顕微鏡の縮小化と次代への布石
とある日、きらびやかな王宮の舞踏会場の片隅で、アイラたちは今後の事について密かに言葉を交わしていた。
現在のアイラとリリアはまだ九歳であり、前回の時間軸で正式に婚約を発表したのは十六歳のデビュタントのときだった。
彼女たちの精神の中では二人の殿下との婚約はすでに決定事項なのだが、世間的にはそうではない。
他の貴族家への根回しがまだ終わっていないこの状況で、二人がジュリアンやエドワードに急接近しているのは、周囲の目には問題と映るようだった。
実際に、国王ジェラールのもとには、他の貴族たちからの不満が少なからず寄せられているという。
高位貴族の家にちょうど年頃の令嬢はいないものの、寄り子の家から養子を貰えば良いのだから、彼らにしてみれば尤もな話であった。
伯爵家以上の貴族家は、何としても王家に自分の派閥の娘を嫁がせたいと思っているのだ。
「ですから、今は他の貴族たちの動向を注視するべきですね」
ジュリアンが苦笑しながら、手元のグラスを揺らした。
「ええ、余計な摩擦を避けるためにも、不満を鎮めるような対応をいたしましょう」
リリアが優雅に頷き、エドワードに微笑みかけた。
具体的な対策として、王家は形だけの婚約者候補を選び、時間をかけて選定していくという催しを開催してガス抜きを図ることにした。
アイラたちはその催しに出席したりしなかったりすることで、他家との衝突を極力避ける方向で意見が一致した。
本物の婚約は決定事項なのだから、二人は余裕ある態度を崩さなければ良いだけのことである。
「選定の相手をさせられるジュリアンとエドワードは大変でしょうけれど、そこは王族の務めですから諦めてもらいましょう」
アイラが他人事のように言って、お菓子の乗った皿を引き寄せた。
「君は本当に容赦がないね、アイラ」
ジュリアンが楽しげに笑い、彼女の頭を優しく撫でた。
後日、アイラとリリアを牽制するかのように、お茶会やサロン、夜会などで他の貴族令嬢たちが様々な言葉を投げかけてきた。
しかし、大人の精神と圧倒的な実力を持つ二人が特に何の反応も示さないため、令嬢たちはかえってやきもきするばかりだった。
そんなある日のお茶会に、魔道具技師であるミーアが現れた。
ミーアは平民の出身で男爵位を授かったものの身分こそ低いが、テレーゼ王妃のお気に入りで、ジェラール陛下の憶えもめでたい稀有な令嬢だった。
彼女にとってアイラとリリアは親友のようなポジションであり、他の令嬢たちもそんなミーアとお近づきになりたいと考えていた。
お茶が進むにつれて、自然と魔道具についての話題へと移っていった。
貴族の令嬢たちは教養として生物学を学んでおり、高貴な人々の多くはそれなりの知見を有していた。
「実は、我がアルトアンジュ侯爵家が、東の国から『顕微鏡』と呼ばれる素晴らしい道具を手に入れたのですわ」
誇らしげに語ったのは、一人の令嬢、ヒルディオーネ・アルトアンジュ侯爵令嬢だった。
その言葉を聞いた瞬間、アイラとリリアは驚いて顔を見合わせた。
最初の時間軸において、ヴァリエール王国では後にミーアが顕微鏡を発明したはずだったが、東のアウストラル帝国では既に発明されていたという事実に驚愕したのだ。
「ぜひ、その実物を見てみたいですわ」
リリアが興味深そうに微笑むと、他の令嬢たちも賛同した。
こうして後日、このお茶会のメンバーでヒルディオーネの屋敷へ実物を見に行くことになった。
数日後、アルトアンジュ侯爵家の広大な屋敷に、お茶会メンバーの八人が集まった。
案内された部屋の扉が開かれた瞬間、令嬢たちはその光景に驚きの声を上げた。
その部屋は、この屋敷の部屋なのかと疑問に思えるほどの大きさがあり、そこに鎮座していたのは、まるで一つの小さな屋敷ほどもある巨大な金属製の顕微鏡だった。
他の令嬢たちがその威容に感嘆する中、アイラ、リリア、ミーアの三人は別の意味で目を見張っていた。
部屋を見上げながら、アイラは内心で呟いた。
(大きすぎるわ……!)
最初の時間軸でミーアが発明した顕微鏡は、持ち運びが容易な卓上サイズだったからだ。
実際に性能を確かめてみると、拡大される倍率や見え方は、かつてミーアが発明した顕微鏡とほぼ同等だった。
ミーアはその巨大な顕微鏡の複雑に入り組んだ構造を観察しながら、ぽつりと呟いた。
「……私なら、もっと小さくできそうです」
「まあ、本当ですの、ミーア様!?」
ヒルディオーネが目を見開いて驚き、周囲の令嬢たちもざわめき立った。
「ええ、もっと魔力を効率的に循環させて、レンズの配置を工夫すれば、だいぶ小さくできると思います」
ミーアが自信を持って答えると、令嬢たちの間に期待が広がった。
ならば実際に作ってもらおうという話になったが、ミーアは王妃のお気に入りである。
勝手に私的な依頼をするわけにはいかないため、まずはテレーゼ王妃に許可を取ってから進めるべきだと、ヒルディオーネが冷静に提案した。
その日は、東の国から来た巨大な顕微鏡で色々な微生物を観察して、大盛況のままお茶会は終了した。
後日、アイラたちはヒルディオーネを連れて王宮へと向かった。
ミーアだけでなく、当然のように顔パスで王宮の奥へと入っていくアイラとリリアの姿に、ヒルディオーネは内心で戦慄を覚えつつも、侯爵令嬢としてのプライドから表情には一切出さずに付いて行った。
さらに、直にテレーゼ王妃との面会が叶うと告げられ、ヒルディオーネはもう一度驚くこととなった。
普通であれば、高位貴族であっても王妃への面会を希望すれば数日は待たされるのが常識だからだ。
「あら、アイラにリリア、それにミーアも。今日は珍しいお客様を連れているのね」
サロンで待っていたテレーゼ王妃は、いつもの三人だけでなく、一緒に来たヒルディオーネを見て少し意外そうに微笑んだ。
「お初にお目にかけます、王妃殿下。アルトアンジュ侯爵が娘、ヒルディオーネにございます。本日はお時間をいただき、恐悦至極に存じます」
ヒルディオーネは、非の打ち所がない王族への最上級の淑女の礼を披露した。
この辺りの礼儀作法もしっかりと身につけている様子を見て、テレーゼ王妃は目を細めて嬉しそうに頷いた。
「良い作法ね、ヒルディオーネ。楽になさい。それで、今日はどのようなお話かしら?」
アイラたちが、先日ヒルディオーネの屋敷で見た巨大な顕微鏡のことと、それをミーアが小さく改良できるという話を伝えた。
すると、テレーゼ王妃は身を乗り出して興味を示した。
「それは素晴らしいわ! 学術の発展のためにも、ぜひとも作ってほしいわね。必要な作業場として、王宮の一室を貸し与えましょう」
王妃は快諾し、その場でミーアのための作業環境を整える手配をしてくれた。
作業の手際の良さに驚きながら、ヒルディオーネは心の中で深く感心した。
(直談判でこれほど迅速に物事が決まるなんて……流石はテレーゼ王妃殿下のお気に入りですわね)
数日後、王宮に用意された広々とした一室に、テレーゼ王妃とお茶会メンバーの八人が集まっていた。
一同が見守る中、ミーアによる新しい顕微鏡の製作作業が開始された。
アイラとリリアは、ミーアの助手として傍らに立ち、材料の加工を魔法で手伝うことになった。
「お姉様、この金属の強度を三割ほど高めて、均一に引き延ばしますわね」
「ええ、お願い。私はレンズ用の水晶を、光の屈折率が最適になるように魔法で極限まで研磨するわ」
二人は呪文を口にすることすらせず、ただ優雅に手をかざした。
刹那、硬質な金属が飴細工のように柔らかく形を変え、無骨な鉱石は極限まで磨き抜かれたレンズへと姿を変えていく。
一切の無駄がない、神業としか呼べない魔法制御力。
それを間近で目撃したお茶会の令嬢たちは、息をすることさえ忘れたように、ただただ呆然と立ち尽くしていた。
お茶会メンバーの中には、ヒルディオーネを含めて三人、すでに王立魔法学園に通っている令嬢がいた。
しかし、彼女たちから見ても、アイラとリリアの魔法制御力は学園のどの教師よりも遥かに上に思われたのだ。
魔法を操る二人の姿を見て、ヒルディオーネは納得の息を吐いた。
(なるほど……アイラ様とリリア様が、ミーア様と共に王妃殿下にこれほど重用されている理由が、ようやく分かった気がいたしますわ)
家柄だけでなく、これほどの圧倒的な実力があり、さらに王国に多大な貢献をしたという実績が加われば、他のいかなる貴族であっても、アイラとリリアの王族入りを止めることなどできなくなる。
ヴァリエール王国の王族への輿入れは、実力主義と家柄主義の両方を取るが、最終的には実力主義に偏る傾向がある。
もちろん、下級貴族であれば最初から排除されるが、実績のない侯爵令嬢よりも、多大な功績と実力を持つ伯爵令嬢の方が圧倒的に有利になるのだ。
ましてや、アイラとリリアの実家は公爵家である。
実績さえ積んでしまえば、この二人に敵う令嬢などこの国には一人も存在しない。
未来を見据えて、ヒルディオーネの頭の中にはある野望が浮かび上がった。
もしも自分の弟であるクロトにミーアを嫁入りさせることができれば、アルトアンジュ家は王家御用達の魔導具技術を手に入れることができる。
さらに、その二人の間に生まれた子供と、アイラとジュリアン王太子、あるいはリリアとエドワード殿下の間に生まれるであろう子供を結婚させる方向で動けば、次の王族の血筋に極めて近い位置を確保できるのだ。
(まずはクロトにミーア様を会わせる算段を始めなければなりませんわね)
昼食の時間を挟み、窓の外の空が美しい茜色に染まりかけたとき、ミーアの新しい顕微鏡がついに完成した。
完成したその姿を見た瞬間、アイラとリリアを除く全員が、驚きのあまり目を見開いた。
先日のアルトアンジュ侯爵邸で見た、屋敷ほども大きかった東の国の顕微鏡が、目の前のテーブルの半分よりも小さな、洗練された美しい金属製の道具へと変貌していたのだ。
「性能も大幅に引き上げましたのでこの大きさになりましたが、あちらと同じ性能で良ければ、もっと小さく作ることができますよ」
ミーアが控えめに、しかし誇らしげに微笑みながら告げた。
その言葉に、令嬢たちはさらに驚愕して言葉を失った。
「性能を上げたのは、先日ヒルディオーネ様のご自宅で微生物を見せていただいたとき、もう少し大きく、鮮明に観察したいと思ったからなのです」
「まあ、それほどまでに……。それなら、さっそく見せていただけるかしら?」
テレーゼ王妃が、興味津々といった様子で身を乗り出した。
ミーアが手際よく調整を施し、事前に用意しておいたプレパラートを台座にセットした。
「どうぞ、王妃殿下。こちらのレンズを覗き込んでみてください」
「どれどれ……」
テレーゼ王妃は言われた通りに、小さなレンズへ視線を落とした。
その瞬間、王妃は息を呑んだ。
「まあ、なんてことかしら! 本当に信じられないくらい、はっきりと見えるわ!」
テレーゼ王妃の感嘆の声に、見学していた令嬢たちの間にざわめきが広がった。
「私も、私も見せていただきとうございますわ!」
一人の令嬢が声を上げると、他の令嬢たちも我先にと顕微鏡の周りに集まった。
順番にレンズを覗き込んでいく令嬢たちは、一様に驚きの声を上げた。
最後に覗き込んだヒルディオーネは、その鮮明な視界に目を見張った。
「あ、あり得ませんわ……。我が家のあの巨大な顕微鏡でも、ここまで大きく、そして輪郭がくっきりと見えはしませんでした」
ヒルディオーネは、震える声でその驚異的な見やすさを証言した。
他の令嬢たちも、先日の屋敷での観察時と比べて圧倒的に鮮明になっていることに、深く同意した。
「素晴らしいわ、ミーア! これほど革新的な魔導具を一日で作り上げてしまうなんて!」
テレーゼ王妃が満面の笑みを浮かべ、歓喜の声を上げた。
「すぐにジェラール陛下をお呼びして、この素晴らしい快挙をお見せしなければね。皆様、ここで待っていなさい」
王妃は興奮した様子で、ジェラール陛下を連れてくるために部屋を飛び出して行ってしまった。
突然の国王陛下登場の知らせに、アイラ、リリア、ミーアを除く令嬢たちは、一気に緊張の色を隠せなくなっていた。
皆がそわそわと落ち着かなくなる中、ヒルディオーネは、全く動じることなく泰然と佇んでいるアイラたち三人の姿を見つめた。
(やはり、彼女たちはただ者ではありませんわね)
(計画は、早期に実行へと移す必要がありますわ)
ヒルディオーネは、次代への大いなる布石を打つべく、決意を新たにするのだった。
テレーゼ王妃が部屋を飛び出して行ってから、それほど時間は経っていなかった。
静まり返った王宮の一室に、重々しい靴音が響き渡り、やがて大きな扉が左右に開け放たれた。
そこに現れたのは、威厳に満ちたヴァリエール王国の国王ジェラールであった。
しかし、令嬢たちが一斉に息を呑んだのは、その背後に二人の人物が付き従っていたからである。
金髪をなびかせ、怜悧な美貌に笑みを浮かべた王太子ジュリアン。
そして、その後ろを真面目な顔つきで歩いてくる第二王子エドワード。
国の最高権力者たる王族が、公式の場でもない、このような私的な作業場に勢ぞろいするとは誰も予想していなかったのだ。
あまりの事態に、その場にいた令嬢たちは完全に硬直してしまった。
しかし、アルトアンジュ侯爵家の名に懸けて、ヒルディオーネはいち早く我を取り戻した。
彼女は流れるような優雅な動作で、王族に対する完璧な最上級の淑女の礼を披露した。
「ジェラール陛下、ジュリアン殿下、エドワード殿下。本日、このような光栄な場に居合わせることができ、身に余る光栄に存じます」
ヒルディオーネの挨拶に引きずられるようにして、他の令嬢たちも慌てて膝を折り、深々と礼を捧げた。
ジェラールはそんな彼女たちの緊張をほぐすように、低く、しかし温かみのある声で笑った。
「皆、楽にしておくれ。今は公務の最中というわけでもない、ただの私的な時間だ。そこまでかしこまる必要はない」
王の言葉に、令嬢たちはようやく少しだけ強張った体を緩めることができた。
ジェラールは、泰然と佇んでいるアイラとリリア、そして少し緊張した面持ちのミーアを見つめた後、テーブルの上にぽつんと置かれた金属製の道具に視線を落とした。
ヒルディオーネの父親であるアルトアンジュ侯爵は、このヴァリエール王国における生物学の第一人者として高名な人物であった。
そんな侯爵が、一年前、東のアウストラル帝国から途方もない大金を叩いて『顕微鏡』なる道具を購入したという報告は、国王の耳にも当然入っていた。
実際にジェラールは、テレーゼと共に侯爵の屋敷へ足を運び、あの小さな家ほどもある巨大な魔導具を見せてもらったことがあるのだ。
あの巨大な鉄の塊が、目の前にある、テーブルの半分程の小さな金属器に姿を変えている。
にわかには信じがたい光景であったが、テレーゼがわざわざ執務室まで息を切らせて呼びに来るほどなのだから、間違いがあるはずもなかった。
ジェラールは新しい顕微鏡に近づき、その外観を興味深く眺めた。
そして、ミーアに促されるまま、恐る恐る小さな接眼レンズへと片目を近づけた。
レンズに片目を近づけた瞬間、ジェラールの背中に電撃のような衝撃が走った。
思わず背筋を跳ね上げ、ビクリと身を震わせる。
「……なん、だと……?」
視界に広がっていたのは、未知の深淵。
ジェラールは息を呑んだまま、喉を詰まらせたように言葉を失ってしまった。
以前、アルトアンジュ侯爵の屋敷で覗き込んだ時は、確かに小さな微生物の姿が見えはした。
しかし、それはぼやけた影のようなものであり、必死に目を凝らさなければ判別できない代物であったのだ。
それに対して、この目の前にあるレンズの向こうはどうだ。
酵母や微生物の細かな細胞の輪郭、そしてその内部の微細な構造までもが、まるで手元にある果物を眺めるかのように、極めて鮮明に、そして巨大に拡大されて見えていた。
「信じられん……。これほどまでの精度が、この小さな機械から得られるというのか。これでは、アウストラル帝国が持っていたあの巨大な機械は、ただの鉄くずも同然ではないか……!」
ジェラールは興奮を隠せない様子で叫んだ。
これは、ただの玩具の縮小化などという次元の話ではない。
ヴァリエール王国、ひいては世界全体の生物学や魔科学の歴史を、根底から覆すほどの超一級の歴史的発明であった。
ジェラールは、この小さな魔導具を作り上げたミーアという少女を、もう一度まじまじと見つめた。
(もしもこの少女が、さらに高倍率の、より高性能なものを作れるとしたら、この国にとって、いや、世界にとってどれほど最重要な人物になるか、計り知れんぞ)
これほどの大天才を、ただの平民出身の男爵魔導具技師として放置しておくわけにはいかない。
他国にその存在を知られれば、いかなる手段を使ってでも実力行使での誘拐や暗殺、引き抜きを画策されることは火を見るより明らかであった。
すぐにでも相応の爵位を与えて保護しなければならない。
しかし、ミーアの立場は貴族社会においてはあまりにも低すぎた。
かといって、いきなり一足飛びに伯爵位などを与えてしまえば、保守的な古い貴族たちからの反発や嫉妬を買い、ミーア自身の立場が危うくなる恐れがある。
ジェラールが顎に手を当てて考え込んでいると、ふと、一歩後ろで控えているヒルディオーネが目に留まった。
ヒルディオーネは、ジェラールの驚愕する姿を見て、我が意を得たりと言わんばかりの知性溢れる瞳でこちらを見つめていた。
彼女もまた、この顕微鏡が持つ真の価値と、ミーアという逸材の重要性に完璧に気づいているのだ。
(そう言えば、アルトアンジュ侯爵家には、今年で十歳になる跡取りの息子、クロトがいたな)
ジェラールの脳裏に、実に良い名案が閃いた。
アルトアンジュ侯爵家は、長年にわたり王家を支えてきた国王派の重鎮中の重鎮である。
生物学の権威である彼らの家に、この稀代の天才魔導具師を引き合わせ、強力な後ろ盾とすることができれば、これ以上ない完璧な保護環境が整うことになる。
(よし、近いうちにアルトアンジュ侯爵をこっそり王宮に呼び出して、密談を進めることにしよう)
ジェラールは心の中でニヤリと笑みを浮かべ、密かに計画を立てた。
王が観察を終えると、待ちかねていたジュリアンとエドワードが交互にレンズを覗き込んだ。
「おやおや、これは素晴らしいですね。王家の持ついかなる魔導具の資料にも、これほど精密に光と魔力を制御する記述はありません。我が婚約者と妹君が手伝ったとはいえ、ミーア嬢の技術は本当に底が知れませんね」
ジュリアンが美しく知性的な緑の瞳を輝かせ、感心したように呟いた。
「本当にすごいな……。このような極小の世界が、こんなに鮮やかに目の前に広がるなんて。リリア嬢、君たちが加工したというレンズの精度も、学園の教師たちが卒倒するレベルだよ」
エドワードもまた、興奮した様子で隣のリリアに微笑みかけた。
「エドワード様にそう褒めていただけるなんて、私、水晶を極限まで磨いた甲斐がありましたわ!」
リリアはエドワードの言葉に嬉しそうに頬を染め、一瞬にして二人の間にはいつもの甘いピンク色の空間が形成された。
そんな若者たちの様子を横目で見つつ、ジェラールは深く息を吐き出すと、姿勢を正してミーアの前に立った。
「ミーア・マギクラフト。これほどの発明、もはや国家の宝と言っても過言ではない。その類まれなる功績を称え、本日をもって、そなたを『子爵』へと陞爵する」
その突然の王の言葉に、作業室にいた全員が衝撃のあまり凍りついた。
特に当事者であるミーアは、大きな薄紅色の瞳をさらに丸くして、完全に呆然としていた。
「え、えええ……っ!? し、子爵、ですか……っ!? 陛下、私のような未熟な平民上がりの者が、そのような高貴な爵位をいただくなんて……!」
「未熟な者が、アウストラル帝国の誇る最高技術を、わずか一日で凌駕するような魔導具を作れるはずがなかろう。それに、そなたはまだ、さらに性能を引き上げたものを作ることができるのだろう?」
ジェラールの問いかけに、ミーアは恐縮しながらも、職人としてのプライドから小さくコクンと頷いた。
「はい、魔力の循環経路をさらに複雑にし、より高密度の水晶を用いれば、倍率はさらに跳ね上がります」
「ならば、子爵の地位は当然の報酬だ。誰も異を唱えることなどできん」
ジェラールが力強く断言すると、生物学の第一人者を父に持つヒルディオーネも、深く納得したように上品にうんうんと頷いた。
「それから、ミーア。アルトアンジュ侯爵家にも、もう一つ新しい顕微鏡を作ってやってほしい。大きさはどれほど巨大になっても構わん。今ある材料と、そなたの技術で作り出せる、最高峰の性能を持つ逸品を頼みたい」
「分かりました、陛下。私の持てる技術のすべてを注ぎ込み、必ずや最高の一品を完成させてみせます!」
ミーアは緊張しながらも、嬉しそうに胸を張って答えた。
「うむ、期待しているぞ。テレーゼ、一仕事終えた若者たちのために、最高のお茶会を開いて労ってやっておくれ。では、我々は執務に戻るぞ」
ジェラールはそう言い残すと、驚愕の冷めやらぬ令嬢たちに優雅に手を振り、ジュリアンとエドワードを連れて部屋を後にした。
数日後、アルトアンジュ侯爵家の広大な屋敷に、一台の頑丈な馬車が到着した。
馬車から運び出されたのは、食堂の頑丈なテーブルほどもある、鈍い銀色に輝く巨大な金属製の顕微鏡であった。
それは、以前の東の国から購入した『小さな家ほどもある』顕微鏡に比べれば、劇的に小さく、洗練されたデザインをしていた。
しかし、その内部に組み込まれた魔導回路の複雑さは、前のものとは比較にならないほど高密度であった。
「お、おい、ヒルディオーネ……。これが、国王陛下が、あのミーア子爵に頼んで我が家のために作らせたという新型の顕微鏡なのか?」
アルトアンジュ侯爵は、届いた魔導具を前に、武者震いをするように肩を震わせていた。
「はい、お父様。ミーア様が、アルトアンジュ侯爵家のためにと、その技術のすべてを注ぎ込んでくださった最高傑作にございますわ」
ヒルディオーネが誇らしげに微笑み、顕微鏡の横にある複雑なレバーや魔力結晶の説明を始めた。
「この新型は、手元のレバーを調整するだけで、倍率を光学だけで二千倍まで無段階で変化させることができますの。そして、こちらに魔力を流し込むことで、ミーア様が『魔科学顕微鏡』と名付けられた特殊な機能が起動いたします。その最大倍率は……なんと、驚異の千万倍まで可能だそうですわ」
「せ、千万倍……っ!? 光学の限界を超え、物質の最小単位……いや、魔力の粒子そのものの流れまで視覚化できるというのか……!」
侯爵はあまりの数字のインフレ加減に、頭を抱えてその場にヘナヘナと腰を抜かしてしまった。
アウストラル帝国から買ったあの巨大な顕微鏡が、まるで子供のおもちゃに見えてしまうほどの圧倒的な性能の差であった。
「お父様、しっかりしてくださいませ。これほどの技術を持つミーア様は、先日、国王陛下直々の命により子爵へと昇進されましたわ。もはや、彼女の価値に気づいていない貴族など、このヴァリエール王国には存在いたしません」
ヒルディオーネの言葉に、侯爵はガタガタと震えながら、必死に娘の肩を掴んで立ち上がった。
そして、部屋の片隅で不思議そうに新型顕微鏡を眺めていた、十歳の長男クロトを呼び寄せた。
「クロト! ヒルディオーネ! よく聞きなさい!」
侯爵は、血走った目で、しかし極めて真剣な表情で二人の子供たちを見つめた。
「我がアルトアンジュ侯爵家の未来は、お前たちに懸かっている! 何が何でも、いかなる手段を使ってでも、あの若き大天才である魔導具師ミーア子爵と、絶対に、最高に仲良くなるのだ! 分かったな!」
「はい、お父様。私も、すでにそのための算段を始めておりますわ」
侯爵は深呼吸をして少し落ち着いてから、話を続けた。
「派閥に入れなどと言う貴族の事情は最初は置いておけ。平民出身で男爵から子爵までに掛かった時間も短い。年齢も九歳だ。先ずは友人として接し、親しくなれ。それと、定期的にミーア子爵を顕微鏡のメンテナンスのために我が家に招待する。その時は分かっているな?」
「はい、承知いたしておりますわ。クロトも侯爵家の跡取り、分かっていますね?」
「はい、父上、お姉様」
ヒルディオーネは不敵に美しく微笑み、アルトアンジュ侯爵家による、次代への大いなる布石をさらに強固にするべく、静かに闘志を燃やすのであった。
その後、何度か顕微鏡のメンテナンスのために侯爵邸を訪れたミーア。
彼女が熱心にレンズを調整し、職人としての真剣な横顔を見せるたび、十歳のクロトは顔を真っ赤にしてお茶を差し出すことしかできなくなっていた。
「……お姉様、僕、ミーア子爵のためなら、どんな勉強でも頑張れる気がします」
完全にミーアに惚れ込んでしまった弟の様子を見て、ヒルディオーネは「計画通り」と、扇の影で不敵に、しかし嬉しそうに微笑むのだった。
アルトアンジュ侯爵家が仕掛けた次代への布石は、幼い恋心と共に、静かに、しかし確実に根を張っていく。




