アウストラル帝国の野望は……まだ始まってもいない
アルジェント公爵邸の広大な厨房は、普段とは異なる奇妙な熱気に包まれていた。
新しくこの国へと迎え入れられた薄紅色の髪の少女、ミーアは、緊張で指先を震わせながらも、作業台の上に広げられたスケッチを食い入るように見つめていた。
それは、アイラが現代日本の知識を総動員して描き起こした、未知の調理機器の設計図であった。
「あの、アイラ様……。この、熱を一定に保ちながら自動で中身をかき混ぜ続けるという魔道具は、本当に実現可能なのでしょうか」
ミーアが、アメジストの瞳を不安と好奇心に揺らしながら尋ねた。
「大丈夫よ、ミーア。あなたなら絶対にできるわ。ミスティ……つまり未来のあなたも、これで数々の美味しいお菓子を生み出してきたんだから」
アイラはニシシと悪戯っぽく笑いながら、ミーアの肩をポンと叩いた。
「お姉様の言う通りですわ、ミーアさん。これがあれば、私もお姉様も、そしてお屋敷のみんなも、今よりもっと幸せになれるのです」
リリアが天使のような微笑みを浮かげ、そっとミーアの背中を押した。
その言葉を聞いた瞬間、ミーアの瞳に、職人としての強い火が灯った。
「はい、やらせてください! 未来 of 私が成し遂げたことなら、今の私にできないはずがありません!」(※おっと、ここは「未来の私」ですね。修正します)
「はい、やらせてください! 未来の私が成し遂げたことなら、今の私にできないはずがありません!」
ミーアは力強く頷くと、すぐに手元に用意された魔石と金属のパーツを手に取り、驚異的な集中力で魔導回路を刻み込み始めた。
それは、クラエス王国で虐げられていた平民の特待生とは思えないほど、淀みなく美しい手際であった。
傍らで見守っていたアルジェント公爵家の料理長ガストンと、王宮料理長のドミニクは、その天才的な職人技にゴクリと唾を呑み込んだ。
数時間後、ミーアの額から大粒の汗が流れ落ちると同時に、魔導温熱釜が静かに駆動音を響かせ始めた。
「でき、できました……! 魔力を流すことで、底の攪拌羽が一定の速度で回り、同時に熱を均一に分散させます!」
ミーアが嬉そうに声を上げると、アイラはパッと顔を輝かせた。
「素晴らしいわ、ミーア! さあ、さっそくこれを使って、最高に滑らかな『カスタードプリン』を作りましょう!」
アイラが指示を出すと、ガストンとドミニクが血相を変えて極上の牛乳と卵、そして砂糖を運び込んできた。
自動で温度管理をされた釜の中で、卵液はダマになることなく、理想的なとろみを持つ美しいクリームへと変化していった。
出来上がったプリンを魔法で一気に冷やし、仕上げにほろ苦いカラメルソースをたっぷりとかける。
そこへ、サロンでの騒ぎを聞きつけた若きジュリアン殿下とエドワード殿下が、待ちきれない様子で姿を現した。
「おや、いい香りがすると思ったら、やはり君たちはここにいたのか」
十五歳のジュリアン殿下が、エメラルドの瞳を輝かせながら優雅に微笑んだ。
「ミーア嬢が作った魔道具の初稼働と聞いて、居ても立ってもいられず駆けつけました」
エドワード殿下も、生真面目な顔の中に隠しきれない期待を滲ませている。
「ちょうどいいところに。さあ、食べてみてちょうだい、これが新しい魔道具が生み出した、究極の滑らかプリンよ!」
アイラが自信満々にスプーンを差し出すと、二人の王子はそれを受け取り、美しく輝くプリンを口へと運んだ。
次の瞬間、二人の動きがピタリと止まり、その表情に凄まじい衝撃が走った。
一口、プリンを口に運んだ瞬間、ジュリアンの美しいエメラルドの瞳が見開かれた。
張り詰めていた完璧な王太子の仮面が瞬時に崩れ去り、彼は驚愕の声を上げた。
「……っ! なんだこれは、舌の上に乗せた瞬間に、何の抵抗もなく消えていくような……! 卵と牛乳の濃厚なコクが、とろけるような食感と共に口いっぱいに広がり、カラメルの苦味が全体を完璧に引き締めている!」
ジュリアン殿下が、驚愕の声を上げた。
「美味しい、美味しすぎます……! リリア嬢、このような奇跡のようなお菓子が、魔道具の力で簡単に作れるようになるのですね!」
エドワード殿下も、感動のあまりリリアの手をギュッと握りしめた。
「おおお! 愛しの娘たちが作ったプリンを、なぜその若造どもが真っ先に食べておるのだ!」
「妹たちの初めての試作品は、この兄がすべて毒味をする決まりだ!」
厨房の影から、血の涙を流しながらレオンハルトとセオドアが猛然と飛び出してきた。
「もう、お父様もお兄様も、ちゃんと人数分あるから落ち着きなさいな」
アイラが呆れたようにため息をつきつつ、二人にもプリンを差し出すと、彼らはそれを口にした瞬間、歓喜の涙を滝のように流して抱き合っていた。
「素晴らしいです、アイラ様、リリア様! この技術があれば、王宮のデザートだけでなく、街の平民たちにも安価で美味しいお菓子を届けることができます!」
ミーアが自分の作った魔道具を見つめながら、アメジストの瞳を感動で潤ませた。
「ええ、ミーア。これからあなたと一緒に、この国を、そして世界を美味しいご飯でいっぱいにするのよ」
アイラがニシシと笑い、リリアもまた、嬉そうにミーアの手を握った。
新たな技術者を得て、二人の魔女の「美食革命」は、さらに加速して王国中に広がっていくのだった。
アルジェント公爵邸や王都にタウンハウスを構える貴族たちの厨房において、アイラたちがもたらした美食革命が劇的な進化を遂げ始めた頃のことである。
過剰な香辛料を抑えて出汁や素材の味を活かした料理は、またたく間に貴族たちの胃袋を掴み、王都は日々美味しい香りに包まれていた。
だが、そんな温かな光が満ちる王都の影で、世界を揺るがす漆黒の嵐は静かに、しかし確実にその胎動を始めていた。
東の超大国――アウストラル帝国へ極秘調査に赴いていた、未来組のジュリアンたちが無事に王都へと帰還したのは、そんなある日のことであった。
アルジェント公爵邸の秘密の会議室には、アイラとリリアを筆頭に、調査から戻ったジュリアン、エドワード、ノア、クロード、オルフィアが顔を揃えていた。
「ただいま、私の愛しいアイラ。待たせてしまってすまないね」
人形の身体を優雅に操る大人のジュリアンが、青玉の瞳を輝かせるアイラの隣に腰を下ろし、その小さな手をそっと包み込んだ。
「お帰りなさい、ジュリアン様。あなたたちなら何の心配もしていなかったけれど、無事に戻ってきてくれて嬉しいわ」
アイラがニシシと嬉しそうに笑うと、ジュリアンの表情はスッと真剣なものへと変わった。
「さて、さっそく調査の報告を始めよう。結論から言うと、現在のアウストラル帝国は、私たちがいた未来の歴史と同じく、現段階では世界統一などという大それた野望はまだ表に出していなかったよ」
ジュリアンの言葉に、アイラとリリアは顔を見合わせた。
「やっぱり、まだ大人しい時期なのね。……でも、いずれあの国は百二十万もの軍勢で世界を地獄に叩き落とすことになる。その引き金は、この時間軸でも変わらないのかしら」
リリアが真剣な顔つきで尋ねると、ジュリアンは深く頷いた。
「ああ。アイラがかつて未来で『過去視』を行った際に見ただろう、皇族同士による血で血を洗う殺し合い、そして親兄弟を容赦なく虐殺して王座を奪った一人の狂皇の誕生。やはり、あの凄惨な事件こそが、帝国を世界統一戦争という暴挙へ突き動かしたトリガーで間違いない」
「その通りです」
眼鏡の奥の鋭い瞳を光らせ、大人のノアが冷徹な声で言葉を継いだ。
「現在の帝国における皇族の系譜を調べましたが、現段階で世界統一や他国への侵略を強く推す声を発しているのは、第六皇子ただ一人でした。彼は自らの目的のためなら、実の親兄弟であっても笑顔で切り捨てる冷酷非情な男として、水面下で恐れられています。最近では不自然に私兵を増強しているという不穏な噂もあり、他の皇族たちも彼の異常性に沈黙を強いられているようです。他の皇族や重臣たちは、自国の領土拡大にこそ興味はあれど、世界を敵に回すような全面戦争には極めて消極的ですからね」
「第六皇子、ただ一人……。何だか、ものすごく怪しいわね」
アイラが紅茶のカップを置き、顎に手を当てて考え込んだ。
「ええ、アイラ様。現段階では一介の皇子に過ぎない彼が、この後に一体何をして、他の皇族たちの口を封じるほどの絶対的な権力を握るのかが問題です。周囲の人間を強引に従わせる、あるいは逆らえなくなるような何かが、これからの歴史で確実に起こるはずです」
オルフィアが、纏めた書類を机に広げながら、少しだけ怯えを滲ませた声で分析を述べた。
「十中八九、私たちが戦った『動く死体』に関連する禁忌の産物だろうね。これからあの恐ろしい感染する動く死体の病、ウイルスだったかな?それの開発で何か起こるのだろうね」
大人のエドワードが冷徹な表情で推測を口にすると、会議室の温度がさらに下がったように感じられた。
「つまり、第六皇子の背後には、ウイルスの研究者か、あるいはその知識を与えた禁忌の研究者が潜んでいる可能性が極めて高いということね」
アイラが漆黒の魔力を指先にまとわせながら呟いた。
「 conquest。そういうことだ。だが、現段階で下手にこちらから手を下せば、帝国の軍部が過剰に反応して、予定よりも早く戦争の火種が燃え上がってしまう危険がある。だからアウストラル帝国については、これ以上の深追いをせず、動きがあるまでは監視を続けるだけにするのが最善だという結論に達したよ」(※元の台詞「そういうことだ。」に修正します)
「そういうことだ。だが、現段階で下手にこちらから手を下せば、帝国の軍部が過剰に反応して、予定よりも早く戦争の火種が燃え上がってしまう危険がある。だからアウストラル帝国については、これ以上の深追いをせず、動きがあるまでは監視を続けるだけにするのが最善だという結論に達したよ」
ジュリアンが冷静に今後の方針を定めると、全員が静かに頷いた。
「よし。それなら、誰を帝国の監視に残すかだけど……」
アイラが仲間たちを見渡すと、クロードが豪快に胸を叩いた。
「おう! 監視なら俺に任せておけ! 帝国の美味い飯でも食いながら、ネズミ一匹逃さず見張ってやるぜ!」
「クロード、お前は少し目立ちすぎるのが玉に瑕だが……。まあ、僕が一緒について行って、力技に頼りすぎるお前の手綱を引くことにしましょう。僕の計算によれば、潜入調査における生存率は僕が同行することで大幅に上昇しますからね」
ノアがため息をつきながら眼鏡の位置を正すと、クロードはガハハと大笑いしてノアの肩を叩いた。
「よし決まりね。監視のメンバーは、クロードとノアがアウストラル帝国に直接潜伏する。そして、彼らが現地で集めた情報は、オルフィアがこちらで一枚の報告書にまとめる役割を担当する、ということでいいかしら」
アイラが手際よく役割を割り振ると、オルフィアは居住まいを正して力強く頷いた。
「はい、アイラ様! どのような些細な兆候も見逃さず、完璧に情報を整理して見せます!」
「頼んだわよ、オルフィア。……全く、せっかくの二度目の人生なんだから、帝国の人たちも美味しいものでも食べて、のんびり過ごせばいいのにね」
アイラが呆れたようにため息をつくと、リリアがふわりと天使のような微笑みを浮かべた。
「本当にそうですわね、お姉様。でも、これで敵の出処ははっきりと絞れましたわ。私たちが美味しいご飯を食べて幸せに暮らす未来を邪魔する者があるなら、その時は私たちが、魔法の力で容赦なくお掃除して差し上げましょう」
可憐な笑顔で物騒な決意を述べる双子の妹に、アイラはニシシと悪戯っぽく笑いかけ、二人はしっかりと手を繋ぎ合った。
アウストラル帝国の脅威という、世界を滅ぼしかねない漆黒の影。
しかし、最強の魔女となったアイラたちと、未来の記憶を持った歴戦の仲間たちが揃った今、二度目の世界で彼らが敗北することなど、決してあり得ないのだった。
アルジェント公爵邸でアウストラル帝国の監視方針が定まった、その日の夜のことである。
王宮の奥深くにある国王夫妻のプライベートサロンは、いつもとは異なる、どこか静謐で厳粛な空気に包まれていた。
暖炉の中でパチパチと薪が爆ぜる音だけが、静かな部屋に響いている。
ソファに深く腰掛けたジェラール国王とテレーゼ王妃の前に、十五歳の若いジュリアン殿下とエドワード殿下が並んで立っていた。
「父上、母上。……今夜は、お二人へ大切なお話を伝えるために参りました」
若いジュリアンが、いつもの完璧な王太子の仮面を外し、一人の息子としての真っ直ぐな瞳で両親を見つめた。
「ジュリアン、エドワード。……改まって、一体何の話かしら」
テレーゼ王妃が、胸元をそっと押さえながら、どこか予感していたような震える声で尋ねた。
「数日後、私たちは未来から回帰した自分自身と『同化』することを決めました」
若いジュリアンの口から放たれた言葉に、ジェラール国王はわずかに眉を顰め、無言で息子たちを見つめ返した。
「同化、ですか……。テレーゼから話は聞いていましたが、本当に、それを実行するのですね」
「はい、父上。同化を行えば、私たちのこの十五歳としての自意識は、未来の強大な自意識へと統合されることになります。……これは、現在の私たちの自意識が、一時的に深い眠りにつくことを意味しているのです」
若いエドワードが、兄の言葉を継いで静かに説明した。
「つまり、お父様とお母様にとって、未来の記憶に上書きされていない、今の私たちと話せるのは今夜が最後になります」
若いエドワードの優しくも残酷な事実の宣告に、テレーゼ王妃はついに堪え切れず、両手で口元を覆ってポロポロと涙をこぼし始めた。
「まあ、なんてこと……。世界を救うためとはいえ、今のあなたたちが消えてしまうなんて……。お母様は、今の不器用で、一生懸命で、愛らしいあなたたちも、たまらなく愛おしいのよ」
テレーゼ王妃はソファから立ち上がり、二人の若い王子に駆け寄ると、その華奢な体を強く、強く抱きしめた。
「母上、申し訳ありません。ですが、私たちは後悔していません。アイラとリリア嬢を守り、このヴァリエール王国に本当の平和をもたらすためには、未来の私たちの経験と力が必要不可欠なのです」
若いジュリアンが、母の背中にそっと手を回し、静かに、しかし決然とした口調で語りかけた。
「ええ、母上。リリア嬢が悲しまない未来を作るためなら、私は喜んでこの身を捧げます。それに、私たちは完全に消えてなくなるわけではありません。未来の私たちが、今の私たちの想いも記憶も、すべてを抱いて生きていってくれるのですから」
若いエドワードもまた、母の温もりを感じながら、穏やかな微笑みを浮かべた。
「……後悔は、ないのだな」
ジェラール国王が、重々しい声で尋ねた。
「ありません、父上。これが、私たちが自ら選び取った王族としての、そして一人の男としての覚悟と責任の形です」
若いジュリアンが顔を上げ、父親の鋭い眼差しを真っ正面から受け止めた。
「よく言った。我が息子ながら、見事な覚悟だ」
ジェラール国王は深く息を吐き出し、立ち上がって二人の元へと歩み寄ると、若い王子たちの肩を大きな手で力強く叩いた。
その時、サロンの影から空間がぐにゃりと歪み、二人の人影が静かに姿を現した。
それは、人形の身体を依代にしながらも、かつてないほど強大な覇気と王者の風格を纏った、大人のジュリアンとエドワードであった。
「未来の、私……」
若いジュリアンが呟くと、大人のジュリアンは静かに微笑み、国王夫妻の前に跪いた。
「父上、母上。今の彼らを上書きしてしまうこと、未来の息子として心からお詫び申し上げます」
大人のジュリアンが深く頭を下げると、大人のエドワードもその隣で膝をついた。
「ですが、どうか安心してください。彼らの抱いた愛も、志も、この国を思う強い心も、すべて私たちがこの魂に引き継ぎます。決して、今の彼らの生が無駄になることはありません」
大人のエドワードの力強い言葉に、テレーゼ王妃は涙を拭い、ひざまずく大人の息子たちを見つめた。
「立派に育ってくれた未来のあなたたちが、今のあの子たちの意志を継いでくれるのね。……ええ、信じていますわ。あなたたちもまた、私の自慢の息子たちなのですから」
テレーゼ王妃は、大人の二人にも優しく手を差し伸べ、その頬を愛おしそうに撫でた。
ジェラール国王もまた、二組の息子たちを静かに見つめ、その胸中にある寂しさを押し殺すように深く頷いた。
「未来の我が息子たちよ。この国の、そして愛する者たちの未来を、お前たちに託す。……今のあの子たちの想いを、どうか頼んだぞ」
「はい、父上。必ずや、私たちの手で世界を救い、この国を不滅の幸福へと導いてみせます」
大人のジュリアンが力強く答え、二組の王子たちは国王夫妻と最後の、物理的にも始まりの固い握手を交わした。
こうして、王宮における最後にして最初の、愛に満ちた決意の夜は更けていった。
彼らの繋いだバトンは、数日後にアルジェント公爵邸の秘密の地下室で繰り広げられる、大いなる魂の融合の儀式へと、静かに、そして力強く引き継がれていくのである。
王宮での厳粛な別れの夜から数日後、アルジェント公爵邸の秘密の地下室には、ただならぬ緊張感が漂っていた。
そこには、儀式の主催者であるアイラとリリアを筆頭に、この時間軸の行方を見守るために極秘裏に王宮を抜け出してきた、ジェラール国王とテレーゼ王妃の姿もあった。
さらに、彼らの決断を知らされたクロード、ノア、オルフィアの三人も厳粛な面持ちで同席している。
「いよいよ、未来のジュリアン殿下たちが、この時代の自分と同化するんですね……」
オルフィアが両手で杖を握り締めながら、緊張に声を震わせて呟いた。
「おう、未来の殿下たちがいなくなるってわけじゃねえんだろうが、やっぱりちょっと不思議な気分だぜ」
クロードが腕を組んで見守る中、ノアは分厚い眼鏡を静かに押し上げた。
「僕の計算によれば、同一の魂が一つに統合されるだけですから、問題は起こらないはずです」
「ええ、私たちも覚悟はできています」
現在の若いジュリアンとエドワードが毅然とした態度で一歩前に進み出ると、ジェラール国王とテレーゼ王妃は固唾を呑んで息子たちの背中を見つめた。
やがて、大人のジュリアンとエドワードの依代であった人形から、眩いばかりの光を放つ魂が静かに抜け出した。
その美しくも強大な二つの魂は、まるで引かれ合う星のように、若い二人の身体へとゆっくりと吸い込まれていく。
地下室全体を白銀の光が優しく包み込み、やがて静かに収束していった。
「ジュリアン様、エドワード様……お加減はいかがですか?」
アイラとリリアが駆け寄ると、若い二人はゆっくりと目を開いた。
その瞳には、これまでの十五歳の彼らにはなかった、幾多 of 死線を潜り抜けてきた大人の余裕と、深い威厳が満ち満ちていた。(※ここも「幾多の死線」ですね。念のため修正します)
その瞳には、これまでの十五歳の彼らにはなかった、幾多の死線を潜り抜けてきた大人の余裕と、深い威厳が満ち満ちていた。
「ああ、問題ないよ。……驚いたな、現代の自分の意識と完全に統合されている」
ジュリアンが自分の手を握り込みながら、不思議そうに呟いた。
「ええ、自分の中に自分がいるような状態ですね。意識すると、統合前の二人分の意識が確かに存在していることが分かります」
エドワードもまた、リリアの手を優しく握り返しながら静かに答えた。
それは、未来の彼らの魂をベースとして、この時代を生きる若い彼らの記憶と経験を美しく融合させる儀式であった。
十五歳のジュリアンたちの「現代の自意識」は、消滅したわけではない。
未来の強大な意識の奥底で、大切に守られながら安らかな眠りについているのだ。
そしてこの眠れる魂は、ただ眠るためだけにそこに留まるのではなかった――。
その様子を後ろで見守っていたテレーゼ王妃は、息子たちの無事を確認して胸を撫で下ろしながらも、少しだけ寂しそうな視線を向けた。
そこへ、部屋の隅に控えていた専属侍女のエマが、ふっと目を閉じて神々しい金色の瞳を開き、大きな欠伸をしながら進み出てきた。
「ふぁぁ……無事に同化が終わったようだな」
エマの体を借りた天使シュシュエルが、背後にうっすらと白い羽の幻影を浮かべながら、国王夫妻を交互に見つめた。
「これで魂の定着は完了したが、特にお前たち国王夫妻には、少し補足説明をしておく必要があるな」
シュシュエルの言葉に、ジェラール国王が居住まいを正した。
「シュシュエル様、それはいったいどのようなお話でしょうか」
「かつてマリーの魂が同化した時にも話したが、一度別れた魂であり、使い魔として存在していた者たちは、同化したからといって完全に一つの魂として溶け合って終わるわけではないのだ」
「えっ、それじゃあどうなるんですの?」
アイラが首を傾げると、シュシュエルは驚くべき真実を淡々と告げた。
「お前たちがやがて結婚し、新たな命を授かった際……この眠りについた現代側の魂が、再びその子供たちの魂として、この地上に生まれ変わることになるのだよ」
「なっ、なんですって……!?」
テレーゼ王妃が、驚きのあまりその美しい目を見開いて立ち上がった。
「ということは、同化によって眠りについた『今のあの子たち』が、ジュリアンたちの『子供』として……私たちの『孫』として、もう一度戻ってくるということですか!?」
「そうだ。一度別れた同位体の魂は、巡り巡って愛の結晶へと宿り、新たな人生を歩み始める。……これは、神のうっかりがもたらした、唯一の慈悲とも言えるだろうな」
シュシュエルがふっと微笑むと、地下室の空気はそれまでの切なさから一転し、眩い希望の光で満たされた。
「おお、なんという奇跡だ。……私たちの愛した若い息子たちが、いつか新しい命として、再びこの手に抱ける日が来るのだな」
ジェラール国王は、目元に熱いものを浮かべながら、天を仰いで深く感謝した。
「ええ、本当に素晴らしいことですわ。ジュリアン、エドワード。……あなたたちが帰ってくるその日を、お母様はいつでも首を長くして待っていますからね」
テレーゼ王妃は、同化を果たした二人を見つめ、この上なく幸せそうな母親の笑顔を浮かべた。
「はい、母上。必ず、お二人の元へ戻ってまいります」
ジュリアンとエドワードは、深く、そして晴れやかな礼を捧げた。
「ちなみに、我々天使であれば、その魂から記憶を戻すことも可能だ」
「記憶を戻せるの!?」
アイラが驚いて声を上げると、シュシュエルは厳格な顔つきで頷いた。
「可能だが、その際は天使が魂に直接接触し、記憶を持った元の人格と話して、了承を得る必要があるのだ」
「無理やりに記憶を植え付けるわけにはいかないということですね」
ノアが冷静に分析すると、シュシュエルは同意した。
「そういうことだ。もし記憶を戻すつもりなら、生まれてすぐ、自我が芽生える前にした方が良いだろうな」
「ニシシ! その時はシュシュエル、あなたにばっちり手伝ってもらうわよ!」
アイラが不敵な笑みを浮かげると、リリアもまた、まだ見ぬ未来の愛しい我が子を想うように優しく微笑んだ。
ジェラール国王夫妻も二度目の奇跡の存在に涙している。
こうして、大いなる魂の融合の儀式は、完璧な形でその幕を閉じたのである。
過去の自分たちの想いと、未来を救う無敵の力を一つに宿したジュリアンたちは、いよいよアウストラル帝国の脅威を迎え撃つべく、その歩みを力強く進めていくのであった。
東の超大国であるアウストラル帝国の帝都、ヴァルハイトの薄暗い下町に、二人の青年がひっそりと足を踏み入れた。
彼らの名はノアとクロードであり、ヴァリエール王国の未来を守るための極秘潜入任務を帯びていた。
「おい、ノア。これで変装は完璧だな?俺のこの商人の服、結構似合ってるだろう」
クロードが仕立ての粗い麻の外套を翻しながら、豪快に笑った。
「声が大きすぎます、クロード。僕の計算によれば、あなたのその声量は百メートル先まで響き、潜入開始から三分で憲兵に怪しまれる原因になります」
少し色あせた黒い旅装に身を包んだノアは、ため息をつきながら、地味な丸眼鏡のフレームをそっと押し上げた。
二人は国境の厳しい監視を潜り抜け、帝都の平民街にある、家賃の安い二階建ての古い一軒家を買い取ることに成功していた。
表向きは、西方の王国からやってきたしがない「毛皮商人」とその護衛、という触れ込みである。
生活感の薄い埃っぽいリビングに荷物を下ろすと、ノアはさっそく懐から三つの魔道具を取り出し、テーブルの上に並べた。
それは、今回の任務のために、魔女アイラと天才技師ミーアが総力を挙げて作り上げた最高峰の隠密魔道具であった。
一つ目は、手のひらサイズの水晶が埋め込まれた「映像通信機」である。
二つ目は、一見すると何の変哲もない革製の「空間共有バッグ」であった。
そして三つ目は、赤く不気味な魔石が埋め込まれた、絶対に破壊できない特殊な金属製の「脱出用転移魔道具」である。
「さて、まずは拠点の防音と認識阻害の魔術式を起動します。その後、すぐに王都の本部へと第一報を入れましょう」
ノアが手際よく水晶の映像通信機に微弱な魔力を流すと、水晶から青白い光が放たれ、虚空に立体的な映像が浮かび上がった。
『あ、繋がったわね!ノア、クロード、無事にお散歩は終わったかしら?』
通信の向こう側から現れたのは、アルジェント公爵邸のサロンで優雅にクッキーを齧っている、九歳の小さな魔女アイラであった。
彼女の隣には、嬉しそうに手を振る双子の妹リリアと、静かに見守る婚約者のジュリアンも写っている。
「アイラ様、無事にお散歩……ではなく、極秘裏に帝都への潜入を果たしました。現在は平民街の一角に活動拠点を確保し、防壁の構築を完了したところです」
ノアが真面目な顔で報告すると、クロードが映像に向かって身を乗り出した。
「おう、師匠!リリア嬢にジュリアン殿下も元気そうだな!ここはヴァリエール王国より少し肌寒いぜ、だが飯は結構いけそうだ!」
『ふーん、それは良かったわね。……ところで、クロード。あなた、私との約束を忘れてはいないでしょうね?』
アイラが青玉の瞳をギラリと輝かせ、通信機の向こうで極上に腹黒い、しかし期待に満ちた笑顔を浮かべた。
「ガハハ!忘れるわけねえだろうが!ほらよ、さっそく帝都の市場で見つけてきた最高のお宝を送り届けてやるぜ!」
クロードはドヤ顔で胸を叩くと、足元に置いてあった大きな木箱を開け、中から厳重に梱包された食材を次々と取り出した。
それは、アウストラル帝国の名産品である「アウストラル黒毛牛の超極上熟成生ハム」と、帝都でしか手に入らないという「黄金の蜜林檎」であった。
クロードはそれらを、テーブルの上に置かれた小さな空間共有バッグの中へと、躊躇なく押し込んでいった。
バッグの口は食材よりも一回り小さかったが、不思議なことに、食材は吸い込まれるようにスッと中へ消えていった。
この空間共有バッグは、ヴァリエール王国の公爵邸にあるアイラのバッグと空間の裏側で繋がっており、世界線の壁を越えてリアルタイムで物質を転送できる驚異の代物であった。
『きゃーっ!本当に来たわ!すごいのよお姉様、バッグが急にピカピカ光って、中からすっごく美味しそうなお肉と果物が出てきましたわ!』
映像の向こうで、リリアが手を叩いて大はしゃぎしているのが聞こえる。
『ニシシ!さすがはクロード、私の胃袋の専属調達係として素晴らしい働きだわ!このお肉は、今日の夕食にガストンに頼んで、ハーブ仕立ての極上サラダにしてもらいましょう!』
アイラは転送されてきたばかりの生ハムの香りをくんくんと嗅ぎ、すでにヨダレを垂らしそうなほど上機嫌になっていた。
その様子を見ていたジュリアンが、呆れたように苦笑いを浮かべながら画面に進み出た。
『二人とも、見事な潜入だ。だが、くれぐれも油断はしないようにね。その空間共有バッグは、帝国の極秘資料や魔導書などを、検問を通さずに我が国へ輸送するための超重要機密のはずなのだが……』
「ジュリアン殿下、僕の計算によれば、このバッグの総容量の実に八割は、アイラ様への『お土産』で埋め尽くされる予定です。資料の受け渡しは、その隙間に押し込むことになりますね」
ノアが胃を押さえながら真顔で申告すると、ジュリアンは完全に諦めたように肩をすくめた。
『……まあ、彼女たちの機嫌が良くなるのであれば、それも必要経費として例外処理するしかないね。それで、緊急時の脱出魔道具のテストは行ったかい?』
「はい、殿下。この脱出用転移魔道具は、僕たちの生命反応が著しく低下するか、あるいは手動で魔石を砕くことで、いかなる空間阻害結界をも無視して、公爵邸の秘密の地下室へと強制転移する設計になっています」
ノアが赤い魔石が埋め込まれたプレートを持ち上げ、その安全性を説明した。
「絶対に使うことがないように最善を尽くしますが、これがあるおかげで、クロードが無謀な正面突破を試みる確率を大幅に減少させることができます」
「おいノア、俺をなんだと思ってるんだ!いくら筋肉が自慢の俺でも、歩く死体どもの大群に一人で突っ込むような真似はしねえよ!」
クロードがむっとした表情で抗議するが、ノアは「前科が多すぎます」と一言で切り捨てた。
『よし、準備は完璧なようね。これからアウストラル帝国の第六皇子と、その背後に蠢く『死体病』のウイルスの謎を、ゆっくりと暴いていくわよ。二人は無理をせず、まずは現地にしっかり溶け込んでちょうだいね』
アイラが通信機の向こうで、生ハムをつまみ食いしながら力強く宣言した。
「承知いたしました、アイラ様。これより本格的な調査を開始します」
ノアが深く礼をすると、映像通信機の光は静かに収束し、水晶は元の静かな輝きへと戻った。
ノアは深く長いため息をつき、テーブルの上の魔道具を丁寧に片付け始めた。
「おい、ノア。さっそく明日から、あの第六皇子ってやつの屋敷の周りを偵察しに行くか?」
クロードが剣の柄を握り、瞳に静かな闘志を宿して尋ねた。
「いいえ、焦りは禁物です。まずは帝都の美味しい市場の場所を完璧に把握し、アイラ様への献上品リストを作成することから始めましょう。それが、この過酷な潜入調査を生き抜くための、最も確実な生存戦略です」
ノアが眼鏡の奥の瞳を真剣に光らせて言うと、クロードは「おいおい、お前もすっかり師匠に毒されてるじゃねえか」と腹を抱えて大笑いした。
窓の外には、アウストラル帝国の冷たく不穏な帝都の夜景が広がっている。
かつて世界を地獄へと叩き落とした巨悪の根源へと立ち向かうため、最強の魔女の信頼する二人の戦士は、静かに、しかし誰よりも美味しく、その闘いの幕を開けたのである。




