表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
偽物令嬢にされて冷遇に文句を言ったら改善されたので本物の令嬢を探してあげました【連載版】  作者: ウナ
魔女編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

45/47

魔女編16

天才料理人ソーカとの熱意と魂の勝負に清々しい敗北を認めたアイラであったが、大魔女の食堂の営業は今日も元気に続いていた。


しかし、向かいの老舗食堂がソーカの独創的で芸術的な新メニューによって王都中の美食家たちを虜にしていく一方で、食堂業界全体の客の動きには明らかな変化が表れ始めていた。


「お姉様、最近は向かいの店に並ぶお客様の層が、以前よりも少し裕福な方々に変わってきたような気がしますわ」


ランチタイムの波が引いた午後の休憩時間、リリアが窓から向かいの老舗食堂を眺めながら不思議そうに呟いた。


「ああ、リリア嬢の言う通りだね。ソーカという天才が作る料理は、もはや大衆食堂の枠を超えて、高級レストランのフルコースに匹敵する価値を持ち始めている」


完璧な所作で帳簿を整理していたジュリアンが、翠緑の瞳を細めて的確な分析を口にした。


「特別な日の記念や、貴族のお忍び、お金を持った豪商たちが『非日常の特別なご馳走』を求めてあの店に殺到しているというわけだ」


ジュリアンの言葉に、アイラは厨房のカウンターに肘を突いて深く頷いた。


「そうね。料理人としての技術や情熱だけでなく、芸術性においてもソーカちゃんの料理は群を抜いているわ」


美味しい料理というのは、特別な日や非日常の空間で食べることで、その美味しさと幸福度をさらに増幅させるものである。


ソーカの料理はまさにその『ハレの日(特別な日)』の食事として、王都の人々の心を鷲掴みにしていたのだ。


「でも、だからといって私たちが指をくわえて見ているだけだと思ったら大間違いよ!」


アイラは青玉の瞳をキラリと輝かせ、自信満々にドンッとカウンターを叩いた。


「向かいの店が『特別な時のご馳走』で勝負するなら、私たちは『普段の食事』で王都の胃袋を完全に支配するわ!」


アイラの高らかな宣言に、エドワードが生真面目な顔で小首を傾げた。


「普段の食事、ですか? 今のメニューも十分に美味しくて大人気だと思いますが」


「ええ、もちろん美味しいわよ。でも、どんなに美味しいご馳走でも、毎日食べていればいつかは飽きが来てしまうものなの」


アイラは前世である日本の記憶を呼び起こしながら、熱弁を振るい始めた。


「本当に客足を安定させるには、飽きない美味しさと、毎日でも入りやすい店づくり、そしてお財布に優しい価格の合理性が必要不可欠よ」


それは、美味しいものをただ提供する料理人としての視点ではなく、如何にして店を回し続けるかという『経営者』としての視点であった。


「なるほど。薄利多売というわけではないが、日常的に通いやすい定食屋としての地位を確立するということだね」


ジュリアンが面白そうに微笑むと、アイラはパチンと指を鳴らした。


「その通りよ! そして、お客様に『今日はどこで食べようかな』と考えさせる前に、『無意識』のうちにうちの店を選ばせる戦略を取るの!」


アイラが提案した新しい経営戦略は、大きく分けて三つであった。


一つ目は、毎日食べても胃が疲れない、出汁ブイヨンの旨味をベースにした優しい味付けの『日替わり定食』の導入である。


強いスパイスや濃厚すぎるソースは避け、素材の味を活かした温かいスープと、栄養満点のおかずをセットにして手頃な価格で提供するのだ。


「二つ目は、『お弁当テイクアウト』の販売よ! 忙しい職人さんや、お昼休憩が短い商人さんたちが、お店に入らなくてもサッと買えるようにするの」


「それは素晴らしいアイデアですね。店先のスペースに販売用のカウンターを設置するなら、私がすぐに木材を手配して組み立てましょう」


エドワードが筋肉と生真面目さを活かして即座に力仕事を請け負うと、リリアも嬉しそうに手を挙げた。


「お弁当の販売なら、私が担当しますわ! たくさんのお客様に、笑顔で手軽な美味しいご飯をお渡ししたいです!」


「ええ、お願いね。原価計算と、お弁当を入れる紙箱や木箱の安価な仕入れルートの確保は、ジュリアン様にお任せしていいかしら?」


「ああ、お安い御用だ。無駄な包装を省き、見栄えと機能性を両立させた上で、利益を最大化する完璧な価格設定を弾き出してみせよう」


元王太子による恐るべき経営手腕が発揮されることを確信し、アイラは満足げに頷いた。


「そして三つ目! これが一番重要な『無意識への語りかけ』よ!」


アイラは声を潜め、いかにも悪巧みをするような顔で三人に顔を近づけた。


「お昼時や夕時の、みんながお腹を空かせる時間帯を狙って……お店の外に向けて、とびっきり美味しそうな『匂い』を意図的に流すのよ!」


「匂い、ですか?」


エドワードが不思議そうに尋ねると、アイラはニヤリと笑った。


「人間っていうのは、お腹が空いている時に美味しそうな肉の焼ける匂いや、香ばしいスープの匂いを嗅ぐと、理屈抜きで食欲を刺激される生き物なの」


「なるほど。道行く人々の嗅覚を刺激し、無意識のうちに私たちの店へと足を向けさせる……まさに合法的な罠だね」


ジュリアンが腹黒い笑みを浮かべて賛同すると、アイラは大きく頷いた。


「厨房の換気口の向きと、風の流れを緻密に計算して、王都のメインストリートに向けて匂いを送り出すわ!」


アイラはそう言って胸を張ったが、もちろんただ風向きを計算するだけではない。


魔力をコントロールして生活魔法に落とし込むのは普通の魔法使いでもやることである。


それは食堂経営でも同じことだと、アイラは厨房の奥でこっそりとごく僅かな『風の魔法(微風)』を使う気満々であった。


魔法を使って匂いを街中に誘導するなど、他の魔法使いが聞けば呆れて果てるような力の無駄遣いだが、食欲と経営に懸けるアイラにとっては立派な魔法の使い道である。


翌日から、大魔女の食堂の新たな戦略が実行に移された。


お昼時になると、エドワードが店先に増設した特設カウンターに、リリアが可愛らしいエプロン姿で立ち、山積みのお弁当を販売し始めた。


「いらっしゃいませ! 本日の日替わりお弁当、温かいスープもついてお手頃価格ですわよ!」


リリアの天使のような笑顔と、ワンコインで買える手軽さ、そしてアイラが作った間違いない美味しさに、忙しい街の人々は次々とお弁当を買い求めていった。


「おお、こりゃあ助かる! 昼休みが短いから、並ばずにすぐ買えるのはありがたいぜ!」


「しかも、毎日おかずが変わるから全然飽きないのよね。明日は何かしら?」


テイクアウトの導入は大成功を収め、店の回転率を気にすることなく、爆発的な数の食事を提供することが可能になった。


そして厨房では、アイラが換気口の前に立ち、誰にも気づかれないように指先で小さく魔力を練っていた。


(よし、今からお肉の香草焼きの仕上げよ。……いっけー! 私の特製匂いテロ魔法!)


アイラがこっそりと風の魔法を操ると、フライパンで肉の脂が弾ける音と共に立ち上る、食欲をそそる焦がし醤油と香草の香りが、不自然にならない程度の微風に乗って、王都のメインストリートへと一直線に流れていった。


街を歩いていた人々は、不意に漂ってきたその匂いにピタリと足を止めた。


「……なんだか、急に腹が減ってきたな」


「ああっ、この肉が焼けるいい匂い……たまらないわ! 無性にアイラさんの食堂のご飯が食べたくなってきた!」


匂いに誘われた人々の足は、まるで目に見えない糸で引かれるように、無意識のうちにアイラの食堂へと向かっていた。


「大成功ね! やっぱり人間の食欲は、本能に直接語り掛けるのが一番よ!」


厨房からフロアの盛況ぶりを覗き見たアイラは、計画通りの展開に大満足の笑みを浮かべた。


ジュリアンは次々とやって来る客を完璧な笑顔で捌きながら、厨房のアイラに向かってウインクを送った。


「君の戦略は見事に的中したね。高級志向に向かった向かいの店とは完全に客層が分かれ、私たちの店は王都の日常に欠かせない『インフラ』になりつつある」


ジュリアンの言う通り、食堂業界の競争は一つの美しい形に落ち着こうとしていた。


記念日や特別な日には、ソーカの芸術的な料理をゆっくりと楽しむ。


そして毎日の美味しい食事には、手軽で飽きが来ないアイラの食堂を利用する。


見事な棲み分けが成立したことで、客の奪い合いではなく、王都の食文化そのものが底上げされ、共存共栄の時代が到来したのである。


「ふふっ、これで経営は安泰だし、美味しいものも毎日作って食べられるし、最高だわ!」


その日の営業終了後、アイラは自身が作った日替わり定食の残りをモリモリと平らげながら、幸せそうに頬を緩ませた。


「お姉様、明日のお弁当のメニューは何にしますか? 今日のお肉の煮込みも、とっても好評でしたわ!」


リリアが嬉しそうに尋ねると、アイラは青玉の瞳をキラキラと輝かせた。


「明日は、新鮮な魚がたくさん手に入ったから、魚介の旨味をたっぷり吸い込んだ炊き込みご飯の定食にするわ!」


「それは美味しそうですね。リリア嬢、明日も私が完璧なカウンターの設営をして、君をサポートしますからね」


エドワードがリリアを見つめて甘いピンク色の空間を作り出すと、ジュリアンもアイラの銀髪を優しく撫でた。


「君が楽しそうにしている姿を見るのが、私の何よりの喜びだよ。……さて、明日は向かいのソーカ嬢の店に、客として予約を入れてあるのだったね?」


ジュリアンの言葉に、アイラはハッとして顔を輝かせた。


「そうだったわ! 経営で勝っても、彼女の料理が美味しいことには変わりないもの! 明日は食べる側の人間として、全力で彼女の料理を堪能させてもらうわよ!」


自分たちの食堂を大繁盛させて「日常の食」を制覇しつつ、ライバルであるソーカの店で「非日常のご馳走」を客として楽しむ。


まさに、食欲の化身であるアイラにとって、これ以上ない完璧で幸せな食堂ライフであった。


大魔女の秘密を隠し通したまま、アイラたちの王都での美味しい日常は、まだまだ賑やかに続いていくのであった。


翌日、アイラたちは予約していた向かいの老舗食堂へと足を運んだ。


ソーカが腕を振るうその店は、以前のような大衆的な雰囲気は残しつつも、明らかに客層が変化していた。


裕福な商人や、お忍びで訪れていると思われる身なりの良い貴族たちが、上品に料理を楽しんでいる。


「いらっしゃいませ、アイラさん! 今日は予約してくださって本当に嬉しいです!」


厨房から飛び出してきたソーカが、満面の笑みでアイラたちを奥の広めのテーブル席へと案内した。


「今日は食べる専門の客として、思いっきり堪能させてもらうわよ」


アイラが青玉の瞳を輝かせて宣言すると、ジュリアンが優雅な手つきで椅子を引き、彼女をエスコートした。


「君の作る芸術的な料理を、アイラも昨日からとても楽しみにしていたんだ」


「はい! 私の持てる全ての技術と情熱を注ぎ込んだ、最高の特別コースをお出ししますね!」


ソーカが厨房へと戻っていくと、入れ替わるように一人の女性がアイラたちのテーブルへと近づいてきた。


「あら、奇遇ね。あなたたちもソーカの料理を食べに来たの?」


深く被っていた帽子を取ったその女性は、アイラと瓜二つの容姿を持つドミニケル王国の大太后、エクレールであった。


「エクレール様! お忍びでいらしていたのですか?」


リリアが驚いて目を丸くすると、エクレールは悪戯っぽく微笑んでウインクをした。


「ええ。最近ここの料理が素晴らしいと評判だったから、護衛を撒いてこっそり一人で食べに来たのよ」


「それなら、ぜひご一緒にいかがですか? 美味しいものは、大人数で食べた方が絶対に美味しいですから」


アイラが隣の席をポンポンと叩いて誘うと、エクレールは嬉しそうに頷いて席に着いた。


やがて、運ばれてきたソーカの料理は、まさに絶品の一言であった。


「んん〜っ! この前菜のテリーヌ、色々な食材の旨味が口の中で弾けて最高だわ!」


アイラが幸せそうに頬を緩ませると、エクレールも目を輝かせて料理を堪能した。


「本当に素晴らしい味ね! お城のシェフたちにも見習わせたいくらいだわ!」


「リリア嬢、こちらのスープも絶品ですよ。熱いので、私が冷ましましょう。はい、あーん」


「ふふっ、ありがとうございます、エドワード様」


エドワードとリリアが周囲の視線を気にせず甘いピンク色の空間を作り出していると、ジュリアンがアイラの口元をナプキンで優しく拭った。


「アイラ、ソースがついているよ。……君の幸せそうな顔を見ながら食べる料理は、どんな美食にも勝るね」


和やかで至福の時間が流れていたが、その平穏は突如として店内に響き渡った怒鳴り声によって破られた。


「おい! 平民風情が、この私をこんな狭い席に案内するつもりか!」


入り口付近で声を荒げていたのは、成金趣味の派手な装飾を施した服を着た、恰幅の良い中年貴族であった。


「も、申し訳ございません! 本日はご予約のお客様で満席でして、こちらの席しか空いておらず……っ」


老舗の食堂とはいえ、基本的に平民を相手に商売をしてきた店員は、貴族の理不尽な威圧感にすっかり萎縮してしまっていた。


「ええい、口答えをするな! 私が誰だか分かっているのか! 泣く子も黙るゴルドン男爵だぞ!」


ゴルドン男爵と名乗ったその貴族は、店員を突き飛ばすようにして強引に奥の席へと進もうとした。


その拍子に、店員が持っていた水差しが傾き、ゴルドン男爵の服にほんの数滴の水が飛び散ってしまった。


「ひっ……! も、申し訳ございません!」


「き、貴様ぁ! この服がいくらすると思っている! お前のような平民の命など束になっても足りんほどの最高級品だぞ!」


男爵の怒号が店内に響き渡り、和やかだった空気は一瞬にして凍り付いた。


厨房から駆けつけてきたソーカが、店員を庇うように頭を下げた。


「申し訳ありません! クリーニング代はこちらで全額負担いたしますので、どうかお許しください!」


「店長か! こんな無能な店員を雇っているお前の店など、衛生管理もろくにできていないに違いない! 慰謝料としてこの店を丸ごと差し出せ!」


あまりにも理不尽で横暴な難癖に、店内の客たちは息を呑んで震え上がった。


しかし、その騒ぎのせいで最高に美味しい料理を味わう思考を強制的に中断させられたアイラは、ピキリとこめかみに青筋を立てた。


「……ジュリアン。あの害虫の鳴き声のせいで、せっかくのご飯が不味くなりそうだわ」


アイラが絶対零度の声で呟くと、ジュリアンは極上の笑みを浮かべたまま静かに立ち上がった。


「ああ。君の至福の時間を邪魔する者は、万死に値するからね」


ジュリアンが優雅な足取りで男爵の背後に近づくと、同時にエクレールも呆れたようにため息をついて立ち上がった。


「ちょっとあなた、騒々しいわよ。せっかくの素晴らしい料理が台無しじゃないの」


エクレールの凛とした声に、ゴルドン男爵は顔を真っ赤にして振り返った。


「なんだと!? 貴族であるこの私に向かって、その口の利き方は……っ!」


男爵はエクレールの若々しい容姿を見て、どこかの生意気な小娘だと勘違いし、怒りに任せてその手を振り上げた。


「エクレール様!」


ソーカが悲鳴を上げたその瞬間、男爵の振り上げた腕は、目にも留まらぬ速さで移動してきたエドワードによってガッチリと掴まれていた。


「……女性に向かって手を上げるとは、貴族以前に人間として最低の屑だな」


エドワードが生真面目な顔のままギリギリと腕を締め上げると、男爵は悲鳴を上げてその場に膝をついた。


「ぐぎゃあああっ!? 離せ、腕が、腕が折れるぅっ!」


「あらあら。お食事の邪魔をするだけでなく、エクレール様に暴力を振るおうとするなんて……少し、頭を冷やした方がよろしいですわね」


リリアが天使のように愛らしい笑顔を浮かべた瞬間、男爵の足元から一気に分厚い氷がせり上がり、彼の下半身を床に縫い付けてしまった。


「ひぃっ!? ま、魔法!? お前たち、ただの平民じゃ……っ」


「ゴルドン男爵家と言ったね」


ジュリアンが男爵を見下ろし、翠緑の瞳を冷酷に細めた。


「地方で不当な税の取り立てを行っているという黒い噂は聞いていたが、まさか王都のど真ん中でこれほど無様を晒すとはね」


「き、貴様ら何者だ! 衛兵! 衛兵を呼べ! 私に対する不敬罪でこいつらを全員捕らえろ!」


男爵が喚き散らすと、エクレールは呆れ果てたように彼の前に立った。


「本当に、どうしようもない馬鹿ね。あなたのお父様の先代男爵は、もっと謙虚で領民想いの立派な方だったのに」


「父上を知っているだと……? お前みたいな小娘が、先代を知っているわけが……」


エクレールは腕を組み、かつての教え子であるリアスティエーゼを彷彿とさせるような威厳ある態度で言い放った。


「私を誰だと思っているの? ドミニケル王国大太后、エクレールよ」


その名前と称号を聞いた瞬間、ゴルドン男爵の顔から一気に血の気が引いた。


「た、大太后様……!? ば、馬鹿な、大太后様はもっとご高齢のはず……っ、それに、なぜこんな大衆食堂に……!」


「私がどこで何を食べていようが、私の勝手でしょう。それよりも、大太后である私に暴力を振るおうとした罪と、この店の営業を妨害した罪……覚悟はできているわね?」


エクレールが冷たく宣告すると同時に、店の外からガチャガチャと鎧の音を鳴らして、王城の近衛騎士たちが駆け込んできた。


「エクレール様! 護衛を撒いて抜け出されたと聞いてお迎えに上がりましたが……その者は?」


「丁度良かったわ。このゴルドン男爵を、王族への不敬罪と国家反逆未遂の疑いで地下牢へぶち込みなさい。後で余罪もたっぷりと調べ上げることね」


「はっ! 直ちに!」


絶望に顔を歪めた男爵は、近衛騎士たちによって両脇を抱えられ、無様に引きずられるようにして店から連行されていった。


「いやだぁぁっ! 許して、お許しくださいぃぃっ!」


哀れな貴族の断末魔が遠ざかっていくと、店内には再び静寂が戻った。


「あ、あの……助けていただいて、本当にありがとうございました」


ソーカと店員が深く頭を下げると、アイラはパチンと指を鳴らしてニッコリと笑った。


「気にしないで! 私はただ、私の美味しいご飯の時間を邪魔する害虫を駆除しただけだから!」


「ええ、その通りよ。さあ、せっかくの料理が冷めてしまう前に、続きをいただきましょう!」


エクレールも何事もなかったかのように席に戻り、アイラたちと共に再び食事を再開した。


「ふふっ、なんだかお城での窮屈な食事よりも、こういう少し騒がしいくらいの方が、ご飯が美味しく感じられるわね」


エクレールが楽しそうにワイングラスを傾けると、ジュリアンが優雅な微笑みで同意した。


「ええ。どんな高級なスパイスよりも、気の置けない友人たちと食べるというシチュエーションこそが、最高の隠し味になるのですよ」


「ジュリアン様の言う通りですわ。ソーカちゃん、次のお料理をお願いね!」


リリアが元気よく注文すると、ソーカは顔を輝かせて厨房へと駆け出していった。


王都の食堂には、再び活気と笑顔が戻り、アイラたちの美味しい料理を巡る日常は、ますます賑やかさを増していくのであった。


向かいの食堂で横暴なゴルドン男爵が連行されるという一波乱があった、翌日の朝。


アイラたちが大魔女の食堂の開店準備をしていると、店の前にこの世の終わりみたいな顔をしたソーカが立っていた。


「アイラさん……助けてください……っ」


ソーカのあまりにも悲痛な叫びに、アイラたちは慌てて彼女を店の中へと招き入れた。


「どうしたの、ソーカちゃん? そんなにげっそりしちゃって」


アイラが温かいお茶を差し出すと、ソーカは涙目で事情を語り始めた。


何でも、昨日エクレール大太后がお忍びで来店し、さらに不敬を働いた貴族が近衛騎士に連行されたという話が、一夜にして王都の貴族社会に超特急で広まってしまったらしい。


その結果、「大太后様のお墨付きの店」として、伯爵家以上の高位貴族たちからの予約が朝から殺到してしまったのだという。


「普段は平民や裕福な商人の皆様を相手にしている定食屋ですから、高位貴族の方々の接客なんてしたことがなくて、絶望しているんです」


ソーカが深くうなだれると、帳簿の整理をしていたジュリアンが翠緑の瞳を細めて納得の声を漏らした。


「なるほど。権威や流行に敏感な貴族たちが、こぞって君の店に箔付けをしに来たというわけだね」


「はい……それで、昨日エクレール大太后様と親しくお話しされていたアイラさんたちなら、貴族の接し方をご存知かと思って、教えてもらいに来たんです」


すがるような視線を向けるソーカに、アイラは腕を組んで少しだけ考え込んだ。


「うーん、お辞儀の角度から言葉遣いまで、貴族の礼儀作法なんて一朝一夕で覚えられるものじゃないわよ」


アイラが残酷な事実を告げると、ソーカは両手で顔を覆って再び絶望の淵へと沈みかけた。


「それなら、今日の予約分は私たちが直接店に行って、接客を手伝おうか」


ジュリアンが完璧な美青年のスマイルを浮かべて提案すると、エドワードも生真面目に頷いた。


「ええ、隣人の窮地を見捨てるわけにはいきませんからね。リリア嬢、君も無理のない範囲で手伝ってくれますか?」


「もちろんですわ、エドワード様。ソーカちゃんには美味しいお料理を作ってもらっていますから、恩返しをしなければいけませんね」


リリアが天使のような微笑みで同意すると、アイラも青玉の瞳をキラリと輝かせてソーカの肩を叩いた。


「そういうこと! 手伝いのお礼に、とびっきり美味しい賄いを作ってくれるなら、喜んで協力するわよ!」


「ほ、本当ですか!? ありがとうございます、私の持てる全ての技術で最高の賄いを作ります!」


ソーカが顔を輝かせて厨房へと戻っていくと、アイラたちは自分たちの店の臨時休業の知らせを残して、向かいの老舗食堂へと向かった。


その日のランチタイム、ソーカの店の前には、普段の大衆食堂にはおよそ似つかわしくない、煌びやかで豪奢な馬車が次々と到着した。


馬車から降りてきた高位貴族たちは、平民の店特有の少し狭い入り口に顔をしかめながら店内へと足を踏み入れた。


しかし、彼らを待ち受けていたのは、元王太子と元王子、そして元公爵令嬢という、本物の王宮すら凌駕する最高峰の接客であった。


「ようこそいらっしゃいました。さあ、こちらのお席へどうぞ」


ジュリアンが極上の微笑みを浮かべ、洗練された完璧な所作で貴族の夫人をエスコートする。


「足元にお気をつけください。お荷物はこちらでお預かりいたします」


エドワードが生真面目な顔のまま、無駄のない流れるような動きで椅子を引き、彼らを着席させる。


「本日の特製コースでございます。温かいうちにお召し上がりくださいませ」


リリアが圧倒的な美貌と天使のような笑顔で料理を運ぶと、貴族の令息たちは顔を赤らめて見惚れてしまっていた。


そしてアイラは、厨房の入り口でソーカの調理をサポートしつつ、フロアの状況を完全に把握して提供のタイミングを魔法使いの領域でコントロールしていた。


「なんと素晴らしい接客だ……平民の店だと侮っていたが、お城の晩餐会以上の居心地の良さではないか!」


「ええ、本当に! 給仕の方々の洗練された身のこなし、まさに一流の芸術品のようですわ!」


貴族たちはソーカの絶品料理とアイラたちの完璧すぎるサービスに大満足し、ホクホク顔で店を後にしていった。


怒涛のようなランチ営業が終了し、嵐が去った店内で、ソーカは疲労困憊で椅子にへたり込んでいた。


「本当に、本当に助かりました……アイラさんたちが居なかったら、どうなっていたことか」


「気にしないで。その代わり、約束の賄いには期待しているわよ!」


アイラが食欲全開で笑うと、ソーカは最後の気力を振り絞って厨房へと向かい、アイラたちに至高の賄い料理を振る舞った。


「んん〜っ! さすがソーカちゃん、疲れていても味のクオリティは完璧ね!」


アイラが幸せそうに頬を緩めながら料理を堪能していると、ソーカが申し訳なさそうに口を開いた。


「あの……アイラさん。実は明日以降も、しばらく貴族の方々の予約がいっぱいなんです」


ソーカの言葉に、ジュリアンが優雅な手つきで紅茶のカップを置いてため息をついた。


「いくら私たちが有能だとはいえ、自分たちの店を放ったらかしにして、毎回手伝うわけにもいかないからね」


「ええ、抜本的な解決策が必要ね。……そうだわ!」


アイラはポンと手を叩き、かつての教え子であるリアスティエーゼが作った食堂業界の不文律を思い出した。


「平民の店でお忍びで食事を取る時は、貴族も身分を隠して平民のルールに従う、という新しい不文律を作ってしまえばいいのよ!」


アイラの提案に、エドワードが生真面目な顔で小首を傾げた。


「郷に入っては郷に従え、ということですね。しかし、特権意識の強い高位貴族たちに、どうやってそのルールを守らせるのですか?」


「ふふっ、心当たりがあるから、私に任せておいて!」


アイラがニヤリと悪巧みをするような笑みを浮かべると、リリアも嬉しそうに頷いた。


数日後、アイラとリリアはドミニケル王国の王城に招かれ、エクレール大太后が主催するお茶会に参加していた。


美しい薔薇が咲き誇る王城の庭園で、最高級の紅茶と色鮮やかなお菓子を楽しみながら、アイラはソーカの店の現状と、新しい不文律のアイデアを提案した。


「……というわけで、貴族が平民の食堂を利用する際は、身分を明かさずマナーを庶民に合わせるというルールを広めたいのです」


アイラが説明を終えると、エクレールは青玉の瞳をキラキラと輝かせて身を乗り出してきた。


「まあ! それってつまり、貴族のお忍びごっこが公認のルールになるということね!」


好奇心旺盛でノリの良いエクレールは、アイラの提案に大賛成のようだった。


「ええ、その通りですわ。エクレール様から『食堂で身分を笠に着るなど野暮なこと』と一言発信していただければ、流行に敏感な貴族たちはこぞって平民のふりをして食堂を楽しむはずです」


リリアが天使のような笑顔で持ち上げると、エクレールは楽しそうに扇を広げて高らかに笑った。


「面白そうだわ! さっそく明日の夜会で、私が直々にその『粋な遊び方』を広めてあげるわね!」


エクレール大太后の行動力と影響力は凄まじく、その噂は瞬く間に王都の貴族社会へと浸透していった。


『大太后様のお気に入りである食堂では、身分を明かすのは流行遅れの野暮な田舎者』という認識が広まった結果、ソーカの店にやってくる貴族たちは、皆一様に地味な服装で現れるようになった。


彼らは貴族特有の横柄な態度を隠し、一般の客に混じって大人しく列に並び、平民のルールに従って食事を楽しむようになったのである。


「アイラさん、本当にありがとうございました! おかげで、貴族のお客様も他のお客様と同じように接客できるようになりました!」


後日、大魔女の食堂へと報告にやって来たソーカが満面の笑みで頭を下げると、アイラは満足げに頷いた。


「これで一件落着ね! 貴族の皆さんも、肩の力を抜いて美味しいご飯を楽しめるようになって一石二鳥だわ!」


「君の食に対する執念と機転は、本当に見事だよ。食堂業界の平和は君によって守られたね」


ジュリアンが極上の笑みでアイラの銀髪を撫でると、エドワードとリリアも嬉しそうに微笑み合った。


「さあ、ソーカちゃん! 問題が解決したお祝いに、今日も美味しい新作料理を食べさせてもらうわよ!」


アイラが元気よく宣言すると、王都の食堂業界には再び活気と平和な日常が戻り、美味しい匂いがいつまでも漂い続けるのであった。


エクレール大太后の協力によって「お忍びの不文律」が広まり、王都の食堂業界に平和な日常が戻ってから数日後のことである。


大魔女の食堂のランチ営業が終わった午後のひととき、店の扉が乱暴に開かれ、派手な身なりをした数人の若い貴族たちが踏み込んできた。


「ふふん、ここが大太后様のお気に入りという食堂か」


先頭に立っていたのは、これ見よがしな装飾品を身につけ、むせ返るようなキツい香水を漂わせた侯爵家の令息であった。


「いらっしゃいませ。申し訳ありませんが、本日のランチ営業は終了しておりまして……」


アイラが愛想笑いを浮かべて断りを入れると、侯爵令息はアイラと、その奥で片付けをしていたリリアの顔を見て、下卑た笑みを浮かべた。


「おお! 噂には聞いていたが、これほどの上玉だったとはな!」


侯爵令息は土足でズカズカと店内に上がり込み、アイラたちの美貌を値踏みするように舐め回すような視線を向けた。


「お前たちのような平民の娘が、こんな油臭い食堂で働いているなど宝の持ち腐れだ。どうだ、私と弟の妾として、侯爵家の屋敷で飼われてみる気はないか?」


そのあまりにも無礼で直接的な言葉に、店内の空気は一瞬にして絶対零度まで凍り付いた。


厨房の奥から歩み出てきたジュリアンが、極上の笑みを浮かべながらも、翠緑の瞳に一切の光を宿さずに令息を見据えた。


「……随分と面白い冗談を言うね。君のその口を、二度と開けないように縫い合わせてしまおうか」


「リリア嬢をそのような汚らわしい目で見るとは。……兄上、私がこの害虫の四肢を切り落として外へ放り投げてきましょう」


エドワードも腰の剣に手をかけ、今にも物理的な制裁を加えようと殺気を放った。


しかし、侯爵令息は恐れるどころか、彼らを鼻で笑うように顎をしゃくった。


「平民の男風情が、高位貴族であるこの私に逆らうつもりか? ドミニケル王国の法律では、平民の娘を貴族が見初めた場合、それを取り立てるのは『暗黙の了解』として認められた正当な権利だぞ!」


その言葉に、アイラはピクリと眉を動かした。


「暗黙の了解、ですって?」


「そうだ! 我ら貴族が平民の命や貞操を自由にできるのは、この国を支える特権階級としての当然の権利なのだ!」


侯爵令息が勝ち誇ったように宣言すると、アイラは大きくため息をついて、ジュリアンとエドワードを手で制した。


「二人とも、少し待って。この手合いは、ただの馬鹿な個人の暴走じゃなくて、『国の構造』そのものを盾にしているみたいね」


アイラが冷静に分析していると、店の裏口からこっそりと、焦った様子の青年が駆け込んできた。


「アイラ殿、ジュリアン殿! 申し訳ない、彼らがここへ向かったと聞いて止めに来たのだが……間に合わなかったか!」


「あら、アレクセイ王子。丁度良かったわ、この馬鹿な貴族の言っていることは本当なの?」


アイラが尋ねると、ドミニケル王国の王太子であるアレクセイは、苦虫を噛み潰したような顔で深く頷いた。


「……恥を忍んで申し上げる。彼の言う通り、この国には平民の娘を強引に妾とするような、階級制度の深い闇が残っているのだ」


アレクセイは『王太子たる私の顔に泥を塗る気か』と静かに凄み、侯爵令息たちを王族の権威で強引に店から追い出すと、アイラたちに向かって頭を下げ、重苦しい声で国の内情を語り始めた。


「この悪しきルールは、ドミニケル王国が建国される前、かつてのダイダロス王国時代から続く『暗黙の了解』なのです」


「なるほど。力を持った多数の貴族家が、自分たちの欲望を満たすのに都合が良いから、そのルールをずっと放置して守り続けてきたというわけだね」


ジュリアンがかつての腹黒王太子としての冷徹な視点で分析すると、アレクセイは悔しそうに拳を握りしめた。


「その通りです。父上や私も、このふざけた悪習をどうにかしたいと考えています。しかし、もし王家がこの暗黙の了解を一方的に覆せば、既得権益を奪われたと反発する貴族たちの手によって、現在の国王派は一気に傾く恐れがあるのです」


王家といえども、貴族たちの支持がなければ国を回すことはできない。


この特権を力で奪えば、最悪の場合、貴族たちが結託して革命や内乱を起こす口実を与えてしまうのだという。


「これを一息に収める手段があるとすれば、それは『圧倒的な武力による独裁』しかありません。ですが、それは父上や私が目指す、民の笑顔を守る国の形ではないのです」


アレクセイの悲痛な叫びに、アイラは少しだけ寂しそうな微笑みを浮かべた。


「……そうね。武力で全部を黙らせて独裁政治を敷くなんて、あの真面目で不器用だったリアスティエーゼたちが望んだ未来じゃないわ」


アイラは、かつての可愛い教え子たちが心血を注いで築き上げたこの国を、自分たちの問題で内乱の火の海にする気など毛頭なかった。


「なら、話は簡単よ。私たちが、この国を出ていけば丸く収まるわ」


アイラがあっさりと旅立ちを宣言すると、リリアとエドワードも静かに頷いた。


「ええ。私たちは政争に巻き込まれたくはありませんし、大ごとにしてこの国を傷つけたくもありませんわ」


「リリア嬢の言う通りです。私たちは、祖先の教え子の子孫たちが懸命に治めているこの国を、これ以上引っ掻き回すつもりはありませんからね」


その言葉に、ジュリアンもまた優雅な手つきで紅茶のカップを置き、静かに目を閉じた。


「権力構造というものは、いつの時代も泥臭く、不条理なものだ。自分たちが直接被害に遭っていなかっただけで、私たちがいたヴァリエール王国にも似たような闇は存在していたからね」


ジュリアンは、元王太子としてアレクセイの苦悩と王政の限界に深い理解を示していた。


「だから、このことで君たちドミニケル王家を責めるつもりはないよ。君たちは君たちのやり方で、少しずつこの国を良くしていけばいい」


「ジュリアン殿、アイラ殿……! あなた方は、この国の恩人であるというのに、こんな形で追い出すようなことになってしまい、本当に申し訳ない……っ!」


アレクセイが涙を堪えながら深く頭を下げると、アイラはポンと彼の肩を叩いた。


「気にしないでって言ったでしょ! まだまだ世界には美味しいものがたくさんあるんだから、私たちは次の美食を求めて旅立つだけよ!」


アイラは努めて明るく振る舞ったが、その胸の奥には、活気あふれるこの王都との早い別れに対する、ほんの少しの寂しさが確かに存在していた。


数日後、大魔女の食堂はひっそりと店を畳むことになった。


「アイラさん、本当に、本当に行ってしまうんですか……?」


向かいの食堂から駆けつけてきたソーカが、大粒の涙をこぼしながらアイラの手に縋り付いた。


「ええ。でも悲しまないで、ソーカちゃん。料理人としての熱意の勝負は、私の完敗だったわ」


アイラはソーカの頭を優しく撫で、自身の店で使っていた調理器具の一部を彼女に手渡した。


「この王都の胃袋は、あなたが作ったその芸術的な料理で、これからもずっと幸せに満たし続けてちょうだいね」


「はいっ……! アイラさんの分まで、私、世界一の料理人になってみせますから……っ!」


ソーカと涙の別れを交わした後、アイラたちは王都の郊外で、お忍びでやってきたエクレール大太后と最後の挨拶を交わしていた。


「……権力って、本当にままならないものね。私がもっとしっかりしていれば、あなたたちをこんな目に遭わせずに済んだのに」


エクレールが自分と瓜二つの顔を歪めて悔しそうに言うと、アイラとリリアはふんわりと微笑んで首を横に振った。


「そんな顔をしないでくださいな。私たちは、エクレール様とお茶会ができて、とっても楽しかったですわ」


リリアが天使のような笑顔で慰めると、アイラも青玉の瞳を輝かせて同意した。


「そうよ! あなたは、この国のご意見番として、これからも美味しいものをたくさん食べて、楽しく元気に長生きしてちょうだいね!」


「ええ、約束するわ。……アイラ、リリア、どうか元気でね!」


エクレールの手を固く握り返した後、アイラたち四人は南へ向かう街道へと歩き出した。


「美味しいご飯もたくさん食べられたし、食堂経営も楽しかったけれど……やっぱり、お別れは少し寂しいわね」


教え子たちの努力の結晶であるこの国が、少しずつでも良い方向へ変わっていくことを祈りながら、アイラは王都の城壁を振り返ってポツリと呟いた。


その小さな背中を包み込むように、ジュリアンが彼女の腰を優しく抱き寄せた。


「出会いがあれば、別れがある。悠久の時を生きる君たち魔女にとっては、これからも何度も経験することだ」


「ええ。ですが、この国で過ごした楽しい思い出と、美味しい料理の味は、絶対に色褪せることはありませんわ」


エドワードにエスコートされながら、リリアもまた王都に向かって静かに微笑みかけた。


「そうね! 寂しがってばかりじゃお腹が減るだけだわ! 次の国には、一体どんな美味しいグルメが待っているのかしら!」


アイラがいつものように食欲全開の笑顔を取り戻すと、三人も釣られたように笑い声を上げた。


階級制度という人間の歴史の闇に触れ、教え子の国を守るために静かに身を引くという、少しだけ大人な選択をしたアイラたち。


彼女たちの気ままで自由な美食探求の旅は、新たな大地へと向かって、まだまだ賑やかに続いていくのであった。


ドミニケル王国を後にしたアイラたち四人は、新たな美食と未知の食材を求めて、大陸をさらに南下していた。


緑豊かな街道を抜け、次第に乾燥した風が吹き始める荒野での野営中、アイラ特製の絶品料理に舌鼓を打っていたある日の昼下がりのことである。


「いやあ、今日も最高に美味しいご飯だったわ!」


アイラが食後のハーブティーを飲みながら満足げに背伸びをすると、ジュリアンが優雅な手つきで彼女の口元をナプキンで拭った。


「君の作る料理は、どんな高級レストランにも勝る至高の味だよ。……ところでアイラ、少し気になっていたことがあるんだが」


「ん? なにかしら?」


アイラが小首を傾げると、ジュリアンは翠緑の瞳を面白そうに細めた。


「先日まで滞在していたドミニケル王国では、君が数百年前に残した分身が、大太后として国の中枢に定着していたわけだが……。他にも同じように、『回収し忘れた分身』をどこかの国に放置していたりはしないのかい?」


そのジュリアンの鋭い指摘に、アイラはピクリと肩を揺らした。


「……え? ま、まさか。いくら私でも、自分の分身をあちこちにポイポイ置き忘れるようなドジは踏まないわよ」


アイラは引き攣った愛想笑いを浮かべながら、念のためにと自分自身の数百年分の記憶を遡り始めた。


(えーと、ダイダロス王国に置いた分身は先日回収したし、その前のソロキャンプでは……あ、あれ?)


数秒後、アイラは青玉の瞳を限界まで見開き、「ああっ!」と大きな声を上げた。


「お姉様? どうかされましたの?」


リリアが不思議そうに尋ねると、アイラは両手で顔を覆って天を仰いだ。


「……思い出したわ。置き忘れた分身、まだいたわ。しかも、三人!」


「やはりありましたか……しかも三人とは。アイラ義姉上のことですから、きっとあるのではないかと思っていましたよ」


エドワードが生真面目な顔で呆れ交じりに息を吐くと、ジュリアンは楽しそうに笑い声を上げた。


「ふふっ、それで? 一体どこの国に、どんな目的で三人も分身を置き忘れてきたんだい?」


ジュリアンの問いに、アイラは顔を覆ったまま、ひどく気まずそうに語り始めた。


「この大陸のずっと南にある、砂漠の国『ドレビアン王国』よ。当時ソロキャンプで立ち寄った時に、誘拐事件を解決して王家のドロドロの派閥争いに巻き込まれたの」


アイラはかつての記憶を呼び起こしながら、指を三本立てた。


「その時、暗殺を防ぐための保険として、アドルフ国王陛下、ドラウン第三王子、システィーナ第二王女の三人の影に、それぞれ分身を密かに潜り込ませたのよ」


「なるほど。王族の命を守るための、影の護衛というわけだね。……しかしアイラ、数百年という時間が経っている以上、その三人の王族はとっくに寿命を迎えているはずだが」


ジュリアンが至極真っ当な指摘をすると、アイラは勢いよく顔を上げてブンブンと頷いた。


「そうなのよ! 分身たちは『彼らの命を守れ』という命令を受けたまま放置されているから、護衛対象が寿命で死んだ後、どうなったか全く不明なのよ!」


アイラの言葉に、リリアが少し心配そうに小首を傾げた。


「もしかして、分身たちはそのまま代々の王族の影に憑りついて、数百年もの間、国を裏から守り続けているのでしょうか?」


「あいつら、私と同じ食欲と性格を持っているから、真面目に影の護衛を続けながら、ちゃっかり数百年分の宮廷料理をつまみ食いしている可能性が高いわ!」


アイラが食欲全開の顔になって力説すると、三人は一斉に苦笑いを漏らした。


「そういうことなら、早く回収に行ってあげた方が良さそうですね」


エドワードが真面目な顔で提案すると、アイラは青玉の瞳をキラキラと輝かせた。


「ええ! ドレビアン王国には、たくさんのスパイスを使ったカレーや、新鮮な海鮮料理がいっぱいあるのよ! 早く行って、分身と新しいレシピを回収しなくちゃ!」


かくして、アイラたちの次なる目的地は、三人の分身を置き忘れた砂漠の王国、ドレビアン王国へと決定したのであった。


それから数日後、魔物を蹴散らしながら南下を続けた一行は、乾いた熱風が吹き荒れるドレビアン王国の王都へと辿り着いた。


「うーん、この強烈なスパイスの香り! 数百年前と全然変わってないわ!」


王都の市場に足を踏み入れた瞬間、鼻腔をくすぐる芳醇な香辛料の匂いに、アイラの食欲メーターは一気に跳ね上がった。


「活気のある良い街だね。香辛料の取引が盛んなのか、行き交う商人たちの身なりも非常に豊かだ」


ジュリアンが王都の経済状況を的確に分析している横で、アイラはさっそく屋台へと突撃し、スパイシーな肉の串焼きを両手に抱えて戻ってきた。


「はい、みんなの分も買ってきたわよ! ほっぺたが落ちるくらい美味しいから食べてみて!」


「ありがとうございます、お姉様。……んっ、ピリッとしていて、とても深い味わいですわ!」


リリアが天使のような笑顔で串焼きを頬張ると、エドワードも口元を綻ばせた。


「本当ですね。香辛料が肉の旨味を極限まで引き出しています。……リリア嬢、口元にソースがついていますよ」


「あっ、恥ずかしいですわ。拭いていただけますか、エドワード様?」


周囲が見えなくなるほど甘々でピンク色の空間を作り出す妹夫婦を微笑ましく見守りながら、アイラとジュリアンも串焼きを堪能した。


「さて、美味しいご飯を満喫したのは良いが、肝心の君の分身三人はどこにいるのだろうね?」


ジュリアンが優雅な手つきで串を捨てながら尋ねると、アイラは王都の中心にそびえ立つ巨大な王宮を見上げた。


「代々の王族の影に潜んでいるとすれば、間違いなくあのお城の中ね。夜になったら、こっそりと潜入してみましょう」


その日の深夜、アイラたちは【透明化インビジブル】の魔法を駆使し、誰にも気付かれることなく王宮の内部へと潜入した。


数百年前とは内装も警備の配置も変わっていたが、アイラの大魔女の魔力探知にかかれば、自分自身の魔力(分身)の気配を見つけるのは容易いことであった。


「……見つけたわ。王族の寝室が立ち並ぶ区画に、三つともまとまって気配があるわね」


アイラが小声で告げると、四人は音もなく気配のする部屋へと向かった。


そこは、現在のドレビアン王国の国王が使用していると思われる、最も豪奢な造りの寝室であった。


アイラたちが透明化を解いて部屋の中に忍び込むと、天蓋付きのベッドで立派な髭を蓄えた初老の国王が、静かに寝息を立てていた。


「さて、出てきなさいな。私の分身たち」


アイラが魔力を込めて呼びかけると、国王のベッドの影、窓の影、そして観葉植物の影から、ヌルリと三人の銀髪の女性が姿を現した。


「「「……遅いわよ、本体!!」」」


姿を現した三人の分身は、顔を合わせるなり、アイラ本体に向かって一斉に文句を言い放った。


「ご、ごめんなさい! 色々あって、すっかり忘れていたのよ!」


アイラが両手を合わせて平謝りすると、分身たちは腕を組んでジト目を向けた。


「色々って何よ! 私たち、最初の護衛対象が寿命で死んだ後、どうしていいか分からなくて、とりあえず代々の王族の影に潜り続けて国を裏から守り続けていたのよ!」


アドルフ国王の影に潜んでいた分身が呆れたように言うと、ドラウン王子の影に潜んでいた分身も頷いた。


「そうよ! 歴代の暗殺者を何百人も物理的に処理してきたんだからね!」


「おかげで、この国の王家には『見えざる影の守護神』がいるって、伝説になっちゃってるんだから!」


システィーナ王女の影に潜んでいた分身までが不満を爆発させると、ジュリアンは面白そうにクスクスと笑い声を漏らした。


「ふふっ、それはご苦労だったね。しかし、君たちなら数百年もの間、ただ真面目に護衛だけをしていたわけではないのだろう?」


ジュリアンの鋭い指摘に、三人の分身はハッとして顔を見合わせ、やがてニヤリと食欲に忠実な笑みを浮かべた。


「……まあね。王家の影にいるってことは、毎日宮廷料理の厨房の影にも入り込めるってことだから」


「王宮の料理長が代わるたびに、新しいスパイスの配合や、海鮮カレーの究極のレシピを全部この目で盗んで記憶してきたわ」


「数百年間、つまみ食いとレシピの収集だけは欠かさなかったわよ!」


分身たちの誇らしげな報告を聞いて、アイラは青玉の瞳を限界まで見開いて歓喜の声を上げた。


「さっすが私の分身! 素晴らしいわ、よくやったわね!」


アイラが三人の分身をまとめて抱きしめると、分身たちも嬉しそうに笑い合った。


「お姉様がお姉様を褒めちぎっていますわ……なんだか不思議な光景ですね」


「ええ。ですが、三人も分身がいれば、収集した料理の知識も三倍ということになりますからね」


リリアとエドワードが微笑ましく見守る中、アイラは分身たちに向かって力強く頷いた。


「さあ、数百年間の任務、本当にお疲れ様! 私の中に統合して、その究極のスパイス知識を私に渡しなさい!」


「ええ、分かったわ! しっかり受け取りなさい、本体!」


三人の分身が光の粒子となってアイラの中へと吸い込まれていく。


その瞬間、数百年間分のドレビアン王国の歴史と、数え切れないほどのスパイスの調合記録、そして究極の宮廷料理のレシピが、濁流のようにアイラの脳内に流れ込んできた。


「ふう……っ! すごい情報量だけど、これでスパイス料理に関しても私は神の領域に達したわね!」


アイラは満足げに息を吐き、寝ている国王を起こさないように静かに部屋を後にした。


翌日、アイラたちは王都の市場で大量のスパイスと新鮮な海鮮を買い込み、宿の厨房を借りて料理を始めていた。


「さあ、私の分身たちが数百年かけて盗み出した、ドレビアン王国の究極の海鮮カレーよ!」


アイラが自信満々に大鍋の蓋を開けると、これまでに嗅いだことのないほど複雑で芳醇な香りが部屋中に広がった。


「これは……! 匂いだけでご飯が食べられそうですわ!」


「素晴らしい香りですね。スパイスの調合が、素人のそれとは完全に一線を画しています」


リリアとエドワードが目を輝かせて皿を受け取り、一口食べた瞬間に衝撃で言葉を失った。


「美味しい……! 舌をピリッと刺激する幾重ものスパイスの奥から、濃厚な海鮮の旨味が波のように押し寄せてきますわ!」


「ああ、これは凄まじいね。私が天界や人間界で食べてきたあらゆる料理の中でも、刺激と旨味のバランスにおいては間違いなく頂点に立つ味だ」


ジュリアンも翠緑の瞳を見開いて唸り、優雅な所作を忘れるほどの勢いでカレーを口に運んだ。


「ふふん、当然よ! 私の分身たちが数百年かけて蓄積した知識の結晶なんだから!」


アイラは幸せの絶頂のような顔でカレーを平らげると、大きく背伸びをした。


「よし! この国にはまだまだ美味しいものがたくさんあるはずよ! しばらくはこのドレビアン王国を拠点にして、分身が残してくれたレシピを全部作り尽くしてやるわ!」


アイラの食欲全開の宣言に、ジュリアンが極上の笑みで頷いた。


「ああ。君が満足するまで、何度でも付き合おうじゃないか。このスパイスの国で、私たちの新しい日常を楽しむとしよう」


その時、宿の厨房の窓辺を、一匹の野良猫が音もなく通り過ぎた。


気配に反応したアイラは、無意識のうちに手に持っていたフォークを逆手に構え、野良猫の首筋に向けて凄まじい殺気を放っていた。


「にゃっ!?」


あまりの殺気に野良猫が毛を逆立てて逃げ出すと、アイラはハッとしてフォークを下ろした。


「あ、あれ? 私、なんで猫なんかにフォークを……?」


不思議そうに首を傾げるアイラを見て、ジュリアンは面白そうにクスクスと笑い声を漏らした。


「ふふっ、アイラ。君の分身たちの『暗殺者を物理的に処理する職業病』がうつっているようだよ」


「ええっ!? 嘘でしょ、私、美味しいものを食べる以外の殺伐としたスキルなんて要らないのに!」


アイラが頭を抱えて絶叫すると、リリアとエドワードも顔を見合わせて楽しそうに笑い合った。


こうして、回収し忘れていた三人の分身との再会を果たし、究極のスパイス知識と少し物騒な護衛の癖を手に入れたアイラたち。


砂漠の王国ドレビアンでの、彼女たちの気ままでスパイシーな日常が、新たに幕を開けるのであった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ