弱点克服と最高のアンチエイジング
書籍化に伴い改稿しました。
新入生オリエンテーションと波乱の顔合わせから一夜明け、今日からいよいよ王立学園での本格的な授業がスタートした。
最初の講義は、大教室での『魔法基礎理論および王国史』である。
貴族の子女としての一般教養と、魔力運用の基礎を叩き込む座学だ。
学園の『連帯責任スパルタ教育システム』により、アイラたちトップ3は、指導対象であるボトム3の後ろの席に座り、彼らの授業態度を観察することになっていた。
「さあ、見せてもらいましょうか。落ちこぼれ……もとい、個性豊かな私たちの生徒たちの実力を」
アイラは腕を組み、前方を見据えた。
隣にはリリアとセリアも真剣な顔で並んでいる。
まずは、リリアの指導対象である第128位、没落貴族三男のノア・ウィンザーである。
「……ふむ。第3王政期における魔力導管の敷設は、明らかに効率が悪すぎるな。僕なら別の術式回路を提案するが……まあ、記録としては正確か」
ノアは分厚い眼鏡を押し上げながら、ものすごいスピードでペンを走らせている。
教授の言葉を一言一句逃さずノートに書き写すだけでなく、余白に自分の考察や批判まで書き込むという、凄まじいインテリぶりを発揮していた。
「ノア様、素晴らしい集中力ですね! さすがは筆記試験2位です。これなら座学は全く心配いりませんね」
リリアがホッと胸を撫で下ろしている。
確かに、魔力ゼロという実技の致命的な欠点はあるものの、授業を聞く姿勢としては完璧だ。
次に、セリアの指導対象である第127位、子爵令嬢のオルフィア・フローレスである。
「ひぃぃ……きょ、教授と目が合ってしまった……! 違うんです、私なんかが教授の神聖な御顔を直視してしまったわけではなく、ただ黒板の文字を書き写そうと……!」
オルフィアは重たい『ぱっつん前髪』で顔を完全に隠しながらも、ガクガクと震える手で必死にノートをとっていた。
極度のあがり症で、教授が少しこちらを向いただけで小動物のように怯えているが、決して授業を放棄しているわけではない。
ノートの文字も、震えのせいで少しミミズが這ったようになっているが、ちゃんと要点はまとめられている。
「オルフィアさん、健気です! あの怯え切った精神を、私が毎朝のランニングで強靭な鋼のメンタルに鍛え上げてみせます!」
セリアがなぜか感動の涙を流しながら、ギュッと拳を握りしめている。
ランニングでメンタルが治るかは謎だが、オルフィアも授業態度は及第点だ。
――問題は、アイラの指導対象である第129位、平民特待生のクロード・ベルンハルトだった。
「…………スゥ……スゥ……」
「……」
アイラは、頭の血管がピキッと音を立てて切れそうになるのを必死に堪えていた。
クロードは、机の上に広げた真っ白なノートの上に顔を伏せ、気持ちよさそうに寝息を立てていた。
いや、ただ寝ているだけではない。
時折ビクッと体を揺らしたかと思うと、寝言で「そこだ! 大上段からの唐竹割りィ!」などと叫びながら、無意識に手刀で机をチョップしているのだ。
「……あいつ。よくこれで平民特待生でこの学園に入れたわね」
アイラがギリッと奥歯を噛み締めると、前に座っていたノアが振り返り、冷ややかな声で囁いた。
「アイラ嬢の言う通りです。実技試験で的を両断した剣術『だけ』で入学を許可した学園長の正気を疑いますよ。彼は文字を見ると、脳が拒絶反応を起こして五分で気絶(睡眠)する体質らしいですから」
「文字で気絶って、どこの呪いよ……」
アイラは深いため息をついた。
エドワード殿下の「無慈悲なシゴキはしないように」という言葉を思い出す。
だが、授業を聞くことすらできない相手に、どうやって優しく教えろというのだ。
「仕方ないわ。とりあえず今日のところは寝かせておいてあげる。……放課後、ちょっと『作戦会議』よ」
アイラは、クロードの寝首を掻きたい衝動を抑えながら、チャイムが鳴るのを静かに待った。
放課後、学園の敷地の隅にある、あまり人が寄り付かない旧校舎の空き教室に、クロードを除く五人のメンバーが集まっていた。
「……で? クロードさんはどうしたんですか?」
ノアが怪訝そうに尋ねる。
「あいつがここにいたら『まあまあ、剣が振れればいいじゃん!』って話を逸らされるのがオチだからね。中庭で素振りでもしてこいって追い出してきたわ」
アイラが肩をすくめると、セリアがウンウンと頷いた。
「賢明な判断です、アイラ様。あのような集中力のない殿方には、まずは肉体を極限まで疲労させ、雑念を払う修行が必要です!」
「セリアちゃん、だから修行じゃないってば。……さて」
アイラは教卓の前に立ち、黒板をコンコンと叩いた。
「今日、ボトム組の三人の授業態度を観察させてもらったわ。ノアとオルフィアは、座学に関しては特に問題ないわね」
「当然です。僕の頭脳はこの学園の至宝ですから」
「ひぃっ! わ、私なんて問題だらけです、息をしているだけで空気を汚してしまって……!」
ふんぞり返るノアと、教室の隅で体育座りをして震えるオルフィアは対極すぎる二人だが、とりあえず彼らの指導は後回しでいい。
「問題は、クロードよ。授業に全くついていけてないどころか、スタート地点にすら立ってない。彼をどうやって授業に追いつかせるか、みんなで知恵を絞りたいの」
アイラの言葉に、教室はシンと静まり返った。
最初に口を開いたのは、やはりノアだった。
「無理です、諦めましょうアイラ嬢。彼の基礎学力はチンパンジー以下です。まずは幼児向けの絵本で『あいうえお』を教えるところから始めるべきでは? いや、それすらも彼には高度すぎるかもしれませんが」
相変わらず辛辣な分析だ。
しかし、平民出身で剣一本で生きてきた彼に、貴族の一般教養や魔法理論の基礎がスッポリ抜け落ちているのは事実だった。
「そ、そんな……」
隅っこから、オルフィアがオドオドしながら手を挙げた。
「クロードさん、実技試験ではすごく、かっこよかったですよ……? いつも元気で、明るくて……。あ、あの、もしよければ、わ、私のノートをお貸ししましょうか……? 字が震えていて汚くて、読むと目が腐ってしまうかもしれませんが……」
「オルフィアさん、優しいですね! オルフィアさんのノートなら、きっとクロードさんも心が洗われるはずです!」
リリアが感動してオルフィアの手を握る。
オルフィアは「はわわっ」と顔を真っ赤にしてフリーズしてしまった。
「オルフィアのノートを貸すのはいい案だけど、そもそも文字を読むと気絶する体質をどうにかしないとね」
アイラが顎に手を当てて唸っていると、セリアがバンッと机を叩いて立ち上がった。
「やはり、走り込みをしながら暗唱させるのが一番です! 『王国建国の歴史!』と叫びながら木刀を振らせるのです! 精神と肉体を限界まで追い込めば、脳に直接記憶が定着します!」
「……セリア嬢。それはただの拷問です。教国の聖女というのは、実はバーサーカーの集まりなんですか?」
ノアがドン引きしながらツッコミを入れる。
「でも、セリアの案もあながち間違ってないかも」
「えっ、アイラ様!? 正気ですか!?」
ノアがギョッとする中、アイラはニシシと悪戯っぽく笑った。
「クロードの長所は『圧倒的な体力と剣術』。そして、もう一つ……今日のお昼休みに学食で観察して分かったんだけど、あいつ、私と同じくらい『大食い』だったわ」
「食欲、ですか?」
リリアが小首を傾げる。
「そう。脳みそが筋肉でできているなら、理屈や座学で教えようとするのが間違ってるのよ。彼の『闘争本能』と『食欲』……つまり、生存本能に直接知識を刻み込むしかないわ」
アイラは黒板にチョークで大きく『クロード救済・極秘スパルタ詰め込みメソッド』と書き殴った。
「ノア。あんたの知識と分析力で、今日から一週間分の授業の『絶対にテストに出る要点』だけを超圧縮したリストを作りなさい」
「……はあ。要点だけを抽出するなら、僕にとっては造作もないことですが。それをどうやって彼に覚えさせるんです?」
「オルフィア。あんたはノートを貸すんじゃなくて、そのリストを『問題カード』の形に清書してちょうだい」
「ひぃっ! わ、私でよければ、頑張って綺麗な字で書きます……!」
「そして、リリアとセリア。あんたたちは……」
アイラが二人に指示を出した内容を聞き、ノアはあんぐりと口を開け、オルフィアは「ひぃぃっ」と震え上がり、リリアとセリアは「なるほど!」「やります!」と満面の笑みで頷いた。
「いい? 王立学園の平和な学食ライフを守るためにも、クロードには無理やりにでも授業に追いついてもらうわよ」
エドワード殿下の「無慈悲なシゴキはしないように」という言葉は、アイラの頭の中から完全に消え去っていた。
明日からの放課後、クロード・ベルンハルトの悲鳴が学園の空に響き渡ることを、この時の彼はまだ知る由もなかったのである。
放課後の第3訓練場には、王立学園の優雅な風景とは到底思えない、地獄絵図が広がっていた。
「はぁっ、はぁっ、はぁぁぁっ……!」
重さ50キロの特製ウェイトを背負わされ、校庭を猛ダッシュしているのは、アイラの指導対象であるクロードだ。
その後ろには、満面の笑みを浮かべたセリアが木刀を構えてピタリと並走している。
「クロードさん! 足が遅くなっていますよ! 止まったら脳天に『聖なる一撃』をお見舞いしますからね!」
「鬼かお前はァァァ!?」
そして、クロードの目の前には、リリアの風魔法によってフワフワと宙に浮く『お盆』があった。
その上には、蓋を開けたばかりの熱々の料理――アイラが学食の料理長に直接レシピを叩き込んで作らせた『特製・黄金の豚角煮丼』が載せられている。
甘辛い醤油と八角の香りが、夕暮れの風に乗ってクロードの鼻先を執拗に撫でていた。
「いい匂いねぇ。限界まで腹を空かせた体に、この匂いは堪らないでしょう?」
アイラは腕を組み、訓練場のベンチからその様子を高みの見物と洒落込んでいた。
「くそっ、食わせろ! その美味そうな肉を俺に食わせろォォ!」
「ダメよ。リリア、次!」
アイラの合図で、リリアがオルフィアの清書した『問題カード』を一枚、パッと掲げた。
「では問題です! 第3王政期に敷設された魔力導管の最大の欠点は何でしょう! 3秒以内にお答えください!」
「えっ!? あ、えっと、魔法が、ドバーッと出て……」
「ブッブー。時間切れです」
リリアが魔法の出力を上げると、角煮丼はスッと5メートルほど前方へ遠ざかった。
「ああっ!? 俺の角煮がぁぁぁ!!」
「止まらない! 走って走って!」
絶望して足を止めそうになるクロードの尻を、セリアの木刀が容赦なく叩き据える。
ベンチの端では、ノアとオルフィアが青ざめた顔でその光景を見つめていた。
「……信じられません。いくらなんでもやりすぎでは? 彼はすでに30周は走っていますよ」
「はわわ……クロードさんが死んでしまいます……。私の書いたカードのせいで、クロードさんが……」
震える二人に、アイラはニッコリと微笑みかけた。
「あら、これでもかなり手加減してるのよ? もしこの『極秘スパルタ詰め込みメソッド』でダメだったら……最終手段に出るつもりだし」
「さ、最終手段……?」
ノアが嫌な予感を察知したように顔を引きつらせる。
「ええ。夜、あいつが寝ている間に『精神干渉魔法』を使って、夢の中に教授を直接召喚するのよ。そして、卒業するまで絶対に終わらない『悪夢のマンツーマン授業』を脳内で永遠にループ再生させて、恐怖と共に記憶を脳髄に焼き付けてやるの」
「…………ッ!!」
アイラの恐ろしすぎる発想に、ノアとオルフィアは同時に息を呑んだ。
(物理的な拷問よりタチが悪い……! この女、魔王か何かか!?)
(クロードさん、お願い、頑張ってええぇ! 悪夢に食べられちゃいますぅぅ!)
ノアとオルフィアは、両手を組んで必死に祈り始めた。
どうか彼がこのスパルタを乗り越えてくれますように、と。
――その祈りが通じたのか。
あるいは、極限状態の飢餓感が彼の本能の扉をこじ開けたのか。
「はぁっ、はぁっ……ぜってぇ、食う……! その肉は、俺のモンだぁぁぁ!」
クロードの目の色が変わった。
文字を見るだけで気絶していたはずの彼が、リリアが掲げるオルフィアの文字を、獲物を狙う鷹のような目で凝視し始めたのだ。
「次! 『第一次魔獣戦役』において、王国軍がとった陣形の名前と、その考案者は?」
「『十字防壁陣』! 考案者は第2代騎士団長、レオン・フォン・アークライトォォ!」
「正解です! では次! 基礎治癒魔法の術式構成における、第3節のルーン配列は?」
「『再生』、『水』、『循環』の三重複合ォォ!! ノアが余白に書いてた『マナの無駄が多い』って批判の通り、非効率的な配列だァァ!」
クロードが、猛獣のような血走った目で角煮丼をロックオンしたまま爆速で走り、次々と正解を叫んでいく。
ノアがまとめた要点と、オルフィアの丁寧な文字が、食欲という最強のブースターを得て、クロードの筋肉ダルマの脳に次々とインストールされていく。
「い、言えた……! クロードさんが、文字の書かれたカードを即座に読んで答えました!」
オルフィアが感動のあまり泣き崩れ、ノアも眼鏡を落としかけるほど驚愕していた。
そして、最後の一枚が掲げられた。
「最終問題! これに正解すれば上がりよ、クロード!」
アイラが立ち上がって叫ぶと、クロードは血走った目でリリアのカードを睨みつけた。
「王国憲章第12条、第1項の条文を答えよォォ!」
「『貴族たる者、民の盾となりて王国に身を捧ぐべし。その剣は弱きを守るためにのみ抜かれるべし』だぁぁぁッ!!」
完璧な暗唱である。
アイラは満足げに頷き、指をパチンと鳴らした。
「合格! セリア、リリア、そこまで!」
「はいっ!」
ウェイトが解除され、セリアの追撃が止まり、そして――リリアの魔法によってフワリと降りてきた『特製・黄金の豚角煮丼』が、クロードの両手に収まった。
「お、おおおお……!」
膝から崩れ落ちたクロードは、震える手で箸を持ち、そのまま無我夢中で角煮を口に放り込んだ。
「うっ、うめええええええっ!? なんだこれ!? 肉が口の中で溶けた!? 甘くて、しょっぱくて、脂が……脂が最高にうめええええ!!」
涙と汗で顔をぐしゃぐしゃにしながら、クロードはあっという間に丼を空にした。
それを見届けてから、一行は学食の特別個室へと移動した。
「はぁ〜、落ち着くわね」
学食の奥にある、防音魔法のかかった特別個室で、アイラたちもクロードと同じ特製メニューを堪能していた。
「アイラ嬢……この料理は、一体?」
ノアが、出汁の効いた上品なスープを一口飲み、そのあまりの美味さに目を丸くしている。
オルフィアも、頬を抑えながら幸せそうに角煮をモグモグと噛み締めていた。
「私が学食の料理長を脅し……ごほん、熱心に説得して作らせている『裏メニュー』よ。こっちの貴族の食事って、香辛料ドバドバの濃い味ばかりで飽きるでしょ? だから、素材の味を極限まで引き出す調理法を特別に伝授したの」
アイラがドヤ顔で説明すると、リリアがニコニコしながら付け加えた。
「でも、この裏メニューに使われている素材は、すごく希少なものばかりなんです。だから、普段は材料の都合で、お姉様と私とセリアの『3人分』しか作れないんですよ?」
「えっ!? じゃ、じゃあ、俺がさっき食ったのや、今ノアとオルフィアが食ってる分は……?」
クロードが驚いて顔を上げる。
「今回は特別。あんたたちボトム3人が、これから私たちについてこれるように『前祝い』として、うちの公爵家の権力を使って特別に材料を多めに仕入れさせたのよ」
「……」
アイラの言葉に、クロード、ノア、オルフィアの三人は顔を見合わせた。
「これからは、今日の暗記カードの小テストに全問正解できたら、この裏メニューを食べる権利をあげるわ。……どう?」
アイラが悪魔の誘惑のように囁くと、クロードは即座にガタッと立ち上がった。
「やる! 俺、絶対授業聞く! 悪夢見せられるのは嫌だし、何よりこの飯のためなら、文字の呪いだって克服してやるぜ!」
「クロードさん……! はい、私も全力でノートをとります!」
「ふん。まあ、この食事のクオリティなら、僕が要点リストを作ってやる労力に見合いますね」
見事に釣られた3人を見て、アイラとリリアとセリアは顔を見合わせて笑った。
こうして、彼らの波乱に満ちた(そして食欲にまみれた)学園生活の、本当の第一歩が始まったのだった。
クロードの『文字を見ると気絶する呪い』を特製角煮丼で物理的(?)に打ち破ってから数日、ボトム組の筆記試験対策は、学食の裏メニューという最強のニンジンをぶら下げたことで、驚くほど順調に進んでいた。
「よし、座学の危機はとりあえず去ったわね。次は実技よ」
今日の午後は、広大な第1訓練場での魔法実技の授業だった。
課題は『基礎魔力放出と標的破壊』であり、的に向かって自分の魔力をぶつけ、その威力と制御力を測るシンプルなものだ。
「俺の番だな! うおおおおっ!!」
クロードが木剣に微量の魔力を纏わせ、気合と共に的を両断する。
魔法というよりほぼ物理(剣圧)だが、威力が基準を満たしているので教官も渋々合格を出していた。
「ひぃっ、あ、あのっ、ええと……水球!」
オルフィアも震えながら杖を振り、小さな水風船のような魔法を的に当てる。
威力は皆無だが、一応魔力は形になっているのでギリギリ及第点だ。
「さて。問題は……ノア、あんたよ」
アイラが腕を組んで視線を向けると、ノアは少し離れた日陰のベンチで、分厚い魔導書を読みながら涼しい顔をしていた。
「僕ですか? 僕は実技は見学です。教官にも入学時に申告してありますから」
ノアが眼鏡を押し上げながら、淡々と答える。
「僕の家系は代々魔力適性が低く、僕に至っては先天的に魔力器官が欠損している『魔力ゼロ』の体質です。ないものを出せと言われても不可能ですからね。実技試験の分は、座学のパーフェクトスコアで補填する計算はできています」
「……」
ノアの指導担当であるリリアが、困ったようにアイラを見た。
「お姉様。ノア様の仰る通り、魔力がない方に魔法を使えというのは酷です。ですが、この学園は『連帯責任』。ノア様が実技で0点を取れば、私たちの評価も下がってしまいます」
「そうね……。ちょっと、彼を『診て』みましょうか」
アイラ、リリア、そしてセリアの三人は、ノアの周りを囲むように立った。
そして、密かに魔力を練り上げ、瞳に集中させる。
アイラたちが学園入学までの数年間、山のような実戦と修行を経て身につけた技術の一つ――『魔力視』だ。
白魔法と黒魔法を扱う彼女たちには、他人の体内の魔力の流れや総量、属性の偏りまでが、はっきりと色付きで見えるようになっていた。
ノアの体内を透かして見た瞬間、三人とも、まったく同時に間の抜けた声を漏らした。
「「「…………えっ?」」」
「……どうかしましたか? 僕の哀れな欠損体質を見て、同情でもしてくれたんですか?」
ノアがいぶかしげに眉をひそめる。
「……嘘でしょ」
「……お姉様、これって……」
「……はい。見間違いではありません。ノア様の体内、とんでもないことになってます」
彼女たちに見えたものは、『魔力ゼロ』という空っぽの器などでは決してなかった。
ノアの体の中には、氷のように冷たく静かな銀色の、とてつもなく高密度で質の高い『魔力』がタプタプに満ち溢れていたのだ。
総量だけで言えば、学園でもトップクラスに匹敵するかもしれない。
「ノア。あんた、魔力がないって言ったわね?」
「はい。幼い頃から何度も宮廷魔術師の検査を受けましたが、魔力反応はゼロでした」
「……検査機器がポンコツだったか、あんたの魔力が特殊すぎて反応しなかっただけよ。あんたの体の中、魔力がパンパンに詰まってるわ」
「は?」
ノアがぽかんと口を開けた。
「じゃ、じゃあノアも魔法が使えるのか!?」
「す、すごいですノアさん! 隠された才能ですね……!」
クロードとオルフィアが目を輝かせるが、アイラは重いため息をついた。
「才能っていうか……宝の持ち腐れにも程があるわよ。ノア、あんた『致命的に魔力への感覚が鈍感』なだけよ」
「ど、鈍感……? 僕のこの明晰な頭脳が、自身の身体の異常に気付かないとでも言うんですか!」
ノアがムキになって反論するが、リリアが優しく、しかし容赦なく事実を突きつける。
「ノア様。人間が魔力を放出するには、脳から魔力器官へ『放出せよ』という神経信号を送る必要があります。ですが、ノア様のその『魔力を感じるための神経』が、完全にプツンと切れているんです」
「だから、頭でどれだけ完璧な魔法の理論を理解していても、それを実行する神経が繋がってないから、一生魔法が出ないの。例えるなら、水がなみなみと注がれた樽があるのに、蛇口の栓が完全に壊れてて一滴も出せない状態ね」
アイラが補足すると、ノアは「そ、そんな馬鹿な……」と眼鏡をガタガタと震わせた。
理論と理屈で生きてきた彼にとって、「自分はただの超絶鈍感だった」という事実は、魔力がないこと以上のショックだったようだ。
「安心してください、ノア様! そのような症状なら、私の『聖なる一撃』で頭部に物理的なショックを与え、強制的に神経を繋ぎ直す荒療治が可能です!」
セリアが嬉々として木剣を構える。
「ヒィッ!? やめてください、神経が繋がる前に命の糸が切れます!」
ノアが悲鳴を上げてベンチから飛び退いた。
「セリアちゃん、ストップ。流石に物理で治る症状じゃないわ」
アイラはセリアを制止し、リリアと頷き合った。
「でも、私たちなら治せるわよね。リリア」
「はい、お姉様。私の『白魔法』で切断された魔力感覚神経をゆっくりと繋ぎ合わせ、お姉様の『黒魔法』で凝り固まった魔力に外から刺激を与えて循環を促せば……時間はかかりますが、確実に魔力を認識できるようになるはずです」
「というわけよ。ノア、今日から放課後は『魔力感覚神経開通・長期治療コース』の始まりよ。痛いかもしれないけど、我慢しなさいね。なにせ、切れた極細の神経を光の糸で結び直して、そこに無理やり漆黒の魔力を流し込むんだから」
アイラがニヤリと笑うと、ノアは顔面を蒼白にさせた。
「ま、待ってください! 君たちの魔法は規格外すぎます! 白と黒の魔法を体内に直接流し込まれるなんて、そもそも白魔法と黒魔法が未知の魔法体系なんですよ! どんな副作用が……!」
「いいから! あんたの頭脳と、その莫大な魔力が合わされば、凄い魔法使いになれるかもしれないのよ! クロードもオルフィアも応援してるんだから!」
「おう! 頑張れよノア! 終わったらまた美味い飯が食えるかもしれねえぞ!」
「ノアさん、ふ、ファイトです……! 私も、お水をお持ちしますから……!」
クロードがバンバンとノアの背中を叩き、オルフィアが健気に両手でガッツポーズを作った。
「君たちまで……ッ! ああもう、分かりましたよ! 僕の計算では生存確率50%未満ですが、やってやろうじゃないですか!」
ノアがヤケクソのように叫び、眼鏡をスッと押し上げた。
その手はまだ少し震えていたが、瞳には「未知の魔法学への探求心」と「仲間への信頼」が確かに宿っていた。
「よし、決まりね! さあ、地獄の……もとい、愛の治療特訓の始まりよ!」
アイラの号令とともに、王立学園の第1訓練場に、ノアの情けない(しかし前向きな)悲鳴が響き渡った。
文字の呪いを克服した剣士に続き、魔力鈍感を克服するインテリを抱え、おかしな連帯責任チームはこうして少しずつ、確実に絆を深めていくのだった。
「ぎゃあああああああっ!? 痛い! 痛いです! 脳髄を直接タワシで洗われているような感覚が……ッ!」
今日の放課後も、第1訓練場の片隅にはノアの情けない悲鳴が響き渡っていた。
絶賛『魔力感覚神経開通・長期治療コース』の最中である。
リリアの白魔法とアイラの黒魔法の合わせ技で、彼のプツンと切れた魔力感覚神経を一本ずつ繋ぎ直しているのだ。
「頑張れよー、ノア! その痛みの先には、美味い裏メニューが待ってるぜ!」
その横で、クロードが特製ウェイトを背負って素振りをしながら、カラカラと笑ってノアを応援していた。
すっかりこのスパルタ特訓に順応した彼は、今日も元気いっぱいだ。
「……ねえ、リリア」
「はい、お姉様。私も、同じことを考えていました」
悲鳴を上げるノアから一旦手を離し、アイラとリリアは顔を見合わせた。
ノアの件で、彼女たちはひとつの教訓を得た。
『本人の自己申告などアテにならない』という事実だ。
「ちょっと、クロード。素振りをやめて、ちょっとそこに立ちなさい」
「ん? なんだアイラ嬢。もう飯の時間か?」
尻尾を振る大型犬のように駆け寄ってきたクロードを前に立たせ、アイラとリリア、そしてセリアの三人は、再び『魔力視』を発動した。
瞳に魔力を集中させ、クロードの体内を透かして見る。
「……やっぱりね」
「これは……驚きました。ノア様と同等か、それ以上の……」
クロードの体内にもまた、ノアと同じように膨大で高密度な、熱を帯びて荒れ狂う黄金の魔力が渦巻いていた。
ただの平民の剣士だと言っていたが、その魔力総量は間違いなく王室や高位貴族クラスのバケモノ級だ。
「なんだよ、三人揃って俺の体をジロジロ見て。いくら俺がイイ体してるからって照れるぜ」
「バカ言ってないで。クロード、あんた、ちょっと魔法を使ってみなさい。何でもいいわ、火でも水でも出そうとしてみて」
「え? いや、俺、魔法なんて一回も使えたことねえぞ? そもそも平民だし……」
「いいから! ほら、気合よ!」
アイラが急かすと、クロードは「うーん」と唸りながら、手のひらを前に突き出した。
「出ろぉ! なんかすごい炎とか、バーンって出ろォォォ!」
力むクロードのその瞬間、彼の体内の巨大な魔力が動き出すのを、彼女たちは『魔力視』でハッキリと捉えた。
魔力は丹田から胸へ、そして腕の『放出系魔法回路』を通って外へ出ようと、凄まじい勢いで奔流となる。
――しかし。
「……っ!? 痛てててっ!」
突然、クロードが顔をしかめて腕を押さえた。
手のひらからは火の粉ひとつ出ていない。
「お姉様……見えましたか?」
「ええ。酷い状態ね」
クロードの腕から先へ向かう『放出系の魔法回路』は例えるなら、巨大な落石で完全にペシャンコに押し潰されたトンネルだった。
魔力が外に出ようとしても、出口が完全に塞がれているため、行き場を失った魔力が体内で暴発して痛みを引き起こしているのだ。
「じゃあ、次は剣を振ってみて。いつもの全力で」
「お、おう? ふんっ!!」
クロードが手にした木剣を鋭く振り抜く。
その瞬間、体内で行き場を失っていた魔力が、瞬時に彼の筋肉や骨格、神経に吸い込まれ、強固なオーラとなって肉体を覆うのが見えた。
「なるほどね。放出系の回路が潰れてるから、無意識のうちに魔力が全て『身体強化』に回ってるのよ。どうりで、実技試験で的を物理で叩き斬れるわけだわ」
「つまり、クロードさんは魔法が使えないのではなく、『外に出せない』だけなんですね」
リリアが痛ましそうに呟いた。
「でも、お姉様。この回路の潰れ方……生まれつきの奇形や、事故によるものには見えません」
「……ええ。明らかに『人為的』に破壊されてるわね」
(こんな小さな子どもの回路を潰すなんて、どんな非道な奴が……)
アイラは心の中で毒づき、ほんの一瞬だけ、重い空気を漂わせた。
何らかの呪術か、あるいは物理的な拷問か、何者かが幼い頃のクロードの魔法回路を意図的に完全に破壊した痕跡があった。
これほどの魔力を持つ子どもを恐れたのか、それとも別の理由か。
(……誰がこんな酷いことをしたのか。まさか、この学園の中に心当たりがいるなんてことは……いや、今はどうでもいいわ。問題は、これをどうするかよ)
「なあ、アイラ嬢。俺の体がどうかしたのか?」
首を傾げるクロードに、アイラは事実を端的に告げた。
「クロード、あんた実はノアと同じくらいバカみたいな量の魔力を持ってるわ。ただ、魔法を外に出すための『管』が、何者かに完全にぶっ壊されてるの」
「えっ!? 俺、魔力あんのか!? しかも壊されてるって……マジかよ」
クロードは驚愕に目を見開いた。
「どうやら、あんたの過去には色々と面倒な秘密がありそうだけど、今は詮索しないわ。大事なのは『これから』よ」
アイラは腕を組み、クロードの目を真っ直ぐに見据えた。
「あんたが魔法を使えるようになるには、二つしか方法がないわ」
「ふ、二つもあんのか! すげえ!」
「喜ぶのは早いわよ。どっちを選んでも地獄の痛みが伴うから。一つ目。完全に潰れて癒着した回路に、私の黒魔法で無理やり魔力のドリルをねじ込んで、血みどろになりながら新しい道を『再開通』させる方法」
「ひっ」
傍らで聞いていたオルフィアが小さな悲鳴を上げた。
「二つ目。体の表面に、特殊な染料と魔法陣を使って『補助回路のタトゥー』を彫り込む方法。皮膚に直接魔術を焼き付けるから、焼け焦げるような激痛が何日も続くわ」
どちらを選んでも、生きたまま肉を裂かれるような痛みを伴う。
「さあ、どうする? 痛いのが嫌なら、今まで通り剣一本の『魔力ゼロの特待生』として生きていく道もあるわよ。決めるのはあんた自身――」
「両方やってくれ!」
アイラの言葉が終わるより早く、クロードが即答した。
「……は?」
「えっ?」
アイラとリリアは目を丸くした。
「だから、両方だ! トンネル工事もして、タトゥーも彫ってくれ!」
クロードは、恐怖するどころか、血の匂いを嗅ぎつけた野生の獣のような目で、獰猛に笑っていた。
「俺は、強くなれるならなんだっていい。昔、どこのどいつが俺から魔法を奪ったのかは知らねえが……絶対にそいつ以上の力をつけて、自分のモノにしてやる。それに……」
クロードは、ニカッと太陽のように明るい笑顔を浮かべた。
「お前らと一緒に、もっとすげえ魔法の世界を見てみたいんだよ! そのためなら、どんな痛みだって耐えてやるぜ!」
「クロードさん……」
セリアが感動の面持ちで両手を胸の前で組んだ。
痛みを恐れず、迷いなく前へ進む強さこそが、彼が『特待生』として選ばれた本当の理由かもしれない。
(ああ、こいつには同情なんて不要なんだわ)
悲壮感など微塵も感じさせない彼の底抜けの明るさに、アイラはすっかり毒気を抜かれてしまった。
「……あっはは! 言ったわね、あんた。後で泣き叫んでも知らないからね!」
アイラは腹を抱えて笑い、リリアとセリアも嬉しそうに微笑んだ。
「決まりね。それじゃあクロード、明日からあんたも『地獄の特別治療コース』行きよ! ノアと仲良く隣で絶叫しなさい!」
「おう! 望むところだ! 終わったら、またあの角煮丼食わせてくれよな!」
「ええ、極上のやつを用意してあげるわ」
夕暮れの第1訓練場にて、かつて理不尽に奪われた魔法を取り戻すため、クロードの新たな挑戦が幕を開けた。
……その翌日から、訓練場にはノアとクロードによる、美しい二重奏(絶叫)が響き渡ることになるのだが、それはまた別の話である。
王立学園に入学してから、早くも五ヶ月が経過した。
クロードとノアに対する『物理的かつ魔法的なスパルタ治療』は、順調すぎるほどの成果を上げていた。
クロードは新設された魔力回路とタトゥーの痛みに耐え抜き、ついに巨大な炎を剣に纏わせる魔法剣士の片鱗を見せ始めた。
ノアもまた、毎日の絶叫特訓の末に魔力感覚神経が開通し、その明晰な頭脳と莫大な魔力を掛け合わせた、精密で強力な魔法を使いこなせるようになってきている。
「二人とも、すごい……」
夕暮れの第1訓練場。
めざましい成長を遂げる二人を、オルフィアはベンチの隅から一人、膝を抱えて見つめていた。
彼女の極度のあがり症とネガティブ思考は、五ヶ月経っても治っていなかった。
座学こそ真面目だが、実技や人前での発表となると、極度の緊張で魔力が霧散してしまうのだ。
「私だけ、何も変わってない……。このままじゃ、クロードさんやノアさんに置いていかれちゃう……。みんなと一緒に、いたいのに……」
前髪の奥で、オルフィアはポロポロと悔し涙をこぼしていた。
その様子を、アイラとリリア、そしてセリアは少し離れた場所から静かに見守っていた。
「……そろそろ、限界みたいね」
「はい、お姉様。彼女の優しさと繊細さは長所ですが、このままでは心が折れてしまいます」
アイラは腕を組み、小さく息を吐いた。
「決まりね。今夜、オルフィアの『精神修行(荒療治)』を決行するわ」
「ついに、あれをやるのですね……!」
セリアがゴクリと息を呑む。
彼女たちが考えたオルフィアのあがり症克服法――それは、究極のショック療法だった。
その夜。
女子寮のオルフィアの部屋に忍び込んだアイラたちは、眠っている彼女のベッドを囲んだ。
「リリア。オルフィアの精神が完全に壊れないように、白魔法で心の核をガッチリ保護して」
「わかりました。……『聖なる守護』」
リリアの手から放たれた温かい光が、オルフィアの寝顔を包み込む。
「よし。それじゃあ、私が『悪夢』を見せるわ。……ただの悪夢じゃない。私がかつて視た、この世界が滅びる『本当の絶望』の光景を、少し改変してね」
アイラが黒魔法を展開し、オルフィアの額にそっと指を触れる。
――さあ、オルフィア。
あんたの本当の強さを、見せてみなさい。
――夢の中。
「ひっ……!? な、何ですか、これ……っ!?」
オルフィアが目を覚ますと、そこは王立学園……ではなく、血の海と化した王都だった。
空は赤黒く染まり、天には無数の嘆きの顔が刻まれた『地獄の門』が口を開けている。
そこから溢れ出す、おぞましい死臭と悪魔の群れ。
「きゃあああああっ!」
「逃げろ! 悪魔だ!」
学園の教官や生徒たちが、次々と悪魔の爪牙に倒れていく。
神話の最終戦争のような絶望的な光景に、オルフィアは腰を抜かし、ガタガタと震えることしかできなかった。
「オルフィア! 立て!」
「危ないですよ、オルフィアさん!」
絶望するオルフィアの前に立ち塞がったのは、血まみれになったクロードとノアだった。
「ク、クロードさん! ノアさん! 逃げてください、あんなの勝てません……!」
「バカ言え! ここで俺たちが逃げたら、お前が死んじまうだろうが!」
クロードが炎を纏った大剣を振り回し、群がる悪魔を薙ぎ払う。
「僕の計算が正しければ、この防壁はあと3分持ちません! ですが、あなた一人を守るくらいなら、命を賭ける価値はあります!」
ノアが血を吐きながら、何十もの結界魔法を展開し続ける。
しかし、巨大な戦斧を振り下ろす強大な上位悪魔の無慈悲な一撃が、ついに二人の防御を打ち砕いた。
「がはっ……!」
「しまっ……!」
吹き飛ばされ、地面に倒れ伏す二人。
致命傷だった。
「いやああああっ!! クロードさん! ノアさん!!」
オルフィアは這いずるようにして二人に駆け寄り、その体を抱き起こした。
「泣く、な……オルフィア」
クロードが、血に濡れた手でオルフィアの頬に触れた。
「俺は、お前の書いたノートのおかげで……ここまで来れた。お前は、いつも逃げずに頑張ってたじゃねえか。……お前は、俺たちより……ずっと強い、んだぜ……」
「クロードさんっ……!」
隣で、ノアも虫の息で微笑んだ。
「……僕たちは、ここでリタイアですが……君のその優しさは……最高の、魔法です。……君なら、きっと、この絶望を……」
二人の腕から、パタリと力が抜けた。
「……あ、ああ……」
オルフィアは、動かなくなった二人を抱きしめたまま、うつむいた。
学園の仲間たちは死に絶え、頼れる二人は目の前で息絶え、空からは巨大な悪魔が自分を見下ろしている。
絶体絶命。
圧倒的な恐怖。
いつもなら、ここで気を失っていたはずだ。
しかし。
『……オルフィア。あなたなら、大丈夫』
心の奥底から、リリアの優しい声(白魔法による保護)が響いた気がした。
「……嫌だ」
オルフィアの体が、小刻みな震えを止めた。
「もう……嫌だ。私が、いつも後ろで震えてばかりいるから……。私が弱くて、何もできないから……二人が……!」
ギリッ、と奥歯を噛み締める。
恐怖よりも、悲しみよりも、自分自身への激しい怒りが、オルフィアの心を限界まで引き絞った。
「私が……みんなを、助けるんだっ!」
バツンッ!!
オルフィアの全身から、これまでとは比較にならないほど膨大な、深い海のように透き通った『青い魔力』が爆発的に吹き荒れた。
その凄まじい魔力の風圧で、彼女の視界を常に遮っていた重たい『ぱっつん前髪』が吹き飛ぶ。
あらわになったのは、恐怖を完全に克服し、決意に満ちた強い瞳を持った、息を呑むほどの美少女の素顔だった。
「聖なる大海【オーシャン・バプティズム】!」
オルフィアが天に向かって両手を掲げる。
彼女の杖から放たれたのは、小さな水球などではない。
王都全体を覆い尽くすほどの、巨大で神聖な大津波だった。
『ギャアアアアアッ!?』
浄化の力を持った清らかな激流が、淡い真珠色の光を放ちながら、地獄の門から溢れ出た悪魔たちを、空の淀みを、絶望のすべてを、一瞬にして洗い流していく。
「……私は、もう……逃げません……!」
澄み切った青空を取り戻した世界で、オルフィアはしっかりと両足で立ち、そう叫んだ。
「……はっ!?」
オルフィアは勢いよくベッドから跳ね起きた。
全身は汗びっしょりで、荒い息をついている。
「おはよう、オルフィア。……いい夢、見れた?」
ベッドの脇で、アイラとリリア、セリアが優しく微笑んでいた。
「ア、アイラ様……! リリア様、セリア様……! 私、私……っ!」
すべてが夢だったと理解したオルフィアは、わっと泣き出しながらリリアの胸に飛び込んだ。
「よく頑張りましたね、オルフィアさん。もう、あなたの中に恐怖はありませんよ」
リリアがその背中を優しく撫でる。
「はいっ……! 私、もう逃げません! 大切な人たちを失うくらいなら、人前に立つことなんて、ちっとも怖くありません!」
涙を拭い、顔を上げたオルフィアの瞳には、以前のようなおどおどした色は欠片もなかった。
「ええ、その意気よ。……それと、前髪。これからはピンで留めておきなさい。せっかくの美少女なんだから、もったいないわよ」
「えっ? は、はいっ……!」
恥ずかしそうに頬を染めながらも、オルフィアはしっかりと頷いた。
これで、文字の呪いを克服した剣士、魔力鈍感を克服したインテリに続き、恐怖を克服した水魔法使いが誕生した。
「よし! 今夜はオルフィアの覚醒記念よ! 料理長を叩き起こして、特製スイーツ盛り合わせを作らせるわ!」
「賛成です! 深夜のカロリーは私が祈りで燃やし尽くします!」
問題だらけだったボトム三人は、この夜を境に、真の意味で強力な『仲間』へと生まれ変わったのだった。
オルフィアの凄まじい水魔法(大津波)によって悪夢を物理的に浄化してから、数日が経った。
「よし! 今夜は約束通り、女子限定のスイーツパーティーよ!」
その日の夜、学食の特別個室。
テーブルの上には、アイラが料理長を脅し……熱心に説得して作らせた、特製のスイーツが所狭しと並べられていた。
旬のフルーツをふんだんに使ったタルト、口の中でとろける滑らかなプリン、そして、甘さ控えめの生クリームがたっぷりと載ったシフォンケーキ。
貴族特有の「ただひたすらに甘い砂糖の塊」とは次元が違う、繊細で奥深い味わいの品々だ。
「わぁぁ……っ! 宝石みたいです! 私、こんなに綺麗なケーキ、初めて見ました……!」
オルフィアが目をキラキラと輝かせ、両手を頬に当ててうっとりとしている。
前髪をピンで留め、素顔を晒すようになった彼女は、学園でも一、二を争う美少女として密かに男子生徒たちの間で話題になりつつあった(本人は全く気付いていないが)。
「さあさあ、遠慮せずに食べなさい! 深夜のカロリーは私が祈りで燃やし尽くすから大丈夫です!」
セリアが両手にフォークとスプーンを持ち、臨戦態勢に入っている。
彼女の「祈り」が物理的な素振りのことだと知っているアイラたちは、苦笑しながら席についた。
「いただきます!」
甘くて美味しいスイーツを囲み、女子四人だけの和やかなお茶会が始まった。
「美味しいです……! ほっぺたが落ちちゃいそうです」
オルフィアが幸せそうにプリンを頬張る。
「オルフィアさん、本当に変わりましたね。あんなにオドオドしていたのが嘘みたいです」
リリアが微笑みながら紅茶を飲む。
「えへへ……。アイラ様やリリア様、セリア様、それにクロードさんやノアさんのおかげです。……私、もう逃げないって決めたから」
オルフィアが力強く頷いた、その時だった。
チリン、と澄んだ鈴の音(のような音)と共に、オルフィアの目の前に突然、魔力で編まれた半透明の光る板――『ウィンドウ』が出現した。
「えっ……? な、何ですかこれ?」
オルフィアが驚いて瞬きをする。
ウィンドウには、光り輝く文字でこう書かれていた。
『精神の成長と強き決意を確認。――白魔法使いの遺伝子が活性化しました』
『白魔法が解放されました』
『固有スキル:聖なる水底【ホーリー・ハイドロ】を獲得しました』
「ええええっ!?」
アイラ、リリア、セリアの三人は同時に声を上げた。
「み、オルフィアが白魔法使いに!?」
「すごいわオルフィアさん! 私たちと同じです!」
「これでオルフィアさんも、物理で敵を殴り飛ばす聖女の仲間入りですね!(※セリアの認識には若干の偏りがあります)」
「わ、私に白魔法が……!? すごい……!」
オルフィアが自分の両手を見つめ、感動に打ち震えている。
リリアとセリアが「おめでとう!」とオルフィアに抱きついた。
「……」
その様子を見ながら、アイラは一人、フォークを咥えたまま固まっていた。
(あれ? ちょっと待って。リリアとセリアは白魔法使い。で、オルフィアも今、白魔法使いに覚醒した……)
(……私、黒魔法使いじゃん)
(なんか、私一人だけ「闇の勢力」とか「悪役」みたいなポジションになってない!? 仲間外れ感、パないんだけど!!)
アイラが一人で勝手に疎外感を感じて落ち込んでいると――。
チリン、と澄んだ鈴の音と共に、今度はアイラの目の前にも半透明のウィンドウが出現した。
「えっ? 私にも?」
ウィンドウには、こう書かれていた。
『白魔法使いたちとの深い絆と、彼女たちを導く器の大きさを確認』
『【白魔法】が解放されました。【黒魔法】と統合され【混沌魔法】が開放されました。魔女に覚醒しました』
『称号:最後の魔女【ラスト・ウィッチ】を獲得しました』
(……待って。ヒロインたちが白魔法使いで、私が最後の魔女? これ、完全に世界を滅ぼす「ラスボス」のルートに入ってない!?)
魔女、おとぎ話では決まって悪役であり、世界を滅ぼそうとする恐ろしい存在。
私が、その「魔女」になってしまったというのか?
「アイラ様? どうかされましたか?」
ミアが不思議そうに首を傾げる。
「お姉様、お顔が青いですよ?」
リリアも心配そうに覗き込んでくる。
「え、あ、ううん! なんでもないわ! 私も白魔法が使えるようになったみたいで、嬉しくて!」
私は慌ててウィンドウを手で払い退け(触れなかったが)、無理やり笑顔を作った。
「そうなんですか!? おめでとうございます、お姉様!」
「これで私たち、全員白魔法使いですね! さあ、お祝いにケーキのおかわりを追加しましょう!」
セリアの号令で、再びスイーツ祭りが再開された。
甘いケーキを口に運ぶうち、「最後の魔女」という不穏な言葉への不安は、極上のスイーツの甘さによってあっという間に胃袋の奥へと溶けて消えていった。
*
それから数週間後。
学園は短い長期休暇に入り、私たちは久しぶりに王都のアルジェント公爵邸へと帰還した。
「お帰りなさい、アイラ、リリア! 学園生活はどうだね? いじめられてはいないか!?」
出迎えてくれたお父様は、相変わらずの親バカぶりを発揮して私たちを強く抱きしめた。
後ろではお兄様が「父上、苦しいですよ」と苦笑している。
その日の夜。
私は自室に、セナの専属侍女であるエマを呼び出していた。
「エマ、夜遅くに急に呼んでごめんなさいね」
「とんでもございません、お嬢様。何かご用命でしょうか?」
「ちょっと、シュシュエルに代わってもらえるかしら? 聞きたいことがあって」
「畏まりました。少々お待ちくださいませ」
エマが目を閉じ、深く息を吸い込む。
次に彼女がゆっくりと目を開けた時――その瞳の色は神々しい金色に輝き、彼女の背後には幻影のように白い羽が揺らめいて見えた。
「……で。久しぶりに我を呼び起こしたと思ったら、そんな事か」
メイドの姿のまま、口調と纏うオーラだけが完全に天使シュシュエルのものへと変わった彼女は、呆れたようにため息をついた。
「そんな事ってなによ! こっちは『最後の魔女』なんて物騒な称号をもらって、自分がいつか世界を滅ぼすラスボスになっちゃうのかって、密かにハラハラしてんだから!」
私が抗議すると、エマ【シュシュエル】はやれやれと首を振った。
「安心しろ、馬鹿娘。人間界のおとぎ話では『魔女=悪』とされているようだが、天界の定義は違う。
『魔女』とは、純粋に【白魔法】と【黒魔法】の両方を極め【混沌】に至り、その二つを同時に行使できる特殊な個体の総称に過ぎん。いわばデュアルクラスのようなものだ」
「え? なーんだ、そういうこと?」
「そうだ。強大すぎる力を持つゆえに恐れられ、迫害された歴史が、おとぎ話の悪役として歪曲して伝わっただけだ。……まあ、強いて言うなら、相反する魔法の永続的な循環によって己の生命力が極限まで活性化し、『肉体の老化が著しく遅延し、若く美しい時間が長くなる』程度の影響はあるがな」
「えっ!?」
私はガバッとベッドから身を乗り出した。
「若い時間が長くなる? つまり、アンチエイジング効果ってこと!?」
「……まあ、そういう解釈でも間違ってはいない」
「やったぁぁぁっ!!」
私は両手を突き上げて歓喜の声を上げた。
ラスボス化の不安は完全に消え去り、代わりに「いつまでも若く美しい公爵令嬢でいられる」という究極の美容効果を手に入れたのだ。
「フフフ……。最高の称号じゃない、魔女。悪くないわね」
私が大満足でニヤニヤと笑っていると、シュシュエルは呆れ果てた顔をした。
「……全く、欲望に忠実な娘だ。まあ、お前がその力で世界を正しく導くなら、天界も口出しはせん。……さて、疑問が解けたなら我は再び眠りにつかせてもらうぞ」
シュシュエルがパチリと瞬きをすると、金色の光がスッと消え、いつもの穏やかなエマの瞳に戻った。
「……お嬢様、お話は終わりましたでしょうか?」
「ええ、ありがとうエマ。ご苦労様、ゆっくり休んでちょうだいね」
「はい。お休みなさいませ、お嬢様」
エマが退室していくのを見送りながら、私はベッドの上にダイブした。
「さて! 悩みも完全に解決したし、明日からはお父様の財力に物を言わせて、王都の美味しいもの食べ歩きツアーよ!」
魔女としての覚醒。そして、永遠の(?)若さ。
私の学園生活とバカンスは、ますます輝かしく、そして美味しいものに彩られていくのだった。




