは淡々とした口調で、冷徹な現実を提示した。
「私がダニエル様の元へ完全に嫁いだ場合、再興したばかりのアーギュスト公爵家には当主の空白期が生じます。血統の途絶えた大公爵家が放置されれば、事実上の取り潰し、あるいはロイマスクエル公爵家による一方的な吸収合併と見なされかねません」
エレーナの言葉に、ダニエルも深く頷いて同調した。
「エレーナ様の仰る通りです。我がロイマスクエル家がアーギュスト家の広大な領地と財産を丸ごと呑み込むようなことになれば、他の諸侯からの激しい反発を招き、王国全体の勢力均衡が崩壊します。我が家としても、そのような火種を抱え込むことは望んでおりません」
二人の怜悧な分析を聞き、国王は感心したように顎を撫でた。
「なるほどな。では、二人が婚姻を結んだ上で、両家の存続と王国の安定を両立させるための現実的な具体案はあるのか?」
エレーナは迷うことなく、あらかじめ構築していた協定案を理路整然と語り始めた。
「第一に、婚姻後も私はアーギュスト公爵の地位をそのまま保持し、自らの手で領地と公爵邸の統治を継続いたします。つまり、実務上は完全な対等合併、あるいは独立した二大公爵家の連合という形態を取ります」
精神世界の中で、リリアが満足げに頷いた。
『お姉様、完璧な論理武装ですわ。これで公爵家の財産も自由な行動権も、完全に手中に残せます』
エレーナは国王とダニエルの反応を確かめながら、最も重要な次世代の継承権について切り出した。
「第二に、将来ダニエル様との間に子供が授かった際の継承問題です。最初に生まれた男子、あるいは跡継ぎたる第一子は、ロイマスクエル公爵家の正統な後継者として育てていただきます。そして、第二子、あるいは私とダニエル様の間に生まれる別の子女に、アーギュスト公爵家の正式な継承権を付与いたします」
「子供の成人まではどうするつもりだ?」
国王の問いに、エレーナは淀みなく答えた。
「その子が成人し、当主として領地を治められる能力が一定水準に達するまでの間、私がアーギュスト公爵として留まり続け、全権を代行いたします。これにより、両家の家名は完全に保たれ、主の空白期が生じることも一切ございません」
完璧すぎるほど合理的で隙のない提案に、国王は豪快に膝を叩いて笑い声を上げた。
「見事だ! 感情に流されず、国家の均衡と家の行く末をそこまで冷徹に見通しているとはな。エレーナ公爵、汝の聡明さには舌を巻くばかりだ」
国王はダニエルへと視線を向けた。
「ロイマスクエル卿、汝に異存はあるか?」
「微塵もございません。むしろ、エレーナ様の提示された条件こそが、両家にとっても王国にとっても最も理想的かつ安全な道であります」
ダニエルは迷いなく首肯し、安堵の息を漏らした。
国王は満足げに頷くと、引き出しから取り出した公文書に羽ペンを走らせた。
「相分かった。両家の婚約は正式に維持しつつ、公爵位の独立統治と将来の継承協定について、王命の追記文書として朕が署名・捺印しよう。対外的な披露宴や社交界へのお披露目は、領地の引き継ぎが落ち着いた半年後以降とする。……これで文句はあるまい?」
「寛大なご配慮、心より感謝申し上げます」
エレーナとダニエルは揃って深々と一礼を捧げた。
こうして、政治的な難題を完璧な合意によって解決した二人は、国王の私室を辞して王宮の長い回廊へと出た。
警護の騎士たちを一定の距離に控えさせ、二人きりで並んで歩く中、ダニエルがふと肩の力を抜いて苦笑を漏らした。
「いやはや、驚かされました。エレーナ様がこれほど現実的で、恐ろしいほど優秀な政治家でいらっしゃるとは」
「褒め言葉として受け取っておきますわ、小公爵様。貴族社会を生き抜く以上、当たり前の防衛策を講じただけに過ぎません」
エレーナが青玉の瞳を涼やかに輝かせて返すと、ダニエルは足を止め、真剣な眼差しでエレーナの横顔を見つめた。
「……ですがエレーナ様。私は貴女の実務能力だけに敬意を払っているわけではありません」
「と、仰いますと?」
「命を救われた恩義はもちろんのこと、どんな逆境にあっても決して揺るがない貴女の気高さに、私は四年越しの想いを抱いております。たとえ契約のような協定から始まる婚姻であっても……私は、形だけの冷え切った夫婦で終わらせるつもりはありませんよ」
ダニエルの低く甘い声と、熱を帯びた濃紺の双眸がエレーナを射抜いた。
精神世界の中で、ライラとレイラが一斉に黄色い悲鳴を上げた。
『ちょっとダニエルの奴、めちゃくちゃ攻めてくるじゃない』
『生意気な口を利く小公爵だけど、男としての気骨だけは認めてあげてもいいわね』
エレーナの胸の奥で、神によって制限されていた感情の領域が、微かに波紋を広げて揺らめいた。
(……シンの言っていた、世界の神力と同調するための恋愛修行、ね)
エレーナは内心でやれやれと苦笑しつつ、貴族令嬢としての完璧な微笑みをダニエルへ向けた。
「ふふ、頼もしい宣言ですこと。私の心を射止めるのは、並大抵の試練ではありませんけれど……精々、励んでくださることね、ダニエル様」
挑発するように小首をかしげるエレーナの美しさに、ダニエルは思わず息を呑み、そして不敵に微笑み返した。
「望むところです。必ずや、貴女を振り向かせてみせます」
二人は互いの覚悟を確かめ合うように視線を交わし、王宮の回廊を歩み進めた。
こうして、大公爵としての地位を確立し、将来の盤石な基盤を固めたエレーナは、魑魅魍魎が蠢く王国の本格的な貴族社会へと、堂々たる第一歩を踏み出すのであった。
引継ぎが完了し、アーギュスト公爵家が落ち着きを取り戻した頃、王都の中央に君臨する王宮の大白磁宮において、国王主催の公式夜会――新当主エレーナ・アーギュスト公爵のお披露目を兼ねた初舞踏会が盛大に幕を開けようとしていた。
天井から吊るされた無数の豪奢なクリスタルシャンデリアが眩い光を放ち、大広間を埋め尽くした諸侯や高位貴族たちの宝石や礼装を艶やかに照らし出していた。
開会を待つ会場のあちこちでは、貴族たちがシャンパングラスを片手に、扇子の陰で密やかな噂話と政治的な算術に花を咲かせていた。
「今日の主役は、あの前代未聞の婚礼騒動で公爵位を掠め取った妾腹の小娘だろう?」
「ええ、大聖堂では派手な立ち回りを見せたようですが、所詮は王都を追われて僻地の寒村で育った田舎娘に過ぎません」
「いくら血筋が正統とはいえ、長年地下牢に押し込められ、村で薬草を煎じていたような小娘に、公爵家の統治などできるはずがない」
「ええ、今夜の舞踏会で社交界の洗礼を浴びせてやれば、すぐに泣き言を漏らすはずです。我が派閥で後見人となって抱き込み、実権を握ってしまえばアーギュスト家の広大な領地と財産は思いのままですな」
腹黒い貴族たちは醜悪な笑みを交わし、新当主を自陣営に取り込み、傀儡として利用しようと獲物を狙うハイエナのように手ぐすねを引いていた。
一方、会場の片隅では、かつてランドベル前公爵に忠誠を誓い、その恩恵にぶら下がっていた旧アーギュスト派閥の寄り子貴族たちが、青ざめた表情で身を寄せ合っていた。
「……おい、我々はどうなるのだ。前当主が失脚し、新当主はロイマスクエル公爵家と婚姻を結ぶのだぞ」
「ロイマスクエル家といえば、我らアーギュスト派とは長年の宿敵関係だった名門だ。あの新当主がロイマスクエルに魂を売ったとなれば、我ら寄り子一門は真っ先に粛清され、所領を没収されるに決まっている……!」
寄り子たちは破滅の恐怖に怯え、針の筵の上に立たされたような絶望的な面持ちで入場扉を見つめていた。
やがて、会場の隅々にまで通る王室儀典官の甲高い声が、大広間の喧噪を一瞬にして静まり返らせた。
「――アーギュスト公爵家当主、エレーナ・アーギュスト公爵閣下、ならびにロイマスクエル小公爵、ダニエル・ロイマスクエル卿の御入場でございます!」
重厚な金箔塗りの大扉が厳かに開け放たれた瞬間、大広間の温度が数度下がったかのような強烈な緊張感が場内を支配した。
歩み出たエレーナの姿を捉えた刹那、あざ笑う準備をしていた貴族たちの呼吸が喉の奥で完全に凍りついた。
身に纏うのは、夜の帳を切り取ったかのような深いミッドナイトブルーの最高級シルクドレスであり、その裾には夜空の星々を思わせる無数の極小ダイヤモンドが職人の超絶技巧によって縫い込まれていた。
首元には公爵家の歴史を物語る濃紺のサファイアの首飾りが涼やかに輝き、エレーナの透き通るような白い肌と、神秘的な青玉の瞳を完璧に引き立てていた。
だが、貴族たちを真に圧倒したのは、豪奢な装飾などではなかった。
エレーナの一挙手一投足から放たれるのは、長年地下牢に囚われていた妾腹の娘などという矮小な枠組みを根底から粉砕する、絶対的な気品と凍てつくような威厳であった。
背筋を寸分の狂いもなく伸ばし、中央の赤絨毯を踏みしめるその足取りは、羽毛が落ちるかのように音もなく優雅でありながら、大地そのものを従えているかのような不可侵の風格を纏っていた。
その立ち居振る舞いは、一国の王妃としてジュリアン国王の隣に立ち、数多の大貴族や外交使節を睥睨して国家を統治していたアイラにとっては、呼吸をするのと同じ自然な所作に過ぎなかった。
しかし、大魔女の前世など知る由もないこの世界の貴族たちにとっては、王族すら霞ませるほどの本物の覇者の気配そのものであった。
「な、何だあの佇まいは……あれが本当に、寒村で暮らしていた妾の娘だというのか……?」
「馬鹿な……王妃陛下ですら、あのような冷徹で神聖な気品を放つことなどあり得ないぞ……!」
取り込もう、操ってやろうと息巻いていた貴族たちの顔から血の気がサーッと引き、ある者は本能的な恐怖から視線を逸らし、ある者は腰を抜かしかけて後退った。
彼らは瞬時に思い知らされたのである。
目の前にいる存在は、甘言に惑わされて懐柔できるような軟弱な小娘などではない。
自らが頭を垂れて傘下に加わるか、それとも破滅を覚悟で対立するか――その二者択一を冷酷に迫ってくる絶対強者なのだと。
エレーナの隣には、純白と濃紺の正装軍服を完璧に着こなしたダニエルが、誇らしげに寄り添っていた。
ダニエルは周囲の貴族たちがエレーナの威圧感に飲まれて沈黙している光景を目の当たりにし、内心で痛快な笑みを噛み殺しながらエレーナへ右手を差し出した。
「皆様、貴女の神々しさに息を呑んで言葉を失っていらっしゃいますよ、エレーナ様」
エレーナは涼やかな笑みを微かに浮かべ、手袋を嵌めた指先をダニエルの掌へと優雅に重ねた。
「あら、借りてきた猫のように大人しくなってくださったのなら、無用な雑音を聞かずに済んで好都合ですわ」
二人が大広間の中央へ進み出ると、管弦楽団が王室儀礼の栄誉を讃えるワルツの調べを一斉に奏で始めた。
ファーストダンスを踊る権利を持つのは、この夜会の主役であるエレーナと、その正式な婚約者たるダニエルの二人だけであった。
ダニエルがエレーナの細い腰に手を添え、二人は滑らかなステップを踏み出した。
その舞いは、もはや芸術の領域に達していた。
エレーナの纏うドレスの裾が円を描いて翻るたび、金糸とダイヤモンドが光の軌跡を宙に刻み、二人の息の合った流麗なターンは大聖堂の厳粛さをそのまま王宮の広間へ移し替えたかのような美しさを誇っていた。
精神世界の中では、三人の魂が楽しげに歓声を上げていた。
『さすがは元王妃様、舞踏会の空気ごと完全に支配しているじゃない』
『ダニエルの奴、完全に鼻の下を伸ばしかけているわね。まあ、あいつのエスコートも宮廷作法としては合格点をあげてもいいけれどさ』
『お姉様、周囲の貴族たちの値踏みするような視線が、完全に敬服と恐怖の眼差しへと塗り替えられておりますわ。これで第一関門は突破ですわね』
リリアが理知的な分析を呟く通り、広間を取り囲む貴族たちは誰一人として私語を交わすことすらできず、ただ二人の完璧な舞いに見惚れていた。
曲が壮大に盛り上がり、ダニエルのリードによってエレーナが最後の優雅なポーズを決めると、会場の静寂を破るようにして、玉座の国王が真っ先に立ち上がって惜しみない拍手を送った。
その拍手を合図に、大広間全体が雷鳴のような万雷の拍手と貴族たちの感嘆の声によって揺れ動いた。
ダニエルは深々と一礼し、エレーナを見つめて濃紺の双眸を熱っぽく細めた。
「素晴らしい時間でした、エレーナ様。……貴女の手を取るたびに、私は自分の幸運に感謝せずにはいられません」
「お上手ですこと、ダニエル様。エスコートの腕前は見事でしたわよ」
エレーナが青玉の瞳を微かに和らげて応じると、ダニエルは満足げに胸を張った。
ファーストダンスが終わり、貴族たちが二人の元へ祝辞を述べようと恐る恐る列を作り始めた頃、会場の片隅から数名の貴族たちが、まるで断頭台へ向かう罪人のような足取りで歩み寄ってきた。
彼らこそが、旧アーギュスト派閥の重鎮であり、前当主の失脚によって梯子を外された寄り子貴族たちであった。
先頭に立つ初老の伯爵が、震える手で胸元の礼を捧げ、額に冷や汗を浮かべながら口を開いた。
「こ、公爵閣下……旧アーギュスト家の寄り子を代表し、新当主様へのご挨拶に伺いました。私めは、ヴァルツ伯爵と申します」
エレーナは冷涼な眼差しを伯爵へと向け、感情の起伏を一切見せない完璧な微笑みを湛えた。
「ご丁寧に恐れ入りますわ、ヴァルツ伯爵。皆様の強張ったお顔を拝見するに……どうやら、新当主の就任をお祝いすることよりも、ご自身の首筋の寒さをお気に病んでいらっしゃるようですわね?」
直球かつ急所を射抜くエレーナの言葉に、ヴァルツ伯爵をはじめとする寄り子貴族たちはヒッと息を呑み、一斉に顔面を蒼白にした。
ヴァルツ伯爵は震える声で弁明を試みた。
「め、滅相もございません! 我らは……我らは決して前当主ランドベルの不義密通や謀略に加担していたわけではございません! しかしながら、閣下が宿敵であったロイマスクエル家と結ばれるとなれば……我ら旧来の寄り子は、反逆者の残党として一網打尽に粛清されるのではないかと……」
彼らの怯えは本物であった。
貴族社会における派閥交代とは、敗者に対する凄惨な私刑と領地剥奪を意味することが常であったからである。
エレーナは手にした扇子を静かに閉じ、冷徹な響きを帯びた声で、社交界特有の洗練された言い回しを紡ぎ出した。
「皆様、怯える必要がどこにありまして? 泥濘に足を取られた前当主の亡霊にいつまでも縋り付くか、それとも新たな太陽の光を仰ぎ見て忠節を尽くすか……選ぶ権利は、常に皆様の手の中に委ねられておりますのよ」
ヴァルツ伯爵がハッと顔を上げた。
エレーナは扇子の先端で自らの胸元を軽く指し示し、淡々と続けた。
「私の掲げるアーギュストの双剣の旗の下に集い、新たな秩序に従う者に、余計な火の粉が降りかかるような無粋な真似は断じていたしません。……ただし、過去の主が遺した悪臭に未練を残し、我が領内統治にわずかでも後ろ足で砂をかけるような真似をする者がいれば、その時は――泥ごと根こそぎ焼き払うまでですけれど」
優雅な微笑みの裏に潜む、一片の容赦もない絶対零度の宣告。
従う者には庇護を与え、裏切る者には完全な破滅を下すという、支配者としての明確な線引きであった。
寄り子貴族たちの背筋に歓喜と戦慄が同時に駆け巡った。
エレーナは自分たちを無差別に粛清するつもりはなく、忠誠を誓うならばそのまま派閥の臣下として受け入れると約束したのである。
ヴァルツ伯爵は感極まった様子でその場に平伏しかけ、慌てて礼を深めた。
「か、寛大なるお言葉……! 我ら寄り子一門、今この瞬間より過去の因縁をすべて断ち切り、エレーナ公爵閣下に身命を賭して絶対の忠誠を誓約いたします!」
背後の貴族たちも一斉に頭を垂れ、エレーナへの服従を誓った。
そこへ、静かに成り行きを見守っていたダニエルが一歩前に進み出た。
ダニエルは寄り子貴族たちを見下ろし、落ち着き払った声で言い添えた。
「ロイマスクエル家としても、エレーナ様の決定を全面的に支持する。過去の派閥争いに固執し、エレーナ様に忠誠を誓った諸卿を我が家が害することなど毛頭あり得ない。これより我がロイマスクエル家とアーギュスト家は、国家の安寧を担う強固な同盟関係として足並みを揃えていく所存だ」
ダニエルの言葉に、周囲で聞き耳を立てていた他派閥の貴族たちからも大きなどよめきが漏れた。
ロイマスクエル小公爵が直々に、旧敵であるアーギュストの寄り子たちへの不戦と融和を保証したのである。
さらにダニエルは、会場全体へと届く明確な声音で、極めて重要な決定打を口にした。
「すでに国王陛下の御前において、将来エレーナ様と私の間に授かる第一子にはロイマスクエル公爵家を、そして第二子にはアーギュスト公爵家を継承させるという協定が、王命の追記文書として正式に締結されている。二大公爵家の連合は、一代限りの政略などではなく、次世代にわたり揺るぎなき王国の礎となるのだ」
ダニエルの高らかな宣言に、大広間の貴族たちは完全に言葉を失い、戦慄した。
二大公爵家が対等に手を結び、それぞれの血統と領地を保ちながら次世代へと継承していくという構想は、王国の勢力図そのものを根底から塗り替える巨大な絶対権力の誕生を意味していた。
もはや、エレーナを取り込もうなどと画策していたハイエナ貴族たちの入り込む隙など、塵芥ほども残されていなかった。
寄り子貴族たちは、自分たちが生き残っただけでなく、王国最強の巨大連合派閥の直参臣下として組み込まれたという途方もない現実に、興奮で身を震わせていた。
「ははっ……! ありがたき幸せにございます! エレーナ閣下、ならびにロイマスクエル卿のために、全身全霊を捧げて粉骨砕身いたします!」
寄り子たちの忠誠は、恐怖による服従から、強固な実利と崇拝に裏打ちされた本物の忠誠心へと昇華していた。
精神世界の中で、リリアが感嘆のため息を漏らした。
『見事ですわ、お姉様。寄り子たちの離反を防ぎ、ロイマスクエル家との関係性を既成事実として社交界全体に叩き込みましたわね』
『ふふん、文句なしの完全勝利ね! ほら見なさい、あっちのハイエナ貴族どもが青い顔して震えているわよ!』
ライラが嘲笑を浮かべ、レイラもまた満足げに頷いた。
『力でねじ伏せるだけが戦いじゃないってわけね。政治の場でこれだけ鮮やかに敵を封じ込めるのは、見ていて実に小気味いいわ』
エレーナは青玉の瞳に冷徹な知性を宿しながら、群がる貴族たちを涼やかな眼差しで見渡した。
(これで、貴族社会における足場固めは完璧に完了したわね)
外堀を完璧に埋め、領地統治と中央政治の盤石な基盤を手に入れたエレーナは、隣に立つダニエルと静かに視線を交わし、微かに口角を吊り上げた。
政治の地盤が固まった今、次なる課題はシンの課した神力の掌握、そして王都の地下で蠢く怪しげな新興教団への調査であった。
夜会を大成功で終えた後、エレーナは領地の統治と並行して、精神世界における修行へと一層深く没頭していった。
そして、ダニエルとの正式な結婚式を間近に控えた、ある静寂の夜のことである。
精神世界の深淵に意識を沈め、四人で波長を極限まで研ぎ澄ましていたアイラたちは、突如として魂の殻を突き破るような未知の衝撃に打たれた。
体内に渦巻く膨大な魔力のさらに奥深く、魂の根源に触れたその瞬間、アイラたちは遂に自らの内に眠る『極小神力』の微かな脈動を知覚することに成功したのである。
それは、どれほど練り上げた高位魔術とも完全に隔絶した、万物の因果律そのものを書き換える絶対的な神の息吹であった。
しかし、その歓喜と同時に、アイラたちはこの世界そのものを構成している、果てしなく広大な創造神の神力の奔流を肌で直に感じ取ってしまった。
世界を満たすシンの神力は、アイラたちがようやく感知できた極小神力など塵芥に等しいと思えるほど、圧倒的かつ無尽蔵な質量を誇っていた。
この事実は、アイラたちが全霊をもって何を仕掛けようとも、創造神に傷一つ付けることなど到底不可能であり、それどころか攻撃されたという知覚すら抱かせることができないという、絶望的な実力差を骨の髄まで思い知らされるものであった。
『……化け物ね、あの白髪の駄神。神ってあんな途方もない怪物を指す言葉だったわけ?』
精神世界の中で、滅んだ世界で最高と謳われた大魔女のレイラですら冷や汗を流して呻いた。
『極小神力そのものは何とか捉えられましたけれど、この創造神の極小神力波長に己を同調させる方法など、今の段階では想像もつきませんわ……』
リリアがこめかみを押さえて溜息を漏らした。
己の未熟さと神の絶対性を痛感したアイラたちは、無茶な暴走を控え、シンとオースンが再び姿を現すのを大人しく待つことに決めた。
それから数日後、王国中が熱狂する中でエレーナとダニエルの婚礼の儀が盛大に執り行われた。
大聖堂での誓いを終え、夜には貴族の義務を果たすための初夜も淀みなく執り行われた。
感情の制限が残るエレーナにとって、それは国家的な儀礼の一環としての冷徹な遂行に過ぎなかったが、誠心誠意エレーナを労り、慈しむように接するダニエルの真摯な熱情をもってしても、エレーナの魂には、わずかなさざ波すら立てさせることはできなかった。
婚礼の喧騒がようやく落ち着き、エレーナがアーギュスト公爵邸の執務室で書類仕事に目を通していた日の午後、ノックの音とともに家令が静かに姿を現した。
家令の魔力が少し乱れており、わずかな精神的誘導が見て取れる。
「閣下、以前お見えになったシン様とオースン様を応接室へお通しいたしました。部屋の周囲も人払いをしております」
その報告を受けた瞬間、精神世界の大魔女たちが一斉に顔を見合わせた。
『漸く、来たようね。待ちくたびれたわ』
エレーナは羽ペンを置き、立ち上がると、一階の応接室へと向かった。
厳重な遮音結界を張り巡らせて部屋へ入ると、そこには創造神のシンと、漆黒の髪に深い静謐さをたたえた鋭い眼差しの男――レイラの居た、滅びた世界、その創造神であるオースンが腰を下ろしていた。
「やあアイラ、新婚生活の調子はどうだい? なかなか充実した日々を送っているようだね」
シンが軽薄に手を振ると、隣のオースンが静かに腕を組んだまま、低く重みのある声で窘めた。
「……久しぶりだな、アイラ。息災そうで何よりだ」
「オースン様。お久しぶりですわ」
エレーナがソファへ腰掛け、冷涼な瞳で二人を見据えた。
「それにしても、極小神力を感知できるようになってから、随分と来るまでに時間が掛かりましたわね。神様方のご都合をお聞かせ願えるかしら?」
エレーナの問に対し、オースンが真剣な表情を崩さずに答えた。
「遅くなったのには理由がある。君たちが旅立った後、君たちの魂の重圧によって崩壊しかけていた元いた世界を、シンと共に安定領域まで修復していたのだ」
アイラたちにとって、元いた世界の安寧は何よりも優先される最重要事項であった。
その説明を聞き、精神世界の大魔女たちも納得して怒りを収めた。
シンはニヤリと笑うと、何もない空間から一冊の豪奢な装丁の本を取り出し、テーブルの上へと滑らせた。
「ほら、これを受け取ってよ。極小神力を知覚できるようになったお祝いのプレゼントだ」
エレーナが恐る恐るその本を手に取ると、装丁の奥から、かつて愛した故郷の世界の温かな鼓動が微かに伝わってきた。
「これは……私たちのいた世界そのもの、ですの?」
「そうさ」
シンが満足げに頷いた。
「君たちが神として成長し、いつか自分自身の宇宙樹を創造できるようになったら、その本を君たちの世界図書館の本棚に収めるといい。そうすれば、止まっていた世界の時間が再び動き出すからね」
「時間が、止まっている……?」
アイラが問い返すと、オースンが静かに補足した。
「そうだ。世界を宇宙樹の内部、世界図書館の書架から取り出した瞬間、その世界の内包する時間は完全に凍結する。君たちが元の世界から引き剥がされたまさにその瞬間で、世界の時は止まっているのだ。つまり、君たちが修行を終えて戻るまで、向こうの世界では一秒たりとも経過しない」
その言葉を聞いた瞬間、精神世界の中で安堵の歓声が上がった。
『私たちが修行している間に何百年も経って、ジュリアンが寿命で死んじゃってたらどうしようかと心配したわ』
アイラが胸を撫で下ろした。
『ええ、王妃失踪事件で国中が大パニックになっている惨状を想像して胃が痛かったですもの。時間が止まっているなら、何も問題ありませんわね』
リリアも心から胸を詰まらせて喜びを噛み締めた。
元の世界への懸念が完全に払拭されたことで、アイラたちの瞳にこれまで以上の覚悟の炎が灯った。
「素晴らしい朗報を感謝いたしますわ。……それで? 次のステップの修行とは何かしら」
エレーナが居住まいを正すと、オースンが鋭い視線を向けた。
「極小神力を感知できたのなら、次はそれを自在に行使するための調整だ。今の君の肉体は、魂から溢れ出る力を使いやすくするため、極小神力を自動的に『魔力』へと変換する安全弁が組み込まれている。私が君をこの肉体へ転生させた際に施した処置だ」
オースンは指先をエレーナの額へと向け、極小神力を放った。
「この変換機能を取り除く。魔力というフィルターを通さず、純粋な極小神力をそのまま肉体へ流し込むのだ」
体内の魔力回路が強制的に停止し、代わりに魂の深淵から滾る極小神力が、ダイレクトに肉体の血管を駆け巡った。
「……これで終わりだ。極小神力を自在に操れるようになるまでには、かなりの時間が掛かるだろう」
だが、その驚異的な成果の中で、最も予想外の事態が発生していた。
四人の中で極小神力の精密制御において、群を抜いて圧倒的な才能を発揮したのが、他ならぬオリジナルたるライラであったのだ。
『えっ、うそ……? 私、なんかもの凄くこの神の力と相性がいいみたいなんだけど……!?』
精神世界の中で、ライラが自らの透き通る掌を握り締めながら目を白黒させた。
極小神力が扱えるようになったことで、副産物として精神世界の四人全員が、エレーナの肉体を直接交代して操作することが可能となった。
そして、極小神力の操作が最も上手い者が表に出るのが最も効率的であるという結論に、異論の余地はなかった。
つまり――エレーナの肉体担当として、実質的にエレーナとして日常を過ごす役割が、ライラへと決定した瞬間であった。
「さて、神力を使えるようになったなら、いよいよ本番の修行だね」
シンが悪魔のような笑みを浮かべ、立ち上がった。
「世界の波長と同調するための『ダニエル君との本格的な恋愛修行』を始めてもらおうか!」
シンの言葉が響いた瞬間、精神世界の中で戦慄が走った。
エレーナの肉体を動かすのはライラ。
そして、恋愛修行の対象は、戸籍上の夫となったダニエル。
アイラが精神世界の中で、これ以上ないほど美しく、清々しい満面の笑みを浮かべてライラを振り返った。
『ライラ、後は任せたわよ。頑張ってね』
『ちょ、ちょっと待ちなさいよアイラァァッ!? なんでそんな爽やかな笑顔で丸投げしてくるのよ!?』
ライラが目を血走らせて絶叫した。
アイラは至極もっともらしい理屈を、慈愛に満ちた声で語りかけた。
『だって私には元の世界に愛する夫ジュリアンがいるもの。人妻が他の男と恋愛ごっこなんてできるはずがないでしょう?』
『なっ……!? じ、じゃあリリア! リリアがやりなさいよ!』
ライラが縋るように妹へ視線を向けると、リリアは淑女の完璧な会釈を返した。
『謹んで辞退いたしますわ、ライラお姉様。私にも元の世界に生涯を誓い合った最愛のエドワード様がいらっしゃいます。不貞など断じて許されません』
『ぐっ……! れ、レイラ! 貴女はどうなのよ!?』
最後の望みをかけて猛獣のレイラへ話を振ると、レイラはどこか遠い目をしながら、気まずそうに腕を組んで横を向いた。
『……あー、悪いわねライラ。私はこう見えて、滅びた世界に昔……まあ、いろいろあった男がいたような気がするのよね。本当かどうかは自分でも記憶が曖昧なんだけどさ』
『嘘つけぇぇぇっ! 都合のいい時だけ意味深な過去を捏造するんじゃないわよ!』
ライラの絶叫が精神世界に木霊した。
アイラ、リリア、レイラの三人は完璧な包囲網を敷き、慈しむような視線をライラへと注いだ。
『ライラ、貴女には元の世界にも特定の相手はいなかったでしょう?』
『ええ、適任ですわライラお姉様。一番神力の扱いがお上手なのですから、これも世界のためです』
『諦めなさいライラ。男の一人や二人、適当に手玉に取って神格を上げておいで』
完全に退路を断たれ、バトンを強引に押し付けられたライラは、魂の底からげんなりとした長いため息を吐き出した。
相手がいる二人にやらせるのは流石に気が引けるという良心も手伝い、ライラは涙目で白旗を上げた。
『……あーもう、分かったわよ! やればいいんでしょ、やれば! 私がダニエルを本気で惚れさせて、世界の神力と同調してやろうじゃないのよ!』
ヤケクソの叫びとともに、ライラの魂がエレーナの肉体へと滑り込み、主導権を掌握した。
ライラがダニエルを惚れさせるのではなく、ライラがダニエルに惚れる修行なのだが、もっと話がこじれそうなので、三人は黙っていた。
エレーナの青玉の瞳がパチリと瞬き、これまでの冷徹な大魔女の気配から、どこか愛嬌と溌溂さを秘めた美少女の佇まいへと自然に移り変わった。
その様子を眺めていたシンとオースンは、満足そうに頷き合った。
「うんうん、素晴らしい気合いだね。それじゃあ僕たちはこれで失礼するよ。次に会う時、どれくらいダニエル君と甘い関係になっているか楽しみにしているよ」
シンとオースンが淡い光の粒子となって虚空へと溶け去り、応接室には再び静寂が戻った。
エレーナの肉体を動かすライラは、自分の華奢な両手をじっと見つめ、頭を抱えてソファへと崩れ落ちた。
「はあぁ……なんで私がこんな貧乏くじを引く羽目になるのよ……」
執務室の机の上には、領地の重要書類の山、そして夕刻にはダニエルとの夫婦水入らずの晩餐が控えていた。
最強の大魔女たちの思惑と、神々の無茶振りに翻弄されながら、ライラによる波乱に満ちたダニエルとの本格的な恋愛修行が、今まさに幕を開けようとしていた。
アーギュスト公爵邸の豪壮な天蓋付きベッドの上で、エレーナ――その肉体の主導権を握ったライラは、大きく伸びをしながら目を覚ました。
窓から差し込む柔らかな朝の光が肌を心地よく温め、小鳥たちの囀りが清々しく耳朶を打った。
「んん〜っ……! やっぱり生身の身体で迎える朝って、最高に気持ちがいいわね!」
ライラは華奢な両手を掲げ、シーツの柔らかな感触と、全身を巡る瑞々しい生命の息吹を存分に堪能していた。
神によって制限されていた感覚器官は、ライラが肉体の表層に立った途端、信じられないほどの鮮やかさで世界の情報を受信し始めていた。
シンに言われた『極小神力』と『世界の波長』への同調に関して、ライラは何か特別な儀式を行ったわけでも、小難しい理論を組み立てたわけでもなかった。
ただ単に「朝の空気が美味しいわね」「シーツがすべすべして気持ちいいわ」と五感で世界を受け入れただけで、魂の奥底にある極小神力が、まるで水が低きに流れるかのように自然とこの世界の波動へカチリと噛み合ってしまったのである。
しかし、その肉体の深奥に広がる精神世界においては、天と地ほども異なる凄惨な光景が繰り広げられていた。
『ぐ、ぬぬぬ……っ! なんなのよこの、ねっとりとした軟弱な波長は! 私の破壊と全く噛み合わないじゃないのよ!』
精神世界の広大な空間で、かつて世界最強と謳われたレイラが、額に青筋を浮かべて猛烈な神気の奔流と格闘していた。
力任せに神気をねじ伏せようとするたびに、世界の波長と激しく反発を起こし、レイラの周囲でバチバチと赤黒いスパークが爆発していた。
『レイラお姉様、力尽くで従わせようとしては駄目ですわ! 世界の構成式を読み解き、因果の周波数を魂の魔導陣へと正確にフィードバックさせなければ……ああっ、計算式の虚数項がまたしても発散してしまいますわ!』
秀才肌のリリアは宙に無数の数式と幾何学模様を展開し、猛烈な速度で神力の波長を論理的に解析しようとしていたが、あまりの膨大な情報量に知恵熱を出し、こめかみを押さえてフラフラとよろめいていた。
そして、元王妃であり冷徹な指導者であったアイラもまた、静かに座禅を組みながら苦悶の表情を浮かべていた。
『……おかしいわね。世界の理を受け入れようと精神を研ぎ澄ますたびに、何故かこの世界の波長が異物として弾かれてしまうのよ……』
三者三様に、これまでの偉大すぎる実績や強固な自我が邪魔をして、世界の波長に合わせるという単純な作業に凄まじく四苦八苦していた。
精神世界の下方から響いてくる姉妹たちの阿鼻叫喚を耳にして、ベッドの上のライラは苦笑いを浮かべた。
(みんな、真面目すぎて難しく考えすぎなのよ……。適当に力を抜いて、世界の空気を吸い込めばいいだけなのに)
『ちょっとライラ! 聞こえてるわよ! 適当に力を抜くって何よ、感覚派の天才肌みたいな鼻につくアドバイスはやめなさい!』
レイラが精神世界から噛みついてきた。
『お姉様、ライラお姉様がすんなり同調できたのは、楽天的な精神構造をお持ちだからですわ。羨ましい限りですけれど!』
リリアが悔しそうに眼鏡を押し上げる仕草をした。
「あはは、悪かったわよ。まあ三人とも、焦らずゆっくりやりなさいな」
ライラが内心で呑気に返事をしていると、私室の重厚な扉が静かにノックされた。
「エレーナ様、おはようございます。入ってもよろしいでしょうか?」
扉の向こうから響いてきたのは、低く澄んだ耳心地のよい美声であった。
ライラは反射的に姿勢を正して返答した。
「ええ、どうぞ」
扉が音もなく開かれた。
姿を現したのは、すでに完璧な濃紺の朝の執務服に身を包んだダニエルであった。
朝日を背に浴びたその姿は、絵画から抜け出してきた貴公子そのものであり、引き締まった長身と端正な顔立ちが恐ろしいほどの輝きを放っていた。
しかもダニエルは、銀のワゴンを自らの手で押して入室してきたのである。
「ダニエル様? そのワゴンは一体……」
ライラが青玉の瞳を瞬かせると、ダニエルは極上の笑みを浮かべ、恭しく一礼を捧げた。
「エレーナ様、新婚の朝に妻を迎えに来るのが夫の役目です。今朝は王都で一番評判の腕利きパティシエから、焼き立てのクロワッサンと季節の果物のタルトを取り寄せました。それと、貴女の好みに合わせて調合させた、ベルガモット香る特製のモーニングティーです」
ダニエルは流麗な所作で銀のドームカバーを開け、立ち上る甘く香ばしい湯気とともに、完璧な朝食をベッドサイドのテーブルへと並べてみせた。
公爵家の跡継ぎでありながら、召使の手を借りず、自らの手で妻に朝食を給仕するその献身ぶり。
そして何より、エレーナを見つめるダニエルの濃紺の双眸には、濁りのない本物の情愛と熱がこもっていた。
「エレーナ様、今日も世界で一番お美しいですよ」
ダニエルが至近距離で甘やかに囁き、伏し目がちに微笑んだ瞬間、ライラの心臓がドキンと大きな音を立てて跳ね上がった。
(……えっ!? な、なにこの破壊力!? ダニエルって、こんなに顔が良くてフェロモン撒き散らす男だったわけ!?)
世界の波長にすんなり同調してしまった弊害として、ライラは生身の人間の情緒や胸の高鳴りを、かつてないほどダイレクトに受けてしまっていた。
耳までカッと熱くなるのを感じ、ライラは慌ててシーツを胸元まで引き上げた。
『きゃああっ! 見なさいよアイラ、ライラの奴、男の甘い言葉一発で完全に赤面してるじゃない!』
精神世界の中で、レイラが指を差して爆笑した。
『年下の青二才の常套句にたじろぐなど……情けないですわライラお姉様! しっかりなさいませ!』
リリアが叫ぶ一方で、アイラはどこか生温かい目をしていた。
『あらあら、いいじゃない。ダニエル卿、なかなか手の込んだ口説き方をしてくるわね。昔のジュリアンを見ているようで微笑ましいわ』
精神世界の野次馬たちを必死に無視しながら、ライラは咳払いを一つして、エレーナとしての威厳を取り繕った。
「あ、ありがとうございます、ダニエル様。小公爵自ら給仕をしてくださるなんて、恐縮ですわ」
「妻を喜ばせるためなら、これくらい当然の務めです。……それに、私は貴女に『形だけの冷え切った夫婦で終わらせるつもりはない』と宣言しましたからね」
ダニエルは悪戯っぽく片目を細めると、フォークに切り分けたタルトを乗せ、あろうことかライラの口元へと差し出してきた。
「さあ、あーんしてください、エレーナ様」
「へ……!? あ、あーんって、貴方、何を……!」
「夫婦のスキンシップですよ。照れる必要はありません」
真顔でとんでもない甘やかしを仕掛けてくるダニエルに対し、ライラは逃げ場を失い、羞恥に震えながら小さく口を開けた。
フォークから運ばれたタルトは、驚くほど甘美で濃厚な果実の味が広がり、絶品そのものであった。
「……美味しい、ですわ」
「それは良かった。貴女のその幸せそうな顔が見られただけで、早起きした甲斐がありました」
満足そうに目を細めるダニエルの無敵の笑顔に、ライラは再び胸を撃ち抜かれ、心の中で頭を抱えた。
(ヤバい、この男、本気で私を落としにかかってるわ……! なんでこんなにスマートで攻め攻めなのよー!)
それもそのはず、愛する夫を持っていたアイラやリリアと違い、ライラは悪役令嬢として破滅の断頭台へ向かう間際に魂を合流させていたため、年下の貴公子から寄せられる本気の求愛など、前世を通じても完全に未知の領域だったのである。
朝食を終えた後、午前中は公爵としての領地経営の実務が待っていた。
執務室の巨大な机の上には、前当主の負の遺産である領内の治水工事の予算書や、周辺諸侯との交易関税の改定案など、膨大な公文書が山積みにされていた。
ライラは大魔女としての知恵はあるものの、アイラのように一国の王妃として国家予算を動かしていたわけではないため、複雑怪奇な数字の羅列を見つめて次第に眉間を寄せ始めた。
「う……この治水の利権配分、上流の伯爵領と下流の子爵領で主張が真っ向から対立しているわね。どう落とし所をつければいいのかしら……」
ライラが思わずため息を漏らしたその時、執務机の向かい側に座っていたダニエルが、音もなく立ち上がってエレーナの背後へと回り込んだ。
「失礼、少し見せていただけますか」
ダニエルの微かな白檀の香りと体温が、ライラの背中越しにふわりと漂ってきた。
ダニエルはライラの肩越しに長い腕を伸ばし、書類の数字を羽ペンの先で軽やかに指し示した。
「ここの関税の免税枠を上流の伯爵家に僅かに譲歩する代わりに、治水工事の資材提供義務を下流の子爵家に一任すれば、双方の面子と実利が完全に釣り合います。……ついでに、こちらの難解な交易監査の帳簿は、私がロイマスクエル家の法務官を使って片付けておきましょう」
ダニエルは流れるような手つきで、机の上の書類の半分をサッと自分の手元へと引き取った。
「えっ、でもダニエル様、これはアーギュスト家の領地問題ですわ。貴方にそこまで負担をかけるわけには……」
ライラが振り返ると、ダニエルは至近距離でエレーナの青玉の瞳を覗き込み、優しく微笑んだ。
「私たちは対等な連合を結んだ夫婦です。エレーナ様の手を煩わせる雑務を肩代わりすることこそ、夫としての誇りですよ。……それに、貴女の力になりたいと願う私の気持ちを、どうか拒まないでいただきたい」
真剣で誠実なその眼差しに、ライラの胸がまたしてもキュンと締め付けられた。
顔が良くて、気配りができて、その上恐ろしく仕事ができる男。
欠点の一つも見当たらない完璧なスパダリぶりに、ライラは内心で悲鳴を上げた。
(ちょっと待ちなさいよ、有能すぎてぐうの音も出ないじゃない! なんなのこの完璧超人は!)
精神世界の中では、リリアが複雑な表情で唸っていた。
『鮮やかな手腕ですわね。あの若さでこれほど貴族社会の力学と実務を把握しているとは、ロイマスクエル家の教育水準の高さが窺えます』
『男の点数稼ぎに決まってるでしょ。 騙されるんじゃないわよライラ、後でとんでもない見返りを要求されるに決まってるわ』
レイラが腕を組んで悪態をつく中、アイラはどこか遠い目で懐かしんでいた。
『ふふ、あんな風に背後から書類を覗き込まれると、ドキドキして仕事に集中できなくなるのよね。ジュリアンも昔、執務中の私によくあんな悪戯をしてきたものだわ……何か昔を思い出してきたわね。同調してきて人間の感情が戻ってきてるのかしら?』
そんな精神世界の喧騒をよそに、ダニエルの献身的な補佐のおかげで、山積みだった執務は午後の早い時間にあっさりと片付いてしまった。
「ふう……信じられない速さで終わってしまいましたわ」
ライラが椅子の背もたれに体を預けると、ダニエルが満足げに微笑みながら立ち上がった。
「素晴らしい集中力でしたね、エレーナ様。予定よりも早く仕事が終わりましたし……少し、庭園を散策しませんか? 貴女に見せたいものがあるのです」
ダニエルの誘いに、ライラは断る理由も見当たらず、静かに頷いて立ち上がった。
夕暮れ時、公爵邸の広大な庭園は、茜色と紫色のグラデーションに染まる美しい黄昏に包まれていた。
咲き誇る深紅や純白の薔薇が甘い香りを放ち、石畳の小道を二人は並んでゆっくりと歩み進めた。
並んで歩くダニエルの横顔を盗み見ながら、ライラは不思議な感慨に耽っていた。
(アイラやリリアには元の世界に愛する人がいて、レイラにも何か過去があるみたいだけど……私には、今まで特定の誰かを本気で愛した経験なんてなかったわ)
かつて生きた前世では、アイラたちの知る悪役令嬢の筋書き通り、破滅へと突き進むだけの人生だった。
「エレーナ様」
薔薇のアーチをくぐり抜けた東屋の前で、ダニエルが足を止め、静かに振り返った。
夕陽の光を浴びて、ダニエルの濃紺の瞳が宝石のように深く煌めいていた。
ダニエルは懐から豪奢なビロードの小箱を取り出し、エレーナの前でそっと開いてみせた。
中に収められていたのは、夕暮れの光を吸い込んで神秘的な青い輝きを放つ、最高級のサファイアとプラチナで編み込まれた繊細なブレスレットであった。
「これは……?」
ライラが息を呑むと、ダニエルは愛おしそうにブレスレットを見つめた。
「王都の一流の宝飾ギルドに特注したものです。貴女のあの吸い込まれそうなほど美しい、青玉の瞳と同じ色の石を探させました」
ダニエルは箱からブレスレットを取り出すと、エレーナの細い左手首を優しく取り、丁寧な手つきで留め金を嵌めた。
冷やりとした金属の感触の後に、ダニエルの温かい指先の熱が手首へと伝わってきた。
「……とてもよくお似合いです。まるで、貴女のために生まれてきた宝石のようだ」
ダニエルはエレーナの手首を離さず、そのままそっと自らの胸元へと引き寄せた。
そして、エレーナの目を見つめ、低く熱を帯びた声で語りかけた。
「四年前、あの暗く冷たい地下牢で、光のように現れて私を救い出してくれた貴女の姿を、私は片時も忘れたことはありません。あの日からずっと、私の心は貴女だけのものです」
ダニエルの真摯な言葉が、夕暮れの静寂に染み渡っていく。
「たとえ、この婚姻が政治的な協定から始まったものだとしても……私は、貴女の心を手に入れたい。いつの日か、貴女が義務ではなく、本物の愛をもって私を見つめてくれるその日まで、私は何度でも貴女に求愛し続けます」
ダニエルは静かに頭を垂れ、エレーナの手の甲へと、羽毛のように優しく熱い口づけを落とした。
トクン、とライラの胸の中で、かつて経験したことのない甘く激しい衝撃が弾け飛んだ。
世界の波長と同調しているライラの魂を通じて、ダニエルの嘘偽りのない純粋な情愛の熱が、奔流となって全身の血管を駆け巡った。
顔が一瞬で林檎のように真っ赤に染まり、頭から湯気が出そうなほどの羞恥と動揺がライラを襲った。
「っ……! ダ、ダニエル様、急に何を……!」
ライラは慌てて手を引っ込めようとしたが、ダニエルの指は優しく、しかし決して逃がさない確固たる力でエレーナの手を握りしめていた。
ダニエルは顔を上げると、真っ赤になって取り乱すエレーナの愛らしい姿に思わず目を丸くし、そして堪えきれないように愛おしげな笑みを零した。
「……ふふ、普段はあんなに冷徹で完璧な公爵様なのに、そんな風に初心な少女のように照れてくださるとは思いませんでした。ますます、貴女から目が離せなくなりそうだ」
「か、からかわないでくださる!? もう、お屋敷に戻りますわ!」
ライラはエレーナの威厳を完全にかなぐり捨てて踵を返すと、逃げるように早足で屋敷へと向かって歩き出した。
背後から、ダニエルの心地よい楽しげな笑い声が追いかけてくる。
精神世界の中では、三人の魂が今日のライラとダニエルを評価していた。
『ライラ、完全に落ちてるじゃない。手の甲にキスされただけで茹で蛸みたいになってるわよ』
『お姉様、ダニエル卿の求愛攻撃、あまりにも直球すぎて防壁が完全に貫通されておりますわ。このままでは外堀どころか本丸まで陥落してしまいます』
『あらあら、いい雰囲気じゃない。ライラ、素直になって彼を受け入れちゃえば楽になるわよ?』
その夜、自室のベッドへと飛び込んだライラは、真っ赤になった顔を枕にぎゅっと押し付け、ジタバタと足をバタつかせた。
「あーもうっ! なんなのよアイツ、なんなのよダニエル! あんなの反則でしょ、カッコよすぎるじゃないのよバカァッ!」
手首に輝くサファイアのブレスレットに触れるたび、昼間のダニエルの甘い声と、手の甲に残る熱い感触が鮮やかに蘇ってくる。
ライラは枕から顔を上げ、精神世界の仲間たちへ向けて涙目で抗議の声を上げた。
「ちょっとみんな!なんで私ばっかりこんな心臓に悪い目に遭わなきゃいけないのよ! 早くそっちも神力の波長を合わせなさいよね!」
『言われなくてもやってるわよ! でも、この世界の極小神力って妙に情緒的で、戦いの波動と合わないのよ!』
レイラが悔しそうに唸り声を上げた。
『極小神力の波長を解析すればするほど、愛や絆といった情動のパラメーターが不可欠であるという結論に至ってしまいますの……。論理だけで制御しようとする私の術式とは、根本的に相性が悪すぎますわ……』
リリアが溜息を吐きながら力なく項垂れた。
三人がどれほど足掻いても、世界の波長と同調できる気配は一向に見えてこなかった。
つまり、当面の間はこのままライラが表に出て、エレーナとしてダニエルの熱烈なアプローチを受け止め続けなければならないという現実を意味していた。
ライラは天井を見上げ、深く長いため息を吐き出した。
世界の波長と同調すればするほど、ダニエルの真摯な愛が魂に染み渡り、彼を意識せずにはいられなくなっていく。
ライラの手は無意識のうちに、手首のサファイアを優しく撫でていた。
甘く危険な新婚生活と、精神世界で悪戦苦闘を続ける大魔女たちの前途多難な日々は、まだまだ始まったばかりであった。
ベッドの上で枕に顔を埋め、足をバタつかせていたライラに対し、精神世界の奥底からアイラの怜悧で落ち着き払った声が静かに響き渡った。
『……ちょっと待ちなさい。狂態を晒すのはそこまでにしなさい、ライラ』
冷や水を浴びせられたように、ライラは枕から顔を上げた。
「な、何よアイラ。人がせっかく乙女の悶絶を味わっているっていうのに」
『その乙女の悶絶こそが問題なのよ。……よく状況を整理してみてちょうだい』
アイラは精神世界の中で腕を組み、冷徹な大魔女としての眼差しをライラへ向けた。
『シンの目的は、私たち全員が神として成長するために、極小神力を自在に扱い、世界の波長と同調する術を身につけさせることよ。けれど今の貴女はどうかしら? ただ無防備に世界の波長に呑まれ、生身の人間の情緒に振り回されているだけではないの?』
アイラの冷徹な指摘に、秀才肌のリリアもハッとしたように眼鏡のブリッジを押し上げた。
『アイラお姉様の仰る通りですわ! そもそも私たち三人の感情が希薄になっているのは、魂の神格化が進んだことによる必然的な現象です。尊厳や誇りを傷つけられた際の怒りは湧きますが、この世界の人間に対する執着や愛情といった情動は、本来なら極めて薄いはずなのです』
『そうね。あいつの顔が良いだの口説き文句が甘いだの、そんな俗世の男のフェロモンに当てられている時点で、完全に波長に溺れている証拠よ』
レイラも鼻を鳴らして同意した。
アイラは静かに言葉を続けた。
『ライラ、貴女が一人で無自覚に波長を合わせて悶えていても、私たち三人の修行には一ミリもなっていないのよ。貴女に必要なのは、波長に流されることではなく、魂の波長を自在にコントロールする技術のはずだわ』
「う……ぐうの音も出ない正論ね……」
ライラは図星を突かれて唇を尖らせた。
『ええ。だからライラ、一度その世界の波長から少し意識を離しなさい。完全に同調しきるのではなく、少しだけ波長をずらして、私たちにもそのチューニングの感覚を共有してちょうだい』
「分かったわよ。ちょっと波長を緩めればいいのね? ええと、こんな感じかしら……」
ライラは言われた通り、全身に巡らせていた世界の波長との繋がりを、意識的にフッと緩めようとした。
しかし、その刹那――カチリ、と魂の奥底で何かが外れるような乾いた感覚が走った。
「……あれ?」
次の瞬間、ライラの胸を激しく焦がしていた甘やかな熱情も、手首のブレスレットに触れた瞬間のときめきも、頭から湯気が出そうなほどの羞恥心も、まるで引き潮のように一瞬で綺麗さっぱり消え去ってしまった。
ドキン、ドキンと激しく脈打っていた心臓は、驚くほど静かで規則正しい鼓動へと落ち着いた。
手首に輝くサファイアのブレスレットを見つめても、「王都の一流ギルドが作った、資産価値の高い装飾品」という無機質な認識しか湧き上がってこない。
ベッドからゆっくりと身を起こしたライラは、無表情で自らの胸元に手を当てた。
「……アイラ。完全に消えちゃったわ」
『消えたって……何がよ?』
「ダニエルに対するドキドキとか、恥ずかしいとかいう感情が、跡形もなく綺麗さっぱり消滅したわ。というか、世界の空気の美味しさも、シーツの肌触りの良さも、全部どうでもよくなっちゃった」
精神世界の中で、三人の大魔女たちが一斉に絶句した。
『はあぁぁっ!? ちょっとライラ、少しだけ波長をずらせって言ったのよ! なんで元の神格の波長までゼロ百で戻しちゃってるのよ!』
アイラが思わず眉間を押さえて叫んだ。
『お姉様、ライラお姉様は、オンとオフの切り替えしかできなかったのですわ……! 微細な出力調整という概念が存在しなかったのです!』
リリアが頭を抱えて悲鳴を上げた。
「だ、だって仕方ないじゃない! 自然に合っちゃったものなんだから、どうやって微調整するかなんて分からないわよ!」
ライラが不満げに頬を膨らませたが、その瞳には先ほどまでの瑞々しい情緒の揺らぎはなく、神格化した冷涼な光が宿っていた。
『……まったく、前途多難ね。要するに、私たちは全員揃ってスタートラインに逆戻りしたというわけよ』
レイラが深く溜息を吐き出した。
アイラは精神世界で小さく息を整え、現実的な方針を打ち立てた。
『仕方がありませんわね。ライラもこれからは、無意識に同調するのではなく、意識的に数パーセントずつ波長を合わせていく訓練に切り替えなさい。私たち三人にとっても、その方が論理的に解析しやすいはずよ』
こうして、大魔女たちによる神力の同調修行は、再び四人揃ってゼロからの仕切り直しとなったのである。
そして迎えた翌朝。
エレーナの肉体を動かすライラは、波長を完全に遮断した氷のような精神状態のまま目を覚ました。
身支度を整え終えた頃合いを見計らったように、私室の扉が控えめにノックされた。
「エレーナ様、おはようございます。朝食をお持ちいたしました」
扉を開けて現れたのは、昨朝と同じく、非の打ち所がない完璧な貴公子然とした佇まいのダニエルであった。
ワゴンには、昨日とは趣向を変えた焼きたてのスコーンと、バラのジャム、そして甘い香りを放つ特製のミルクティーが美しく並べられていた。
「昨夜はよく眠れましたか、エレーナ様。今朝は貴女の疲れを癒やすため、特別なハーブをブレンドした紅茶をご用意しました」
ダニエルは至近距離まで歩み寄り、エレーナの目を覗き込みながら、蕩けるような甘い微笑みを浮かべた。
昨日の夕暮れ、庭園で真っ赤になって逃げ出した愛らしい妻の反応を思い返し、今日も少しずつ距離を縮めてみせようと意気揚々とした気配を漂わせていた。
しかし、椅子に腰掛けていたエレーナは、伏し目がちに照れるどころか、一切の感情を交えない冷涼な青玉の瞳でダニエルを真っ直ぐに見返した。
「おはようございます、ダニエル様。毎朝ご苦労様ですわ」
エレーナの声には、昨日のような動揺や照れ隠しのトゲは微塵も含まれていなかった。
あるのは、ただ絶対零度の完璧な淑女の礼儀作法だけであった。
「……あ、ああ。ええと、お口に合うと良いのですが」
ダニエルの端整な笑みが、ほんの僅かに引きつった。
ダニエルは気を取り直し、昨朝ライラを悶絶させた必殺の手順を再現すべく、フォークで一口大に切り分けたスコーンにジャムを乗せ、エレーナの唇の前へと差し出した。
「さあ、今朝も私から食べさせて差し上げましょう。あーん、してください」
至近距離から放たれる、完璧な美貌と熱烈な求愛の視線。
昨日であれば頭から湯気を噴き出して取り乱していたはずのシチュエーションであった。
だが、現在のライラは世界の波長から完全に切り離された、ただの高位次元の存在であった。
エレーナは眉一つ動かさず、淡々とした手つきでダニエルの手首をそっと押し戻した。
「ダニエル様、手元が狂ってドレスを汚しては無作法ですし、何より食事を他人に運ばせるのは非効率ですわ。自分でいただけますので、どうぞお気遣いなく」
エレーナは流麗な所作で自らフォークを手に取ると、スコーンを上品に口へと運んだ。
「……ええ、適正な温度と糖度ですわね。エネルギー補給としては極めて申し分ありません。ご配慮に感謝いたします」
咀嚼を終えたエレーナは、感情の起伏が全く見られない完璧な笑みを浮かべ、優雅に紅茶を啜った。
差し出した手を空中で止められたダニエルは、完全に硬直していた。
昨日の夕暮れにあれほど愛らしく取り乱していた妻が、一転して感情を完全に削ぎ落とした氷の彫像のように冷ややかな態度を取っている事実に、ダニエルの表情には隠しきれない動揺と混乱が走っていた。
昨日の求愛が強引すぎて怒らせてしまったのか、それとも朝から給仕をするような男は鬱陶しいと見限られたのかとでも案じているのか、ダニエルの額にはツーと一筋の冷や汗が流れていた。
精神世界の中では、大魔女たちがその様子を眺めて乾いた笑いを漏らしていた。
『ぷっ……あははは! 見なさいよあのダニエルの顔! 完全に『やらかした』って顔で青ざめてるじゃない!』
レイラがお腹を抱えて爆笑した。
『ライラお姉様、いくらなんでも素っ気なさすぎますわ! あれではまるで、精巧な自動人形の受け答えです!』
リリアが窘めるように声を上げた。
ライラは内心で困惑の溜息を吐き出した。
(そう言われても困るわよ! 波長を遮断したら、本当に心臓がピクリとも動かないんだもの! あんなに格好良く見えてたダニエルの顔が、今はただの『造形が整った人体のパーツ』にしか見えないのよ!)
『ふふ、感情の落差が激しすぎて、小公爵様が可哀想になってくるわね』
アイラが苦笑いを浮かべた。
朝食を終えた後、午前中の執務室においても、ダニエルの受難は続いた。
机の上に積まれた領地関係の公文書を前に、ダニエルは挽回を図るべく、再びエレーナの背後へと回り込んだ。
「エレーナ様、この交易監査の書類、私が目を通しておきましょうか」
ふわりと白檀の香りを漂わせ、至近距離から肩越しに手を伸ばす、昨日ライラを激しく赤面させた必殺の背後アプローチであった。
だが、現在のエレーナは無駄のない速度で羽ペンを走らせたまま、振り向きもせずに淡々と答えた。
「いいえ、ダニエル様。この程度の帳簿の計算など、精神演算を用いれば三分で検算が終了いたしますわ。ロイマスクエル家の法務官を動かす人件費と時間を考慮すれば、私が今ここで片付けるのが最も合理的です。お気遣いなく」
シャッシャッと規則正しい音を立てて羽ペンが走り、難解を極める交易関税の計算書が、恐るべき正確さで次々と承認の山へと積まれていった。
背後で腕を伸ばしたまま固まったダニエルは、かける言葉を失って立ち尽くしていた。
頼られるどころか、完全に一人で自己完結しているエレーナの背中を見つめ、ダニエルは内心で激しく打ちのめされている様子であった。
しかし、大聖堂の回廊で自ら宣言した通り、ダニエルは容易に退く男ではなかった。
青ざめながらも拳を強く握りしめると、その濃紺の瞳には挫けるどころか、並大抵の試練では心を許さない妻を必ず振り向かせてみせるという不屈の闘志が、めらめらと燃え上がっていたのである。
(……この男、引くどころか逆に燃え盛っているわね)
エレーナの内に潜むライラが思わず気圧されていると、ダニエルは何事もなかったかのような極上の笑みで食い下がってきた。
「エレーナ様、午後の執務が終わりましたら、王都で最も評判の劇団の特別席を予約してあります。息抜きに、私と観劇へ行きませんか?」
ダニエルが真摯な眼差しで食い下がると、エレーナは書類から視線を上げ、感情のない青玉の瞳を向けた。
「観劇、ですか。……民衆の流行や文化動向を把握するための市場調査としてなら、視察する価値はありますわね。同行いたしましょう」
「あ、ありがとうございます……!」
ダニエルは引きつった笑顔を浮かべながらも、辛うじて約束を取り付けたことに安堵の息を漏らした。
執務室の空気が再び静まり返る中、エレーナの内なる精神世界では、四人の大魔女たちが眉間に皺を寄せて瞑想を再開していた。
『……さて、ライラ。呆けている暇はないわよ』
アイラが精神世界の中央で腕を組み、厳格な声音で号令を下した。
『ダニエルが健気にあれこれ仕掛けてくれている今こそ、絶好の修行の機会よ。ライラ、魂の波長をほんの一ミリだけ、この世界の波動へ寄せてみなさい』
「ええ〜っ、またあの心臓に悪い修行をやるの……? でも、さっきみたいに完全にゼロにしちゃったら意味ないのよね」
ライラは渋々ながらも、精神世界の中で腰を下ろし、自らの極小神力を恐る恐る弄り始めた。
『論理的に波長を測定しますわ。ライラお姉様、現在の魂の同調率はゼロパーセントです。まずは五パーセント……いえ、三パーセントの同調を目指してくださいまし』
リリアが宙に複雑な魔導測定陣を展開し、数値を細かくモニタリングし始めた。
『おいライラ、力任せに神気を押し込むんじゃないわよ! 私の二の舞になってスパークするからね!』
レイラが腕を組んで鋭い野次を飛ばした。
「分かってるわよ! ええと……三パーセント、三パーセント……世界の空気を、ほんの少しだけ意識の端っこで味わうように……」
ライラが慎重に、まるで薄氷を踏むような手つきで魂の波長を僅かに傾けた。
ピクリ、とエレーナの胸の奥で、微かな感覚の揺らぎが生じた。
(……あ。ダニエルの白檀の匂いが、さっきよりちょっとだけ良い匂いに感じるかも……?)
ほんの僅かな感情の芽生えであった。
しかし次の瞬間、その感覚に気を取られたライラの神気がふわりと揺らぎ、同調のバランスが崩れかけた。
『ああっ、いけませんわ! 虚数項のグラフが急激に跳ね上がりました! 制御が乱れます!』
リリアの悲鳴とともに、ライラは慌てて波長を元の遮断状態へと引き戻した。
途端に、微かに感じられた心地よい香りも、スンと無機質な空気へと戻ってしまった。
「うわーん! 難しすぎるわよこれ! ほんのちょっと意識を向けただけで、一気に全部持っていかれそうになるじゃない!」
ライラが精神世界の床に転がってジタバタと手足を暴れさせた。
『……なるほどね。感覚派のライラですらこの難易度なのだから、理屈や力技でねじ伏せようとしていた私たちが弾かれるのも当然というわけね』
アイラは深く息を吐き出し、自らの魂の奥にある極小神力を見つめ直した。
世界の波長と同調し、人間らしい情緒を制御しながら神格を馴染ませていく。
それは、かつて数万の軍勢を消し去る大魔法を編み出すことよりも遥かに繊細で、気の遠くなるような精神の精密作業であった。
そして現実世界では、氷のように無反応な妻を振り向かせようと、ダニエルが試行錯誤を繰り返しながら必死にアプローチを企てていた。
「エレーナ様、劇場の後は、貴女の瞳の色に合わせたデザートを用意させてありますからね……!」
不屈のスパダリと、感情の波長調整に悪戦苦闘する大魔女たち。
噛み合っているようで全く噛み合っていない奇妙な夫婦の修行劇は、ますます混沌の度合いを深めながら続いていくのであった。
王都の中央劇場に設けられた公爵家専用の豪奢な特別貴賓席において、ダニエルの並々ならぬ奮闘は続いていた。
舞台上で繰り広げられる華やかなオペラを余所に、ダニエルは隣に座るエレーナへ、青玉の瞳と同じ色に輝くバタフライピーとブルーベリーの特製ジュレを恭しく差し出した。
「エレーナ様、この劇場の特別席でしか味わえない限定のデザートです。貴女の美しい瞳を模して作らせました。……よろしければ、一口いかがですか?」
ダニエルは至近距離から熱っぽく微笑みかけ、少しでも妻の凍りついた心を溶かそうと必死であった。
しかし、エレーナの肉体を動かすライラは、波長をゼロに戻した絶対零度の状態のままであった。
エレーナは視線すら揺らさず、淡々とした手つきでスプーンを受け取った。
「ええ、視覚的な色彩の調和とアントシアニンの含有比率は評価に値しますわ。観劇中の疲労を回復させるための糖分補給として、極めて効率的に摂取いたします」
スプーンを口に運んだエレーナの顔には、微塵の感動も浮かんでいなかった。
「ア、アントシアニン……?」
聞いたこともない未知の単語に目を白黒させつつ、またしても完璧な論理で流されてしまったダニエルは、引きつった笑みを浮かべて頭を抱えそうになっていた。
昨日の庭園で見せた愛らしい照れ顔が嘘のように遠のき、青ざめながらも必死に笑みを取り繕う夫を前に、エレーナの内なる精神世界では、大魔女たちが緊急の作戦会議を開いていた。
『……ちょっとライラ、貴女のそのゼロ百思考、どうにかしなさいよ! あんなの誰が見ても精巧な魔導オートマタじゃないの!』
レイラが頭を抱えて叫んだ。
『だって無理なんだもの! 三パーセントだけ波長を合わせようとしたら、一気に百パーセントの激流が押し寄せてきて、心臓が爆発しそうになるのよ! ゼロにして心を無機物にするか、百にして茹で蛸になるかの二択しかないわ!』
ライラが精神世界の床で涙目になって抗議した。
その不器用すぎる天才肌の叫びを聞き、アイラは腕を組みながら鋭い溜息を吐き出した。
『……仕方がありませんわね。ライラ一人に微細な出力調整を任せるのは、最初から土台無理な話だったというわけよ』
アイラの言葉に、リリアも深く頷いて眼鏡のブリッジを押し上げた。
『ええ、ライラお姉様は直感とセンスだけで世界の理を掴んでしまう方です。理論的なブレーキの概念が存在いたしません。……ならば、私たちがライラお姉様の神力に介入し、無理やり三パーセントのラインで押し留めるしかありませんわ』
「えっ、みんなで手伝ってくれるの!?」
ライラがパッと顔を輝かせた。
『ええ。ライラが波長を傾けようとした瞬間、私とリリアとレイラの三人で、その神気の奔流に精神の楔を打ち込んでストッパーをかけるわ。三人掛かりで力ずくで押さえ込めば、急激な暴走は防げるはずよ』
アイラが厳格に号令を下し、精神世界の三人がそれぞれライラの魂の結節点へと魔導の錨を打ち込んだ。
『行くわよ、ライラ! ほんの少しだけ、ダニエルに向かって意識を開きなさい!』
レイラの合図とともに、ライラは恐る恐る魂の波長を世界へと傾けた。
途端に、濁流のような世界の波長が魂へと雪崩れ込んできた。
「うわっ、やっぱり一気に来ちゃう……!」
『逃がしませんわ! 第一制動術式、展開! 虚数項のベクトルを相殺します!』
リリアが叫び、無数の幾何学陣を張り巡らせた。
『ぐ、ぬぬぬ……っ! なんなのよこの神気の質量は! 私が力任せに引っ張って、五パーセントの位置でねじ伏せてやるわ!』
レイラが全身の破壊魔力を滾らせて神気の奔流を力ずくで掴みにかかった。
『アイラ、リリア、レイラ、三人の意識を束ねて! ライラの神力を押し留めるのよ!』
アイラが鋭く指示を飛ばし、三人の大魔女が全霊をもってライラの神気を制御しようと奮闘した。
しかし、四人の力が交錯した瞬間――精神世界全体に、キィィィンという耳を劈くような激しいハウリング音と魔力の不協和音が巻き起こった。
『きゃああっ!? な、何ですのこの激しい拒絶反応は!?』
リリアが展開していた魔導陣が一瞬で粉々に砕け散った。
『ぐあっ……!? 私の意志とライラの意志が、まるで磁石の同極同士みたいに猛烈に反発し合っているわ!』
レイラが吹き飛ばされて床へと膝を突いた。
客席のエレーナの肉体もまた、ピクリと不自然に痙攣し、ダニエルが驚いて身を乗り出した。
「エレーナ様!? だ、大丈夫ですか、急に顔色が……」
「だ、大丈夫ですわ……ちょっと、劇の迫力に圧倒されただけです……」
エレーナは引きつった笑みを浮かべて誤魔化しながら、内心で悲鳴を上げた。
(ちょっとみんな、何やってるのよ! 余計に魂がめちゃくちゃに掻き乱されてるじゃない!)
『おかしいわね……! 私たち三人の力をもってしても、ライラの極小神力を外側から制御することすら叶わないなんて……!』
アイラが眉間を押さえ、激しい疑問に囚われた。
その時、吹き飛ばされたリリアが、宙に散乱する術式の残骸を見つめながら、ハッと息を呑んだ。
『……待ってくださいまし。私、とんでもない根本的な誤謬に気づいてしまいましたわ』
『リリア? 誤謬って何よ、早く説明しなさい!』
レイラが立ち上がりながら急かした。
リリアは震える手で眼鏡を直すと、精神世界の中央に浮かぶ、四人の魂の結節点――その深奥を指差した。
『極小神力の波長とは、すなわち魂そのものの波長です。……そして今、このエレーナの肉体に宿っている魂の構造を思い出してくださいまし』
リリアの言葉に、アイラも息を呑んだ。
『魂の構造……。シンは言っていたわ。私の魂の中に、滅びた世界と世界樹、そしてリリアの魂が不可分に融合してパッケージングされていると。そしてそこに、ライラとレイラの意識も同居している……』
『そうですわ、アイラお姉様! 私たちの意識は確かに四つに分かれていますが、極小神力が湧き出している源泉たる魂の核は――最初から完全に『たった一つ』しか存在しないのです!』
リリアの決定的な指摘に、大魔女たちの脳裏に雷鳴のような衝撃が走り抜けた。
『魂の出所が……一つ……!?』
ライラが目を丸くした。
リリアは熱を帯びた声で一気に捲し立てた。
『ええ! なのにも関わらず、私たちは重大な勘違いをしておりました! ライラお姉様一人に波長を合わせさせようとしたり、レイラお姉様が一人で力づくでねじ伏せようとしたり、アイラお姉様や私が個別の意識で波長を解析しようとしていたのです!』
アイラがハッと目を見張った。
『そうか……! 一つの魂から出ている力を、四人がそれぞれ勝手な方向へ引っ張り合っていたから、不協和音を起こして弾かれていたのね!』
『そういうことよ! 誰か一人が波長を合わせようとしても、残りの三人の意識が違う波長を出していたら、ノイズになってゼロ百の極端な反動が起きるのは当然だわ!』
レイラが拳を手のひらに打ち付けた。
一人ずつ順番に制御するのではない。
四人の意識が完全に一つに重なり合い、全員で同じ波長のハーモニーを奏でなければ、極小神力という絶対的な力は微動だにしないのだ。
『……なるほどね。一人では絶対に辿り着けないけれど、四人全員の意識が調和すれば、完璧なコントロールが可能になるというわけね』
アイラの口元に、大魔女としての怜悧な確信の笑みが浮かんだ。
『ライラ、レイラ、リリア。もう一度やるわよ。今度は外側から押さえ込むんじゃない。四人の意識を完全に同期させ、全員で同時に世界の波長へ歩み寄るのよ!』
「了解よ、アイラ!」
ライラが力強く頷き、四人は精神世界で手を取り合うように意識を重ね合わせた。
四つの異なる魂の音色が、一つの核を通じて美しく重なり合い、完璧な和音を奏でていく。
そして、舞台上のオーケストラが壮大なクライマックスの調べを響かせた瞬間――四人は息を合わせ、世界の波長へとそっと指先を触れるように、三パーセントの意識を傾けた。
カチリ、と魂の精緻な歯車が音を立てて噛み合う。
今度は反発も暴走も起きず、信じられないほど滑らかに、心地よい波長がエレーナの全身を包み込んだ。
「……あ」
エレーナの唇から、小さく可憐な吐息が漏れた。
隣に座るダニエルの横顔が、ふわりと柔らかな光を帯びて網膜に映し出された。
漂ってくる白檀の香りが胸を優しくくすぐり、トクン、と心臓が可愛らしい音を立てて跳ね上がった。
暴走するほどの激流ではなく、春の小川のように穏やかで、しかし確実に胸を温める人間らしい情緒の芽生えであった。
(……できた! これよ、この感覚! 完全に制御できてる!)
ライラが精神世界で歓喜の声を上げた。
エレーナはスプーンを置き、隣で心配そうに見つめていたダニエルへと、恥じらうように視線を向けた。
「……ダニエル様。先ほどは、無粋なことを申して失礼いたしました。このジュレ……とても爽やかで、ほんのりと甘くて……胸が解けるように、美味しいですわ」
エレーナの白い頬が、ほんのりと桜色に染まっていた。
その瞳には、氷のような冷たさは微塵もなく、年相応の少女の瑞々しさと可憐な光が宿っていた。
完璧すぎる淑女がふいに見せた、あまりにも無防備で可憐な微笑み。
その破壊力を至近距離で浴びたダニエルは、息を呑んで完全に硬直した。
次の瞬間、ダニエルの顔が一瞬で耳まで真っ赤に染め上がった。
「っ……! あ、ありがとう、ございます……! エレーナ様に喜んでいただけて、私は……胸がいっぱいです……!」
ダニエルは胸元を押さえ、感極まったように視線を泳がせながら、激しく動揺していた。
精神世界の中では、大魔女たちが一斉に快哉の叫びを上げた。
『やったわ! 見た!? あのダニエルの初心な反応!』
レイラがニヤニヤと笑いながら快哉を叫んだ。
『大成功ですわ! 三パーセントの同調率を、四人の意識の調和によって完璧に維持できております!』
リリアが興奮気味に数値を弾き出した。
『ふふ、思っていた通りね。魂が一つである以上、私たちの絆こそが神力を操るための鍵だったというわけだわ』
アイラも満足げに頷いた。
劇場からの帰りの馬車の中でも、エレーナは絶妙な三パーセントの波長を維持し、ダニエルとの心地よい会話を優雅に楽しんだ。
ダニエルは終始、夢見心地のような蕩けた表情でエレーナを見つめ、屋敷に到着してエレーナの手を取って降ろす際も、その指先を惜しむように名残惜しそうにしていた。
「エレーナ様、今夜は本当に素晴らしい時間でした。……おやすみなさい、愛しい人」
「ええ、おやすみなさいませ、ダニエル様」
エレーナが淑女の礼を返すと、ダニエルは幸せそうに胸を押さえながら自室へと戻っていった。
そして、静寂の帳が下りた公爵邸の私室。
薄いネグリジェに着替えたエレーナは、天蓋付きの豪奢な寝台へと静かに腰を下ろした。
周囲に厳重な防音と不可視の結界を展開すると、エレーナの意識は一気に内なる精神世界の深淵へと沈んでいった。
精神世界の広大な空間には、アイラ、ライラ、レイラ、リリアの四人が、穏やかな光を纏って円陣を組むように座していた。
『さて、みんな。ここからが今夜の本番よ』
アイラが静かに語りかけた。
『劇場で掴んだあの感覚を、完全に定着させるわ。四人の意識を完全に同期させ、極小神力の出力をゼロから百まで、自在にスライドできるように調律するのよ』
「望むところよ! 劇場の感覚が残っている今なら、絶対にできるわ!」
ライラが力強く頷いた。
四人は同時に目を閉じ、一つの魂の核へと意識を沈めた。
魂の最奥から湧き上がる、果てしなく広大な極小神力。
アイラがその流れを統制し、リリアが精密な目盛りを刻み、レイラが余剰な魔力を整え、ライラが世界の波長との接点を優雅に手繰り寄せる。
四つの意識が寸分の狂いもなく完全に調和し、一つの巨大な意志となって神力を紡ぎ出していった。
十パーセント、二十パーセント、五十パーセント、そして百パーセント。
神気の波長は、四人の意のままに、まるで楽器の弦を調律するかのように滑らかに伸縮し、完璧な制御下に置かれた。
そして最後の一音を奏で終えた瞬間――カチリ、と魂のすべての歯車が完全に固定され、心地よい黄金の光が精神世界を満たした。
四人は同時に目を開いた。
もはや、不快な拒絶反応も、激流に流されるような恐れも一切存在しなかった。
『……辿り着いたわね』
レイラが不敵な笑みを浮かべて立ち上がった。
『ええ。極小神力の波長制御、完全に成功いたしましたわ。これで感情の出力も、神気の行使も、私たちの自由自在です』
リリアが晴れやかな表情で眼鏡を直した。
現実世界の寝台の上で、エレーナは自らの華奢な両手を掲げ、青玉の瞳を神秘的に煌めかせた。
波長を完全に遮断して絶対零度の鉄壁の公爵として君臨することも、十パーセントだけ開いて思わせぶりに微笑むことも、そして百パーセント解放して熱烈な情愛に身を委ねることも、今や思考一つで完全にコントロールできるようになっていた。
「ふふ、これでシンの課した修行の第一段階は、完全にクリアしたわね」
エレーナは妖艶な笑みを浮かべ、手首に嵌められたサファイアのブレスレットを愛おしそうに指先で撫でた。
不屈の愛をぶつけてくる小公爵ダニエルを、いかにして手玉に取り、いかにして夫婦としての絆を深めていくか。
それに、王都の暗がりで蠢く怪しげな新興教団の調査も、これから本格的に着手しなければならない。
最強の調律を完了させた大魔女たちの前途には、もはや一片の死角も存在していなかった。




