幕間①
静寂が支配するドラグランド王宮の執務室。
夜の帳が降りるたび、リュシアンは己の内側に巣食う「異物」の蠢きに、人知れず歯噛みしていた。
(……まただ。また、あの声が聴こえる)
重厚な黒檀の机に向かいながら、リュシアンは羽ペンを握る指先に力を込めた。
耳を澄まさずとも、離宮――つむぎの与えられた部屋から、微かな、震えるような調べが聞こえてくる。
それは、彼女が故郷で口ずさんでいたのであろう、素朴で穏やかな子守歌のような旋律だった。
魔力の一片も持たぬ、矮小で脆弱な人間の娘。
ドラグランドの第二皇子であり、最強の竜の血を継ぐこの自分にとって、番とは本来、共に戦場を駆け、魔力を共鳴させて天を焦がすような強者であるべきだった。それなのに、神が与えた「番」は、指先一つでひねり潰せてしまえそうな、人間の娘だった。
「……ふん、下らぬ。あのような力無き旋律が、何になる」
冷たく吐き捨て、執務に戻ろうとする。
だが、一度その歌声を意識してしまえば、魔導書の難解な文字はただの黒い染みに成り果てた。
彼女の声は、絹糸が肌をなぞるような滑らかさで彼の鼓動に侵入し、鉄壁であるはずの精神の結界を、いとも容易くすり抜けてくる。
(聴きたくない。……いや、聴くべきではないのだ。私は)
そう否定すればするほど、魂の深淵が飢えた獣のように喉を鳴らす。
「もっと聴かせろ」と。
「あの柔らかな声で、荒れ狂う竜の血を凪がせろ」と。
リュシアンは椅子を蹴るようにして立ち上がり、無意識に壁際へと歩み寄っていた。
額を冷たい壁に押し当て、呼吸を整える。壁の向こう側では、つむぎが独り、自分に言い聞かせるように歌い続けている。
その声は、王宮の冷徹な空気の中で唯一の「熱」を持っていた。
(なぜだ……。なぜ、これほどまでに、この声に惹きつけられる?)
屈辱だった。
百戦錬磨の魔術師の呪文も、敵国の将の咆哮も、彼の心を揺らすことはなかった。
それなのに、ただの人間が喉を震わせるだけの音が、彼の魂の根幹を揺さぶり、支配しようとしている。
惹かれることは、敗北に等しかった。
彼女を愛おしいと感じることは、己の気高い血に対する裏切りだ。
だが、歌声が不意に途切れた瞬間。
リュシアンの胸を貫いたのは、鋭い喪失感だった。
「……終わったのか?」
思わず呟いた自分の声が、情けないほどに渇いていることに気づき、彼は自嘲気味に口の端を歪めた。
静寂が戻った離宮は、先ほどよりも一層冷たく感じられる。
そして、その静寂の合間に、今度は別の「音」が混じり始めた。
――ひっ、……う、……。
押し殺したような、すすり泣きの声。
つむぎが、独りで泣いている。
(泣くがいい。……貴様を冷たい檻に閉じ込め、孤独に追いやったのは、他ならぬこの私だ。……当然の報いだろう)
そう、自分に言い聞かせる。
彼女を家族から引き剥がし、「番」としての運命を押し付けたのは自分だ。彼女が絶望し、枕を濡らすのは、彼が望んだ「服従」の形であるはずだった。
それなのに。
壁越しに伝わってくる彼女の嗚咽が、リュシアンの胸を、鋭い爪で掻きむしるように苛む。
(痛い……。なぜ、私が痛むのだ)
彼女の悲しみが、濁流のように彼の心臓へ流れ込んでくる。
それは「番」としての共鳴ではない。
もっと生々しく、もっと醜い、一人の男としての「独占欲」と「憐憫」が混ざり合った泥濘だった。
今すぐに、その細い肩を抱き寄せたい。
その涙を指先で拭い、「泣くな」と、甘く囁いてやりたい。
そんな衝動が、彼の黄金の瞳を狂おしく燃え上がらせる。
「……呪わしい。……貴様という存在が、私のすべてを狂わせる」
リュシアンは拳を壁に叩きつけた。
石壁に亀裂が入り、銀色の魔力が火花となって散る。
守るべき対象を、自ら傷つけ、その傷跡を見て自分が悶え苦しむ。
この矛盾。この滑稽なまでの執着。
(私が……人間に、跪くというのか? この魂を、あの矮小な娘に明け渡すというのか?)
認められるはずがなかった。
最強の竜の皇子である自分が、ただ一人の人間に心を乱され、彼女の涙一つで平穏を失うなど、死よりも耐え難い。
惹かれれば惹かれるほど、彼は彼女を憎もうとした。
愛おしさが募れば募るほど、彼は彼女を「価値のない人間」だと蔑むことで、己の崩れゆく理性を繋ぎ止めようとした。
(断ち切らねばならない。……この絆さえなければ、私は私に戻れる。……あのような女に、私の『凪』を司る権利などないのだ)
暗い情熱が、冷徹な殺意へと姿を変えていく。
それは彼女への憎しみではない。彼女に魅了され、我を忘れていく「自分」への、凄まじいまでの恐怖だった。
リュシアンは、月明かりに照らされた己の手を見つめた。
あの日、彼女をこの世界へ呼び寄せたとき、その手はまだ冷たく、傲慢な力に満ちていた。
だが今はどうだ。
彼女の歌声を求め、彼女の涙に震え、彼女の気配がなければ夜を越すことさえ困難になりつつある。
「……つむぎ。……貴様が、悪いのだ」
掠れた声で、彼女の名前を呼ぶ。
それは愛の告白よりも重く、死の宣告よりも残酷な響きを持っていた。
己のプライドを守るために、彼女を殺すか。
それとも、彼女の軍門に降り、愛という名の奴隷になるか。
リュシアンは、決断した。
「……魔力を持たぬ人間など、私には不要だ。……貴様という呪いから、私は解放される」
そう。
彼が絆を断ち切ろうとしたのは、彼女を嫌っていたからではない。
彼女を愛しすぎてしまう自分を、殺すためだった。
だが、その傲慢な決断が、神の逆鱗に触れた。
「……っ、ぐ、あああああッ!!」
儀式の間に、リュシアン自身の魂が軋み、砕けるような絶叫が響き渡った。
絆を強引に断ち切ろうとした瞬間、指先から伝わってきたのは、解放感などではなかった。それは、自らの臓腑を素手で掻き回し、生きたまま心臓を引き摺り出すような、言語を絶する苦痛と喪失感だった。
視界が真っ赤に染まる。
魔力の奔流が逆流し、リュシアンの血管を内側から焼き切っていく。
だが、その激痛を上回る衝撃が、彼の黄金の瞳を射抜いた。
「つむぎ……?」
祭壇の上の彼女の身体が、まるで見えない糸を切られた人形のように、がくりと折れた。
離宮で孤独に耐えながらも、やわらかな歌声を響かせていた彼女。
あの温かな命。
その彼女から、光が消えた。
ドサリ、と重苦しい音を立てて、つむぎが冷たい石床に崩れ落ちる。
その瞬間、リュシアンの胸の中で、何かが決定的に、そして永久に壊れた。
「……待て。待て、つむぎ! 目を開けろ!」
彼は狂ったように祭壇を蹴り、床に横たわる彼女を抱き寄せた。
指先に触れる彼女の肌は、数秒前までの微かな熱を失い、まるで冬の池に沈んだ石のように冷え切っていく。
(なぜだ……。なぜ、こんなに冷たい。私は、ただ絆を解いただけだ。彼女から、自由になろうとしただけなのに!)
「つむぎ……!目を開けろ! 私を、私を独りにするな!」
彼は彼女の細い肩を揺さぶった。
だが、つむぎの首は力なく垂れ、その美しい瞳は虚空を見つめたまま、二度と彼を映し出すことはなかった。
止まってしまった鼓動。
失われていく呼吸。
その時、リュシアンの脳裏に、離宮の壁越しに聴いたあの歌声が、呪いのように蘇った。
あんなに疎ましく、あんなに呪わしく、けれど、あんなに愛して止まなかったあの声。
それを永遠に奪ったのは、他ならぬ自分自身だ。
彼女を「相応しくない」と蔑み、惹かれていく自分を許せなかった、己の卑小なプライドだ。
「あああああッ!! あああああああああ!!」
リュシアンは、獣のような咆哮を上げた。
後悔が、鋭い爪となって彼の心臓を掻きむしり、抉り出す。
世界が暗転する。
自分がどれほど取り返しのつかない過ちを犯したか、その全容を理解した瞬間、彼は正気でいられなくなった。
彼はなりふり構わず、自身の魔力を練り上げた。
もはや制御など考えない。
自らの魂を構成する銀色の魔力を、削り出し、彼女の崩れゆく経絡へと叩き込む。
「死なせない……死なせてたまるか! お前は私の『番』だろう!? 勝手に行くな! 私を置いて、どこへ行くというのだ!」
口移しで魔力を注ぎ込み、自らの命の輝きを彼女の喉奥へと押し込む。
一度拒絶した絆を、今度は自らの指を血に染めながら、無理やり繋ぎ合わせようとする暴挙。
彼女の身体が、リュシアンの強大すぎる魔力に耐えきれず、激しく痙攣する。
骨が軋む音。血管が悲鳴を上げる振動。
「ぐ、あああああッ!!」
リュシアン自身の口からも、鮮血が溢れ出した。
魂を削る苦痛は、彼を狂わせ、肉体を内側から破壊していく。
だが、彼は止めなかった。
彼女の冷たい胸に耳を当て、微かな拍動を探し続けた。
「……頼む。戻ってきてくれ。……お前を蔑んだ私を、殺してもいい。……一生、私を憎んでいい。……だから、独りにしないでくれ、つむぎ……!!」
傲慢な第二皇子は、そこにはもういなかった。
愛する者を抱き、涙で顔を濡らしながら、神に、悪魔に、運命に、無様に縋り付く一人の男がいるだけだった。
(私は、お前の歌が聴きたかっただけなんだ。……お前に、私の名前を呼んで欲しかっただけなんだ……!)
暗い儀式の間。
銀色の魔力が嵐となって吹き荒れ、石柱を粉砕し、天井を崩落させていく。
その破滅的な光景の中心で、リュシアンはただ、つむぎを離すまいと抱きしめ続けていた。
狂気に近い執念。
彼は、冥府の門を強引にこじ開けるかのように、自身の魂そのものを解いて、つむぎの崩れゆく命へと、一針ずつ縫い合わせるように編み込み直していった。
それは、神への反逆にも等しい暴挙。
もし失敗すれば、二人の魂は永遠に塵となり、転生することさえ叶わない。
だが、リュシアンに迷いはなかった。
つむぎのいない永遠など、彼にとっては地獄に等しかったから。
どのくらいの時間が経っただろうか。
不意に、抱きしめていた身体に微かな熱が宿った。
「あ……」
リュシアンの指先が震える。
つむぎの睫毛が、蝶の羽のように僅かに震えた。
そして、止まっていた彼女の胸が、深く、苦しげな呼吸を求めて大きく上下した。
リュシアンは、彼女を二度と逃さぬように、痛いほど抱きしめた。
心臓の鼓動が重なり合う。
一度は捨てようとした絆が、今度は以前よりもずっと深く、どろどろとした執着の色を帯びて、二人の命を縫い止めていた。
「もう二度と……二度と、放さない。お前が死ぬときは、私がこの手で殺すときだ。それ以外に、私の傍を離れることなど許さん……」




