幕間②
暗く、重苦しい「儀式の間」で、己の魂を削り取ってつむぎに流し込んだあの夜。
リュシアンの意識は、底の見えない漆黒の深淵へと沈んでいった。指先に残った彼女の体温だけを命綱にして、彼は際限のない暗闇を彷徨い続けた。自身の核を解き、無理やり彼女の壊れかけた経絡へと編み込んでいく作業は、自らの命を薄皮一枚剥いでいくような、凄まじい苦痛を伴うものだった。
――どれほどの時間が経ったのだろうか。
重い瞼を押し上げると、視界に飛び込んできたのは、見慣れた王宮の寝所の高い天井だった。
窓からは、残酷なまでに鮮やかな午後の陽光が差し込み、精緻な彫刻が施された天蓋の柱を照らし出している。
「……つ、むぎ……」
掠れた声が、自分の喉から漏れた。
身体中に、幾千の針で刺されたような鋭い痛みが走る。魂の核を強引に削り、他者に分け与えた代償だ。指一本動かすことさえままならないほどの倦怠感が全身を支配していたが、リュシアンは必死に身を起こそうとした。
記憶の断片が、濁流のように押し寄せる。
「魔力を持たぬ人間など不要だ」と切り捨てようとした己の傲慢。
崩れ落ち、冷たくなっていく彼女の身体。
泣き叫びながら、二度と戻らぬはずの命を繋ぎ止めようとした、無様な自分。
「殿下! 殿下、お目覚めですか!」
傍らに控えていたカールが、弾かれたように駆け寄ってきた。その顔は憔悴しきっており、主君の目覚めに歓喜しつつも、どこか言い知れぬ不安に震えている。
「カール……。……つむぎは、どこだ。まだ眠っているのか?」
リュシアンは、震える手でカールの袖を掴んだ。
今すぐにでも彼女の姿を確認したい。あの日、自分の魂を分け与えたことで、彼女の胸に再び灯ったはずの微かな鼓動。それが今、力強く脈打っていることをこの目で確かめなければ、自分は一歩も前へ進めない。
だが、カールは答えなかった。
歓喜に沸くはずの彼の表情は、一瞬にして凍りつき、深い絶望の色に塗り潰された。
「……申し上げます。殿下、貴方様が眠りに落ちてから……二週間が経過いたしました」
「二週間……? ……そうか。それほどまでに、意識を失っていたのか。……だが、構わん。つむぎを呼べ。歩けぬなら、寝台ごとここに運ばせろ」
「……殿下。それが……」
カールが、がっくりと膝を突き、床に額を擦りつけた。
その震える肩を見て、リュシアンの心臓が、嫌な予感に締め付けられた。
「殿下が昏睡されている間、つむぎ殿もまた、一度も目を覚まされることはございませんでした。我ら侍従、そして近衛兵隊長カイルが交代で不眠不休の警護にあたっておりました。……しかし、三日前の深夜のことです」
カールの声が、嗚咽に震える。
「……忽然と、姿を消されたのです。施錠された扉も、窓も、一切の破壊痕はございません。まるで、空気の中に溶けて消えてしまったかのように……。自ら目を覚まして去られたのか、あるいは何者かの魔手によって連れ去られたのか……我らには判別すらつかぬのです!」
「……な、に……?」
世界が、音を立てて崩壊した。
「消えた……? 嘘を言うな。ここは王宮の最深部だぞ。結界はどうした! カイルは何をしていた!!」
「……あらゆる手を尽くしました。カイルは直ちに王宮全域を封鎖し、探知魔導具を使用して捜索しておりますが……いまだ、その足取りは一欠片も掴めておりません」
カールの言葉が、鋭い刃となってリュシアンの心臓を八つ裂きにする。
(消えた……? 眠ったままの彼女が……?)
リュシアンの瞳から、黄金の光が消え、濁った絶望が溢れ出した。
自ら目を覚まして、恐怖から逃げ出したのならまだいい。もし、何者かに連れ去られたのだとしたら? 魔力を持たぬ彼女が、あの弱り切った身体で、外の世界の悪意に晒されているのだとしたら?
「……カイルを呼べ。……地の果てまで、世界の果てまで追わせろ。……彼女の髪一本、爪の一片でも見つけ出せ。……見つかるまで、誰もこの私を『皇子』と呼ぶな!!」
「殿下、落ち着いてください! 貴方様の御身は今、魂の欠損により崩壊の危機に……!」
「うるさいッ!!」
リュシアンが吼えた瞬間、寝所を包んでいた魔導石が爆発し、精緻な装飾が施された壁が粉々に粉砕された。
銀色の魔力が、制御を失った暴風となって吹き荒れる。
だが、その魔力はかつての傲慢な皇子の力ではない。
愛する者を自らの傲慢で追い詰め、そして救うことさえ叶わなかった男の、血を吐くような悲鳴だった。
(つむぎ……。どこへ行った。……どこで、苦しんでいる)
あの細い指先は、今頃冷えていないだろうか。
自分は世界で最も強力な竜の力を持ちながら、たった一人の「番」さえ、その腕の中に留めておくことができない。
リュシアンは、寝台から這い出し、這いつくばるようにして床を進んだ。
カールの制止する声も、崩れゆく壁の音も、何も聞こえない。
ただ、消えてしまった温もりを求めて。
自分の愚かさが招いた「永遠の喪失」という地獄の中で、リュシアンは初めて、一人の男として、魂の底から絶叫した。
「……見つけ出す。……たとえ、この魂が燃え尽きようとも。……お前を、もう二度と、一人にはさせない……。……行かせてたまるか、つむぎ……!」
窓から差し込む陽光は、もはや彼を照らす祝福ではなく、彼女のいない世界を白日の下に晒す、無慈悲な断罪の光に過ぎなかった。
リュシアンはすべてを捨てて城を出た。
「……つむぎ」
掠れた声が、湿り気を帯びた夜の森に消えていく。
皇子としての地位も、華美な装束も、己を縛り付けていた傲慢な自尊心も、今はもうどこにもない。身に纏っているのは、泥と返り血に汚れ、木の枝に裂かれたボロ同然の外套だけだ。
彼を突き動かしているのは、魂の深淵でかろうじて繋がっている、蜘蛛の糸よりも細く、頼りない「番の絆」の残響だった。
(どこだ。どこにいる、つむぎ……)
一歩、足を前に出すたびに、削り取った魂の欠損部が燃えるように痛む。
二週間の昏睡から目覚めたばかりの身体は、本来なら一歩歩くことさえ奇跡に近い。だが、彼を突き動かしているのは執念だった。彼女を失ったという事実が、死よりも恐ろしい毒となって彼の四肢を突き動かしている。
(死んで……はいないはずだ。もし果てたなら、この胸の痛みも消えるはずだから)
だが、最悪の想像が、黒い霧のように絶えず脳裏をかすめる。
昏睡したまま何者かに連れ去られ、人買いの手に渡ったのではないか。
あるいは、魔力を持たぬ弱さを突かれ、魔獣の牙に倒れたのではないか。
もし、冷たい土の下で、独りぼっちで私を恨みながら眠っていたら——。
「……ぁ、ぐッ……!!」
想像が喉を焼き、リュシアンはその場に膝をついた。
視界が歪む。
己の傲慢さが招いた結末だ。彼女を守るべき最強の力が、彼女を追い詰める凶器となった。
「つむぎ……声を、聴かせてくれ……」
彼は地面に額を擦りつけるようにして、虚空に願った。
あの、鈴が転がるような穏やかな声。
どこか切なくも温かな歌声。
唯一、彼の荒れ狂う魔力を凪がせてくれたあの調べを、もう一度だけ聴けるなら、この命など安いものだ。
(お前の歌が聴きたい。……あの声を、もう一度だけ……)
暗闇の中、彼は目を閉じる。
集中しろ。魂の糸を手繰り寄せろ。
周囲の魔力の動きを遮断し、自身の内側、つむぎに分け与えた「己の欠片」の居場所を探る。
すると、意識の最果てで、かすかに、本当にかすかに、何かが震えた。
微かな熱。
あまりにも弱く、今にも消え入りそうなその拍動を、リュシアンは見逃さなかった。
「……そこか……っ」
立ち上がる。
震える膝を叩き、折れた誇りを杖にして、彼は再び歩き出した。
衰弱しきった身体は悲鳴を上げ、視界の端には、魂の崩壊を告げる銀色の火花が散っている。だが、彼は止まらない。
森を抜け、川を渡り、街道を外れた獣道を進む。
どれほどの月日が流れたか、もはや時間の感覚すらない。
ただ、その「糸」の震えだけが、彼を正気へと繋ぎ止めていた。
(待っていろ、つむぎ。……今度こそ、誰の手にも、運命にさえも渡さない。……この命の最後の一滴を絞り尽くしてでも、お前を、抱きしめに行く……)
雨が降り、風が吹き荒れ、飢えと渇きが彼の理性を削り取っていく。
だが、その苦痛さえも、リュシアンにとっては贖罪だった。
彼女が味わったであろう恐怖、絶望、そして孤独。それらを分かち合えるなら、この衰弱さえも心地よかった。
そして、ある朝。
霧が晴れた森の奥に、彼女を見つけた。
「…………つ、む……ぎ……」
リュシアンの目から、初めて、熱い雫がこぼれ落ちた。
黄金の瞳に光が戻り、崩れかけていた彼の世界が、その一節だけで再び形を取り戻す。




